ユリカモメ

 今朝、出勤の際に鴨川を渡ったのですが、そのときに、ユリカモメが数羽飛んでいるのを目にしました。

 ユリカモメは、伊勢物語で「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」詠まれている「都鳥」と同じであるという見解が有力なのだそうです。

 冬になると、多くのユリカモメが鴨川にやってきます。橋の上からエサを投げてやる人も時々見られます。そして夕方になると、多くのユリカモメがぐるぐる旋回しながら上昇していく姿(鳥柱)が見られます。いつ頃からユリカモメが鴨川にいたのか分かりませんが、京都の冬の風物詩といっても良いくらい見慣れた風景になっているように思います。

 聞いた話によると、鴨川にいるユリカモメは、本来琵琶湖をねぐらとしていて、朝に鴨川にやって来て、夕方に琵琶湖に帰るのだそうです。

 ユリカモメは、見た目は白いヘルメットをかぶったような頭をしており、一件可愛らしく見えますが、実は結構性格はどう猛な面があるそうで、私が台風の時に琵琶湖で保護したユリカモメも、しきりに私の指に噛みつこうとしていた記憶があります。

 ただ、白いユリカモメが、鳥柱を作って上昇していく姿を見ると、なぜだか「いよいよ、冬なのだなぁ」と感じます。最近は暖冬のせいか、秋と冬の境がとても分かりにくくなっているように思いますが、鳥はきちんと分かっているのでしょう。

法律相談で

 私は、法律相談を行うとき、相談に来られた方が、相談に来た時よりも少しでも、気が軽くなってお帰り頂きたいと考えて相談を行うように心がけているつもりです。

 ところが、やはり相手のあることですから、必ずしもそう、うまくいくとは限りません。

 弁護士にとって困る方々としては、①こちらが事情を把握しようと質問しても無視して自分の言いたいことだけを言い張る方、②こちらが相談者の質問に対して回答している途中で話の腰を折って自分の言いたいことばかり言いつのる方、③こちらの回答の都合の良いところしか聞かない方、④自分の思うような回答が出ない、若しくは意に添わない回答をすると怒り出す方、等がいらっしゃいます。

 ①のような方では、弁護士が判断に必要な事情が把握できないので、弁護士としても回答の出しようがありません。相談者の方が重要だと思っていることが実は重要ではなく、他の点に重要な問題がある場合も多いのですが、①のタイプの方は、なかなか解ってくれず、お話しが進まない結果になることもあります。

 ②のような方は、弁護士が事情を把握した上で説明を始めているのに、その説明を聞いてくださらないのですから、こちらとしても非常に困ります。「説明途中だから最後まで聞いて下さい」とお願いして話すのですが、それでもすぐに説明途中で自分の主張を言い始められるので、結局筋道だった回答ができない場合もあり得ます。

 ③のような方も、弁護士としては辛いところがあります。「この問題は~~というリスクがあるが、○○という条件で、△△の部分がうまくいけば××の結果が出せる可能性があります。」と説明しても、××の結果が出せるという部分しか聞いてくれず、弁護士が××の結果が出せると言った、等と事実と異なることを言われたりします。

 ④の方は、無料法律相談のリピーターに多いタイプです。自分の思うような回答が出ないとしても、それは、現行法上、やむを得ない場合もあるということを理解して下さらず、おかしいと怒り出されるのです。私が相談者に対しておかしいことをしたわけでもないのですが、そのような方はまるで、その問題を私が引き起こしたかのように怒り出される方も希にあり、こちらも嫌な思いをさせられます。

 そのような方々であっても、なんとかお分かり頂くようにお話ししているつもりですが、あまりにお分かりいただけない場合は、もはやコミュニケーションが取れないので、「少しでも気が楽になってお帰り頂く」という目標が達成できない場合もあります。

 全てのかたに、分かって頂けるような魔法のような説明が出来ないか、時々考えてしまいます。

週刊東洋経済~福井秀夫教授の発言

 週刊東洋経済2008.11.22号の「設計ミスの司法改革弁護士大増産計画」という記事の中で、規制改革会議の福井秀夫政策研究大学院大学教授が、物凄い発言をされています。

