海遊館は眠くなる?

 キングペンギンが子育てをしていると聞いていたので、先日、久しぶりに海遊館(大阪にある水族館)に行って来た。

 台風が通過し、今ひとつ天気がスッキリしないので、お客さんが少ないことを祈っていたのだが、天候など全く関係なしで、大盛況だった。

 目当てのキングペンギンのヒナは、黒っぽい羽毛に覆われて、じっと座って動かず、最近孵化したばかりのヒナはおそらく母親ペンギンの足下に隠れていたようで見られず、またアクリルが若干汚れていたこともあり、期待していたような元気に動きまわるヒナを見ることは出来なかった。やはりペンギンのヒナとしては、コウテイペンギンのヒナが抜群に可愛いように思う。

 子供達が歓声を上げながら、大興奮している姿を横目に、壁にもたれながら、大水槽の隅の方から魚たちを眺めていた。ご存じの方も多いだろうが、海遊館の大水槽は太平洋の魚たちをテーマに巨大水槽に多くの種類の魚たちが一緒に展示されている。ジンベエザメも2匹いる。一匹は小さな魚たちを何匹も引き連れて泳ぎ、もう一匹はコバンザメ一匹だけをくっつけて、どちらも悠然と泳いでいる。

 毎回そうなのだが、今回も大水槽の魚たちを見ているとだんだん眠くなる。水槽の世界が蒼いからなのか、音もなく魚たちの動きだけが視覚に影響するためか、ゆったりと泳ぐジンベエザメのリズムがそうさせるのか、理由は分からないがとにかく眠くなってくる。

 大水槽の底に部屋を作り、その中のベッドで寝ることが出来たら、間違いなく熟睡できそうな気がする。

 ラッコやイルカ、アザラシ・アシカ、ペンギンなどの水槽は見ていても眠くはならないのだが、なぜだか大水槽だけは眠くなる。

 特に、ゆっくりと近寄ってきては、水槽の壁にぶつかりそうになり、体を傾けて避けたのはいいが、体が傾いたまましばらく立て直せない、マンボウなど見ていると、ほほえましく思う一方で、更に眠気がみなぎってくるようにも思う。

 もう少し、人が少なくてゆったり見られたらなぁ・・・・などと、わがままなことを想いながら久しぶりの海遊館を楽しめた週末だった。

ひまわり求人求職ナビ

 今日、大阪弁護士会の金子会長名で、「司法修習生を就職させてやって欲しい」、「ひまわり求人求職ナビの登録に協力して欲しい」との依頼文書が配布されています。丁寧にひまわり求人求職ナビへの登録方法も図解入りで解説されています。

 現状では、法律事務所への就職希望者は、新64期司法修習生(614名~今後更に増える可能性有り)を含めて、1292名。

 求人登録している法律事務所の件数は、 153件。

 司法試験合格者増員(若しくは現状合格者2000人維持)を叫んでいる弁護士さん、潜在的ニーズはあると主張する弁護士さん、そして両方を主張するマスコミさん、どうして修習生を採用してあげないのですか。

 「増員の痛みに耐えて司法改革」って、ええカッコだけして、痛みは自分が負わずに全て若手に負わせる気ですか。あまりにも無責任な発言ではないですか?

 潜在的ニーズがあるといいながら、修習生を採用しないのは、本当は、ニーズがないからじゃないんですか。潜在的でもニーズが本当にあるのなら採用すればいいじゃないですか。

 「企業も地方自治体も国民の皆様も、みんな弁護士を増やして欲しいと思っている」、と報道しているマスコミさん、あなたも企業でしょ。あなたの報道が正しいのなら、あなたも弁護士さん欲しいはずでしょ。たくさん採用すればいいじゃないですか。なんで採用しないの。

 大阪弁護士会常議員会でも、日弁連の法曹人口会議でも何度も申しあげていますが、少なくとも司法試験合格者増員(若しくは2000人維持)を主張する弁護士・潜在的ニーズがあると言い張る弁護士の連絡先を、執行部は司法修習生に教えてあげるべきです。

 自分の発言に責任を持てる弁護士・マスコミなら、きっと、自分の所得をイソ弁並みに下げて(自分が痛みを負って)でも採用してくれるはずです。それが自分の言葉に責任を持つということでしょう。

 そうでないとすれば、口先だけで、なんの責任も取らない人達がむちゃくちゃなことを主張し、推進させていることになる。

 ひどすぎるんじゃないのか。 

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

遠くからの再会

 私は、司法修習を大阪で行った。

 大阪の裁判所民事部・裁判所刑事部・検察庁・法律事務所(2カ所)に、それぞれ3ヶ月ずつ配置され、実際の裁判官・検察官・弁護士のお仕事を拝見し、その一部に触れさせて頂き、法律実務を学ばせて頂いた。

 修習当時にお世話になった、裁判官、検察官、弁護士の諸先生方には、毎年年賀状を出していたが、裁判官・検察官の方々は転勤が多いためか、いつしか年賀状も途絶えがちになっていた。

 ところが、今年、意外なところで、刑事裁判でお世話になったY判事と、民事裁判でお世話になったF判事をお見かけすることになった。

 Y部長(部総括判事のことを、その部では「部長」と呼んでいた。)は、厚労省村木さん事件で無罪判決を下した裁判長だった。

 Y部長は、私が修習させて頂いていた当時の刑事部でも部長を務めておられ、非常に聡明な方でありながら、バランス感覚豊かで、情に厚い方だった。「仏のY」と呼ばれているとの噂もあった。M判事・K判事補と抜群のチームワークで難事件を裁いておられた姿が印象的だ。

 万一何らかの事件で逮捕されたとして、Y部長に裁いてもらって有罪なら仕方がない、と思える方だった。実際は村木さんの事件を傍聴したわけではないが、TVでお姿を拝見し、お元気で頑張っておられる姿に、私は勝手に懐かしさを覚えていた。

