司法試験の合格レベルが「がた落ち?疑惑」

 司法試験合格者の実際の答案を公表すればすぐ分かることだとは思うのですが、おそらく現時点での司法試験合格最低レベルは相当落ちているはずです。

 私はときどき、司法試験採点者の採点実感を引用してその危険性を示してきたつもりですが、平成30年度司法試験の採点実感を読んでみてその思いをさらに強くしました。

 特に民法は、私法の一般法であり私的なトラブルにおいては全て民法が基本になると言っても過言ではありません。会社法だって、労働法だって、いわば基本的には民法の特別法なのだから、おおもとの民法の理解があやふやであるならば十分な理解は難しいのです。根や幹がない木に花が咲くはずはないのと同じです。民法の基本的理解が不足しているのであれば、実務家としては使いものにならない危険すらあります。

 だから司法試験でも民法は、超重要科目といって良いはずなのです。

 ところが、平成30年度の採点実感は最後にこのように述べています。

・設問3で親族法・相続法を主たる問題とする設例が出題されているが,上記のとおり,基礎的な知識が全く身に付いていないことがうかがわれる答案も多かった。
・財産法の分野においても,一定程度の基礎的な知識を有していることはうかがわれるとしても,複数の制度にまたがって論理的に論旨を展開することはもとより,自己の有する知識を適切に文章化するほどには当該分野の知識が定着しておらず,各種概念を使いこなして論述することができていない答案が多く見られた。

 要するに、親族法の基礎的知識がない受験生が多いうえに、財産法においてもまともに論述するだけの知識がない受験生が多い。という指摘です。

 小問ごとにみていくと、もっと恐ろしい記述が目白押しです。少し長くなりますが引用します。

小問(1)関連

・種類債務が特定をし,その後特定した目的物が滅失したというケースについては,適用法条は,民法第534条第1項ではなく,同条第2項となるが,このことを正確に指摘することができていない答案が少なからず見られた。(坂野注:超基本的条文です。また、少なからずとは、辞書によれば「かなりある」という意味です。)このほか,危険負担の債権者主義を定めた規定である民法第534条については,かねてより立法論的な批判が極めて強く,その適用範囲を狭めるため,これを制限的に解する見解が有力であるが,この見解に従った答案は少なかった(坂野注:条文の記載通りに読むと不合理な結果をもたらすため制限的に読むことが私達の時代から常識でしたが・・・。)。

・(過失)の有無の判断の基準となる売主の負う注意義務について,民法第400条の善管注意義務に言及することができていない答案が相当数見られ,受領遅滞等の効果としての注意義務の程度の低減にも言及することができていない答案も多かった。また,そもそも,本件においては受領遅滞が生じているという事実関係に気が付くことすらできていない答案も相当数見られた。(坂野注:受領遅滞は本問のメイン論点といっても良いものです。受領遅滞に気づけないだけで実務家としてはアウトでしょう。しかもそのような答案が相当数あったというのですから、どれだけ恐ろしいことになっているのでしょうか・・・。)

小問(2)関連

・所有権に基づく妨害排除請求権が問題となるところ,その点の指摘がないものや,妨害排除請求権の相手方となるべき者が抽象的に言えばどのようなものであるのかについて分析がされていない答案が多く見られ(坂野注:そもそもEの請求を主張するための根拠であり、請求する対象のお話しなので、これらが指摘できないと何もはじまりません。ところが、それすらも書けていないということです。しかも多くの答案で!!),論述の前提となるべき事項を的確に押さえていない傾向が見られた。また,Dの地位は所有権留保売買の売主の地位にあることをどのように評価し,妨害排除請求の可否と結び付けていくのかが小問(1)における主要な課題であるが,この点を意識することができていない答案が見られた。

・所有権留保が担保のためにされるものであることを理解できていないことがうかがわれる答案や,所有権留保売買の法的性質は譲渡担保そのものであると誤解をした答案なども見られたことは(坂野注:これだけでアウトです。私の時代の旧司法試験ではその答案一通で不合格になっていてもおかしくありません。),所有権留保売買が債権担保の手法として社会で広く活用されている現状に照らすと,非典型担保であって実定法に基づくものでないことを差し引いても,残念な結果であった。

