正解のない課題

 私は、関西学院大学の法学部と、大学院法学研究科で非常勤講師を勤めさせていただいている。

 法学部では司法実践演習という科目名で演習を担当している。個人的趣味もあるのだが、動物(ペット)と法律の関係などを題材に使って、演習を行っている。

 この司法実践演習では、出席して議論してもらうのが主眼なので、出席点がメインとなるが、それでは点数が足りない人の救済の意味も込めて、レポート課題を毎年課している。

 課題内容は、最高裁判例解説に掲載されている、ある判例について書かれた最高裁調査官の解説内容に対して、貴方なりに批判的に論評せよ、というものであり、10年以上前から同じ形式で課題にしている。

 ご存じのとおり、最高裁調査官は、裁判官の中でも相当エリートに属する優秀な方が務めるものとされており、裁判官出身の最高裁判事にはその経験者が多いといわれている。

 そのような切れ者の調査官が書いた解説に対して、一介の学生に批判させるなんて、いわゆる無茶ぶりのような課題じゃないか、と思われる方も多いだろう。

 もちろん、「貴方なりに」と記載してあげていることからわかるように、それぞれの学生さんが、自分なりにきちんと筋道立てて論評していればそれでよいのであって、正解は存在しない。

 正解の存在しない課題に意味があるのか?と考える人もいるかもしれないが、私には、正解などなくても、学生さんに敢えて最高裁調査官の解説について立ち向かってもらうことに、狙いがある。

 相手の権威や肩書にとらわれることなく、自分で考え、自分で判断してほしいという狙い(願い)である。

 相手が高名な学者であるとか、政府関係の有識者であるなど、何らかの権威を持つ人(いわゆる偉い人)が発言したような場合には、人間は弱いもので、自分で考えることを放棄して、その人の言うことを鵜呑みにする場合がある(多い)のだ。考えることを放棄して他人の言うことに唯々諾々と従っていたのでは、何が正しいのかも分からなくなり、何の是正もできなくなり、大げさに言えば民主主義は崩壊する。

 特にこれからの未来を担う学生さんには、肩書に惑わされることなく、自分自身で考え、自分の内的基準に照らし、是は是、非は非として判断できるようになってもらいたいのだ。

 そもそも、政府の有識者会議だって、私から見ればの話だが、かなりのものが茶番である。最初の人選の場面から、政府の意向を実現する方向の委員が選ばれる傾向にあるのだから、有識者会議の結論などほとんど、政府の意向通りになることは、目に見えている。

 時折、最初の見込みと違って、政府の意向に真っ向から反対する委員が混じってしまう場合もあるようだが、そのような場合でも、安全弁がちゃんとある。 

 多くの委員会では期限が設けられていたり、委員の任期が決められているから、その期限が来ればその委員会は終了したものとして解散させたり、委員の任期が来るまで我慢すればいいのである。そして、ほとんど同じような名称で違う委員会を立ち上げたり、再任する委員から反抗的な委員を外すなどして、政府の意向に沿わない委員を排除してしまえばいいのである。

 法科大学院に関する法務省・文科省の会議などにおいても、法科大学院擁護派がずらりと顔をそろえていて、反対派といえる委員の方は、私の見る限り一人もいないように思う。

 かつて、和田吉弘弁護士(元裁判官・元青山学院大学法科大学院教授)が、法曹養成制度検討会議で明確に法科大学院制度を批判されたが(批判内容は、「緊急提言 法曹養成制度の問題点と解決策」~花伝社)、和田先生は、その後委員として再任されることはなかったはずだ。

 法科大学院を維持する決意を持った人だけで議論すれば、現実には、どれだけ法科大学院に問題があろうと、法科大学院制度維持の結論になるに決まっているではないか。

 そもそも、有識者会議の本来の目的は、政府の意向にエビデンスを提供するためのものではなく、賛成派・反対派も含めて議論を重ね、より良い解決を目指すものではないのか、と私は思うのだが、どうも現実は違うようなのだ。

 私に言わせれば、発足以来20年近くたっても、未だにその教育内容の改善を議論しなければならない法科大学院制度など、失敗の最たるものだと思うし、同じような顔ぶれの委員が雁首揃えて何年も議論しても、まだ改善ができないという有様なのだから、(学者や実務家としての能力はともかく)当該委員たちが少なくとも法曹養成制度の改善という問題に関して無能であることは、既に明らかだと思うのだ。

 例えば、民間の企業で大規模な改革が必要だと主張して、何名かの幹部が鳴り物入りで改革に着手したものの、20年近くたっても成果は出せず、未だにその改革方法について改善すればうまくいく、と言い張って、制度をいじろうとしていても、その言葉を誰が信じてくれるのだ。