 F判事は、私が民事裁判修習を受けた部の右陪席だった。部長とS判事補と3人で合議体を組んでおられた。F判事は温かい人柄の真面目な方でありながら、どことなくユーモアを湛えたお話ぶりが印象的で、非常に勉強熱心だった。当事者の言い分を丁寧にできるだけ聞いてあげようとされる姿勢と和解に於いて双方のギリギリ譲歩できる着地点を探るセンスは素晴らしかった。

 本日、大阪弁護士会での研修があった際に、その講師としてF判事が招かれ、ご講演を頂いた。暖かさの中に真面目さが感じられるいつものお声で、要点をずばり解説されるお姿は、やはり私が修習を終えた後も、研鑽と精進を積んでこられたからこそ、可能なのだろうと思った。

 帰り際に、「修習の際にはお世話になりました」とご挨拶申しあげると、一瞬躊躇されたかもしれないが、笑顔で会釈を返して下さった。もう修習を終えてから10年以上たっており、数多くの修習生の指導もされているだろうし、私もお腹が少し出っ張り、頭も薄くなっているので、分かりにくくなっていたのかもしれない。

 今年、思いがけず修習時代にお世話になった裁判官お二人を大阪でお見かけし、実は私は、素晴らしい指導者に恵まれた修習生活を送らせて頂いていたのだということに、改めて気付くことが出来たように思う。

 今の司法修習は修習期間も短いし、大阪配属の修習生は私達のころの3倍以上の数になっているので、素晴らしい裁判官・検察官・弁護士の仕事を間近で体験する可能性が少なくなっていることは残念でならない。

司法改革と裁判官・検察官の増加?

 どんなに鉄道が整備されたとしても、駅がなければ沿線住民の方は、その鉄道を利用できないだろう。また、駅があっても、1週間に数日しか列車が止まらない駅であれば、不便この上ないので、沿線住民の方もあまり利用しなくなるだろう。当たり前のことだが、このような状況が続けば、いくら鉄道を整備しても、沿線の住民の方は大して便利にならない。

 マスコミは、「弁護士を増やせ、それが司法改革だ」と、何とかの一つ覚えのように繰り返し、ちっとも取り上げてくれないが、司法改革に関して、これに似た状況が現れている。

 全国には地方裁判所・家庭裁判所の本庁50カ所と、支部203カ所が設置されている。地方検察庁もこれに対応して、本庁50カ所と、支部203カ所が設置されている。

 2010年8月の日弁連の調査によると、裁判官が常駐していない支部は全国で46カ所、法曹資格を持つ検察官が常駐していない支部が全国で128カ所存在している。例えていえば、医者のいない病院や、消防士のいない消防署ようなものだ。

 このような支部には、裁判官や検察官が他の裁判所・検察庁から出張してきて裁判が行われるが、当然その裁判官・検察官も本来勤務している場所での仕事があるから、毎日出張ではないことが多い。したがって、裁判官・検察官が常駐しない支部では、開廷日数が少なく開廷期日が入らない、開廷期日に事件が集中し十分な審理が出来るか不安がある、等の問題が出てくる。民事裁判において証人尋問等の実施率が減少の一途をたどっていることも、このような裁判官非常駐支部の存在と無関係ではないかもしれない。

この点弁護士は、弁護士ゼロの地域はなく、弁護士1名の地域(支部)もわずか5カ所になっている。ここ10年で弁護士は9700人増加しており、都会だけでなく、地方での弁護士へのアクセスもずいぶん改善されている。

 これに対し、裁判官はここ10年で600人、検察官はここ10年で200人しか増加していない。このあたりの事情は、日弁連が2010年10月に発行した「全国各地に裁判官、検察官の常駐を!~裁判官、検察官ゼロ支部の早期解消を目指して」と題したパンフレットに詳しい。

 そもそも司法改革は、市民が利用しやすい司法を目指し、弁護士だけではなく、裁判官・検察官も増員し、司法の容量を増やすことも目的としていたはずだった。

 マスコミはことあるごとに、「司法改革=弁護士の増加」を叫ぶが、三輪車のタイヤの一つだけが大きくなっても早く走れるものではない。司法改革の原点に立ち返るのであれば、当然裁判官・検察官の増員も必要になる。

 当たり前だが、現状が続けばさらに法曹三者のいびつな構造は、助長されていく。これで良いはずがないだろう。

 従前取り決めた路線で司法改革を実行すべきだと、本気でマスコミが思うのなら、どうしてこのことを大きく取り上げないのだろうか。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

閣議決定について~その2

 新司法試験合格者の増加に関する努力目標が、法科大学院など法曹養成制度の整備の状況を見定めるという前提条件を付して、閣議決定されていることは、先日のブログに書きました。

 しかし、閣議決定にどのような効力があるのか、明確ではありません。

 そもそも、閣議は内閣法に定められています。

第四条 内閣がその職権を行うのは、閣議によるものとする。
② 閣議は、内閣総理大臣がこれを主宰する。この場合において、内閣総理大臣は、内閣
 の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる。
③ 各大臣は、案件の如何を問わず、内閣総理大臣に提出して、閣議を求めることができ
 る。
第六条 内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する。
第七条 主任の大臣の間における権限についての疑義は、内閣総理大臣が、閣議にかけて、
 これを裁定する。

 このような規定が内閣法にあるのですが、閣議決定にどこまでの効力があるのか内閣法の規定だけでは分かりません。あくまで、内閣が職権を行使する場合に閣議に基づく必要があるということ、くらいです。内閣総理大臣が交代するなどした場合に、前の内閣での閣議決定が後の内閣を拘束するか全く分かりません。