・小問(2)においては,Dは自動車登録名義を有するものの実質的には所有者ではなくなっているという前提で答えることが必要であるが(坂野注:これは問題文に、はっきり分かるように記載されていますが、そのことにも気づけないほどだということでしょう。),このような地位にあるDに対する妨害排除請求に関して,これを当然に対抗関係にあるとして処理することはできないのであり,この点は判例・学説が一致しているところである。それにもかかわらず,(中略),何の留保もなくEとDとが対抗関係に立つことを前提としてしまった答案がかなり多く見られた(坂野注:判例学説が一致している問題なのに!)。これは一面において,民法第177条(道路運送車両法第5条)の「第三者」の意義についての理解が十分でないことを表しているものであり(坂野注:対抗関係が分かっていないということは物権の基礎が分かっていない事と同じです。大問題です。),他面で,不動産と動産とで違いがあるとはいえ,最判平成6年2月8日民集第48巻2号373頁という重要な関連判例を意識することができていないもの(坂野注:判例百選にも載っています。)であって,基本的な判例の知識の定着の観点から難があるといわざるを得ない(なお,(中略)、中には登録には公信力があるとまでする答案も見られ,非常に残念であった。)。→坂野注:参照条文(道路運送車両法5条)が問題文に掲載されており、その条文にも明確に「対抗できない」と明記してあるのに、車両登録に公信力があると論じることは実務家としてはあり得ないものです。

小問(3)関連

・「遺産分割」,「遺産分割方法の指定」,「相続分の指定」,「廃除」といった基本的な概念についての理解が極めて不正確な答案が少なからず見られた。(中略)遺言において遺産中の財産の帰属先を指定することを「遺産分割」と誤解するものや,「廃除」がされたと認定しながらもHについて債務の相続承継を論ずるものなども少なからずあり,予想以上に基本的な概念を理解することができていないことがうかがわれた(坂野注:この誤りを実務家がやれば、十分弁護過誤に匹敵します。)。

・請求の根拠について全く記載のない答案や曖昧な論述・混乱した論述に止まる答案が多く見られた(坂野注:請求根拠もなく請求できるはずがありません。請求根拠も記載せずに訴状を出しても、おそらく裁判所は訴状の受理すらしてくれないのではないでしょうか。むしろ請求根拠の記載もない答案に何が書かれているのか興味が湧きます。)。

・分割して承継されるとしながら連帯債務であるとするなど債権総論の分野である多数債務関係に関しても十分に理解することができていないことがうかがわれた答案も見られた。(坂野注:分割して承継されながら連帯債務になるなんて全く意味が分かりません。太陽は東から昇るが西からも昇ると言っているようなものです。こういうことすら平気で書いてくる答案があるということなのでしょう。旧司法試験では間違いなく短答式試験で落とされているレベルだと思います。)

・問題文に記載された事実からは引き出すことのできない強引な事実関係の解釈・認定をする答案が散見された(坂野注:きちんとした法的な解釈を示すことができないから、都合良く解釈できるように無理矢理事実をねじ曲げて、答案の形を整えればいいという態度です。このような態度が実務家として相応しいとは到底思えません。)。

(採点実感ここまで)

 現在、法科大学院はギャップターム問題などを言い出して、さらに教育期間を短くしようとしていますが、今の教育期間ですら、基本中の基本である民法の基礎的理解が身についていないのに、どうしようというのでしょうか。
 質、量とも豊かな法曹を産み出すのが司法改革の目的ではなかったのでしょうか。上位はともかく、中途半端な実力しか持たない(というより、弁護過誤が頻発することがほぼ必至という低レベルの)法律家を粗製濫造することが法科大学院の目的ではないでしょう。

 さらに付言すると、平成30年度の採点実感では、例年指摘があった、法律家の文章以前の問題としてはおろか日本語にすらなっていないという酷評が、なぜかどの科目でもみられなくなっています。