 その幹部を全員、さっさと首にして、現実をきちんと把握でき、現実に対して本当に対処できる人間を代わりの幹部に据えるほうが、よほど健全な企業といえるだろう。

 話が少し脱線してしまったが、なぜこのようなお話をブログに書いたのかというと、瀧本哲史氏の「2020年6月30日にまたここで会おう」(星海社新書)を先日読んだからである。

 私は、瀧本氏ほど優秀明晰な頭脳はないし、明確に若者に伝える術も持たない。もちろん瀧本氏と何の面識も持っていないが、大変僭越な話なのだが、私がゼミの学生さんに伝えたいと考えていたことは、瀧本氏が新書で熱く語っておられる内容と一部重なる部分があるようにも感じられた。

 なお瀧本氏は、昨年8月に病没されたとのことである。

 若い方だけでなく、教育に携わる方、若い人と話す機会が多い方には、是非一読されるようお勧めする新書である。

 私も今年の6月30日には、もう一度、上記の新書を読み直してみようと思っている。

無理して弁護士数を増やす必要はない

 日弁連や大阪弁護士会は、弁護士の利用が浸透しない理由として、弁護士数が少ないとか偏在があるなどという点を上げたりすることが多いように思う。

 しかし現場の感覚としては、既に弁護士は多すぎるように思う。

 当事務所に来られたお客様にお聞きしても、ネットで調べたら弁護士がたくさんありすぎて、困ったと仰る方が多いのだ。

 つまり、弁護士数が足りないから選べないのではなく、弁護士の情報がありすぎるし、基本的にどの弁護士もインターネットでは良いことばかり書いているので、結局どの弁護士を選んだら良いのか分からないという状況だったという方が多い。

 これまで弁護士をどんどん増やして自由競争させろと、規制改革会議やマスコミも言ってきたが、自由競争とは、お客が提供されるサービスの質を的確に判断できることが大前提である。そうでなければ自由競争によってよい弁護士が選ばれて生き残るということにならないからである。

 そして、弁護士の質は正直言って一般の方には判断できないと思われる。我々同業者であっても、書面を一見しただけでは、弁護士の質を判断することは容易ではない。
 一見ひどい内容の準備書面しか提出してない弁護士であっても、無理筋の事件をボスから命じられるなどして引き受けさせられてしまい、止む無く内容のない書面しか提出できない場合だってあるからだ。

 これまで、マスコミや学者は、弁護士資格をどんどん与えて弁護士も自由競争すべきだと主張し、一般国民の方もその論調に流されてきたように思う。

 しかし、マスコミも学者も、医師だって資格に甘えるべきではないから、医師資格をもどんどん与えて自由競争すべきだ、とは言わない。

 それは、医師資格を濫発して医師にも自由競争を持ち込めば、実力不足の医師が淘汰されるためには、当該医師が医療過誤を頻発して多数の被害者を出さなければ淘汰に至らない。つまり自由競争が成立する過程で多くの被害が出ることが、一般の国民の皆様にも容易に分かるからである。

 そして、仮に多くの犠牲の上に実力不足の医師が淘汰されたとしても、自由競争の名目で医師資格が濫発され続けた場合は、実力不足の医師がさらに医師界にどんどん入り込んでくるから、いつまで経っても淘汰など終わりはしないのである。

 医師と同様に、実力不足の弁護士を大量に生み出せば、一般国民の皆様に与える被害は甚大となる。

 しかし、一般の国民の皆様は、自分が弁護士を利用する機会を容易に想像できない、若しくは自分が弁護士を利用することになる事態に陥ることがあるなどとは思ってもいないため、マスコミや学者がいうところの、弁護士も自由競争すべきだとの主張に流されてしまって、現在の状況に至っているように思う。

 そこが、マスコミなどの狡いところでもある。

 一般の国民の皆様が判断が困難な場面においては、国が資格を与える際にきちんとその実力を計り、国民の皆様にご迷惑をおかけしない実力を持った者しか資格を与えるべきではないのである。

 そうだとすれば、司法試験受験者(途中欠席せず最後まで受験した者)が僅か3664名にすぎないのに、閣議決定で示された1500名に近い1450名も最終合格させている(受験者の平均点以下の得点でも合格できる)司法試験委員会は、資格を与える時点での選別をきちんと行っていないと言われても仕方がないであろう。

 そんなはずはないと仰る方は、現状の短答式試験と平成元年以降の短答式試験を比較してみれば分かるだろう。

 法務省が明らかにしているように、現状の短答式試験は基礎的な問題に限定されて出題されている。
 「その出題に当たっては,法科大学院における教育内容を十分に踏まえた上,基本的事項に関する内容を中心とし,過度に複雑な形式による出題は行わない。」と明言されているのだ(平成30年8月3日 司法試験委員会決定)。

 つまり昔の短答式試験問題よりも簡単にしているのだ。

 そして昔の短答式試験では、ほぼ75~80%以上の得点をしなければ合格できない試験であり、そこで5人に1人くらいに絞られ、その短答式試験に合格した者達だけで競う論文式試験でさらに6~7人に1人に絞られたのである。