(以下記事の引用)

 政府の規制改革会議の福井秀夫・政策研究大学院大学教授は「ボンクラでも増やせばいい」と言う。「(弁護士の仕事の)9割9分は定型業務。サービスという点では大根、ニンジンと同じ。3000人ではなく、1万2000人に増やせばいい」。

(以上引用終わり)

 弁護士の仕事について福井秀夫氏がどこまでご存じか知りませんが、上記の発言を本当に福井秀夫氏がしたのであれば、福井氏は「弁護士の仕事は99%が定型業務である。」と述べておられることになるでしょう。

 少なくとも私が行ってきた弁護士の経験から言えば、どんな簡単な契約チェックでも、契約対象、相手方、依頼者の希望、その他様々な点で、全く同一というものは、まずありません。訴訟についても、同じ類型の訴訟であっても、言い分や事実、証拠の有無、相手方の対応で、千差万別であって、裁判所に提出する主張書面は、全てがオーダーメイドです。何一つ同じ訴訟というものはありません。

 定型的に近い処理が出来る可能性があるのは債務整理業務でしょうが、それが弁護士の仕事の99%を占めていることは、特殊な法律事務所以外考えられません。

 福井秀夫氏には、知らないことを、さも知ったかぶりで言うことはやめて頂きたいと思います。

 それでも福井秀夫氏が、弁護士の業務は99%が定型的だと仰るのであれば、弁護士登録して頂いて、福井秀夫法律事務所を開設し、受任する仕事の99%を定型的に処理して見せてもらいたいものです。

 通常の法律事務所のように様々な事件を取り扱っていれば、99%の事件を定型的に処理することはまず不可能です(同じ離婚訴訟だからと言って、以前の離婚訴訟で使用した書面を、事情の異なる別の離婚訴訟にそのまま使えるはずがないのは、子供でも分かるでしょう)。もし、福井秀夫氏が弁護士登録して自分の法律事務所で、様々な事件のうち99%の事件を定型的に処理し続ければ、その処理方法自体が福井秀夫氏がボンクラ弁護士であることの証となるでしょう。

 ただ、福井秀夫氏の発言を、無理矢理にでも善解すれば、定型的という意味を非常に広く考えておられて、訴訟自体が一つの定型的な類型、法律相談を一つの定型的な類型、・・・・というふうに表現している可能性もひょっとしたらあるかもしれません。しかしそれでは福井氏の発言自体に意味がないことになります。

 つまり、福井秀夫氏のいう「定型的仕事」が非常に広い概念であると仮定すれば、次のようにも言えるでしょう。

 大学教授の仕事は研究と講義(学生への教育)であり、定型的な仕事である。だから大学教授はボンクラでも良い。

 医師の仕事は、診断と治療であり、定型的な仕事である。だから医師はボンクラでも良い。

 新聞記者の仕事は、取材と記事の執筆であり、定型的な仕事である。だから新聞記者はボンクラでも良い。

 どう考えたって、このような主張はおかしいでしょう。

 ただ、救いなのは東洋経済の記事を書かれている方が、冷静に福井教授の暴言に対応しておられることです。

(福井教授の発言のあとに)「だが、庶民が弁護士に依頼するのは一生に一度か二度の買い物だ。たまたまハズレ、ではたまらない。」

 冷静に考えれば、この記事を書かれた方の言うとおりでしょう。

いまだにもったいないと思う事

 15年以上も前の話である。

 京都に下宿して、司法試験をめざしていたS受験生は怒っていた。

 学生街という宿命か、それとも◎ホバの証人の集会所が近くにあったせいか、自宅で勉強している時に、いろんな宗教の勧誘がしょっちゅうやってくるからである。

 奴らは無遠慮にブザーをブーブー鳴らし、住人が根負けしてドアを開けるまで鳴らし続ける。つまり、S受験生の勉強を容赦なく邪魔をするのである。

 そして、S受験生が怒りに燃えてドアを開けると、わざとらしい笑顔を見せつけて様々な勧誘文句を言うのである。

 「悩みはありませんか、楽になれる方法があります。」

「今すぐ司法試験に合格させろ、そしたら最大の悩みは解決じゃ!」(S受験生の心の叫び)

