大浴場で・・・

 以前、あるリゾート地の宿で、大浴場に入っていたときのことです。たまたま、他にお客さんがいなくて、私が一人で鼻歌交じりでお湯につかっていると、浴場の扉が開く音がしました。

 小さな子供と、私と同年代くらいの父親が 一緒に入ってきたようです。湯煙もあるし、何より私はド近眼なので、二人のはっきりした年齢は分かりません。

 子供は、はしゃいでなにやらわめいていましたが、まあ、せっかくのリゾート地だし、仕方がないかと思っていました。すると、その二人は、入り口からまっすぐ浴槽に向かってやって来て、そのまま浴槽につかるではありませんか。

 ちょっと、待った!浴槽に入る前には身体を洗うか、せめて掛かり湯をしてからにしろ!

 と心の中で思ったのですが、二人はあっという間に浴槽につかってしまいました。これが大人だけであれば、「おっちゃん、掛かり湯してから入ってーな」と言えるのですが、子供の前で親に注意するのもなんだと思ったので、つい言いそびれてしまいました。 一度注意し損ねると、もう言いにくいもので、その親子が身体を洗ったタオルを浴槽に平然とつけていることや、子供が浴槽で泳ぎだしたことまで注意できなくなってしまいました。

 おそらく、家庭のお風呂しか入ったことがない方で、共同の浴槽の使い方(マナー)を知らない方だったのでしょう。私は、大学浪人時代に銭湯で、「銭湯のヌシ」のようなじいさん達に叱られて、教わったのですが、そのような経験のない方には分からなかったかもしれません。

 ただ、身体についたホコリや汗も落とさずに、みんながつかる浴槽に入って良いかどうかくらいは、社会人としての経験があれば、分かっても良いのではないか、とも思います。

 ほんの少しの手間で、お互いが気持ちよく過ごせるのに、その少しの手間すら嫌がる人、その手間をかければみんなが気持ちよく過ごせることにすら気づけない人、が増えてきているような気がします。

 私自身も十分気をつけなければ、と思いました。

見てみたい天文事象

 私には、小さい頃から、見てみたいと思っている天文関係の事象が3つあります。

 一つは極光(オーロラ)の大規模な奴です。光のカーテンが本当に揺らめく様を、思う存分見てみたい、多くの星が輝いていればなおいいな・・・・と思っています。2000年の末に、フィンランドのイヴァロ近辺で、小規模のオーロラは見ましたが、 大規模なものは未だテレビでしか見たことがありません。

 二つ目は、皆既日食です。太陽が完全に月の陰に隠れ、昼間であるのに星が見える(?)体験や、コロナやダイヤモンドリングが観測できるのであれば、いうことはありません。日本でも来年、屋久島・奄美大島の一部で見られるはずですが、既に宿の予約はいっぱいという噂も流れています。黒い太陽に白銀に輝くコロナ、神秘的だと思いませんか。是非とも一度は見てみたいものです。

 最後は、流星雨・流星嵐です。流星群は毎年いくつかの流星群がやって来ますが、流星雨・流星嵐は、その流星の数が桁違いに多いものです。私は残念ながら、流星群レベルしか見たことがありませんが、とにかくすごい数の流れ星が短時間に観測できるのだそうです。きっと見ていれば、こんなに星が流れたら夜空に星がなくなってしまうのではないかという、ありもしない感覚を味わえるのではないかと密かに期待しているのですが、出現頻度が極めて低いらしく、もし現れたら世紀の出現と言われるほどだ、という話を聞いたことがあります。

 観測可能性が高いものから、順に挙げましたが、私がこの世にいるうちに、いくつ見ることができるのでしょうか。 

法律相談のこと

 法律相談に来られた方で、色々事情をお聞きした上で、特に法律的に問題がなく、このまま放っておいても大丈夫である場合、「この内容の郵便でしたら放っておいて大丈夫ですよ。」と、正直にアドバイスすることもあります。