 この点について、平成15年に国会で質問がなされており、当時の回答が一応参考になります。

平成十五年一月十日受領
答弁第四四号

  内閣衆質一五五第四四号
  平成十五年一月十日

内閣総理大臣臨時代理
国務大臣 福田康夫

       衆議院議長 綿貫民輔 殿

衆議院議員長妻昭君提出閣議決定(レセプト審査・支払の民間委託)の軽視に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。
 衆議院議員長妻昭君提出閣議決定(レセプト審査・支払の民間委託)の軽視に関する質問に対する答弁書
一から三までについて
 閣議決定は、法令には当たらず、一般に、これに反したとしても法令違反となるわけではないが、内閣の意思決定として、その構成員たる国務大臣はもとより、内閣の統括下にあるすべての行政機関を拘束するものであり、各行政機関の関係職員はこれに従って職務を執行する責務を有している。
 閣議決定と異なる措置が採られている場合は、各行政機関は当該閣議決定に従って必要な措置を採ることとなる。
(以下略)

 この回答によっても余り明確にはなりませんが、閣議決定が少なくとも法令ではないことが明確になっています。したがって、ある内閣で一度閣議決定された事項につき、その内閣が総辞職するなどして、新しい内閣が成立した場合、その閣議決定が後の内閣にも拘束力を及ぼすという効果は、少なくともないように思われます。

 そうすると、新司法試験合格者につき、増加させる努力目標を定めた平成14年の閣議決定は、今も効力を維持していると言っていいのか疑問があるということになります。特に民主党が政権を奪取するなど政権交代が行われた現状で、なお従前の閣議決定が効力を維持していると言い張る根拠はないように思われます。そうだとすれば、司法試験合格者の増加に関する閣議決定を金科玉条のごとく維持しようとする、増員論者の方の主張は根拠がないことになりそうです。

 ※閣議決定の問題について、憲法の基本書等を参照しましたが、明確な記述が得られず、私の考えが必ずしも正しいとは限りません。しかし、閣議決定は少なくとも法令ではないのですから、その閣議決定に後の内閣が拘束される理由はないように思います。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

日本経済新聞~福井秀夫教授へ若干の批判

 本日(10月22日)の日本経済新聞「経済教室」の欄に、福井秀夫政策研究大学院大学教授の論考が載っている。

 相も変わらず、規制緩和的発想全開で、法律専門家の資格は医師と同じで「情報の非対称」対策(資格はそれを持つ者のサービス品質をある程度保証することによって、情報の非対称を防ぐ一助となる、ということだそうだ)だから、情報を開示すればいくら(能力のない)法律専門家を増員しても良いのだと、仰っている。アメリカはそれでうまく行っているんだと主張される。

 しかし、司法制度改革審議会第5回会議に出席された藤倉教授(ハーバード大卒・英米法専攻)によると、アメリカでの弁護士選びは次の通りだそうだ。

 「それではだれが何を基準にして選ぶのか、推薦するのかということになると、もうアメリカではそういう基準もない。結局、市場で店を開いていて、これだけのお金でやりますという人を、それではこれだけのお金を払ってやってもらいましょうということで選ぶしかないという考え方が基本にあって、しかしそれは危険が大き過ぎると考える人はいろいろ問合せをしたり、友達に聞いたり、あるいは知っている法律家に聞いたりというふうなことで弁護士さんを選ぶということはもちろんあるんですけれども、そういうことができるのはある程度生活に余裕のある中産階級以上ですから、低所得者で法律問題に巻き込まれて、弁護士が要るという場合にどうするか、これはもうアメリカではちょうど医療保障制度と同じように最低限の生活保護を受けているような人のためのリーガル・サービスというのは、それは公的なものが一応あるんです(坂野注:日本にはない)。各州に任意のものもありますけれども、その部分はカバーされている。

 それから、お金持ち、あるいは大企業は選び放題ですから、十分いろんな情報を持ってて一番いいのを選ぶことができるんです。中産階級が一番問題なんです。いい弁護士を選ぶ、間違いのない弁護士を選ぶ、この問題はアメリカでもまだ解決されてないと思います。」

(司法制度改革審議会第5回議事録より引用)

 福井教授は、留学経験をお持ちのようだが、専門は行政法だし、今までの福井教授の言動の軽さ(当職の2008.11.20ブログ参照)に鑑みると、どちらのお話が真実に近いかといえば、藤倉教授の方に軍配を上げざるを得ない。

 誤導だったらいい加減やめて頂きたいものだ。

 それはさておき、福井教授は、弁護士資格についてそれはあくまで、情報の非対称対策なのだから、情報開示さえすればよく、(仮に資格者の質が下がっても)年間5000人に資格を与えても良いのだそうだ。

 しかし、福井教授は、同じく医師の資格は情報の非対称対策だといいながら、医師については、資格者の質が下がってもいいから大量に資格を与えよとは、述べていない。

 当たり前だろう。医師の質が下がれば我々の健康に直結するからだ。質を落として医師を大量生産し、自由競争させた場合、藪医者と評判が立ってその医師が淘汰されるまで、何人の被害者が出るか分からないし、その被害は看過できない。さすがの福井教授でも、そこまでの暴言を吐くまでは出来なかったのだろう。また、質を落として医師の大量生産を続ければ、藪医者が淘汰されても、次々と新しく藪医者が社会に放出され続けるのだから、いつまでたっても淘汰など終わりはしないのだ。

 そこで福井教授は医師の問題を無視して、弁護士資格にのみ文句をつける。しかし、弁護士が扱う事件だって我々の社会生活に直結するものだ。一生に一度の事件を弁護士に依頼する人も多いのだ。医師が扱う仕事と重要性において、違いはない。

 福井教授がいうように、弁護士資格が情報の非対称対策なのであれば、なおさら質の維持は必要になるはずだ。つまり、質の高い合格者が必要になるということだ。それがどうして、逆の結論になるのか。福井教授の論はアメリカでうまく行っているのだからという(思い込み?の)他は、情報開示すればうまく行くはずだという机上の空論でしかないように思われる。