 上記の採点実感から考えれば、受験生のレベルが急に上がったとは考えられないので、おそらく当局からそのような指摘をするなとの指示があった可能性があるように思います。

 しかし採点者達も、流石に今の現状はまずいと思ったのでしょう。答案の評価の点で、間接的に受験生のレベル低下の危機を訴えています。例えば民法の小問2では次のように記載されています。

・良好に属する答案の例は,優秀に属する答案との比較においては,小問(1)においては所有権留保売買が担保目的であることは理解しているものの,それがなぜ妨害排除請求権の成否に影響を与えるのかの理由付けが曖昧であるものや,小問(2)においては本件では対象財産が不動産ではなく動産であり,これが結論に何らか影響を及ぼすのかに意識を向けることができなかった答案などである。
・一応の水準に属する答案の例は,小問(1)において所有権留保売買の法的性質が担保目的であることに理解が及ばなかったとか,小問(2)においてEとDとが対抗関係に立つとするなど小問(1)又は小問(2)において大きく筋を外してしまった答案などである。

 これだけ見ると、あ~、所有権留保売買が担保目的だと理解できたら成績は良好な方なんだな~と思われるかもしれません。
 しかしそもそも所有権留保売買は非典型担保の例として必ず学びますし、担保目的であることは当たり前というか、もはや一般常識レベルの知識にすぎません。

 しかも、実は、本問の所有権留保売買が担保目的であることは問題文に明確に書かれているのです。
 具体的には問題文事実10②に、「甲トラックの所有権は、Aが①の代金債務を完済するまでその担保としてDに留保されることとし」と書かれているので、この記述に気付いたか否かだけの問題です。

 このレベルでも良好な水準として採点者が評価しなくてはならないということは、医師でいえば「風邪は手術では治らないと理解していたので、医師として良好な水準と評価せざるを得なかった」といっているのと変わりはしません。つまりそれだけ受験生全体のレベルが低下しているということです。

 ましてや、私達実務家の目からみれば、所有権留保売買の法的性質が担保目的であることを知らない時点で、答案として一応の水準どころか、法律家にしてはいけない、司法試験を受験することすらやめた方がいい、な~んにも分かっちゃいないレベルなのです。
 

 このようなレベルの答案でも、不合格にできない採点者の苦悩が滲み出ているとしかいいようがありません。

 司法試験受験生の大多数が法科大学院出身者ですから、低レベル答案の多くは法科大学院出身者が書いたものということになるはずです。

 したがって、法科大学院は直ちに自らの教育能力を再チェックすると同時に、低レベルの受験生を大量に発生させている現実を確認し反省すべきです。厳格な卒業認定をしているのなら、所有権留保が担保目的であることも分からない学生が卒業(しかも大量に!)できるはずがありません。

 このような低レベル受験生が多数輩出されていることを示す司法試験の採点実感を見る限りにおいて、法科大学院のプロセスによる教育が実効性を挙げているなどとは到底いえません。もちろん厳格な卒業認定を行っているなどとは、よほどの恥知らずでなければ、恥ずかしくて言えるはずがありません。

 したがって、そのような法科大学院に、「法曹になる本道は法科大学院である」と主張する資格も、予備試験を「本道ではない、抜け道だ」などと非難する資格もありはしません。

 なぜなら、プロセスによる教育を受け、(法科大学院がいうところの)本道を歩み、なおかつ厳格な卒業認定をパスしているはずの法科大学院卒業の受験生の多くが、どうしようもない答案しかかけていないのですから。

 より、はっきりいえば、採点実感から見る限り(もちろん上位レベルの受験生は別ですが全体的にみれば)、法科大学院は法曹にとって必要な力を学生に身に付けさせる能力がないということです。

 また司法試験委員会は1500人程度合格させよとの政府の意向があったとしても、司法試験法に法曹になろうとする者に「必要な学識及び応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする」と明記されているのですから、法の目的を重視し、無理に合格させてはいけないと思います。

 採点者が採点実感に込めた悲痛な叫びを、私達は見逃してはならないと思います。

執行部は会員を馬鹿にするな

先日の常議員会でのことである。

 大阪弁護士会執行部がある決議をしようと常議員会に諮っていたが、その提案理由の一部に、いわゆる谷間世代問題に関する次のような記載があった。

 「日本弁護士連合会においては、国及び関係機関に対し、上記の裁判所法が成立した後の給付金額、及び、新第65期から第70期までの司法修習生に対する不平等・不公平に対する是正措置の課題の解消を実現すべく、引き続き運動を継続される予定である。」(下線・太文字は坂野による)