 そのような場合、法律相談料を請求させて頂くと、意外な顔をされる方が結構いらっしゃいます。確かに、法律相談に来られた方は、「もともと放っておいても良かったものなのだから、弁護士に相談しても特に事情が変わったわけではない。それなのに、どうして相談料を支払わなければならないのだろうか」とお考えのようです。

 ところが、事情が全く変わっていないわけではありません。相談された方は、「こんな、お金を請求してくる郵便をどうしたらいいのだろうか」と不安に思っておられたはずです。そうでなければ、相談に来られるはずがないからです。少なくとも法律的になんら問題がないことを教えてもらうだけで、その不安からは解放されたのです。

 確かに弁護士が生まれながらに法的知識を持っており、その法的知識を生活の糧にしていないのであれば、無料で相談に応じるべきかもしれません。しかし、生まれながらに法的知識を持っている人などいません。弁護士も相当程度の費用と時間をかけて法的知識を身につけていますし、高価な専門書を購入して、法律に関して研究していたりします。その努力や費用は全て自分が負担しているものです。

 ですから、法律相談を受けて、なんら結論が変わらないときでも弁護士が時間と費用をかけて身につけた、法的知識を利用していることに代わりはないのです。

 さらに分かりやすくするために、お医者さんに例えて見ます。何となく身体の調子が悪いので、お医者さんに診てもらったら、「特にどこも悪いところがなくて少し過労気味なだけですから、このままで大丈夫ですよ。」と診断されたとします。

 その際にお医者さんに診察料を請求されて、「何も身体の調子が変わっていないのだから、診察料は支払いたくない」という、言い分が通るでしょうか。

 法律相談もそれと同じに考えて頂ければ、ご理解頂けるかもしれませんね。

思い出すことなど

  私の田舎である和歌山県太地町には、珍しい鯨の博物館があります。鯨の骨格標本や、太地町で行われていた古式捕鯨の様子などを模型や、絵などで展示をしているものです。私は、よく、母方の祖父に、博物館に連れて行ってもらいました。

 祖父が乗っていたのは、ダイハツの軽自動車で、最初は白い四角いタイプの車、買い換えてからは黄土色の少し丸いタイプの車で、制限速度きっかりで走っていたため、わずか4キロくらいの道のりでしたが、後ろを振り向くと何台かの自動車が連なっていたこともありました。

 祖父は町会議長を長く務め、博物館創設の頃にも尽力したようでした。祖父本人は全くそのようなことを私に話してくれることはありませんでしたが、後に他の人から、博物館に展示してある銛の柄は、祖父が山から切ってきたものもあると聞かされました。
 祖父に連れられて博物館に行くと受付の奥から館長さんらしき人が出てきて、挨拶してくれたことを覚えています。たしか、館長さんは、「入場料などとんでもない」とおっしゃっていたようですが、祖父は頑固にいつも支払っていたようです。

 鯨の博物館に行っても、当時の私は小さかったので、古式捕鯨や銛の展示など面白くもなく、いつもイルカ・アシカのショーと食堂が楽しみでした。私は食堂では、判で押したようにクリームソーダを頼んでいました。アイスクリームとソーダとが一緒になっているので、得したような気分になれたからなのでしょう。

 クリームソーダの飲み方にも、個性があり、私は上に乗っているアイスクリームを食べてしまってから、ソーダを飲むのがふつうでしたが、姉や妹は、アイスクリームをソーダに混ぜ込んで溶かしてから飲むことが多かったように思います。当然、姉や妹の方が飲み終えるのが遅いため、先に飲んでしまった私は、まだ飲み終えていない二人のソーダを見ると、なんだか、最初から二人の方が私より量が多くて、おいしいソーダが出されているように思え、うらやましく見ていた記憶があります。

 私は、祖父の近所に住んでいましたが、そんなにいつも顔を合わせていたわけではありません。しかし、この年になってみると、具体的には思い浮かぶわけではないのですが、いろいろ祖父に教えてもらいたかったことがあるような気がするのが不思議です。

