「ごろごろにゃーん」  長新太 作

 私の実家では、私が小さい頃から福音館書店の「こどものとも」「かがくのとも」を定期購読していました。福音館書店は非常に素晴らしい絵本を数多く出版している会社です。どの子供も、絵本は大好きですが、私も例に漏れず、絵本が好きでした。

 好きな絵本はたくさんありますが、異彩を放っていたという面では、長新太さんの「ごろごろにゃーん」に勝る絵本も少ないと思います。

 たしか、最初と最後のページ以外は、「ごろごろにゃーん、ごろごろにゃーんと、ひこうきはとんでいきます。」という文章の繰り返しです。ページをめくってもめくっても、相変わらず「ごろごろにゃーん、ごろごろにゃーんと、ひこうきはとんでいきます。」の繰り返しなのです。

 おそらく、子供に読み聞かせるお母さんの側に立てば、すぐに飽きてしまう、文章でしょう。

 そんな絵本なら、子供も飽きてしまうのではないかと思われるかもしれません。しかし、決してそんなことはないのです。猫たちを乗せた飛行機は様々な冒険に巻き込まれます。ページをめくれば、前のページとは違う、新たな冒険が描かれているのです。子供達は、その冒険に夢中になるのです。

 このように子供達が、絵本の絵の力によって、夢中で冒険しているときに、むしろ言葉による説明は邪魔であると、長新太さんは考えたのかもしれません。だから、敢えて分かりやすく簡単な言葉の繰り返しで、子供達の想像の翼をじゃましないように配慮されたのではないでしょうか。子供達は「ごろごろにゃーん・・・・」と繰り返し読み聞かせてくれる、お母さんの暖かく柔らかい声音を聞き、その声に安心しながら猫たちと冒険できていたのではないかと、今になって思います。

福音館書店・840円

やっぱりひどいと思う国選報酬

 ある会社員の方が、得意先を回る際に、「会社から8キロ以上遠方でないと、地下鉄代も出さないよ。」と会社から言われたら、8キロ以内の得意先に徒歩でまわる気力が出るでしょうか?

 仕事のためにどうしても必要なコピーを、やむを得ず自分が費用を出して行い、その費用を会社に請求したときに「コピーなんてせずに、見て覚えてくればいいだろう。コピーしちゃったらしょうがないけど、そのコピー代も君の給料に含まれているから、200枚を超えた部分のコピー代しか出さないよ(200枚までは自腹を切れよ)。出すとしても、君がコピーにかかった費用の半分以下しか出せないよ。」と言われたら、いくら仕事に必要だとしてもコピーを取る気がするでしょうか?

 さらに、仕事にどうしても必要な郵便を出す場合に、その郵便費用も全て自腹とされたらどう思うでしょうか?

 しかも、上記のようなとんでもない得意先回り・コピーが必要とされる仕事を一生懸命やればやるだけ、他の仕事がきつくなる上、なんとか成果を上げても評価されないとすれば、会社員の方は、やる気が出るでしょうか。

 実は、上記のことは全て国選弁護に当てはまるのです。

 国選弁護では、交通費は報酬に込みとされており、8キロ以上の交通費でないと支給されません。8キロ以内は「地下鉄もバスも贅沢だ、歩け!」と言うことのようです。

 また、被告人にとっては接見(面会)は唯一の外界との接点であり、弁護方針等を決めるためにも非常に重要な行為ですが、8キロ以上の遠方でないと交通費も出ない、どれだけ時間がかかっても評価されないのです。時間をかければかけるだけ、充実した弁護のために接見をすればするだけ、弁護人が損をする(自腹を切らなければならない)仕組みになっています。

 刑事記録の閲覧権は弁護人にありますが、閲覧するにも検察庁に出向く必要があり、その交通費も出ません。

 きちんと刑事弁護しようと思えば、刑事記録のコピーは不可欠ですが、 コピーは特定の業者しか扱っておらず、なんと一枚42円もします。しかも否認事件など特殊な事案でない限り、200枚を超える部分のコピー代金につき一枚20円が支給されるだけです。

 つまり、仮に350枚のコピーが必要であった場合に、弁護人が負担するコピー代は350×42=147000円ですが、国選弁護で支給されるコピー代金は、(350-200)×20=3000円です。つまり11700円を弁護人個人で負担しろということなのです。

 お金のない被告人がお詫びの手紙を書いて、弁護人を通じて郵送して欲しいという依頼してきた際に、弁護人が被告人の弁護に必要と考えて、お詫びの手紙を郵送する切手代すらも、国選弁護では出してもらえません。

