FFⅦ エアリスのテーマ

 ドラゴンクエストと同じくらい有名なRPG(role-playing game)として、ファイナル・ファンタジーというゲームがある。

 そのファイナル・ファンタジー(FF)の第7作目に出てくる、登場人物、エアリスのテーマが私は好きである。ゲーム音楽と侮るわけにはいかない。この曲は素晴らしいと私は思っている。

 かなり記憶があやふやになってはいて申し訳ないが、確か、ゲームの中では、こういう設定だったと思う。

 悪役セフィロスが、メテオという究極魔法を発動させ、地球に巨大な隕石をぶつけ、全てを滅ぼそうとする。そのメテオに対抗できる唯一の魔法がホーリーであり、それを地上で唯一発動できるのはエアリスだった。

 仲間と離れ、一人ホーリーを発動させようとしていたエアリスは、セフィロスに惨殺されてしまう。その場面に引き続き、これまで一緒に戦ってきた仲間達がエアリスに別れを告げるシーンで使われたのが、エアリスのテーマだ。

 決して饒舌に何かを語るわけではなく、自らの行動だけで、人の勇気と誇り、人への愛を示し、自らは散っていったエアリス、そしてそれを悼む仲間達を、この曲は、この上もなく優しく包み込む。まるで音の一粒一粒が、エアリスと一緒に旅してきた仲間達にとっての、エアリスの面影・記憶のようである。その亡き人の面影・記憶が音と一体となって優しくつながり曲となっている。そんな印象すら受ける。

 オーケストラ版も素晴らしいが、私はピアノのみで演奏されたアコースティック版をとりたい。 

 私事であるが、私は先日、大学のゼミ仲間を病で失った。彼が病との戦いで見せた人の強さ、気高さは、驚嘆に値するほどだった。昨日の彼の葬儀で、私の脳裏に、この、エアリスのテーマがよぎった。

 たかがゲーム音楽と馬鹿にされず、一度お聞きされたい。 

 ※今年のブログ更新は、本日で終了致します。

思い出すことなど~駅伝

 昨日、高校駅伝・高校女子駅伝をやっていた。高校生が一生懸命、都大路を駆け抜ける姿は、京都の師走の風物詩になっている。

 今でこそ中年太りの私だが、実は中学時代は、太地中学校の駅伝の選手として東牟婁郡・新宮市の大会で走ったことがある。

 しかし私は、抜群に長距離が速いというわけではなかったと思う。種明かしをすると、私の通学していた太地中学校は、1学年2クラスしかない小規模中学校であったため、私も選手になるチャンスがあったと言うことだった。

 現在では安全の見地から太地町内の周回コースを使う駅伝大会になっているそうだが、当時は中学生の大会にしては本格的で、国道42号線を使って駅伝大会が行われていた。

 私は2区の担当だった。1区を6位で走ってきたO君が、たすきを渡すと同時に背中をぽんと叩いてくれた。

 走り出す前の緊張と心の高ぶりは、覚えているが、走っている途中に何を考えていたのか、今では思い出すことはできない。

 ただ、国道沿いの空き地に両親と父方の祖母、母方の祖父母が応援に来ていて、私の父親がカメラを片手に何かを叫んでおり、母親と祖父母がこちらを見ていたことは覚えている。後で両親に聞いたところでは、祖父母は何故か泣いていたそうだ。

 今でも国道42号線で自分の走った区間を自動車に乗って通ると、当時の記憶がよみがえる。

 幸い私は、6位を維持し5位の中学校に、あと一歩というところまで迫って、3区の選手にたすきを渡すことができた。

 後の選手の頑張りもあり、最終的には、太地中学校は3位に入賞した。選手と控えの選手には、賞状の白黒コピーが一枚ずつ配られた。そんなにきれいにコピーされていたわけではなかったが、嬉しかった。

 駅伝は、ある意味残酷である。どんなに早く走れる選手がいても一人では決して勝てない。体調が全員整っている保証もない。みんなが頑張っても、一人の不調で順位が大きく下がることもある。むしろ一人で走る方が、全ての責任は自分でとればいいのだから気は楽だ。

 しかし、だからこそ、みんなで勝ち取った勝利は素晴らしいものになるのだろう。そして勝利を得られなかったとしても、みんなで一緒に戦ったその記憶は、必ずや思い出という何物にも代え難い宝物になるはずだ。

