日なたの匂い

最近あまり聞かれなくなってきたように思うが、日なたの匂いという言葉がある。

実際にどんな匂いかと問われると困るのだが、例えば、お日様に良く干した洗濯物、良く干した布団などから感じる匂いである。

秋の夕方近く、少し空気が冷たくなってきた頃、一日中干していた布団を取り入れ、ふかふかになった布団に顔を埋めると、じんわりとした暖かさと、日なたの匂いがして、安心するような気持ちになったものだ。

 実は、良く干した布団・洗濯物以外にも、日なたの匂いがするところに、私は小学生の頃に気付いたことがある。

 ところで当時、家で飼われていた紀州犬は、父親の一言で名前が「シロ」とされたメスだった。日本犬らしく忠実で、何故か散歩はたいてい私の仕事にされた。

 私は、あまり熱心に散歩をするたちではなかったが、ときには遠くまで一緒に歩いて出かけたものだ。うちの裏には、田畑があって、そのあぜ道を歩いたり、冬の田んぼでリードを外して遊んだりしたものだ。

 リードが外されて自由になると、シロは私の周りを全力で左右に走って私に飛びかかり、それを私が躱したり、身体ごと受け止めて投げ飛ばす、そんな遊びになるときもあった。もともと紀州犬は猟犬であり、その血が騒ぐのか、とても楽しそうに見えた。

 遊び疲れてあぜ道で座り込むと、シロも横に来て、お座りの姿勢をとった。

 季節は冬で、だんだん寒くなってくると、私はシロを、後ろから抱きかかえて暖をとることもした。シロはおとなしく、私に抱かれていた。

 そのとき、何気なくシロの頭の毛の中に顔を埋めてみると、日なたの匂いがした。

 じんわり暖かなシロの体温と、日なたの匂いを感じながら、何故か私は、少しばかり幸福感を味わっていたように思う。

 ときおり日なたの匂いをかぐと、シロの暖かさを想いだし、何故だか切なくなるときが、未だにある。

「てるみくらぶ」倒産についての雑感

 東京地裁に破産申立をした旅行会社「てるみくらぶ」に対する批判が強まっているようだ。

 確かに、お金を払っていながらその料金に見合ったサービスを受けられない点で被害者の方には本当に気の毒ではある。既に海外に出向かれた方々の安全な帰国を祈るばかりである。

 また、ちらっと見たTVのニュースでの社長会見の報道を見ると、報道陣から社長を非難するような質問が相次いでいるかのように見えた。
 
 それを見ながらボンヤリと考えた。
 以下、考えたことを雑感として書いてみる。

 私はごく一部の報道しかしらないし、情報に誤りがあるかもしれない。また、まとまった意見ではなく思いつきなので、誤解・矛盾等があってもご容赦頂きたい。

 誤解を招くかもしれないが、企業の倒産はやむを得ない場合がある。

 資本主義経済をとる以上、企業の倒産は避けられない。そのような経済体制を我々は是として選択していることを、まず、私達は理解するべきだ。
 特に小泉政権以降、自由競争、規制緩和の号令の下で、企業はより厳しい競争にさらされている。競争する以上、結果的には、勝者と敗者は必然的に現れざるをえない。
 自由競争社会は、敗者となるのは自己責任であり、またその敗者を選択して損害を被ったとしても、それは勝者を選ばなかったことが悪いのであって、ユーザーの自己責任である、とする考え方を含んでいるように思われる。

 果たして、競争に敗れ敗者となるのが自己責任であるとする、その考えは正しいのだろうか。

 勝者と敗者を分けるものは、一体何なのだろうか。努力すれば必ず勝者になれる社会であれば、敗者は努力しなかったということになるし、努力しさえすれば勝者になれるはずだから、勝敗は自己責任で構わないかもしれない。
 しかし、私の見る限りであるが、確かに圧倒的に努力の量で上回って勝者になる例もあるにはあるが、勝者も敗者も、その多くはそれなりに努力しているようにみえる。ただ、努力が実を結ばなかったとか、努力の方向が少しずれていたとか、たまたま勝者に運が味方したなど、不確実で気まぐれな何かによって、結果が左右されている場合も少なくないように思えるのだ。

 こう言ってしまえば、実も蓋もないが、不平等さ・不公正さを含んでいるのが世の中ではないだろうか。努力しなければ敗者となる可能性は高いが、努力したからといって勝者になれるとは限らない。また、ふとしたきっかけをつかんで勝者となるものもいる。そのような不平等さ・不公正さを必然的に含んでいるのが人の世なのではないのだろうか。
 成功している人の多くが努力していることはほぼ間違いないが、成功しなかった人・失敗してしまった人が努力していなかったとか間違っていたなどと決めつけることは誰にもできないはずだ。

 このような不平等・不公正さを内包する世の中であるならば、たまたま敗者の地位におかれたとしても、その事実だけから敗者を過度に非難することは正しいことではないように思われる。

 仕事柄、中小企業の倒産案件を手がけたことも何度かあるが、責任感が薄くさっさと破産を決定する経営者もいれば、関係者になんとか迷惑をかけないようにしようとして最後まで努力し続ける経営者の方もいる。どちらが人間的に信用できるかは、言うまでもない。

 しかし、最後まで迷惑をかけまいとして頑張る人の方が、結果的に倒産に至った際にはより多くの人に迷惑をかけてしまうという皮肉な結果になる場合が多いのだ。

 「てるみくらぶ」が行っていたといわれるキャッシュ一括払いキャンペーンを批判する意見もあるようだが、資金繰りが苦しくてキャッシュが必要な場合に、それを手に入れるための工夫をすることは、経営判断としては誤っているとまではいえないだろう。そこで得たキャッシュで会社を維持しつつ、資金繰りに奔走し、資金繰りができたのなら、その判断は正しかったことになる。一方、キャッシュを得て会社の延命を図ったものの、最後で金融機関が態度を変えて融資を断られるなどした場合にはステークホルダーに迷惑をかけることになる。
 結果論で経営判断を非難することは筋が違うように思える。

 確かに今回の倒産で被害を被られた方々は本当に気の毒であり、私自身も被害者であれば激怒しているであろうと思う。

 しかし、TV報道で見たように、報道陣が、代表者に対して見通しが甘かったのではないか、などという批判を浴びせて被害者の感情をあおる前に、何か考えなければならないことがあるようにも思うのだ。

Portrait展

先日、日弁連の代議員会に出席した。

普段はしゃんしゃんと終わるところ、珍しくいくつか意見や質問が出た代議員会だった。

その帰りに、銀座のギャラリー小柳で、開催されているportrait展を見に行った。

諏訪敦先生の作品が目当てだった。

少し分かりにくいところいあるギャラリーだが、HPの地図を参考にすればすぐ分かる。

エレベーターに乗って、降りたところが既に会場になっている。

私以外、誰もお客がいない。

諏訪先生の迫力のある大作を鑑賞するには絶好の、もったいないくらいの条件だ。

4月8日まで開催されている。

せっかくの機会をお見逃し無く。