ヴェネチア

 昨日のブログでは、地球温暖化でシロクマが危機に陥っていることに触れました。

 水の都ヴェネチアでも、地球温暖化の影響かアクア・アルタ(高潮)の回数が、近年急増しているそうです。地盤沈下も原因であるとの指摘もありますが、地球温暖化による海面上昇が一因であることはどうやら間違いなさそうです。そしていずれ、ヴェネチアは海に沈んでしまうのではないかという人もいます。

 アクア・アルタがやってくると、ヴェネチアの人たちは、慣れた手つきで板を渡した通路を作り、その上を歩いて通ります。あまり広い通路ではないので、すれ違うだけでも大変ですが、観光客が非常に多いため、なおさら渋滞してしまいます。

 私は、まだ比較的軽いアクア・アルタを一度だけしか体験したことはありませんが、結構面倒なものです。ヴェネチアに着いた直後で、スーツケースなんか引っ張っていたら相当大変だろうと思います。

 水位がかなり上がるアクア・アルタが、ヴェネチアを襲ったら、おそらく、街が生きたまま海に取り込まれていくような印象、街が街として機能しながら滅び行く印象を受けるのではないかと思われます。そして、ヴェネチアは、観光都市としての性格の裏に、そのような印象を常に隠し持っているような微妙な雰囲気を感じさせる街なのです。

 夜遅く、観光客もまばらになった頃に、チャプチャプと運河に寄せる波の音を聞きながら散歩すると、そのような雰囲気をより強く感じることができます。

 その雰囲気に、また浸りたいような、浸りたくないような、不思議な魅力のある街です。

アイスランドのシロクマ

 日経新聞の「窓」の欄に、小さな写真入りの記事が載っていました。

 ホッキョクグマ(シロクマ)が、アイスランド北部の町で確認されたという記事でした。

 もともとアイスランドには、シロクマはいませんから、北極から泳いでやって来たのだろうということでした。

 シロクマは北極海が氷に閉ざされると、主に氷の穴で呼吸をするアザラシを待ち伏せして捕らえ、食べて生活するといわれています。ところが、地球温暖化により北極海の氷が完全に凍らずに、アザラシを捕らえることが次第に難しくなってきているそうなのです。 

 北極からアイスランドまでは数百キロはあるはずです。食べ物を求めて気の遠くなる距離を泳いで、ようやくアイスランドまでたどり着いたのでしょう。アイスランド警察はシロクマを保護しようとしたのですが、失敗し、クマが走り始め市街地に接近する危険が出たため、やむなく射殺したと記事には書かれていました。

 シロクマにとって見れば、孤独と疲労に耐えながら、何日もかけて数百キロを泳ぎ、やっと見つけたアイスランドの大地だったはずです。そのときのシロクマの気持ちを考えると、やるせないような、切ないような気持ちになってしまいます。

ガリレオの思考実験

 ずいぶん昔の話になりますが、多分NHK特集で、ガリレオの思考実験のことを取り上げていた記憶があります。

 当時、重いものは軽いものより早く落ちると思われていたところ、ガリレオが落体の法則を思考実験で発見し、ピサの斜塔から実際の実験を行ったという話だったように思います(記憶違いならすみません)。

 その思考実験とは、確か次のようなものでした。

 重いものと軽いものが落ちる速度については、①重いものが早く落ちる、②軽いものが早く落ちる、③落ちる速度は変わらない、の3通りしかない。

 そのうえで、重いものAが軽いものBより早く落ちるとすると、AとBを長さのあるヒモで結んだ場合、Aは早く落ちようとするけれども、Aより遅く落ちようとするBに引っ張られて、A単体で落とすよりも遅く落ちるはずである。そのヒモをどんどん短くしていっても、その状態は変わらない。そうであれば、AとBをヒモで結んで密着させた場合でも、Aは結びつけられたBがAより遅く落ちようとする以上、A単体で落とすよりも遅く落ちるはずである。