 そして担当副会長が、現に日弁連執行部は2月7日(坂野注:多分この日だと思います。)に院内集会を行いましたと説明した。

 私は、日弁連が真剣に国や関係機関に対し、谷間世代問題の是正を求めている行動をとっているとは思えなかったので、上記提案理由に書かれている日弁連の予定を知りたくなり質問した。

坂野「提案理由3に記載されている、日弁連の運動予定とはどのようなものか教えて下さい。」

担当副会長「国会議員や関係機関に対する粘り強い働きかけと、私は承知しております。」

 なんなんだこの回答は。
 私は、日弁連の今後の行動予定を聞いているのであって、大阪弁護士会の担当副会長の認識を聞いている訳じゃない。
 こんな簡単な質問の趣旨も分からないトンチンカンな頭の持ち主が副会長をしている訳じゃないだろう。どうしてストレートに質問に答えないのだ。
 

 この時点で、既に私は、副会長を含む大阪弁護士会執行部に対し、誤魔化すな!と言いたかったが、ひょっとして私の質問が分かりにくかったのかもしれないと思い直し、再度質問してみた。

坂野「私が聞いているのは先生の見解ではなくて、日弁連の運動予定の具体的内容が何かということです。」

担当副会長は一瞬間をとったが、次のように回答してきた

担当副会長「国会議員や関係機関に対する粘り強い働きかけと、私は承知しております。」

 
 実質的には完全な回答拒否である。

 ふざけている。
 10年間常議員を続けてきたが、このような不真面目な回答は初めて経験する。

 常議員からの質問にまともに答えずにいて、何が常議員会での議論だ。

 どうやってまともな議論ができるのだ。

 私は、完全に頭に来て、

 ちょっとまて、それの何処が回答だ。質問に答えろ、馬鹿にすんな!

と罵詈雑言を浴びせたかったが、そこはかなりの忍耐力を用いて自分を抑えた。

 担当副会長が答えられない何らかの理由があるのなら、代わりに、日弁連副会長を兼務する竹岡会長が説明してもおかしくはないが、そのようなこともなかった。おそらく、日弁連は谷間世代不公平是正の対外的な行動に関し、「行動する予定がある」というかけ声だけ述べて、何ら具体的な施策を考えていないのだろう(具体的な施策があるのなら回答できたはずである)。

 仮にそうだとしても、質問に対して具体的な施策は決まっていないと事実を述べるべきではないのか。

 私の質問と担当副会長の回答は、私の記憶によるものなので、一部不正確である可能性もあるが、このようなやり取りがなされたことは間違いがない。2月19日の常議員会に参加された常議員の方にお聞き頂いても構わない。

 このような不誠実な回答を許す執行部なので、万が一、常議員会の議事録に手を入れられても困るので、敢えてブログに記載しておく。

 もう一度言う。
 大阪弁護士会執行部は、私を含めた一般会員を馬鹿にしないでもらいたい。
 きちんと質問や要望には誠実に向き合ってもらいたい。
 弁護士会を支えているのは、一般会員なのだから。

太地町のイルカ漁に提訴の報道

 報道によると、本日NGO団体が、太地町のイルカ漁が動愛法(動物の愛護及び管理に関する法律)に違反しているとして、漁師らの許可処分を取り消すよう、和歌山地裁に提訴したそうだ。

https://www.sankei.com/west/news/190214/wst1902140024-n1.html

 弁護団には、刑事弁護で著名な高野隆弁護士(私も高野先生の作品で勉強させて頂いたこともあり、個人的には尊敬している。)が参加されているとのことだった。

 私は太地町出身でもあるため、漁師さん達がどれだけ頂いた命に感謝しているかは、身近でみてきた。だから、イルカやクジラを可能な限り無駄にしないよう利用させて頂くことに漁師さん達は、ものすごく気を配っていることも知っている。