 「貴方の健康を祈らせて下さい、血がキレイになりますよ。」

 「何で病院でやらんのや!」 (S受験生の心の叫び)

 「聖書に興味ありますか」

 「そしたら聞くけど、あんた、司法試験六法に興味あるんかい!」(S受験生の心の叫び)

 とにかく、勉強を中断されては、宗教への勧誘を撃退する日々が続いていた。

 そんなある日、東京から高校の友人がやってきた。彼の話によれば、何でも、××寺とかいうお寺の「幸福御守」がいろんなことに絶大な効果があるという。彼の先輩もその御守りで公認会計士試験に合格したという。宗教勧誘と戦い続け、荒んでいた受験生の心には、その話がいかなる宗教の勧誘よりも魅力的に思えた。

 そんなに効果があるのなら、 買ってみようと思い立ってもS受験生の罪ではあるまい。

 S受験生は、友人と××寺に向かいその幸福御守りを手に入れた(買った)。けったいな事に幸福御守一つにつき、お願い事は一つだけなのだそうだ。しかも願いがかなったらお礼にくるようにとまで書かれていたような記憶がある。また、××寺の境内にはわらじを履かせた、そんなに古そうには見えない地蔵菩薩がまつってあった。説明書きによると、このお地蔵様が、歩いて家までやって来て、幸福を授けてくれるのだそうだ。昔の人は変わったことを思いつくものである。

 まあいいや、とにかく御守りを買ったのだから。気休めくらいにはなるだろう。S受験生は自宅にもどり、いつものように勉強を再開した。

 しかしである。

 その夜遅く、S受験生が勉強しているとまた、下宿のブザーがブーブーと鳴る。

 「こんな遅くにどいつや!」と思って、ドアを開けると、そこにはまた笑顔の人影が。どう見ても、宗教関係者の出で立ちである。

 「宗教の勧誘なら結構です!」と冷たく言い放って、ドアを閉めようとするS受験生の意識に若干の違和感があった。「このままドアを閉じてはいけない」と何かが叫んでいるが、「宗教の勧誘=ドアを閉める」と条件反射的に凝り固まったS受験生の行動は急には止められない。

 ドアは閉まった。

 「しまった!なんて事を!」 慌ててドアを開けたが、もう人影はいなかった。

 笑顔の人影は地蔵菩薩だった。

 それが違和感を感じた原因だった。

 S受験生は、せっかく幸福を届けに来た(かもしれない)、お地蔵様を門前払いしてしまったのである。

 というところで目が覚めた。

 その夢を見てから、合格まで更に何年か要した事は言うまでもない。

法曹人口と訴訟件数

 日弁連の統計表をみると、弁護士数は2008年現在25062人、1996年時点では約15500人程度のようです。

 従来から弁護士数は少ないと、言われ続けてきていましたが、本当にそうだったのでしょうか?

 この点に関して、面白いデータがあります。

 最高裁判所事務総局が1996年時点での、法曹一人あたりの民事第一審訴訟件数(法曹が一年間にどれだけの民事訴訟を担当するか)を比較調査した結果、次の通りだったとのことです。

 フランス31.2件

 イギリス28.3件

 ドイツ18.9件

 アメリカ16.2件

 日本21.4件

 訴訟の手間にもよりますが、法曹一人あたりの民事訴訟の件数だけで見ると、既に1996年時点で日本には諸外国と比べても、民事訴訟を十分担うだけの法曹(弁護士)が既に存在していたことになります。

 単に人数や人口比だけを比較して、弁護士数は少ないと主張するのが、弁護士数を増加させようとする人たちの手法です。しかし、本当に日本の社会で弁護士数が少ないかどうかを判断するためには、実際に弁護士を利用したいと思う人が利用できるだけの弁護士が存在するか否かで判断すべきではないでしょうか。

 そうだとすると、1996年時点で既に、諸外国と比較して、第1審の民事訴訟を十分こなせるだけの弁護士数がいたとも言えるのです。

 その後2008年まで弁護士数は激増しました。約162%の増加です。これまで以上に、弁護士数を増加させて何か良いことが本当にあるのでしょうか。

 かつて痛みに耐えて構造改革といわれたことがありました。みんな必死で痛みに耐えたはずですが、その痛みに見合った結果は出たのでしょうか。今でも、弁護士会でもお偉方は、歯を食いしばってでも司法改革と主張されますが、ここまで歯を食いしばってきた若手にその痛みに見合う何かを与えることができたのでしょうか。

 魅力ある司法、国民が利用しやすい司法が達成できたのでしょうか?