 確かに、現在の短答式試験は論文式試験と同時に行われるから、現行受験生の方が負担としては大きいともいえる。とはいえ、出題が基礎的な問題に限定されているのなら、やはり75~80%は得点して欲しいところだ。

 175点満点で80%の得点率なら、140点、これを上回った受験生は270人にすぎない。

 同じく75%の得点率なら131.25点、これを上回った受験生は566名しかいない。

 しかし、昨年度の司法試験最終合格者は、1450名なのである。

 もはや、弁護士バッジを当てにすることができない時代が来ているのかもしれない。

 それでも、弁護士数の増加が必要なのだろうか。

餃子の王将出町店、10月末閉店の報道。

「なんやこの書面は!」
「ご指示通り、訂正しました」
「全然直ってへんやないか!」

その日の半年ほど前から、このような会話の後に、私は、
「申し訳ありません、やり直します」
と答えていた。

しかし、その日は、私の我慢も限界に来ていた・・・・。

 もう20年近くも前になるだろうか。

 私がイソ弁時代のことである。

 私はボス弁3人の事務所に一人目のイソ弁(勤務弁護士)として入所したのだが、ボス3人がそれぞれ独立して事件をこなしている中、3人からあれこれ仕事を振られる状況だった。3人ともやり方が違う上に、それぞれが急ぎだといってくるので、1人のボスの仕事を片付けていると、他のボスが頼んだ仕事はまだかとせっつくなど、対応がとても困難だった。
 そこで要領悪くバタバタしていた私が気に食わなかったのか、ある時期から、1人のボスから何かにつけて(私から見ればだが)過度に叱られるようになった。

 もちろん相手はベテラン弁護士なので、新米弁護士のアラなど、探せばいくらでも出てくる。
 それをいちいち取り上げて、叱られるようになったのだ。叱られていないときはたいてい無視である。

 ボスの書面を指示通りに直せば、「工夫がない、事務員で足りる」と言われ、指示を私なりにより良いと思う表現に変更すれば「指示を守らんで、何をしている」と言われ、そのくせボスが提出する書面には私が変更・訂正した表現や理屈を使っていたりする場合が何度もあるなど、私はどうすれば良いか分からなくなり、相当精神的に疲弊していた。1人のボスは同情してくれて優しい言葉を掛けてくれたが、それでストレスが解消されるものでもなかった。

 今の時代であれば、パワーハラスメントに近いボスの行為だったと思うが、正直言って、事務所に出ること、通勤電車に乗ること、朝起きること、そして朝起きるために寝ること、その全てが辛く、そして嫌になっていた。

 ある日、駅の階段の上り下りもきつくなり、医者に行くと、肝臓の検査結果の数値が相当悪くなっているということで、強く入院を勧められた。原因はストレスではないかということだった。

 私はもう限界に近づいていた。

 もちろん、私の人間としての未熟さがあったとは思うし、社会人としては失格だったかもしれないが、ついに言ってはいけない言葉を返してしまったのだ。

 私は、ボスに対し「申し訳ありません、やり直します」と答えず、

 「いいえ、これが先生のご指示通りの訂正です」

 と答えてしまったのだ。

 思いがけない反応だったのか、ボスの顔色がさっと赤くなり、「そんな指示、わしが出すはずない!」と怒気を孕んだ大きな声が返ってきた。迫力はあった。

 しかし私も限界に来ており、もう引くに引けなかった。私は、ボスが私に渡した訂正指示の書面を、「これがご指示です」とボスの目の前に突き出した。

 その後のやり取りは、良く覚えていないが、立ったままでボスから叱責を受け続けていると、猛烈な吐き気を催してきたので、「スミマセン、ちょっと吐いてきます」とトイレに向かい、さんざん吐いた記憶は残っている。

 もう私は、疲れ切っていた。もう弁護士としては、やっていけないかもしれないと思った。苦労して司法試験に合格したのに、今の現実がとても悲しかった。

 人間とは不思議なもので、そんなときでも、理性は働く。事務所を出たあと、食欲はなくとも食べなければ、もっとダメになるという思いが私にはあった。

 私は、帰宅時に立ち寄った、いかにも職人さんという感じの店長さんがやっている中華の店のカウンターで、ジンギスカンとご飯を注文し、出てきた定食を食べていた。

 店長さんは、店長と呼ぶより大将と呼ぶ方が似合うような、また、そう呼びたくなるような方だった。私が黙ってお店のドアを押し開けたときは、学生に人気の店とはいえ、決して綺麗とはいえないお店であり、時間も遅めだったこともあり、客はそう多くはなかったと記憶している。

 普段は好きなジンギスカンもあまり味が感じられない気がしたが、薬のつもりで私は食べ始めた。

 半分くらい食べた頃だったろうか、俯いて、ぼそぼそと定食を食べていた私の前で、コトッと小さな音がした。
 顔を上げて見てみると、揚げたてで湯気の立っている唐揚げが2個、小皿に載っておかれていた。