 このように、国選弁護は良い弁護をしたければ、弁護人に自腹を切れということに制度上なっています。

 それでも、成果が上がったときに評価してくれるのであれば、まだ救われますが、どれだけ沢山の事務をこなしても、求刑からどれだけ減刑させても、評価にはつながらないようです。私の今回の国選弁護では、追起訴が4件もあり、合計で事件数は5つになりました。単純に考えれば、事件数が一つの場合の5倍の手間がかかっています。求刑だって検察庁が法律を適用し、求刑相場にしたがって、行われるものであり相当の根拠があります。その検察官の求刑(5年)から、半分に減刑させ、未決勾留日数も90日算入してもらえました。被告人は実質2年3ヶ月の刑になったのです。

 しかし、それでも、評価の対象にはならないそうなのです。

 どれだけ自腹を切って、頑張って時間をかけて弁護をし、なんとか良い結果を出したとしても、何の評価もないのであれば、やる気は当然失せていくでしょう。

 私は、税金で育ててもらったという思いがあるので、まだ国選弁護をやってはいます(但し、現在では積極的に受任するわけではありません)が、あまりの仕打ちにやる気がどんどん失せつつあります。

 一生懸命に弁護している弁護士にとって、国選弁護を黒字の仕事にすることはできないでしょうが(私の経験上、断言できますが、経営者弁護士が国選弁護だけで経営を維持することは、手抜き弁護をしない限り絶対に無理です。)、せめて実際にかかる経費くらいは支給してもらいたいものです。

証拠調査士?

 先日、遅くに夕食をとりながらTVを見ていたら、お名前は忘れたが証拠調査士(?)という人が、様々なトラブルを解決しているという特集をやっていた。

 再現ドラマ風に、いくつかの事例が紹介されるのだが、その中で、身に覚えのない借金を負わされた人の話が出ていた。被害者はまず弁護士に相談に行くのだが、弁護士から「借りていない証拠はあるか」といわれ、途方に暮れるという設定だった。その時点で、「どうして債務不存在確認訴訟を考えないのかなぁ」と不思議に思っていたら、 証拠調査士の人が知り合いの複数の弁護士さんと延々と協議しても妙案が浮かばず、そのなかで、証拠調査士の人が債務不存在確認訴訟を提案し、弁護士がそれは妙案だと感心する、というストーリーのようだった。

 確かに、借りていない証拠(例えば借入開始日に服役中・海外出張中など)があれば、それに越したことはないが、いくらテレビとはいえ、弁護士が何人も雁首そろえて債務不存在確認訴訟に気付かないという設定はあまりにも弁護士を馬鹿にしている、現実離れしたものであった。

 少なくとも、私のまわりにいる弁護士なら、誰だって債務不存在確認訴訟くらいは、すぐ気付く。ただ、弁護士にお願いしてその裁判をやる経済的メリットが、依頼者側にあるかどうかの問題である(例えば、5万円の借金を逃れるために10万円の弁護士費用を支払うのでは意味がないであろう) 。

 いくら再現「ドラマ」でも、債務不存在確認訴訟に気付かないという、弁護士が何人もいたとは思えない。もう少し、真実に近い弁護士の姿で、描いて頂かないとテレビをご覧になった方も誤解してしまうだろう。

 ちなみに、証拠調査士という国家資格は、少なくとも私の知る限り、日本にはない。

どっちが良いのか・・・・?

 ある日、S弁護士は京阪電車の駅を出て、自宅に向かっていた。

 時刻は22:40を過ぎており、雨がそぼ降る晩だった。何となくお腹の調子も良くないので、急ぎ足で横断歩道を渡るS弁護士の視界に、地図を片手に辺りを見回す外国人がいた。迷っているかもしれないな、とS弁護士は直感した。

 S弁護士は、これまでなぜか人に道を聞かれることが多かった。海外で外国人から道を聞かれてしまったこともあるくらいである。しかし、いまは駄目だ。お腹の具合もあるので、できれば早く帰宅したかった。「頼む、俺に聞かないでくれ。後ろから来ている学生風の女性の方が絶対、英語通じるぞ!俺なんかに聞くなぁ-・・・・!」と祈りつつ横断歩道を渡った。

 「アノー、スミマセン、バスストップドコデスカ?」

 苦しいときの神頼みは駄目だった。後ろをさっと通り過ぎる学生風の女性。もう助け船は来ない。ここで、外国人を無視することも、途を知らないふりをすることも、日本語が分からないふりをすることさえもできた。しかし、やはりS弁護士は弱かった。

「バス停ですか・・・・。あっちにあるんですけど。」とバス停のある方向を指さすS弁護士。しかし、たまたまそこは京阪電車の地上出口が視界を塞ぎ、バス停はこちらからは直接見えない。首をかしげる外国人。