そんなにアメリカが良いのか?

 私が子供の頃ですから、30年以上前になると思いますが、そのころでもテレビ番組で「衝撃映像特集!」等の題名で、世界の事件映像を流していたものがあったように思います。

 その番組の中では、犯人が逃走し、パトカーが追跡するカーチェイスをヘリコプターで撮影した映像がよく流れており、それは大抵アメリカでの事件だったと記憶しています。

 私は子供心に、「アメリカでは、罪を犯しても、なんとか逃げ延びればラッキーだという人が多いのかもしれない。そんなの良くないのに。」と思った記憶があります。その頃の私の感覚では、交通違反をして現場をパトカーに現認され、サイレンを鳴らされた場合、多くの人は確かに違反してしまったということで、素直に停車する人がほとんどで、逃げ切れればラッキーだと思って逃走するような人は、現在のように多くはなかったように感じていました。

 しかし、昨今、アメリカの個人主義・成果主義・競争至上主義などがどんどん導入され、国際社会での競争を旗印にどんどんアメリカをまねた制度を日本は取り入れてきたように思います。それと共に、儲かりさえすればいい、自分さえよければいい、という感覚を持つ人も、ずいぶん増えてきたように思えるのです。

 確か1980年前後に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本が出て、日本は先進国のかかえる問題点をうまくクリアーしていると評価されていたのに、日本はその成功していた方程式をなぜか放棄して、アメリカをまねた政策へと転換していったように思います。

 果たして、その転換が良かったのか私には分かりません。しかし、アメリカの制度やアメリカでの考えを日本に持ち込むことによるメリットもあったのかもしれませんが、確実に日本人・日本の社会が持つ良さも失われていったように思えてなりません。

 法律家の養成制度として、アメリカをまねたロースクールが実施されてもう4年以上になりました。最近の司法試験合格者の傾向として、ビジネスロイヤー志向が非常に強まっていると司法研修所教官から指摘されています。

ビジネスロイヤー志向といえば聞こえは良いのですが、要は金儲け主義が強まっているということです。

 アメリカのように弁護士をロースクールで大量生産してしまって、法律を如何にビジネスとして最大限に利用するかを考える弁護士が激増した場合、本当に日本の社会は良くなるのでしょうか?

 そんなにアメリカ流が良いのでしょうか。

少年事件と接見(面会)

 少年が身柄を拘束されている少年事件において、意外にも相当数の親御さんから聞かれるのは、「面会のときに、うちの子と、どんな話をしたらいいのでしょうか」 という質問です。

 基本的には、「どのような話をしても結構ですよ、思うとおりにお話し下さい。」とはお伝えするのですが、どうもその答えでは、安心されない親御さんもおられるようです。

 身柄拘束されている少年は確かに非常に不安であることがほとんどです。鑑別所などでは時間の制限もありますし、少しでも実のある面会をしたいというお気持ちは、親御さんとして当然でしょう。

 しかし、私の経験からいえば、面会に行ってあげるだけで、少年には、親の愛情が十分に伝わっていることが多いものです。そして、少年の側としても、「あんなひどいことをして親に見捨てられるかもしれない」と考えているところに、親御さんが面会に来てくれれば、実はとても自分に愛情をかけてくれていたことに気付くことも多いのです。その面会で少年の不始末に対して一方的に非難する内容の話しかできなかったとしても、忙しい中、時間を割いて面会に来てくれる親の顔を見るだけでも安心する子は多いですし、悪いことをやったという自覚もありますから、非難だけに終わってしまっても、その面会だけで大きな問題が生じることは、あまりないように思います。