もちろん私が注文したものではなかった。

「あの・・・」

「あ~、ええから。ええから食べ。」

 注文の間違いではないか、と言おうとした私に、大将は、片頬で笑みを一瞬だけ浮かべただけで、それ以上何も言わず、いつもの職人さんのような顔で、次の調理作業に戻っていった。

 おそらく、はたから見ても私は、相当しょぼくれて、消耗していたのだろう。

 大将は、そんな私を、私が一介の客であるにも関わらず、見過ごすことができなかったのだろう。

 そんな大将の優しさは、そのときの私には、とても、とても大きく有り難いものだった。私は、本当に久しぶりに、人には優しさがあるのだということを思いだした気がして、唐揚げを頬張りながら、他の客に見られないように嗚咽をこらえて、鼻をすすり、小さく涙を拭った。

 そして、少しだけ頑張ってみようという気持ちを、心の中になんとか、小さいながらもかき立てることができたような気がした。

 支払いのときに、私は「有り難うございます。お陰様で、もうちょっとだけ頑張れそうな気がします。」と少し鼻声になりながら、正直に感謝の気持ちを伝えた。

 大将は小さく頷いて、「がんばりや」とだけ言ってくれた。

そのお店が、「餃子の王将」出町店である。

 お金の無い学生さんに、30分皿洗いすればお腹いっぱい食べさせてくれる制度をずっと続けていたお店であり、私の知っている限りずっと大将は同じ方だった。

 そのお店が、今年の10月末で閉店するという報道を新聞で読んだ。

 大将のお名前が井上定博さんである、ということもその記事で初めて知った。
 

 閉店までにもう一度行ってみたい。
 行って、ジンギスカンを注文し(今では、餃子もつけても良いかな、という不敵な考えもある)、「お陰様でなんとか頑張れています」と伝えたい。

 こういう気持ちは私の中で強くあるのだが、また、あのときのように大人げもなく涙ぐんでしまうのではないかという、他人には言いにくい恥ずかしい気持ちもあって、私の心は揺れている。

後記:「出町柳店」ではなく、「出町店」が正しいようなので訂正しました。

よくある相続の落とし穴① ~母親に相続させるために子供が相続放棄をする場合~

この記事は、当事務所HP(https://www.win-law.jp/)のブログに掲載しておりますが、皆様の参考になるかもしれないと思い転載するものです。

(相談者A、弁護士S)

A:先生、先日父が亡くなってようやく最近落ち着いてきたのですが、ちょっと相続放棄でご相談したいことがあるのです。

S:お父様は急に亡くなられたとお聞きしたので、いろいろ大変だったでしょう。相続放棄ということは、お父様に借金などがあったということなのでしょうか?

A:いえ、いえ、父は堅実なタイプなので、相当額の資産を残してくれていますし借金もありません。ただ、私も弟も事業がうまくいっていますし、経済的にも問題がないので、兄弟2人で相談した結果、全部母親に相続してもらおうと思っています。父の弟の叔父さんが親切にも相談に乗ってくれ、「それなら相続放棄が簡単でいいらしいぞ」、と教えてくれましたので、相続放棄の手続きをお願いしようと相談に来ました。

S:それは、大変! Aさんの叔父さんは、お金に困っているのではありませんか?Aさんのご親戚のことを悪くいいたくありませんが、相続の落とし穴が仕掛けられている可能性がありますよ。

A:ええっ!どういうことでしょうか!?

<解説>

 確かに、父親が亡くなって、母親と子供2人が相続人である場合に、子供2人が相続を放棄すれば、全て母親が相続できそうにも思えます。母親を大事に思って母親のためにと思い相続放棄を考えている人もいるでしょう。

しかし、それは大きな勘違いです。子供2人が相続放棄をしたばっかりに、別の人間が関与してきて、紛争が起きてしまうこともあるのです。

 つまりはこういうことです。

 相続放棄をした場合、「相続放棄をした者は、その相続に関して初めから相続人とならなかったものとみなす」と扱われます(民法939条)。要するに、父親の相続に関して母親と子供2人が相続人である場合に、子供2人が相続放棄をすれば、父親の相続に関しては、子供2人はこの世に存在しない状態として扱われてしまうです。平たくいえば、子供のいない夫婦がいて、その夫が死亡した状態と同じものとして扱われるのです。

 子供のいない夫婦がいて、その夫が死亡した場合、妻は当然に相続人ですが、子供がいないため、第2順位として夫の両親(相続分は妻が2/3、両親が1/3)が法定相続人になってきます。夫の両親が既に死亡している場合は、第3順位として夫の兄弟姉妹(相続分は妻が3/4、夫の兄弟姉妹が1/4)が法定相続人となってきます(民法889条)。