 また、駅伝を目指しつつ正選手になれなかった選手(その数の方が多いだろう)も、残念な思いだけではなく、一つの目標に向かって必死に努力したことで、何かをつかんだはずだ。周囲は結果しか評価してくれないかもしれないし、自分でも気づかないかもしれないが、その努力の価値は、決して正選手に劣らない宝物と言っていいはずだ。

 私は、TVで応援しながら、宝物を手に入れたであろう選手たち全てを、柄にもなく、祝福したい気持ちになっていた。

草食系武士?~平家

 私は、通読したわけではないが、平家物語が結構好きだ。

 その中で、時々感じたのが、どうして平家はあのように滅びてしまったのか、源氏と並び称される武家の一門が、京の都で貴族趣味に溺れたとはいえ、義経や頼朝などに、ほぼ一方的にやられてしまったのは、何故なのかという不思議だった。

 今日NHKで、「私たち、草食系武士です。」という平家に関する番組をやっていた。その番組の最後の方だけ見たのだが、少し長年の謎が解けた気がした。

 要するに、源氏は勝つために手段を選ばない武士であり、平家はこれまでの伝統やしきたりを守って戦っていたことが、その原因の一つのようだ。

 当時、戦は自分たちの所属を明示して自分は平家なら平家の赤旗を、源氏なら源氏の白旗を掲げて、正々堂々と戦うのが、伝統でありしきたりだった。しかし、源氏軍は、赤旗を掲げて平家の軍を油断させて近寄り、そこで白旗にすげ替えて、至近距離から一気に押しつぶす作戦をとった。

 いわば、だまし討ちである。

 さらに、一ノ谷の合戦では、朝廷の停戦勧告が両軍に出されたため、平家は権威ある朝廷の勧告だから源氏も従うはずと、臨戦態勢を解除した。そこへ、停戦勧告を無視した源氏軍が鵯越の逆落としで急襲をかけたのだ。

 いわば停戦協定違反である。

 壇ノ浦では、当時戦闘に参加しない船の漕ぎ手は非戦闘員であり、攻撃を加えることは卑劣な手段と考えられていたところ、源氏は平家の船足を止めるため、積極的に漕ぎ手を狙い、平家の船の動きを封じる作戦をとった。

 いわば非戦闘員に対する無差別攻撃である。

 勝ちさえすれば、いかなる手段をとっても良い、というその発想は、私にはどうしても違和感が残る。確か、屋島の合戦の際、那須与一が扇の的を射抜いたとき、平家の武士の一人があまりの見事な与一の技を称え、舞を舞ったところ、義経は与一に命令して、その武士を射殺させたこともあったはずだ。

 例え敗れ、滅びるとしても、卑怯な手段はとろうとしなかった、平家の潔さに私は惹かれる。

大阪弁護士会63期修習生向け就職説明会

 本日の常議員会で、大阪弁護士会の63期修習生向け就職説明会の様子が報告されていました。

 法律事務所のブース設置23(午後は3事務所減って、20ブース)、企業のブース4の午前27ブース、午後24ブースだったそうです。

 就職を求めて集まった63期修習生は・・・・・、午前の部141名、午後の部152名の合計293名でした。内訳は現行63期18名、新63期275名、大阪修習144名、大阪以外修習149名だったそうです。

 確かに、就職説明会だけから判断することはできませんが、単純に考えれば、仮に各ブースが1人しか採用しないのであれば就職競争率は約11倍という狭き門になっています。

 就職難が報じられていた公認会計士については、あまりの就職難などから、オンザジョブトレーニングが極めて困難になりつつあり、公認会計士試験の合格者を減らすことになりそうだと新聞で報道されていました。

 63期修習生のこの現状は、弁護士の就職難以外の何物でもないように思えます。

 それでも、日弁連は法曹人口5万人を目指すと言い続けています。現状を見ていないのか、見て見ぬふりをしているのか、それとも、もうすぐ任期が終わるので放置されているのか、 私には分かりませんが・・・・・・・。

「新釈現代文」~高田瑞穂著

 幸いにも、新宮高校時代に良き現代国語の先生(舩上光次先生・中谷剛先生)に恵まれたこともあり、私は現代国語は相当得意な科目だった。

 現代国語は、特に参考書を読まなくても、問題集を解いていれば、そこそこの成績が取れていた。それで慢心したわけではないだろうが、一時、現代国語の成績が落ちたときがあった。なまじ得意科目だっただけに、どうすれば成績が上げられるのか分からず、大いにうろたえたものだ。