 なお、福井教授は、結構あちこちで波紋を呼んでいる方らしく、国会でも疑問視されたことがあるらしい。かなり長くなるが、引用する。詳しくは原典にも当たってみて欲しい。 (中略・前略・下線部・着色は、坂野が行っています。)

(引用開始)

166-参-厚生労働委員会-23号 平成19年05月29日

○櫻井充君 おはようございます。民主党・新緑風会の櫻井でございます。
 (中略)はっきり申し上げまして、規制改革会議の問題は今回に限ったことではなく、この暴走をいい加減に止めないと、この国のその政治の在り方そのもの自体がおかしくなるんじゃないのかなと、私はこれはもうどこの委員会でもずうっと続けて申し上げているところでございます。(中略)我々は、国会議員は選挙というものを経て国民の代表者としてこの場に立っております。国家公務員の方々は、国家公務員法というその縛りがあって、そこの中で自分たちもちゃんと責任を負って働いているわけでございます。そこの中で、規制改革会議の方々は、そういうその選挙も経ていない、それからある種の責任をきちんとした形で負うようなシステムになっていない。もう少し言えば、何か不適切なことがあったとしても社会的な地位まで失墜するわけではないという方が、余りに今の構造の中でいうと権力を持ち過ぎているんではないんだろうか、私はそのように感じていて、今の政治の在り方そのものを変えていかないといけないんではないのかなと、そう思っておりますが、大臣そして副大臣としてはいかがお考えでございましょう。

○国務大臣(柳澤伯夫君) 
 (前略)改革を行う場合に、ボトムアップでできるかということになると、なかなかボトムアップでは改革というのはうまくいかないというのが通例でございまして、(中略)トップダウンのやり方が、時として、また場合によっては多用されるというような、そういうことにあると思います。
 そういうことで、いろいろ内閣の中にトップダウンのための装置と申しますか、そういうものができまして、そこでいろいろ識者が改革を進めるための、意見を言われるということが行われておりまして、(中略)いずれにしても、そうであったとしても、最終の我が国の意思決定というのはこの立法機関でございますし、また内閣としての提案というのは閣議に諮って提案がまとまって出てくるわけでありますので、その過程でかなりいろんな意見を闘わせて、昔のように役人が準備をしてきたものをボトムアップするということでなく出てきたとしても、最終のところでは内閣の閣議決定、それから立法府における法律の制定ということで進んでまいりますので、大きな枠組みは十分維持されておる(後略)。

○副大臣(林芳正君) 今、柳澤大臣から御答弁があったとおりだと私も思っておりまして、この規制改革会議の委員というのは、あくまでそれぞれの識見を持たれた方が答申をいただくと。しかし、その答申を受け止めてどうしていくかというのは、最終的には選挙で選ばれた我々、また議院内閣制における政府というものが政策決定を内閣の責任において行っているものでございます。
 櫻井委員から大変優しい言葉を掛けていただいたわけでございますが、与野党問わず、これはやっぱりどういう政策の決定をしていくのかということ、そして最終的にだれがどういうふうに国民に対して責任を取るのかということは大変大事な問題だと私も思っておるところでございまして、この審議の、規制改革会議のプロセスの中でどうしてもタスクフォース的なものの存在が、私もちょっと言葉に気を付けなければなりませんけれども、必要以上にクローズアップされているんではないかということを感じることが正直言ってございます。(中略)きちっと最終的には、今、柳澤大臣がおっしゃられましたように、内閣として最終的なものを責任を持って決めて、その上で国会にお諮りをして審議をいただくと、この原則はきちっと担保してまいる、このことが基本であろうというふうに考えておるところでございます。

○櫻井充君 お二人がおっしゃったとおりになっていれば全く問題ないんですよ。言っているようになっていないから問題なんです。これは、今与野党がというお話がありましたが、私は自民党の議員の方々と話をしても、良識のある方々は皆おかしいと、そういうふうにおっしゃっていますよ。(発言する者あり)ですよね。
 ですから、そういう点から考えると、もう一度僕は原理原則に返ってやっていただきたいんです。別にボトムアップ方式をずっとやれと言っているわけでもありません。トップダウン方式が悪いと言っているわけでも何でもありません。これは、規制改革会議というのは国家行政組織法の中のいわゆる八条に定められている八条委員会ですね。八条委員会の役割は一体何なのかというと、この人たちは意見を言うことができるということだけの話であって、その後に対してこの自分たちが言ったことをどうやって通していこうかとか、どうやって反映させていこうかとか、そういうところまで僕は権限としてないんだろうと思うんですよ。
 その点について、まず改めて林副大臣に確認しておきたいと思いますが、私のその認識でよろしいんでしょうか。

○副大臣(林芳正君) 先ほど申し上げましたように、規制改革会議は答申を出すというのが仕事でございますので、その意見を出した後、今度は我々が政府として受けてそれを決定するということでございますので、この規制改革会議のお仕事は答申を作るということであろうというふうに思っております。

○櫻井充君 そうすると、これは第九回の規制改革・民間開放推進会議の中で、福井委員が、労働契約法制の中身について、きちんと協議を受けて、細部にわたって答申の趣旨が具体的に反映されているかどうかを事前にチェックするという手続が極めて重要だと思いますと、まずこういう発言もされているんですね。つまり、自分たちの意見がちゃんと通っているかどうかもチェックしていこうじゃないかと。そして、その場合に、駄目だった場合には、要するに、いずれにしろ、労政審で決まって閣議決定され、国会に提出されると、それ以降の段階でこの答申とは違う法案ができたことが仮に判明したからといって、事後的に修正を求めるということは、多大な労力、時間等の取引コストが掛かりますので、やはり法案を出す前に、内閣として決める時点でちゃんと事前にコミットすることが手続的に極めて重要ではないかと思いますと、そういうふうにコメントされているんです。越権行為も甚だしい。
 私は、まず一つ申し上げておきたいのは、このような委員が本当に適切なのかどうかということであって、改めて求めておきますが、当委員会に規制改革会議の福井委員の参考人としての招致を求めておきたいと思います。
 そして、その上で、今のコメントに対して林副大臣としていかがお考えか、その点について御答弁いただきたいと思います。
(中略)