 以上から、Aさんのケースは、母親と子供2人が相続人である状況ですから、子供2人が相続放棄をした場合には、子供がいない夫婦の1人が死亡した場合と同様に扱われ、Aさんの亡父親の兄弟姉妹が相続人として名乗りを上げてくるということになるのです。

 相続放棄は撤回ができません(民法919条1項)から、Aさんと弟さんが相続放棄をした後で、叔父さんが「わしも相続人なのだから遺産の1/4をよこせ」といってきても拒めない、というかなり悲惨な状況が想定されます。

 親孝行のつもりで相続放棄をしたばかりに、思いがけない相続人が財産をよこせといってくる根拠を与えてしまうこともあります。

 相続放棄をする際には、必ず弁護士さんに相談した方が良いでしょう。

 大阪弁護士会所属 弁護士 坂野 真一

児童ポルノ所持と自首

 児童ポルノ大手販売サイトの摘発報道がなされてから、児童ポルノ所持罪が心配になって相談に来られる方が、当事務所にも複数いらっしゃる。

 そのような方から聞いた話だが、児童ポルノ所持について相談すると、逮捕される可能性があるなどと相談者をビビらせて、自首を勧め、自首に同行する費用として高額の弁護士費用を要求する弁護士がいるとのことだ。

 ある相談者の方は、捜索差押や逮捕を避けるには自首したほうがいい、自首のための上申書作成と自首のための弁護士同行で、あわせて80万円もの弁護士費用が必要だと弁護士にいわれ、とてもそんなに払えないということで当事務所に相談に来られていた。

 確かに、児童ポルノ所持とはいえ犯罪態様によっては、自首を選択したほうがいい場合もあるだろう。しかし、児童ポルノ所持にも様々な態様がある。私のお聞きした相談者の方の事件内容であれば、あえて自首をする必要までは認められないと思われるものだった。

 また、自首したから絶対に逮捕されないとか捜索差押えを受けないという保証はないし、正式に自首として受理されれば、自首の手続きは告訴に準じるから、自首を受理した場合、刑訴法245条・同242条により司法警察員は速やかにこれに関する書類及び証拠物を検察官に送付しなければならないことになり、却って捜索差押を誘発する契機にもなりかねなかったりもするのである。

 もちろん、TV番組でもよくあるように弁護士によって判断・意見が異なることはありうるから、私の見立てが絶対に正しいとは言わない。
 しかし、少なくとも私が相談に応じた事案は、自首する意義がほとんどないと思われるような事案であった。

 私に言わせれば、このような事案で自首を勧めることは、一般の方に分かりやすいように病気に例えるならば、まったく虫垂炎の気配もなく、今後も特に問題は生じるとは思えない状態であるにもかかわらず、敢えて将来的に虫垂炎になる可能性を医師が指摘し、それを聞いて、「虫垂炎も手遅れになれば死にますよね」、と必要以上にビビっている相談者に対して、健康保険が適用されない自費診療での高額な予防的虫垂摘除手術を勧めるようなものである。

 とはいえ、このような手術を勧めても、違法ではないだろう。

 医師としては屋上屋を架すことになっても、念には念を入れて虫垂炎の心配を取り除くほうが良いと考える場合もあるだろうし、虫垂炎になってから手術をしても十分間に合うものの、高額の手術料を支払っても虫垂炎になる心配を失くしておいたほうが気が楽だという人も、ひょっとしたらいるかもしれないからだ。

 しかし、全くの健康体でありながらあえて高額の費用を支払ってほとんど意味のない手術をするかといえば、通常は、そのような手術を希望する人はいないだろう。虫垂炎になって手遅れになったら死ぬかもしれない、と必要以上に怖がっている人の恐怖に付け込んで手術を勧めているのからだ。したがって、この虫垂摘出手術のような例は、違法ではなくても、妥当な医療行為かと問われれば、そうではない、と私は考える。

 話を児童ポルノ所持に戻せば、逮捕される可能性や捜索差し押さえを受ける可能性がゼロであるとは、誰にも断定できない。したがって、「逮捕される可能性はあります」「捜索差押えを受ける可能性もありますよ」と伝えること自体は、嘘でも違法でも何でもない。

 しかし、弁護士から「逮捕される可能性がある」「捜索差押えを受ける可能性がある」と指摘されれば、そのような方面に知識が乏しい一般の方々は、相当な高確率で、逮捕・ガサ入れの事態が生じると誤解する可能性が高いのではないだろうか。

 だとすれば、その誤解に乗じて、健康な人に虫垂摘出手術を行うように、実質的にはわずかな意味しか持たないサービスを(相当高額な費用を取って)売りつけることが、果たして正当な弁護サービスの提供と評価してよいのだろうかという疑問が私にはぬぐえない。