 溺れる者は藁をもつかむというが、おぼれている人は、藁と分かっていてもその藁を簡単には手放さないのだろう。その外国人もS弁護士を容易に解放しない。

 「ヨンバンノバス、カミガモジンジャ、イキタイノデスガ」

 バス停の場所を聞くよりも要求がエスカレートして来ている。このままではまずい。お腹の調子からしてタイムリミットはそう長くはないはずである。

 「そんなん、わからへんわ。大体、俺は市バスをほとんど使わへんのやから。分かるわけないやろ!」と心の中でぼやきつつ、S弁護士の口から出る言葉は、S弁護士の心の中を裏切る。

 「しょうがないですね。バス停まで行ってみましょうか。」

 こんなときに限って信号は赤である。いつもより長く感じる赤信号が変わるのを待ち、のんびり歩く外国人の先を導くように早足で、バス停に向かうS弁護士。果たして、バス停には市バス4系統の表示があった。

 「ほら、ここでいいでしょ。」

 「オー、ヨンバン、ヨンバン、アリマス」

 よかった、これで解放される・・・・・。と思いつつバス停のバス接近表示板をみると、赤い表示が。

 赤い表示には「終了」と書いてある。市バス4系統は既に終了していたのだった。市バス4系統が止まるバス停を、S弁護士は確かに教えてあげた。相手の要望には応えたはずだ。だが、このまま放っておけば、この外国人は帰れない。

 「あ~、残念ですけど、市バス4番はもう終わっていますね。アウトオブサービスです。」

 通じるかどうか分からないが、相手の日本語能力がそこそこあることに期待して、日本語で答える。もちろん、アウトオブサービスで正しいのかも分からない。しかし、思ったよりも日本語が達者な外国人であったようで、すぐに意味を理解したようだ。

 「オワッテル?マア、ドウシマショウ?」

とこちらを振り返る外国人。

 「そんなん聞かれても、知らんがな」(S弁護士の心の叫び)

 さすがに、お腹のタイムリミットが近いS弁護士にも時間的限界が来ていた。

「そうですね、バスがないならタクシーを使うしかないのではないですか。上賀茂神社までは結構距離がありますから。」

と言って、向こうに見えるタクシー乗り場方向を指し示す。そして、「(今思うと、何も悪くはないと思うが)悪いけど、もう帰らせて」と心の中で言って、その外国人と別方向に向かい、早足で自宅に急ぐことになった。

 その後、自宅にたどり着き、ようやく落ち着きを取り戻したときに、S弁護士はつい、考えてしまった。

 あの外国人大丈夫やったかな、バス停に行く前にタクシー乗り場の近くにいたんやから、本当はお金がなかったのかもしれないな、もしそうやったら、どうしたんやろ。

 外国人に声をかけられたときに、分からないふりをして素通りしておけば、そんな心配までしなくてすんだのかもしれない。しかし、バス停まで案内した今の方が心配になってしまう。こんなことなら、聞かれたときに分からないふりをした方が、こんな心配しなくてすんだだけ楽だったのかもしれない。

 どっちが良かったのだろうか・・・・・。

法科大学院の不適合~その2

 法科大学院の適合・不適合の判断については、第三者機関が厳正に行うことになっているようです。その第三者機関は、実は財団法人日弁連法務研究財団、財団法人大学基準協会、独立行政法人大学評価・学位授与機構と3つも存在しています。

 また、どの団体に審査してもらうかについては、各法科大学院が選べるようなのです。第2東京弁護士会がバックアップして作った大宮法科大学院大学は、合格率の低迷が指摘されつつも適合と判断されていますが、大宮法科大学院が評価を依頼したのは、当然のごとく日弁連法務研究財団でした。

 日弁連法務研究財団の理事などには、法科大学院構想に賛成した元日弁連会長などが多数含まれており、第2東京弁護士会がバックアップして作った大宮法科大学院を不適合だと言いにくいと思われる団体です。したがって、少なくとも大宮法科大学院を評価するには適していない団体だと、私個人の目には映ります。中立的な第三者による厳正・公正な判断をすべき場面であるからです。他の法科大学院においても、自らの大学の出身者が重鎮を占めているような団体を探して、評価を依頼している可能性が捨て切れません。

 また、日弁連法務研究財団では、どのような評価基準で適合するか否かを判断するかについての解説まで、HPに公表されているのですから、これはもう、答えを教えてテストをするようなものだと思います。

 さらに、その評価基準を見てみると、どのような設備・カリキュラム・制度・教授陣を有し、いかなる授業を行って評価しているのかという、形式的な面が中心です。法科大学院が、「旧司法試験合格者の前期修習終了レベルまで学生を教育できる、そのような実力を身につけた学生しか卒業させない」という前提で、司法修習制度も変更されたのですから、実際どれだけの法的知識・リーガルマインドを身につけたかについても(新司法試験の合格率でしか判断できないかもしれませんが)当然評価すべきですが、それについては私が評価基準を見る限り評価の対象外となっているようです。