 クジラを乱獲した上で、単に鯨油だけ搾り取って後は捨てていたかつての欧米諸国や、動物殺しを楽しむ目的でサファリなどを敢行していた連中と、太地町の漁師は絶対的に違うと私は思っている。

 訴状での正確な主張骨子は不明だが、イルカは動愛法の愛護動物に該当するとして、追い込み漁で入江に追い込んだイルカに獣医の診察を受けさせないとかエサを与えていないことを虐待と主張したり、イルカの殺害方法が、「できる限りその動物に苦痛を与えない方法」を求める動物愛護法に違反していると訴えているようだ。

 食用目的で捕獲した野生動物が、形式的に動愛法44条4項「人が占有している動物で哺乳類・・・に属するもの」に該当するからといって、直ちに愛護動物といって良いのかは、なかなか難しい問題があるようにも思う。例えば、同条2項には、「愛護動物に対し、みだりに給餌または給水をやめることにより衰弱させるなどの虐待をおこなった者は」と規定されているように、愛護動物とは、給餌・給水を人間が行うことを前提にした動物を対象にしているという読み方も、不可能ではないように思われる。

 また、そもそもイルカを屠殺する場合に、現行の方法以上に苦痛を与えずかつ経済的合理性のある方法が可能かどうかもはっきりしないように思う。イルカが身動きできないように捕まえて、急所を突く方法などは、現実的には不可能だ。

 屠殺方法も現状では次のように改善されているそうだ。「2008年12月以降は、イルカが死ぬまでにかかる時間を短くするために、デンマークのフェロー諸島で行われている捕殺方法に改められています。この方法では、捕殺時間は95%以上短縮されて10秒前後になりました。イルカの傷口も大幅に小さくなり、出血もごくわずかになりました。」(和歌山県公式見解より)

 なにより、日本における牛・ブタ・鶏の飼育方法、輸送・屠殺の現状が、決して人道的ではない場合もあることは、次のリンクをみて頂ければお分かりになるだろう。

https://www.hopeforanimals.org/slaughter/

 イルカ・クジラ類の捕獲を批判する方々は、おそらく、動物愛護の精神に長けており、動物全体を愛護しようという崇高な精神で活動、訴訟をされているのであって、自分達の好きなイルカやクジラの生命だけを重視して、牛・ブタ・鶏の命の価値を低く見ているわけではなかろう。

 動物の命の価値に差をつけないとするならば、数にすればイルカよりも圧倒的多数の、牛・ブタ・鶏が、人間の都合で人道的でなく殺されている現状(鶏インフルや豚コレラの際の処分だって、人間の都合で罪もない大量の鶏やブタの命を奪っていることに何ら変わりない。処分と言い換えたら命を奪う行為がなくなるわけではないのである)がある中においては、非人道的に奪われる命が圧倒的に多いのだから、そちらをまず改めるべく行動するべきなのではなかろうか。

 私は問いたい。

 動物の命の重さに差をつけていないのであれば、なぜ牛・ブタ・鶏について同様の訴訟を提起しないのか。

 仮に動物愛護を謳いながら、動物の命の重さに差をつけるのであれば、その理由は何なのか。

 その理由が自らの価値観の押しつけになっていないか。

 人間という生き物は、生きるために他の動植物の命を頂かなくてはならない宿命をもった生き物であることを忘れていないか。

地方法科大学院で司法過疎は解消できるのか?

 かつて法科大学院が雨後の竹の子のように全国各地に設置された際に、良く言われたのは、司法過疎を解消するために役立つというお題目だった。

文科省の法科大学院特別委員会でも次のような意見が出されている。

•法科大学院の地域適性配置は,地方への法の支配の浸透や司法過疎の解消に資するという見地から重要な意味を持っており,当該地域における存在意義や改善努力の状況等を総合考慮した上で,必要があると認められる一定の地方法科大学院には,統廃合等の判断に当たって,時間的猶予を与えるなどの特例措置を認めるべき。また,夜間法科大学院についても,同様に,時間的猶予などの特例措置を認めるべき。(文科省法科大学院特別委員会第53回配付資料3-3)