 ところで、以前盛んに叫ばれた、「弁護士も自由競争しろ」、とのマスコミや法科大学院支持の学者の主張(大合唱)は、一見正しそうに見えなくもない。大新聞や偉い学者が何度もそう言っていたのだから、なおさらだろう。

 しかし、自由競争原理を弁護士業にも全面的に導入すべきだとすれば、自由競争社会では利益を上げることが最優先課題になる。利益を上げられない者は、競争に敗れるわけだから、退場するほかないからである。

 したがって、自由競争信奉者の人たちからすれば、例えわずかしか意味がないサービスであっても、(意味はゼロではないかもしれないので)そのサービスを売りつけ、高額の利益を上げる弁護士が自由市場で生き残り、その一方で、意味がほとんどない弁護サービスは敢えて行うべきではないとして相談料しか受けとらない弁護士が利益を上げられずに自由市場から退場することになっても、それは自由競争の結果として当然である、ということになるのだろう。

 しかし、上記のどちらの弁護士が、国民の皆様にとって良い弁護士、生き残ってほしい弁護士というべきなのだろうかという点から考えると、果たしてどうだろうか。

 自由競争により経済的に勝者となった弁護士が良い弁護士(国民の皆様にとって望ましい弁護士)であると即断してよいはずがない、と私は思っていたりもするのである。

弁護士法人東京ミネルヴァ法律事務所の破産に思う

 報道によると弁護士法人東京ミネルヴァ法律事務所(以下「東京ミネルヴァ」という。)が、東京地裁から破産開始の決定を受けたそうだ。弁護士法人としては過去最大の負債総額らしい。第一東京弁護士会が債権者破産の申し立てを行ったようだ。

 弁護士法人の破産と聞くと、意外に思われる方もおられるかもしれない。また、不幸にして東京ミネルヴァに事件を依頼して処理途中だった方は、その後の手続きが心配だろう。

 私は良く知らないが、東京ミネルヴァは、大々的に広告を行って過払い請求、B型肝炎給付金などの顧客を集めていたようだ。金儲け目当ての業務に特化しているとしてネット上では、本業をやっておけばよかったのに、、、との批判的な指摘もあるようだ。

 東京ミネルヴァの破産報道に接して、ぼんやりと考えたので以下、とりとめのない雑駁な感想だが記しておく。

 司法改革が話題になってきたころから、マスコミは何と言ってきたか。

 弁護士も自由競争せよ。そのためにも法曹(司法試験合格者)の増員が必要である。

 こう言い続けてきたのだ。

 私は、弁護士の仕事の良し悪しは、顧客の方にはなかなか理解しがたいから、自由競争の前提が成り立たない(判断者である国民の皆様が弁護士の仕事の優劣を判断できない以上、自由に競争させれば良い弁護士が生き残るはずだという競争の前提が成り立たない)などとして反対してきたが、残念ながら結局国民の皆様から反対のご意見が出ることもなく、司法改革は推進され、法曹の大幅増員(といっても実際には弁護士の大幅増員)は実施され、今もその流れは止まっていない。

 マスコミは、弁護士をターゲットに、自由競争するように言い続け、その一方で「弁護士は社会的インフラである」などと矛盾したことを平然と述べていたこともあった。

 さてこのように、マスコミは弁護士も自由競争すべきだとの大合唱をしていたのだが、翻ってみるに、自由競争下では、収益を上げられない者、事業に失敗した者は、退場するしかない。したがって自由競争下では、何とかして収益を上げることが最優先課題になる。

 そうだとすれば、収益を上げることを最大の目的とし、大規模広告を行って大量の相談者を集め、その中から手間がかからず儲かりそうな案件だけを選別して受任し、相談者が非常に困っていてもペイしない事件は受任しない、というやり方は、弁護士が社会から期待されている役目に合致するかどうかはともかく、自由競争の中で生き残るための営業方針・ビジネスモデルとしては決して間違った方向ではないということになるだろう。

 そうだとすれば、金儲け目的に特化した弁護士という批判は、当たらないということになるのかもしれない。

 では、弁護士が社会から期待されている役割とは、何だったのか。

 かつて司法改革において、司法制度改革審議会意見書は弁護士について次のように述べた。

『弁護士は、「信頼しうる正義の担い手」として、通常の職務活動を超え、「公共性の空間」において正義の実現に責任を負うという社会的責任(公益性)をも自覚すべきである。その具体的内容や実践の態様には様々なものがありうるが、例えば、いわゆる「プロ・ボノ」活動(無償奉仕活動の意であり、例えば、社会的弱者の権利擁護活動などが含まれる。)、国民の法的サービスへのアクセスの保障、公務への就任、後継者養成への関与等により社会に貢献することが期待されている。』

 かいつまんで言えば、弁護士は社会的責任を自覚して、無償奉仕活動等で社会に貢献するよう期待されているってことだ。

 賢明な皆様には、もうお分かりだと思うが、上記のような弁護士像が、経済的利得を得られなければ退場せざるを得ないという自由競争社会の本質になじむものだったのかについては大きな疑問が残るだろう。