 何らかの問題があるので、少年事件になっているはずです。その問題は少年自身にあることも多いですが、場合によれば周囲にも問題点が隠れていることもあります。問題点を一緒に探す方向での話ができればベストでしょうが、そこまで行かなくても、少年は親の愛情を感じるだけでも立ち直りのエネルギーを生み出せることがずいぶん多いようなのです。

 あまり、欲張らずに、一緒に歩こうという気持ちで面会されれば、結果的にうまくいくことが多いのかもしれませんね。

マスコミの取材

 先日、私が当事務所の久保弁護士と共同で弁護した、ある刑事事件の判決があった。

 残念ながら、執行猶予のつかない判決だった。

 判決言渡し後、裁判所から出ようとする私に対して、新聞数社より事件について質問等があった。申し訳ないのだが、私は、大きな民事事件で勝訴した際の記者会見とは異なり、質問に具体的に答えることはしなかった。 第一次的には弁護士には依頼者のための守秘義務があり、刑事事件に関する質問は、私に弁護される立場にある被告人の微妙な情報に触れる危険性が高いからである。

 もう一つ理由がある。確かに被告人は、犯罪を犯してしまった。それは許されないことではあるし、被告人はその犯罪の責任は取らねばならない。しかし犯罪とは全く無関係で、被告人の帰りを待つ家族・親族もいる。自らは何も悪くはないのに、被告人の帰りを待ち望み、被告人の与えてしまった被害回復のために、それこそ、必死に活動される家族・親族の方もいるはずだ。

 そのように必死に努力してきたかもしれない方々が判決を聞き、非常に落胆している状態であろうことを知りつつ(又は知り得べき状況で)、判決についてどう思うか、控訴するのか、控訴理由はどうするのだ等と判決直後の公の場で質問するのは如何なものかと思う。

 確かに、読者や国民の知る権利に奉仕する観点からマスコミが取材しようとするのは分かるし、何の取材もせずに判決だけから憶測混じりの記事を書かれるよりはマシのようにも思う。

 それに、マスコミの方がこのような取材を弁護人に行うということは、これまで弁護人がマスコミの取材に応じてきてしまったという前例があるからなのだろう。もちろん、被疑者・被告人が情報を発信して欲しいと願っているのであれば、守秘義務に反しない限度で弁護人が情報をマスコミの方に流すことはあるかもしれない。しかし、私がテレビなどで報道を見聞する際に、果たして本当に被疑者・被告人が情報を流して欲しいと希望しているのか疑問の余地がある場合でも、弁護士が情報をマスコミに提供してしまっているのではないかと思える場合もある。

 この点では、刑事弁護を担当する弁護士の側にも反省すべき点があるのかもしれない。

ぐんじょう色

 普段何気なく使っている言葉でも、実は深い意味があったのだと突然気付くことがたまにあります。

 先日、ぐんじょう色のことを「群青色」と漢字で書くと知りました。小さい頃、私の12色の色鉛筆セットの中には入っていませんでしたが、同級生が持っていた色鉛筆の24色セットなどで、「ぐんじょう色」という色があることは知っていましたし、大体の色調も解ってはいました。

 昔の記憶から、なんとなく、「ぐんじょう色とは、こんな色だろうな」「こういう色をぐんじょう色と呼ぶのだろうな」と分かってはいたのですが、「群青色」と書くと聞いて、群青色の意味が初めてよく理解できたような気がします。

 その名の通り、ぐんじょう色は、青が群れている色なのでしょう。青が集まって深い青となる。その色です。

 しかし、おそらく、その青い色の集まりは魚の群れのように乱雑なものではなく、整然とした集まりにちがいありません。物理的にはともかく、感覚的に言えば、微かな空の青さが整然と幾重にも重なり、漆黒の宇宙に向かって垂直に積み重なっていく過程があるのではないかと私には思えます。

 そして、その微かな青の集まりにより、次第に深まってゆく青い色達のうち、ほんの一部分だけが群青色として呼ばれるに値する色になれるような気がします。

 誰が表現したのか知りませんが、群青色とは、素晴らしい表現です。

 ひらがなで表現しても、その素晴らしさは気づけないでしょう。色鉛筆にもできれば漢字で「群青色」と記載して欲しいなと思いました。