 そんなときに、まさに救世主となったのが、新塔社という聞き慣れない出版社から出されていた、この「新釈現代文」という現代国語の参考書である。

 「新釈現代文」昭和34年に初版が出版されており、当時高校生だった私が手に取ったときですら、初版からすでに25年近くも経過しているような、まさに、現代国語参考書の古典であった。
 黄緑色のカバーが掛けられたこの参考書を、受験情報誌か何かでみつけ、購入することになったのだが、実物を見てみると、参考書というには薄すぎるし、使われている日本語も古そうで、果たして本当に役立つのか不安に思えたことも事実である。

 しかし、「新釈現代文」と出会ってからは、現代国語に関して、他の参考書は一切不要だった。時折自分の現代文に対する感覚が鈍ってきたと思ったら、新釈現代文を再読すれば足りるようになった。それだけの威力があった参考書だったのだ。

 この「新釈現代文」は、入試現代文読解の最も正しく、最も有力な方法である、と著者が信じる「たった一つのこと」ただそれだけを、入試問題を材料に、じっくりと説明・解説・実践していく、異色の参考書だった。著者は、現代文に対する読者の目が開かれ、骨が飲み込めさえすれば事足りるのではないか、一旦目の曇りが晴れ、焦点の合わせ方が解りさえすれば自然と力が蓄積されていくのではないか、と考え、現代文に対する受験生の目を開かせ、焦点の合わせ方を情熱を持って指導していく。当時の東大・京大受験生の中にも、「新釈現代文」を手に取った人はおそらく多いはずだ。

 この間、書店で本を見ていたら、ちくま学芸文庫から、「新釈現代文」が復刻出版されていた。思わず懐かしくなって買ったのだが、すでに復刻出版後数ヶ月で5刷と、好調な売れ行きのようだ。

 確かに今読み返すと、「新釈現代文」が、現代思想と捉えているのはすでに「50年ほど前の現代思想」であって、今の時代の受験国語に即応するとは思えない部分もある。しかし、「新釈現代文」で語られる「たったひとつのこと」という入試現代文読解に関する方法論は、今でも十分通用するのではないかと思われる。

 現代国語に迷っている高校生がいたら是非勧めたい本である。

 ちくま学芸文庫(税別1100円)

春秋会の会報から

 大阪弁護士会には、いくつか会派があり、会派ごとに雑誌を発行している。その中の春秋会の会報第81号が、今日配布されていた。パラパラとめくってみると、宮﨑誠日弁連会長も、春秋会の会員として、弁護士40周年記念の寄稿をされていた。

 なんでも、宮﨑会長は、最近、風邪をおしてマドリッドの国際会議に出席されたそうで、そのときのことも書かれている。

(以下、宮﨑会長の寄稿からの引用)

・・・・・(前略)フランスやドイツの弁護士人口増が、英米系大事務所に飲み込まれないための国際競争力強化の国策でもあり、消費者の便利のため広がる非弁護士による法的サービス参入の動きに対する弁護士会の防衛策でもあって、大陸法系弁護士増が消費者運動の高まりに押されて、サービス産業としての変容を迫られた結果であったとの説明を受けた。・・・(中略)・・・今や弁護士の国際的な競争力は一種の弁護士帝国主義という観すらある。この動きは国際条約交渉の場ではもっと厳しく、自国の法制度を国際標準とするための戦いが、外交官に混じって法律事務所を動員して行われている。電化製品や自動車の輸出で世界に伍して戦う日本も、こと弁護士の国際競争力になると韓国にも遙に後れをとっている(後略)・・・・。

(引用終わり)

 おそらく国際会議で、宮﨑会長が聞いてこられたことだから、ドイツ・フランスの弁護士人口激増は、確かに、英米系大事務所に飲み込まれないための国際競争力強化の国策が目的だったのだろう。

 しかし、実際はどうだっただろうか。私が常議員会で頂いた、日弁連作成の「外国弁護士制度研究会中間とりまとめに対する意見書案」の、脚注には、諸外国の現状分析として次のように書かれている。

 「例えば、ドイツなど、急激に外国弁護士の活動を自由化した結果、ドイツ国内の法律事務所の国際化は著しく進展したが、大事務所の殆どが英米大法律事務所の傘下に入ることとなるに至った。」