 収益を上げなければ退場しなくてはならない市場に放り込んでおいて、無償奉仕活動にいそしめと言われても、その要請が無茶であることは子供でも分かる話だ。

弁護士だって人間だ。
弁護士だって職業のひとつだ。

 人間だから弁護士だって霞を食って生きるわけにはいかない。また、弁護士だって弁護士業で働いて得たお金で、ご飯を食べなくてはならないし、家族を養わなくてはならない。自由競争下におかれたら、無償奉仕にいそしんでいる余裕などないのである。

 仮に司法制度改革審議会意見書の弁護士像を弁護士の理想像だと仮定するなら、将来の法曹需要を完全に見誤って弁護士の大量増員を支持した司法制度改革審議会、司法制度改革を通じて弁護士の増員を支持した人、弁護士も自由競争すべきと安易なマスコミの論調に流された人たちは、弁護士の大量増員を実現させたことにより、弁護士の理想像の実現をかえって遠ざけたという皮肉な結果をもたらしたともいえるだろう。

 マスコミも、これまで「弁護士にも自由競争をさせるべきだ」と散々述べてきたのだから、東京ミネルヴァの破産についても、社説や解説で、「東京ミネルヴァに依頼していた方は気の毒だが自己責任だ、これが自由競争社会のあるべき姿なのだ」と、堂々と主張してみたらどうだろう。

 その方が主張として、首尾一貫すると思うのだが。

小さいツバメ~その後

 近所の喫茶店の軒先にあるテントに、一羽のツバメが止まっていることについては以前ブログで書いた。

 先日ジョギングの帰り道に、ふと気になって見に行ってみたところ、彼は相変わらずテントの内側を止まり木にして静かに寝ているようだった。

 しかし、以前とは違う点があった。

 彼の泊っている先にある、テントの内側の角には、泥や草で作られた新しい巣がかけられていたのである。

 背伸びして、巣の中をうかがうと、もう一羽のツバメのしっぽが見えた。
 おそらく、メスのツバメが抱卵しているのだろう。

 ベテランのツバメがかける巣に比べれば、少し不器用な形ではあったが、急ごしらえにしては、なかなかのものと見えた。

 ツバメは、1シーズンに数度、子育てをすることがあるそうで、どうやら最後の子育てチャンスにギリギリ間に合うように、パートナーと巡り会えたらしい。

 彼は、立派に、子育てに向けて頑張っているのだろう。

 一人で眠るその姿が小さく見えたという私の見立ては、どうやら間違っていたようだ。

 しかし、それが間違っていたことが、私には、うれしかった。

昔話~ホンダVT250F

 VT250Fは、私が大学生のころ、ホンダが出していた250CCバイクである。

 その名の通り、90度V型ツイン(2気筒)エンジンを積み、素直なエンジンの特性などから、多くのライダーが乗っていた、いわば定番バイクでもあった。

 私自身、グライダー部の後輩のO君に借りて、九州ツーリングをさせてもらったりした。O君のVTは、VT250Fインテグラと呼ばれるレーシングタイプのカウルがついた特別仕様車で、とても格好良かったことを覚えている。

 そのツーリングは、確かクラブの先輩と二人で行ったはずで、長崎や阿蘇のユースホステルを利用して九州北部を回った。

 かなり記憶が薄れているが、阿蘇では、ご来光を拝もうとユースホステルに来ていたライダー達10人ほどで大観峰まで走ったように思う。集団で走るのもなかなか面白いものであることを知ったのも、この時である。

 どこをどう走ったのかあまり記憶に残っていないのだが、ユースホステルで仲良くなった女の子と別の観光地で待ち合わせをすることになったとかで、一緒に来ていたクラブの先輩から突然、「一人で帰っていいよ」といわれ、帰り路が一人だったことは、なぜだか鮮明に覚えている。

 京都に戻り、その先輩に「○○さん、ひどいじゃないですか~。女の子とデートするために俺を見捨てるなんて・・・・」と苦情を言ったところ、「そんなこと、あったっけ?」ととぼけられ、諸行無常を感じたものである。

 「ボビーに首ったけ」という片岡義男の小説がアニメ映画化されたが、その中でも主人公はVTに乗っていたはずだ。エンジンパワーも、35馬力→40馬力→43馬力と、パワー競争に対応して上げられていた。

 私が乗った経験があるのは35馬力と40馬力のものだ。43馬力のVTはデザインが少し私好みではなく、興味が持てなかった部分もある。

 私も事情があってカタナイレブン(スズキのバイク)を手放した後、司法試験に合格した先輩から安くVTを譲ってもらって少し乗っていたことがある。

 カタナ自体は、デザイン的にも乗っているときの優越感等も含めて、とてもいいバイクだったが、VTはVTで、パンチのきいたところこそなかったが、乗り手を選ぶことがない、角の取れた素直なバイクだった。楽に乗れてそこそこ走れるという点で、決して悪いバイクではなかったと思う。