 ところが、よく見てみると、AとBが密着した状態というのは、A+Bの重さの物体と同じである。そうだとすると、AとBがヒモで密着させられた物体は、A単体より重いのだからA単体で落とすよりも早く落ちなければならないはずである。

 明らかに矛盾が生じる。

逆に軽いものが早く落ちると考えても、同じような実験で矛盾が生じる。

 この矛盾が生じる理由は、重いもの乃至軽いものが早く落ちるという前提が誤っているからである。だから重いものも軽いものも落ちる速度は同じである。

 以上のようなものでした。

 非常に明快ですっきりとしており、感動した覚えがあります。法律の世界では、ここまで明快に割り切れることは少なく、事実の争いや法律の解釈などで泥沼にはまることもあります。ときおり、ガリレオの思考実験のように明快で反論の余地のない主張をしてみたいものだと思いますが、そう簡単にはいかないようです。

体内時計

 何かの本で、人間の体内時計はおおよそ25時間周期であるというようなことを読んだ記憶があります。なんでも、全く時間が解らないようにして生活するという実験をすると、人間は次第に25時間を一日として生活するようになってしまうのだそうです。

 ところで、地球の自転周期は、ものの本によると、約23時間56分4.06秒くらいです。そうすると、25時間を1日と考えてしまう人間の体内時計とは、1時間と4分もずれてしまいます。その体内時計のズレを毎朝調整して生きているのが人間なのだといわれています。

 太古の昔から地球上で進化を続け、毎日毎日をほぼ24時間として生活してきたはずの人間の体内時計にしては、ちょっとズレが大きいような気がしませんか。

 この点、地球のお隣の惑星である火星の自転周期は、約24時間39分35.244秒なのだそうです。そうすると、人間の体内時計が1日と感じる25時間とは、わずかに20分ほどしか違いません。つまり人間の体内時計は、地球の一日とされる時間よりも、火星の一日とされる時間を、より一日に近いと感じるようなのです。

 そうすると、体内時計を基準に考える限り、なんだか人間の祖先が火星から来たのかもしれないと考えても、おかしくないような気もしますね。

今朝の出来事

 今朝事務所に向かう途中、大阪市役所の近くの交差点で信号待ちをしているときに、視界の端に動くものがありました。

 何だろうと思ってよく見ると、障害者の方用の黄色い、信号押しボタン装置の上に、一冊の文庫本が載っていたのです。カバーはすでにありません。背表紙が日に焼けているところからすると結構古そうです。自動車が近くを通り過ぎるたびに、自分の存在を訴えるかのように表紙と何枚かのページが踊ります。

 よく手袋やハンカチなどの落とし物を拾った方が、目立つようにと置いておくことはありそうな場所ですが、文庫本は初めて見ました。

 あまりにミスマッチな気がしたせいか、なんだか文庫本付近だけが音のない世界にあって、音のない世界でページがめくられ、また音もなく元に戻ることを繰り返しているような不思議な感じを受けました。

 何故だか、梶井基次郎の「檸檬」を、久しぶりに読みたいと思いました。

月光

 時々帰宅する際に、鴨川に架かる橋から空を見上げます。時々、いい月が出ているときなどは、つい上を見ながら歩いてしまうことがあります。

 しかし、いくら京都といっても都会です。高原で見る夜空の月には、かないません。

 私は一度、秋の奥志賀高原の真夜中に、物凄い月夜に出会ってしまったことがあります。

 ほぼ満月だったのですが、標高1500mの澄み切った空気の中、雲一つない夜空に輝く月は、こういう表現が正しいのかわかりませんが、壮絶な明るさで、高原を照らしていました。

 誰もいない高原が、辺り一面見渡せ、木々の影さえ見えました。

 まるで、ひんやりと冷たい高原の空気、それ自体が、蒼い光を帯びているかのような明るさで、見渡す限りの高原を包んでいたのです。

 この空間を水晶の形に切り取って真っ暗な部屋に浮かべることができたら、どんなに美しいだろうか、柄にもなくそんなことを考えながら、しばし呆然と見とれてしまった私なのでした。