 私は上記の意見には、全く賛成できない。

 法科大学院があるというだけの理由で、その近辺の法の支配が浸透したり、司法過疎が解消するわけではないから、地方の法科大学院が司法過疎に役立つというのなら、地方の法科大学院を出た人たちの多くが、弁護士になってその法科大学院の所在地近辺で開業しなければ意味がないだろう。
 しかし現実には、弁護士も個人事業者だから、仕事がない土地では生きていけない。どうしても仕事が多く生じる可能性が高い、都会に生活の拠点を求めることが多くなるだろうし、それを責めることはできまい。

 例えば私は京都大学出身だが、私の友人達の中には、京都大学に通学したから京都に就職したという人はほとんどいない。多くの友人は大企業に就職し、個人で事業を起こした人も多くは東京近辺に住んでいる。仕事が都会に集まる以上それは仕方のないことだ。

 地方の法科大学院が、公立医大のように、地域貢献枠などを設けているのであれば別だが、そのような配慮もない状況では、なおさら仕事のある地域に弁護士は進出することになる。裏を返せば、国民の皆様は地域貢献枠まで使って、司法過疎解消のために地元に弁護士を呼ぶ必要性を感じていないということだろう。

 それなのに、なぜ、文科省や法科大学院推進派は、地方の法科大学院が存在すれば、司法過疎が解消すると主張するのだろうか。

 最近、朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」で、法社会学者がアメリカで司法過疎がないのは、地元のロースクールを出てロイヤーになった者が地元で働くのが一般的だからだ、という趣旨の主張をしていたという記事をみた。

 しかし、(既に100万人近いロイヤーがいる時代に米国に留学された)鈴木仁志弁護士の「外から見た日本司法の先進性~市民の視点から見たアメリカ司法の実像」によれば、そもそも司法過疎はアメリカでも解消されていないという報告もあったし、その後何らかの事情が変わってアメリカの司法過疎が解消されたという話も聞かない。実証的データも上記の法社会学者は提示せずに、アメリカには司法過疎がないと言い切っている。

 私は、実際にアメリカ現地をみてきた弁護士の方の報告は、書籍で得られた知識などよりも正しい確率が高いと思っているので、上記の法社会学者の、「アメリカには司法過疎はない」という主張は疑わしいと思う。

 それをさておいて、仮に万一、「アメリカで司法過疎がないのは、地元のロースクールを出てロイヤーになった者が地元で働くのが一般的だからだ」という主張に沿うように見える事実があったとしても、それは、ロースクールの地方配置によりもたらされる利点ではなく、アメリカの法制度上、不可避的に生じる問題というべきだと私は思う。

 つまり、アメリカのロイヤーは、州ごとに司法試験があり、州ごとに資格を与えられる。日本の弁護士で留学してアメリカのロイヤー資格を得た人も、肩書きはニューヨーク州弁護士、カリフォルニア州弁護士などとなっているように、ロイヤーの資格は原則としてその州限りである。
 だから、ニューヨーク州弁護士の資格しかもたない人は、仕事が見つかろうがどうだろうが、基本的にはニューヨーク州で弁護士として活動するしかないのだ。

 このようなアメリカのシステムは、地元ロースクールを出た人間が地元で開業せざるを得ないため、一見すれば、司法過疎解消に役立つような誤った印象を与える。

 しかし日本は違う。
 道州制を採っているわけでもないし、弁護士資格は日本全国共通だ。だから、和歌山県出身の私が和歌山でしか弁護士業務ができないというわけでもないし、京都の大学を出ているから京都でしか弁護士ができない、というわけでもない。

 結局、地方法科大学院の存在意義は、地方の法曹志願者が多少通学しやすくなるというだけのことであり(それでも私のように、県庁所在地まで特急で3時間以上かかる田舎出身者には全く意味がない。)、司法過疎の解消には直接関係がないというのが正しい物の見方であろうと私は思う。

 そう難しいことではないのだが、ずいぶんと長い間、地方の法科大学院と司法過疎はリンクして話をされ続けてきたように思う。
 アメリカの結論だけをみて、その結論が良いのだと思い込み、アメリカと日本の制度の違いを無視して、制度の一部だけ猿まねをしてみても、混乱をもたらすだけで良いことなどないと、私は思うんだけどな~。

 一部の学者先生方のアメリカ(国外の制度)礼賛は、度が過ぎているような気がしてならない。

裁判所は正義の味方か?