○櫻井充君 そういう話になると、基本的に言うと全部やれることになりますね、多分。
 教育委員会制度についても規制改革会議の中で実は議論されているわけです。ただし、これは規制改革会議の中でではないんですよ。調べてみると、規制改革会議の委員が決定される前に、新しい委員が決定される前にワーキングチームと称した会合が持たれているわけです。
 これはしかも、要するに、郵船かな、まあ草刈議長のところの会議室なんだろうと思いますが、そこで教育ワーキンググループという名前を付けられておりますが、自由討議をされるわけですね。自由討議されている内容を原案として、たたき台として、あとはメールの持ち回りで一応承認してもらって、規制改革会議の名前でこのことについても発表しているわけですよ。これは手続、全くのっとっておりません。渡辺大臣はこれは合法だというようなお話をされていましたが、大臣がそういうようなことで認めてしまうから、認めてしまうから、このようなことが何でもありでやられていっているんだろうと私は思っているんですよ。
 これは、教育再生会議の第一次報告について、それは問題があるんじゃないかということで、規制改革会議のある一部の人間が自由討議をしたんです。その上で、今度はその内容をたたき台にして、あとはメールの持ち回りの中で、会議もせずに、会議もせずに規制改革会議の一応意見として報告がされているわけですよ。なぜ彼らがそういう議論までしなきゃいけないんでしょう。
 そして、そこの中で、また、要するに我々の意見をどうやって反映させるのかということを言及しているわけですよ。これは草刈会長が、総理との見解相違があるとたたかれる可能性もあるので、渡辺大臣との会合を持ち、意見を合わせる必要があると、大臣に意見を言わせた上で、それをサポートする形がよいのではないかと。福井委員は、大臣との意見調整が利けば、流れを変えてくれる可能性もあると、まとめた見解を大臣経由で総理に訴えて山谷補佐官へ指示させる流れがよいのではないかと。大臣を経由して規制改革会議の名で出すのもいいが、逆効果になることも考えられると、こんなことまでいろいろ意見が交換されているわけですよ。こういう人たちを、こういう人たちを今までのようにやらせていいのかどうかということです。特にこの福井さんという方は、いろんな場面で顔を出してきて、いろんなことを自由に物を言ってめちゃめちゃにしていく方です。
 もっと申し上げると、彼は驚くべきことを言っているわけですよ。今のワーキンググループは、これ、公開されておりません。彼は「官の詭弁学」という本を書かれていて、そこの中で何と言っているかというと、要するに情報公開しないということ、官僚の情報公開が不足していることが最も問題なんだということを彼は言っているわけですが、彼の会議そのもの自体が実は情報公開なんかされていないんです。しかも、番記者を引き連れていって、さも規制改革会議で議論されたかのようにそのことを、たまたま番記者にその情報を提供して、それを有り難く書くマスコミがいるということが私は一番情けないことだと思いますけどね。しかし、こういう人に本当に何で委員をやらせるんですか。だから、ゆがめられていくんですよ。
 私からすれば、憲法四十一条に、国会は要するに国権の最高機関であると定められているわけでしょう。それが完全にゆがめられていますよ、この人たちによって。ですから、私はこの福井さんという方ははっきり申し上げて委員にふさわしくない、罷免させるべきではないのかなと、そう考えておりますが、副大臣としていかがでしょう。

(中略)

○櫻井充君 
 (前略)それから、今回の規制改革会議の中でおかしいと私は思うのは、本来であれば今回の規制改革会議はどういうものなんだというまず方向性が決まってから人選されるべきなのに、まず十二月にはもう内々に人選されているんですね。そして、そのまだ正式なメンバーでもない人たちが決まってから、じゃ今度は規制改革会議はどういうことなんだという方向性をこれ決めているんですよ。ですから、やり方そのものがめちゃくちゃなんです、すべてが。だから、おかしいというふうに申し上げているんです。
 (中略)そして、しかも、これは持ち回りでその見解を出されましたが、今度はその後の規制改革会議の中で、ほかの委員の方からどういうことか十分によく分からないのでちゃんと補足の説明をしてほしいということを求められて、規制改革会議の会合の中で補足説明をしております。やっていることがでたらめなんです。
 こういうことをやられたら、まじめにやっている官僚はばかばかしくなりますよ、本当に。それから、我々国会議員だって、我々は国民の代表者ですよ。我々だってばかばかしくなるじゃないですか、こんなこと勝手にやられて。そして、今の流れでいえば、この人たちが正義であって、特に御苦労されているのは歴代の厚生労働大臣ですが、さも抵抗勢力のように言われて袋だたきに遭うと。これは大臣として心労がたまるのはこれもう当然のことだと思いますね。
 ですから、そういう点でいったら、まずここの組織そのもの自体をちゃんと見直さなきゃいけないですよ。今、有識者というお話がありましたが、福井さんはなぜ有識者として認めるんですか。その根拠を挙げていただけますか。

(中略)

○櫻井充君 苦しいのはよく分かりますから、もう一度とにかく、僕はおかしいと思っているのは、規制改革会議の中の一部なんですよ、暴走しているのは、多分。それから、経済財政諮問会議もたった一人暴走している人がいてね、この人が民間委員という名前を称して四人の名前で全部出しているけれども、あれ四人じゃないでしょう、多分後ろで一人絵をかいているの、八代さんだけだと思いますがね。
 そういうことをやっていいのかということです。彼らは何の権限もないですからね、はっきり言っておきますけれどもね。何の代表者でも何でもなくて、それは皆さんが有識者だというふうにお決めになって、その有識者だと名のっているだけの話であって、例えばそれじゃ、これからその議論しなければいけない話になるんですけれども、年齢制限を撤廃しろというふうに今政府は進めているわけでしょう。じゃ、その当時、規制改革会議のメンバーだった、規制改革会議のメンバーだった、しかも今、労働政策審議会のメンバーの奥谷さんの会社のザ・アールという会社、じゃ、これは年齢制限撤廃していますか。