 結果的に、ドイツは、最も警戒していたはずの英米系大法律事務所の傘下にその殆どが組み込まれているのである。そもそも、国内弁護士を激増させ、国内弁護士の力を結集して、英米系大法律事務所と渡り合うのが目的だったと思われるのに、結果は全く逆である。この状況下で、ドイツvs英米の国際競争においてドイツの法制度を国際標準としてくれといっても無理だろう。相手国の弁護士も英米系大法律事務所所属、ドイツの(大手事務所)弁護士も英米系大法律事務所所属であれば、国際標準はどちらになってしまうかは明らかだ。

 ドイツでは、かつてタクシードライバーをしなければ食えない弁護士などが報道されるなどしていたから、あまりの弁護士激増により、却って国内の弁護士全体としての力が落ちていったのではないだろうか。確かに弁護士が、今の売上水準を個々に維持しながら増加するのであれば、弁護士全体としての力も上がるかもしれない。しかし、弁護士数の増加だけに気をとられ、就職難弁護士、貧困弁護士の多数発生も委細構わず、弁護士数の増加だけに邁進するなら、日本もドイツの二の舞となるだろう。

 さすがに宮﨑会長も、その点には気付いておられるようで、次のように述べている。

・・・・(前略)といっても、法曹人口を無秩序に増やすという解決策より、まずもって、多様な専門性を高めるところから始めるべきである。そのため、法科大学院を中核とする養成制度を、韓国のように専門性を正面から問う体勢に見直す必要があるかもしれない。(後略)・・・・

 私から見れば、現在の法曹人口増大のスピードは、あれだけ口の重い最高裁が司法修習生の質の低下に言及するなど、もはや無秩序と言っても良いくらいの状態に至っていると言ってもおかしくはない。また、ロースクールの機能不全については、様々な指摘がなされているところである。

 だったら、宮﨑会長の任期中に、無秩序な法曹人口増大を直ちに止めて頂きたいし、その上で弁護士全体の国際競争力を高めるために、本当は何が必要なのかを真剣に考えて頂きたい。

 それこそが、(任期はあと僅かとはいえ)日弁連の会長たる宮﨑先生の務めではないかと、私は日弁連の一会員として思うのだが・・・・。

今年の職業講話

 私は、弁護士になった年から、中学校での職業講話を行っている。

 幸い、「もう来なくていい」といわれることもなく、大体毎年数校から、お声をかけて頂いている。感想文を頂いた場合は、大抵、子供達に一言書き添えて送ることにしており、それが生徒にとっては好評のようだ。

 中学校の他にも、高校生に対する出張授業も何度も行ったことがある。ただし、中1~高3まで、一通り授業をしたことがあるが、経験上、一番真面目に話を聞いてくれるのは、中学1年生である。

 中3以上になると、「意味もなく大人に反抗するのがなんだか格好良い」と変な意識を持つ生徒が増えてくるように思う。ひどい高校などでは、教室の一番真ん前で、最初っから寝るふりをしたりする生徒もいる。寝たふりをしているかは、質問を当てたりするとすぐ分かるのだ。

 学校の先生も注意すればいいとは思うのだが、大抵生徒の柄の悪い学校では、注意すらできていない。授業が終了した後に、「すみません、生徒の態度が悪くて」、と先生から謝られたこともあったくらいだ。そんなときでも、一応弁護士会から出向いているので、クイズ形式に切り替えたり、雑談を挟んでみたり工夫をして、なんとか授業は続ける。しかし、一部の生徒はどうしても態度を改めない場合もある。

 私は個人的には、外部の講師に対しあまりに失礼な態度をとるのであれば、講師の側にもそれ以上講義をしない自由があっても良い、と心の底では思っている。生徒として最低限の礼儀を守らない者に対して、講師が迎合する必要はないと考えるからだ。

 幸い、今日は、礼儀正しい中学生が職業講話を聞いてくれた。弁護士の仕事の内容や、そのやり甲斐、困ることなど、嬉しかったことなど、できるだけ本当のことを話してきたつもりだ。

 しかし、その子供達が、将来弁護士になろうと考えたとき、果たして弁護士が魅力的な仕事として彼らの目に映っているだろうか。いくらやり甲斐があっても、就職すらままならない職業、生計を立てられる見込みすら危うくなっている職業であれば、弁護士という職業を子供達が目指してくれる可能性は決して高くはないだろう。また、仮に弁護士を目指してくれても、就職もできず、生計すら立てられない状態に陥ったとき、この子供達は、私の職業講話をどういう思いで、思い返すのだろうか。