 TV等で、よく「訴えてやる!!」と訴訟をあおるようなバラエティ番組があるが、裁判に訴えた側が有利だという構造は基本的にはない。むしろ不法行為など立証責任が基本的に原告側にある法的構成を採ったりすると、訴えた側が立証しきれずに却って敗訴に近づくという可能性だってあるくらいだ。

 それはさておき、法律相談などをしていると、よく、「真実はこうなのだから、自分の主張は絶対に正しく、正義は我にある。裁判所は正義の味方だから、当然裁判でも勝てるはずだ。」と仰る方がいる。
 例えば、自宅から出火して全焼したあとに損保に対して火災保険金を請求したところ、「あなたが放火したので支払わない」と言われた方などは、自分は絶対に放火しておらず、全く身に覚えのないことだから保険会社の主張は言いがかりであって、裁判所は勝たせてくれるはずだと考える方もいる。

 その人にとっては自分の主張が真実なのだから、正義の味方である裁判所が認めてくれないはずがないと考えているのだろう。

 しかし、ことは、そう簡単には運ばない。

 確かに、裁判所が魔法の鏡をもっていて、出火当時の場面を自在に写し出せるのであれば話は簡単だ。魔法の鏡に映し出された内容が真実なのだから、その事実を基に裁判所が判断すればいいのだ。

 しかし裁判は人間がやることだ。裁判官だって人間だ。そのような魔法が使えるわけがない。
 過去に起こった事件に関し、何が起きていたのか、真実はどうなのか、については、録画でも残されていない限り(録画でも改変がなされる危険がある)、裁判所が実際に知覚する手段はない。

 だとすれば、一般的には、後に残された証拠から合理的に推認して、どのような事実があったのかを認定し(事実認定)その認定した事実に法を適用して結論を導くしかない。
 その証拠についても、信用できるかどうかを裁判官が自らの常識に基づいて判断し、常識に合わない結論を導くものは排除して、最終的な結論を導く。

 誤解を恐れずに分かりやすく言えば、当事者から提出されたレゴのパーツのようなもの(証拠から)、これは納得して使えると思われるパーツを抜き出し、そのパーツを使って、その当時に生じたであろう事実を構築するのだ。(裁判官の判断はもっと直感的で、直感的に結論に到達してからその結論を導く証拠を用いるのではないかという分析もある。)そして裁判官がパーツから構築(認定)した事実に、法を適用して結論を導くのだ。

 だから、当事者からみれば、完全に真実と異なる事実を裁判官に構築され、ありもしない事実があった、と判決中に認定されてしまうことだってあり得るのだ。

 裁判になっている以上、通常、判決ではどちらかを勝たせる結論を出さなくてはならない。それは即ち勝訴した側の主張はほぼ認められるが、敗訴した側は自分の言い分を全て否定されるような判決内容になることを意味する。それは白黒つける以上やむを得ないことだ。

 残念ながら、それが人間の行う裁判の限界なのだ。

 よく、裁判官が相手方から何らかの便宜を図ってもらっているから負けさせられたのではないか、と敗訴した方からの苦情を聞くこともあるが、少なくとも、私の知る限り、日本の裁判官には、そのようなことはない。

 確かに、どうやったらこんな認定が出来るのかと思うような、へんてこな事実をレゴのパーツから作り上げて、認定してしまう裁判官は、たまにいるように思う。 しかし、これは世界に誇って良いことだと思うが、訴訟当事者から何らかの便宜を受けて判決を曲げる裁判官はないと断言してよいと思う。

 以上述べたように、裁判所は残念ながら、弱者の味方ではないし、正義の味方でもない。

 しかし、裁判所は、一個人であろうが、大企業であろうが、権力者であろうが、基本的には対等な当事者として扱い、同じ土俵で主張と立証を闘わせ、公平にジャッジしてもらうことができる(敗訴した側はそう感じないことが多いのだが)、貴重な場なのである。