法科大学院は、もはや末期的か?

「法科大学院 理念倒れ~予備試験の人気過熱、志願者数が逆転」という見出しの記事が2014/6/17付の日本経済新聞 朝刊に掲載されました。

(記事引用開始)

 法科大学院に行かずに司法試験に挑戦できる「予備試験」の人気が過熱している。今春の志願者は法科大学院を初めて逆転。「近道」を求める学生の勢いは止まらず、法科大学院教育が中核になるはずだった司法制度改革の理念は風前のともしびだ。 「制度自体が壊れる恐れがある」「切迫した状況だ」。6月12日、政府の「法曹養成制度改革顧問会議」の会合で、予備試験人気の高まりを問題視する発言が相次いだ。東大や京大など主要法科大学院6校は連名で「教育の場そのものが失われかねない」とする緊急提言を出した。  中央大法科大学院の大貫裕之教授は「現状が放置されるなら撤退も辞さない」と語気を強める。

(以下省略)

 あの法科大学院万歳の記事ばかりだった日経新聞が、ようやくまともな記事を書いてくれたのか、それとも日経新聞ですらまともな記事を書かざるを得ないところまで現実が進行してしまったのか、微妙なところです。

 法科大学院側は、制度自体壊れるおそれがある、等と主張しているようですが、大手法律事務所が法科大学院卒業者ではなく予備試験合格者を競って囲い込もうとしている現状から見て、法科大学院教育が実務では大して意味がないと評価されていることはもはや明らかです。

 また、おかしなことに、法科大学院教育効果は5年も経てば無くなるそうで、それが法科大学院卒業者であっても司法試験を5年間しか受験できない理由の一つとされていたと思います。

 学生に多額の費用を負担させながら、実務で大して評価されず、しかも5年程度で効果がなくなる「プロセスによる教育」。こんな「プロセスによる教育」が素晴らしいと学者もマスコミも叫び続けて、法科大学院は今日まで存続を続け、国民は多額の税金を投入してきました。もちろんそれで成果が上がればいいのですが、予備試験ルートの受験生が法科大学院卒業の受験生を司法試験の合格率では圧倒しています。法科大学院の司法試験合格率は予備試験ルートの受験生の合格率を、最優秀の法科大学院でさえ上回れていないのです。

 そこまでして、学生に多額の負担をさせ、実務で大して評価されず、5年で成果の消えちゃう教育(「プロセスによる教育」)をする法科大学院制度を維持するのは一体誰のためなのでしょうか。

 中央大法科大学院の大貫裕之教授は「現状が放置されるなら撤退も辞さない」と述べたそうですが、撤退して頂ければ国民の税金が無駄にならないので大いに結構だと思います。

 それよりも大学側にとって脅威なのは大貫教授が「現状が放置されるなら成仏も辞さない」と言い出すことでしょう。こういわれたら中央大学は、何としても中央大法科大学院を早期撤退させるよう動くのではないでしょうか(成仏理論については法学教室2006年4月号巻頭言ご参照)。

 撤退の発言がもはやブラフにならないことくらいは、お分かりでしょうから、ひょっとすれば、大貫教授は、法科大学院維持を叫ぶ振りをしながら、撤退のためのエクスキューズを今から準備しているのかもしれません。

国選付添人制度拡充に思う

 国選付添人制度が大幅に拡大されることになった。

 少年の人権に取っては喜ばしいことではある。

 しかし、私は弁護士界のことを考えれば、この拡充には、暗い気持ちにならざるを得ない。自由競争の旗印の下で弁護士人口を激増させて、仕事の質を追及するよりも儲けないとやっていけない状況を作り出しておきながら、その一方で、弁護士の善意に頼る赤字の事件を増やそうというのだから、一体何を考えているのかとすら思う。

 
 少年事件は、少年の内省を深めるべく、付添人に就任した弁護士と少年が何度も時間をかけて話し合い、少年に反省を促していく必要がある。通常の刑事事件で選任される国選弁護(否認事件などは除く)と比較して、少年事件では本当に必要な付添人活動をしようとすれば、圧倒的に時間がかかるのだ。
 もちろん、かけた時間に見合った報酬を国が出してくれるのであれば、そうでなくても、せめて赤字にならないだけの報酬を国が出してくれるのであれば、弁護士だって頑張れるかもしれない。だが厳しい国家財政の中、国が正当な報酬を出してくれるとは思えない。国選弁護だって、随分前から労力に見合った報酬にして欲しいと言い続けているはずだが未だに、そうなっていない。

 弁護士の生活を国家が保証してくれるのならともかく、生活は自力でなんとかしろ、しかし、人権保障の観点から赤字の事件はどんどんやれ、というのは筋が通らないように思う。

 おそらく国選付添人制度は、きちんと付添人活動をしようとすれば、現在の国選弁護制度以上に、弁護士にボランティア的活動を求める制度になるだろう。

 一方で、弁護士ならボランティアくらいすべきだとの御意見もあるだろうし、それをなんとなく当然と考える方もいるかもしれない。
 しかし、
 大学教授ならボランティアくらいすべきである、
 新聞記者ならボランティアくらいすべきである、
 マスコミ勤務者であればボランティアくらいすべきである、
 うどん屋であればボランティアくらいすべきである、
 駄菓子屋ならボランティアくらいすべきである、
 、、、、、という主張と比較すれば、弁護士なら~という意見は、正しいかどうか疑問が生じるはずだ。

 しかも、ボランティア活動は、通常は仕事以外の余暇の時間を当てて自発的に行うものだ。仕事の時間をボランティア的活動に費やしていては到底生活はできなくなる。善意の活動も生活が成り立った上で初めて可能になるものだ。

 おそらく、日弁連も国選付添人制度の拡充を政府に求めていたのだろうが、そこには、「財源の確保を前提に」という視点が完全に抜け落ちている。弁護士という職業で生計を立てる人間は、人権のためなら食事に事欠いてもやっていけるはずだ、というスーパーマン的弁護士が想定されているとしか思えない。

 弁護士であれば食いっぱぐれはまずあり得なかった牧歌的時代ならば、まだそれで良かったのかもしれない。しかし、きちんと仕事に見合った報酬が得られるかという財源確保の問題を等閑視して、人権のために必要だからと猪突猛進する弁護士会の姿勢は、いずれ自らの首を絞めることになるようにも思う。