○政府参考人(高橋満君) 今、櫻井委員御指摘の個別の企業にかかわる状況については、今の時点では把握はいたしておりません。したがいまして、お答えは控えさせていただきます。

○櫻井充君 何言っているんだよ。あのね、ホームページ上にちゃんと掲載されていますよ、堂々と。じゃ、私がお話ししてどう思われるか、コメントを求めましょうか、そこまでおっしゃるのであれば。
 二十五歳から三十五歳って資格制限のところにちゃんと書かれていますよ、二十五歳から三十五歳と、堂々とホームページに掲載されていますよ。この方が労働政策審議会のメンバーですね、ホワイトカラーエグゼンプションをどんどん進めていって、やられている方ですね。この方は、規制改革会議のメンバーでしたね。過労死は自己責任と言った人ですよ。こういう人が本当に有識者ですか。

○政府参考人(高橋満君) 今の募集、採用にかかわって二十五歳から三十五歳という年齢を限って募集を行っておるということにつきまして、(中略)もし一定の合理的な理由というものが示されていないということになりますと、正に雇用対策法で定めております努力義務規定の趣旨に反するのではないかというふうには理解をいたしております。

○櫻井充君 じゃ、それはちゃんと調べていただけますか。
 つまり、労働政策審議会のメンバーなんですよ。そのメンバーとして適切なのかどうかということを私は問うているんですから、ですからこういうやり方をされている方、それから何回も、いつもこの委員会で問題になっていますけれども、過労死は自己責任だとか、そういうことをおっしゃっている方が適切なのかどうかということですよ。
 私は、様々な意見を持たれている方がその会議に出られることそのもの自体を否定しているわけではなくて、すべての人が同じ意見の人が集まればいいとは思っていませんよ。それは、今総理がつくられている自分のところの勉強会のあの集団的自衛権なんというのはまさしく自分の趣味、自分の意見と同じような人たちだけ集めてやっている、これがいいとは思いませんよ。
 しかし、一般的な社会常識から逸脱するような発言をされているような方からしてみると、本当にそれでいいのかどうか、きちんとした議論ができるのかどうかということを改めて考えていただきたいと思いますし、規制改革会議というのは福井さんに見られるだけでなくて、例えばいろんな規制を緩和しろと自分たちはほかの人たちに向かって言うけれども、自分たちのところはちゃんとやらない人たちが多いんですよ。宮内さんがその典型でしたけれどもね。プロ野球球団ができるときに一番反対したのは宮内さんですからね。おかげで仙台に楽天という球団ができて仙台としては良かったですけれども、結果的に見れば。ですが、ですが、あのときだって十球団にしてどうしてという、もっと一杯参入してきたらいいじゃないか、規制緩和して何とかだっておっしゃっている方ならそう言うのかなと思ったら全然違って、自分のところの利益を最優先されると。
 そういう人たちが民間委員として集まって制度をつくっているということが問題なんですよ。我々は、有権者の代表として、国民の代表としてちゃんと議論していますよ、これは。国家公務員だって、みんなどうやったら平等でというか、ちゃんと全体を見てやっていますよ。この人たちは自分たちの利益だけ考えているような人たち、やからが多過ぎるから、私は問題じゃないかなというふうに思っているわけですよ。
 ですから、そこら辺のところを、ここはお願いです。とにかく、林副大臣、改めてもう一度全部検討してみてください。そして、その上で、この規制改革会議の在り方、特にメンバーの構成、そして今までやってきているような内容について、余りに今の法制度上から逸脱しているところがあるんじゃないか、あったらそこをちゃんと是正していただくと、そういうことのまず御決意だけいただきたいと思います。

(引用ここまで)

 但し、一点だけ福井教授と同意見の箇所がある。

 法科大学院修了を司法試験の受験資格を撤廃することだ。

 そして、福井教授はこういう。

 「司法試験合格至上主義がはびこり、実務そのものを経験しない今の教育プロセスで質を保証するのは無理がある。」

 この部分は全く同感だ。

・・・・・・でも、司法試験合格者の質を問題にしないのが福井先生だったよね??

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

閣議決定について~その1

 私は日弁連法曹人口政策会議のメンバーに入れて頂いているのですが、そこで増員派の先生が仰る中で小耳に挟むのが、「閣議決定で増員の話が決まっているので・・・。」というお話です。

 そもそも、確かに平成14年3月19日の閣議決定には「司法試験合格者3000人を目指す」 という文言が入っています。しかしその内容は従前このブログでも記載したとおり、あくまで「目指す」という努力目標にすぎませんし、その前に、「後記の法科大学院を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、」という大前提が付いています。

 つまり、法科大学院等が当初期待された機能を果たしているかどうか見定めながら、新司法試験合格者の増加を考えよう、ということです。

 ここで想定されている法科大学院とは、「豊かな人間性や感受性、幅広い教養と専門的な法的知識、柔軟な思考力、説得・交渉の能力等に加えて、社会や人間関係に対する洞察力、人権感覚、先端的法分野や外国法の知見、国際的視野と語学力、職業倫理等が広く求められるいことを踏まえ、法曹養成に特化した教育を行う法科大学院を中核とし・・・・」と閣議決定にも記載されていることから分かるように、夢のような法科大学院がイメージされています。

今後の法曹には、

①豊かな人間性と感受性

②幅広い教養と専門的な法的知識

③柔軟な思考力

④説得・交渉の能力

⑤社会や人間に対する洞察力

⑥人権感覚

⑦先端的法分野や外国法の知見

⑧国際的視野と語学力

⑨職業倫理

 が必要なところ、法科大学院(夢)はそれを踏まえた法曹養成を行うのですから、①~⑨を身につけさせてくれるところなんだそうです(法曹養成制度の中核の法科大学院がそうでなければ、閣議決定に書いた意味がないでしょ)。