 弁護士という仕事の素晴らしさ、やり甲斐等(これは確かに本当である。)を説きながらも、私は、「頑張って弁護士を目指して欲しい」と、純真な中学生諸君に心の底から言い切れないことが、なによりも、悔しかった。

法律相談担当者としての実感

 今日は、大阪弁護士会のなんば法律相談センターでの、サラ金相談(午前の部)に行ってきた。

 相談件数は4件、守秘義務があって内容は話せないが、サラ金相談でありながらサラ金案件の相談は0件だった。サラ金案件については、大手事務所や司法書士事務所の広告攻勢で、弁護士会への相談が相当減っていることが窺われた。

 先日は、大阪弁護士会の千里法律相談センターの相談に割り当てられていたが、予約が一件もないということで、当日キャンセルの連絡が入った。そのために仕事の予定を空けていたのだが、ぽかんと時間が空いてしまい、大学での講義のための予習などに時間を割くことができた。千里の法律相談センターからキャンセルされたことは複数ある。

 私の実感としていうならば、法律相談の件数は減少傾向にあるのではないだろうか。確かに地方自治体の無料法律相談は、そこそこ盛況だ。しかし、法律相談とは言えない身の上相談や、(悪い意味での)リピーターの相談も多く混じっており、本当に弁護士のニーズが拡大しつつあるという実感は、私の担当する数少ない法律相談の体験からすれば、どうしても持てない。

 しかし、弁護士会執行部は言う。「ニーズはある。法の支配実現のために、弁護士数はもっと必要だ。」

 だが、本当なのだろうか。

 本当に国民の皆様が、弁護士に依頼したくても依頼できない状況がそんなにあるのだろうか。別に弁護士に依頼しない話し合いの解決であっても、自分たちで解決できる案件は、弁護士にとってはニーズだが、国民の方にとっては、弁護士に依頼すべき案件ではないのではないか。

 そのような案件ですら、弁護士により解決されるべき案件だと勝手に決めつけて、弁護士会執行部の「法の支配の実現」という旗振りの下、解決のためと称してしゃしゃり出ようとするのは、それこそ、おせっかい、大きなお世話の類に他ならないように思われる。

 本当の国民のニーズとは何か、弁護士の視点ではなく、真剣に国民の皆様に聞いてみる必要があるのではないだろうか。

弁護士の、社会生活上の医師としてのニーズ

 日弁連執行部は相変わらず、法曹人口5万人目標(しかも、5万人達成後も増加させる方針を考えているように聞きますが・・・)を維持している模様です。

 そもそも、なぜ法曹人口が5万人必要なのか、5万人という数字をはじき出した根拠すら明確ではないのですが、日弁連執行部は閣議決定にも記載されていないこの数字を、墨守しようとしているようです。

 法曹人口5万人を目指すことを決めたH12.11.1日弁連臨時総会決議の際に、日弁連執行部は、「法曹一元(弁護士から裁判官(判事補)を任命する制度とご理解頂いて結構です。)のため」に、というお題目を唱えたことは何度かこのブログでも紹介させて頂いたとおりです。

 しかし、法曹一元は進んでいないばかりか、法曹一元に向けた積極的取り組みも日弁連ではなされていないようです。悪くいえば、日本の弁護士たちは、「法曹一元のため」という日弁連執行部が唱えた目標に、まんまと騙された格好になっています。

 そればかりではありません。

 当時の平山日弁連副会長は次のように述べています。

 ・・・・・5万名問題ですが、、これは、ここで我々が5万名が適切だというふうに書いている趣旨ではございませんので、このシミュレーションで行きますと、これだからこういうものが出ていて、それについて、我々としては今不足しているということは間違いないんではないかと。ですが将来、例えば3000名がどういうふうに計画的に、法曹養成制度ががっちりできて計画的におやりになるわけですから、それでその質が維持できてどういうふうに増えていくかということは分かりませんけれども、それで5万名程度に達するというのが、法曹一元を考えてみますと、例えば裁判官を4000人出すということになりますと、分母としてはやはり4万名くらい必要ではないかというようなことは議論しておりますけれども、それ以上は、吉岡会員に回答しましたように、これから、2010年、2020年の社会の人口構成とか、世界経済の中での日本の経済の立場とかいろいろなものを考えてそのときに決まっていくのではないかと。・・・・・・(臨時総会議事録p25~26)