 今の私にはおそらくビッグバイクは手に余る可能性が高いが、VTくらいの素直なバイクなら、まだ乗れそうな気がしたりもする。それだけ扱いやすかった記憶が残っているバイクである。

昔話~ヤマハPHAZER

 私が大学生だった頃、250ccのバイクでも4気筒のものが流行っていた。確か最初はスズキが、GSで250ccで初めて4気筒モデルを出したように思うが、特に一時期人気を集めていたのが、ヤマハのフェーザー(FZ250)だった。

 未来的なフォルムのハーフカウルを身をまとい、レッドゾーン16000回転(確かタコメーターは18000回転)まで回る高回転型エンジンを積み、その高回転時の排気音は、まるでジェット機を思わせるようなものだった。それでいて、小さくて扱いやすく、小柄なライダーや女性ライダーが乗っていることも多かった。

 私も、知人に借りて初期型に乗ったことがあるが、またがってみると、両足がぺたんとついて余裕があることにまず驚いた。エンジンに火を入れて、アクセルを回してみると、軽々と吹けあがり、タコメーターがビュンビュン動く感じだった。

 もちろん高回転まで回せば、ジェット機のような排気音を高らかに響かせ、エンジンのパワーバンドに入ったあたり(確か8000回転くらいだったと思うが)から、グンと加速する感じだったことを覚えている。

 自動車でいうなら、ホンダの、ハイカムに切り替わったVテックエンジンを尖らせたような感触といえばよいのだろうか。それまでの回転数とは違う加速を見せるエンジンだった。

 その後、ホンダ、カワサキも4気筒250ccのバイクを投入し、比較的旧式となったフェーザーは、FZRへとバトンを渡すことになったはずだ。

 私は、大型バイクに乗りたくて、当時免許試験場でしか実施していなかった限定解除試験に何度も挑戦していたので、限定解除を果たしてカタナに乗るまで、中型バイクを買ったことはなかったが、4気筒250ccのバイクも実は相当魅力的だった。

 季節が良くなると、バイクを楽しんでいる人も増えてきて、時折、昔のように乗ってみたいと思う気持ちもわいてくる。

 おそらく、昔のままの気持ちで安易に触ると、当然、体力も反射神経も衰えているので、たちまち、転倒→骨折→松葉づえのゴールデンパターンにはまることは火を見るより明らかだ。

 しかしそれであっても、機会があれば、バイクを乗り回してみたいと思ってしまう、少々厄介な自分がいることもまた、事実である。

将棋ファンとしてはたまらない

 すでに報道されている通り、藤井聡太七段が、将棋のタイトル戦である棋聖戦の挑戦者になった。

 新聞報道によると、正式には挑戦者として対局した時点で、タイトル挑戦最年少記録ということになるのだそうだ。確かに、挑戦者を決定するトーナメントで優勝していても、何らかの事情で挑戦者としての対局ができなかった場合は、タイトル挑戦の事実は生じないので、まあ納得はできる。

 藤井聡太七段が挑戦する棋聖タイトル保持者は、渡辺明三冠である。これまで中学生でプロになれた天才棋士は、加藤一二三・谷川浩司・羽生善治・渡辺明・藤井聡太の歴史上五人しかいない。藤井七段にとって、中学生棋士経験者で、一番新しい先輩が渡辺明ということになる。

 渡辺三冠は、長らく竜王位に君臨し、初めて永世竜王の称号を得たことでも知られる。

 そして渡辺三冠の前に、中学生で棋士になった3人(加藤・谷川・羽生)はいずれも、最も歴史のあるタイトルである名人を獲得している。

 渡辺三冠も、当然早々に名人位を取るだろうと私は思っていたが、どういうわけかこれまで名人位に挑戦すらできていなかった。しかし、昨年度A級順位戦では、順位戦最高のAクラスの猛者達を相手に、全勝して豊島名人への名人挑戦権を獲得した。つまり極めて充実した状態にあるといってもいいだろう。

 新型コロナウイルスの影響で、対局時期が例年より大幅に変わってしまったこともあり、渡辺三冠は、名人戦挑戦と藤井七段を迎えての防衛戦を、並行して戦わなければならなくなった。

 スケジュール的には大変だろうと思う。

 しかし報道によれば、渡辺三冠も、藤井七段とのタイトル戦は、歴史に残るタイトル戦になるだろうと述べているそうで、そのように注目度の高い棋戦で、天才が燃えないわけがない。

 一方、名人戦も最も歴史のあるタイトルであるし、これまで25期もタイトルを獲得していながら、名人位はまだ獲得したことのないタイトルなので、渡辺三冠としては、やはり獲得に燃えているだろう。
 

 これは、将棋ファンとしては楽しみな日々が続きそうである。