 いや~素晴らしい、凄いぞ法科大学院!・・・・・って、夢を見てんのもいい加減にしろ!と言いたくなります。

 どこかの法科大学院で自分とこの法科大学院生が有利になるように新司法試験問題を漏泄(に近い行為)をしたところがあったんじゃないのか?教える側が倫理を忘れて職業倫理を身につけさせることが出来るのか。そんなところで身につく豊かな人間性と感受性ってどんな人間性・感受性なんだ。それに、そもそも人間性や感受性が他人から教わって身につくものなんだろうか。それなら、同じ先生に教わっている大学法学部卒の人間は、豊かな人間性と感受性が身についているはずだが、大学法学部卒でも問題を起こす人はいるはずだ。おかしいじゃないか。 

 柔軟な思考力を身につけさせているのなら、どうして、司法研修所教官のヒアリングや平成22年の司法修習生指導担当者協議会で、マニュアル志向が強まっていると批判されているんだ。マニュアルに頼らずとも柔軟な思考力があれば起案くらいできちゃうんじゃないのか。

 人権感覚溢れる教育を受け、人権感覚を身につけたはずの新司法試験合格者にビジネスロイヤー志向が顕著なのは、何故なんだ。人権に敏感でなければならないはずなのに、刑事事件を馬鹿にする修習生がいるという報告がなされているのは何故なんだ。

 専門的な法的知識や先端的法分野や外国法の知見を身につけるらしいが、もしそうなら、平成22年の司法修習生指導担当者協議会で、自分の頭でいろいろ想定して考える訓練や基礎的な知識が不足しているのではないか、という指摘がなされているのは何故なんだ。基礎的知識が不足した状態で専門的な法的知識を教えてどうやって身につけさせるのか。因数分解もできないのに、微分・積分が分かるはずないだろう。

 新司法試験の合格者増の前提として、法曹養成制度の整備状況を見定めながら、と閣議決定にある以上、法科大学院には、合格者増を叫ぶ前に、以上の質問に答えてもらいたい。

 あ、法科大学院はきちんと教育しましたが、生徒が身につけませんでした、というのは言い訳になりませんからね。だって、厳格な成績評価及び修了認定をしているはずなんだから。

 確かに理想は夢みたいに素晴らしいけど、こんな法科大学院の状況では、いくら閣議決定があっても、新司法試験合格者3000人を目指すことは事実上不可能でしょ。

 前提条件が満たされていないんだから。

 閣議決定の法的効果についてはまた今度。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

困る場合

 弁護士をやっていて、最も困る場合の一つとして、民事訴訟を提起されている被告であるにもかかわらず、訴訟にされた、その当時のことを、全く覚えていない依頼者があげられるだろう。

 かすかな手がかりをもとに、必死で記憶を喚起させようとするのだが、これが殆どうまく行かないこともある。こんな時は大変だ。

 お医者さんで例えて言うと、

 患者「先生、どこか悪いので診て下さい。」

 医者「どんな症状がでていますか?どこがどのように調子が悪いのですか?」

 患者「とにかくどこか悪いので診て欲しいんです。」

という調子になるだろう。

 どこが痛いのか、どこがどう悪いのか患者が説明できなければ、当てずっぽうでも外見から判断したり、あちこち押してみたりして痛みを確かめたり、一般的な検査をして異常値がないか調べるなどして治療を進めざるを得ないだろうが、手を尽くしても病気の兆候が全く見られない場合は、的確な診断は実質上不可能である。

 お医者さんなら、異常は見当たらないので様子を見ましょう、という対応が可能だろうが、民事裁判の被告となると、そうはいかない。

 さらに悪いことに、大抵そのような依頼者は、人が良く、善意で対応していて、こんなことになる(訴訟提起される)とは思わなかったとのことで、殆ど証拠も残していないことが多い。そのくせ、妙に裁判所を信頼しており、裁判所は真実を見つけてくれるはずだから、自分は負けるはずがない、と信じ切っていらっしゃる方も、ときにはいらっしゃる。

 確かに裁判所が、ドラえもんの魔法の鏡でも持っていて、こすれば紛争が起きた時点の事実が鏡に浮かび上がるのであれば、話は簡単だ。それを見て判断すればいい。

 しかし、裁判所はそんな魔法の鏡を持っていない。したがって、双方の主張をきき、証拠を精査した上で、信用できると判断した証拠をもとに、どのような事実があったのかについて事後的に推論・認定し、その事実を前提に判断を下す。

 だから、証拠がないことは相当つらいのだ。さらに当時の記憶が曖昧だとなおさら辛い。こっちの主張する事実がそもそも曖昧だし、また、その事実が本当にあったのだということを示すことが困難なのだから、戦おうにも武器・弾薬がないのと同じだからだ。

 しかし、依頼者の人柄が良いからこそ、水くさい等の理由で証拠を残していない(若しくは巧妙に破棄させられた)場合が多く、こちらとしても歯がゆい思いをする。一方、原告側は訴訟を視野に証拠収集した上で提訴してきている場合が多く、証拠はかなりそろっている場合が多い。苦戦は免れない。

 ただ、そうであっても、依頼を受けた以上、全力を尽くし、少しでも依頼者の利益を実現するよう努力するのが弁護士だし、本来救われるべき方が救われるべきであるはずだと信じて戦うのが弁護士である。

 上記のような、困った方がお出でになると、いつもこのことを言い聞かせながら自らを鼓舞する自分がいるように思う。

法曹養成制度再検討~その5

(続きです)