続けて、当時の久保井日弁連会長はこのように述べています。

 ・・・・・マーケットとか、需要とかそういうものが法曹人口の一つのファクターになってくるということは、これは否定できないだろうと思います。それにはその時代、その時代の必要数をどのように確定していくのかということについては、大変これという定量的な算術的方法があるとは思えないので、その時々における国民の声を聞きながらいろいろな角度からそれを推測、認定していくということにせざるを得ない。弁護士会も当然、その中でその時点における事件の処理状況、法律相談とか様々な活動状況を見ながら、国民に対して適切な参考意見を提供していくという責務もあると思います・・・・・・・(議事録p26)

日弁連執行部自体が、5万人は確定の数字ではない、変わりうる数字であると明言しているのです。

 それがどうして、今の日弁連が5万人という数字の維持に躍起となるのか、私には理解できません。日弁連執行部の5万人維持の姿勢は、将来的に消費税が10%になる可能性があるとだけ言っていながら、どんなに状況が変化しても(極論すれば消費税率を上げる必要性がなくとも)、消費税を10%にする可能性は示唆したじゃないか、だから10%以下は認めないぞ、と開き直るのに似ています。悪くいえば、日弁連執行部の会員に対する裏切り行為ではないでしょうか。

 国民のニーズがあると日弁連執行部はいうのかもしれません。しかしその根拠はどこにもありません。きちんと調査されたことも、示されたこともないようです。国民のニーズがあるはずだ、と日弁連執行部が誤解しているだけかもしれないのです。

 確かに弁護士には、社会生活上の医師的な役割が期待されている部分があると思われます。

 しかし、一般の国民の方が、医師に病気を診てもらう回数と、事件があって弁護士に相談する回数を比較した場合、医師に診てもらう回数の30分の1の割合でも、弁護士に相談する人必要のある人は、おそらく希でしょう。

 弁護士のクライアントは個人だけではないし、仕事も違うので物凄く乱暴な比較になりますが、百歩譲って、医師に診てもらう回数の10分の1の需要が弁護士にあるとしても、弁護士の人数は医師の10分の1あれば足りることになります。

 現在医師の数は約28万人、弁護士の数は、今年登録する見込みの者を含めれば約29000人になります。すでに、弁護士の数は医師数の10分の1を上回ろうとしています。

 先日、政権交代に関するNHK特集が深夜に再放送されていました。そこで、野中広務氏が、概ね次のような内容の、実に印象的な発言をされていました。

 「高邁な政治思想なんてありはしない。その場その場の難局をどう切り抜けるか、それだけだった。」

 政治的闘争に明け暮れた自民党は民意を見失い、政権交代により野党へと追いやられました。日弁連執行部が、当時の自民党執行部と同じ過ちを繰り返していなければいいのですが。

さらに就職難情報!?

 日弁連メールマガジンが届きました。

 そこには、ひまわり求人求職ナビという、職を求める弁護士・司法修習生が登録してマッチングさせるサイトの情報が載っています。

 ◆求人情報
法律事務所   95件
企業・団体   18件
官公庁    7件

◆求職情報
修習生   723名
弁護士  10名

単純に計算すれば、募集120件に対し、応募733人か、う~む相当ひどい状況だな、と思っていたら、すぐ後に訂正のメールマガジンが日弁連から届きました。

(以下そのメールマガジンから引用)

本日12/1(火)配信メール「弁護士白書2009年版を発行しました!」
(JFBA通信 No.49(通算No.136))にて一部表記に誤りがありました。

下記の通り訂正致します。

メール再配信となりましたことを深くお詫び致します。

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  5.ひまわり求人求職ナビ登録数

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「ひまわり求人求職ナビ」の登録数(12月1日現在)

◆求職情報
修習生   1152名
弁護士  17名

日本弁護士連合会 広報室

(メールマガジンからの引用終わり)

ちなみに、昨年12月15日時点でのひまわり求人・求職ナビに登録されていた方は、約270名でした。登録している人が全て求人中なのか分かりませんが、わずか1年でこの有様では、就職戦線は既に崩壊しているように見えます。

 一方、本日開催された常議員会で、畑大阪弁護士会会長に、日弁連の法曹人口に関する委員会の動きをお伺いしたのですが、日弁連は5万人目標は堅持する方向で考えているらしいことが分かりました。 現在の弁護士数は約27000人です。

 この現実を、日弁連執行部及び、増員推進派の方は、どうお考えなのでしょうか。

 責任をとって下さるのでしょうね?