 法務省の法曹養成制度に関する検討ワーキングチームが、法科大学院について、まとめた問題点は次の通りです。

ア 法科大学院の志願者が大幅に減少する中で、法学部の学生以外の志望者も減少しており、多様な人材を多数法曹に受け入れるとの理念に支障が生じている。

イ 一部の法科大学院において、入学者選抜の競争性が不十分であり、入学者の質の確保に問題がある。

ウ 新司法試験の合格率が著しく低迷している法科大学院があり、また、一部の法科大学院に於いて、厳格な成績評価及び修了認定を行っていない。

エ 一部の法科大学院において、質の高い教員を確保できていない。

オ 認証評価については、確認証機関の間で評価にばらつきがあり、評価内容についても形式的な評価にとどまっているものもある。

★坂野の分析

ア 法科大学院の志願者減少は危機的です。H15年度の法科大学院適性試験志願者は59393名、H22年度は16469名です。最初の年に一気に志願者が集中していたとしても、ほぼ72%の志願者減少(簡単に言えば約四分の一に減少)は、異常事態でしょう。また、前述したとおり。H18~H20の新司法試験では非法学部率は約11~23%、平成15~19年度の旧司法試験でも非法学部率は約15~23%(ちょっと古い資料しか見当たらず)なので、この資料から見る限り、法科大学院+新司法試験になったから多彩な人材が確保出来るようになっているとは到底言えない。法科大学院制度が少なくとも多様な人材確保という理念実現に、何ら寄与できない制度であることがもはや明らかになってきています。

イ 司法改革審議会意見書では、「法曹となるべき資質・意欲を持つ者が入学」するのが法科大学院とされていましたが、すでにそのような資質を持たない者まで受け入れなくては法科大学院が成り立たない現状が明示されています。これでは、法曹養成の理念実現よりも、大学経営を優先させているといわれても仕方がないのではないでしょうか。

ウ 司法改革審議会意見書では、法科大学院において「厳格な成績評価及び修了認定が行われることを不可欠の前提として・・・充実した教育を行うべきである。厳格な成績評価及び修了認定については、それらの実効性を担保する仕組みを具体的に講じるべきである。」とされていました。不可欠の前提が「厳格な成績評価及び修了認定」だったのですが、それすら満たさない法科大学院が存在している事実が明らかになっています。結局「厳格な成績評価及び修了認定」の実効性を担保する仕組みも何ら意味がなかったということになりましょう。おそらく「厳格な成績評価及び修了認定」をしてしまえば、生徒が激減してしまい、学費収入が落ち込むという背景もあるのでしょうが、もしそうなら、理念より経営を優先させていると批判されても文句は言えないでしょう。そうでないとしても、落第させたらかわいそうだという温情で、制度の趣旨を曲げることは許されないはずです。法曹の質の維持できることが法曹増員の大前提であり、法科大学院は、「法曹の質を維持できる」と大見得を切っていたのですから。
 いずれにせよ、法科大学院において、不可欠の前提とされていた「厳格な成績評価及び修了認定」ができないのであれば、法科大学院の存在意義は無いと言われても仕方がないでしょう。さらに言えば、実務家教員以外の教員の90%以上が司法試験の合格体験も、司法修習の体験もないのですから、実務法曹に必要な力がどのレベルか解らない法科大学院教員も多いのです。そのような方が「厳格な成績評価及び修了認定」をしたと言われても、そもそもどのレベルを目指すか知らないのですから、その方の言われる「厳格」は意味が無いとも考えられます。

エ 問題点として一部の法科大学院のみ質の高い教員が確保できていないと指摘していますが、現状として、特別委員会報告によれば、多くの法科大学院で、法律基本科目・先端科目の専任教員の確保が困難になりつつある、とあります。法律の基本すら教えることが困難になりつつある法科大学院って、一体どんな存在意義があるのでしょうか。教育水準の保証すら出来ない法科大学院に、多額の税金を投入する意義はどこにあるのでしょうか。

オ 司法制度改革審議会意見書では、「入学者選抜の公平性、開放性、多様性や法曹養成機関としての教育水準、成績評価・修了認定の厳格性の確保するため、適切な機構を設けて、第三者評価(適格認定)を継続的に実施すべき」であり、その「仕組みは新たな法曹養成制度の中核的期間としての水準の維持、向上を図るためのもの」とされていますが、現状では、評価にばらつきがあるそうなので、何を基準に適切な評価をすればいいのか明確になっていない可能性があります。さらに、形式的評価に止まるものもあると指摘されていますが、そんなザル評価を受けて、仮に適格認定を受けたとしても、果たして大丈夫なのか、という疑念を払拭できません。結局、第三者評価の形は整えているものの、どこまで機能しているのかは、誰にも分からない状況なのではないでしょうか。

 これら問題点についての法科大学院側の改善策(案)については、「とりまとめ」を読んで頂くこととしたいと思いますが、結論的にはおそらくその程度の改善策ではなんにも変わらないのではないかと思われる程度の改善策しか提示されていないように思います。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

独り言

 だいぶ薄れてしまったが、金木犀が香っている。

 夜、帰宅時に、鴨川を渡る際に、香りの不意打ちにあい、つい白い月を見上げつつ秋も深まってきたなと思う。

 お気づきの方も多いだろうが、金木犀は、木によって花を咲かせ香る時期が違うのか、少なくとも秋に2度は楽しめる機会があるように思う。

 最初は、秋の訪れ、2度目は秋の深まりを感じさせてくれる。

 僅か2~3週間ほどの時間差のように思うが、季節は着実に移ろい、次の季節へと急ぎ足で向かっていた、そんなことをまた見逃してしまっていた自分に気づく。

 「過ぎ去って(もしくは失って)初めて、気づくことが、人生においては、あまりにも多すぎる。」、そんな当たり前のことを、そう思って何度も悔やんだ自分がいたことを、今年も、また、この季節に再確認してしまっている気がする。

 そんな気になれるだけでも、秋っていい季節だ。

 でも、・・・・・。

 俺って、こういうことに、進歩がねえのかなぁ・・・・・。