 これはおかしいと思います。

 なぜなら、そもそも法科大学院の目的は、立派な教室を作るとか立派な教授陣をそろえるとか、立派な講義を行う、というものではないからです。法科大学院の目的は、優秀な法曹(候補者)を育てることにあるからです。

 どんなに素晴らしい校舎・教授陣・カリキュラム・講義が可能であっても、学生に優秀な法曹(候補者)としての実力を身につけさせることができなければ、法科大学院として失格=不適合とすべきことは、その目的からいって当然でしょう。

 誤解を恐れず簡単に言えば、どうも法科大学院評価機関は、例えは悪いかもしれませんが、最新式のオートメーション工場があるだけで適合、町工場であればそれだけで不適合、と判断しているような面が感じられます。たとえ同じ製品の品質が町工場の方がはるかに高く、オートメーション工場で不良品が多発していても、それは評価の範囲外としているように思われます。

 法科大学院自体問題がありますが、その評価の制度も問題がありすぎる制度のように私には思えるのですが・・・・・・。(続く)

法科大学院の不適合

 先日、いくつかの法科大学院が不適合であると、認証期間から指摘されたというニュースが流れていました。法科大学院を厳正に評価するための機関が、いくつかの法科大学院に問題があると指摘したということです。

 その内容は、朝日新聞社によると、「京都産業大では、理解が不十分な学生向けの「補講」などで授業時間が実質的に上限を超えていたほか、出欠をとらない授業もあった。東海大は、単位数に含まない「自主演習」の形で司法試験に出題される基礎科目を教えており、「基本的な制度設計に誤りがある」と指摘された。山梨学院大は、定期試験の不合格者が受ける再試験に全く同じ設問を出すなどの問題があった。」とのことのようです。

 山梨学院大学の措置は、再試験にも全く同じ問題を出すなど、答えを教えて再試験をするようなものです。厳格な修了認定という法科大学院の建前からすれば、極めて大きな問題を残すので、やはり問題でしょう。

 しかし、私から見れば、京都産業大・東海大はなぜ不適格なのか若干疑問があります。理解不足の学生に補講を行うことは授業時間が多すぎる、基礎科目を自主演習として教えたことは司法試験対策だから問題がある、というのが不適合の理由のようです。

 学生の自主的勉強の時間を取るために法科大学院では講義時間(単位)の上限を定められているようですが、理解不足の学生に教えることは理解不足の学生が自主的に勉強するよりも効率的なはずでしょう(もし学生の自主的勉強の方が効率が良いのであればそもそも法科大学院は不要なはずです)。また、法科大学院の目的は質の良い法律家を育てることだったはずですから、学生の自主的な勉強時間を確保しても法律実務家としての力が身に付かないのであれば意味がありません。学生の自主的勉強の時間が減少しても、法律実務家としての実力が身に付けば良いはずです。質の良い法律家を育てようという目的のために、法科大学院という手段を作ったものの、今では、法科大学院という手段を維持することが目的となってしまい、質の良い法律家を育てるという、そもそもの目的が見失われているとしか思えません。

 また、日弁連法務研究財団の法科大学院評価基準によると、法科大学院として適合するためには、「授業科目が法律基本科目、法律実務基礎科目、基礎法学・隣接科目、展開・先端科目の全てにわたって設定され、学生の履修が各科目のいずれかに過度に片寄ることのないように配慮されていること。」とされており、法律基本科目とは、憲法・行政法・民法・商法・民事訴訟法・刑法・刑事訴訟法に関する分野の科目をいう、となっています。いずれも新司法試験に必要な科目です。

 しかし、法律基本科目を身につけるだけでも大変です。よほど大学在学中に勉強した人や、異常に頭の良い人をのぞけば、法律基本科目を司法修習に耐えうる程度まで理解するだけでも、3年くらいかかってもおかしくありません。数学や物理に早熟の天才は存在しますが、法律学には早熟の天才がいると聞いたことがありません。このように法律を学ぶには、才能よりも、努力や積み重ねが重要なのです。
 法律解釈の基礎や民事法・刑事法の基本を理解していれば先端科目はその応用で対応できる場合がほとんどです。しかし、民事法・刑事法の基本が理解できていないうちから先端科目を教え込まれても理解不能です。
 それにも関わらず、適合基準を守ろうとすれば、法科大学院では法律実務基礎科目や、基礎法学、先端科目まで履修を求められるのですから、掛け算・因数分解も十分理解していないうちから、微分積分をたたき込まれるようなものです。

 民事法・刑事法の基礎ができているが先端科目は知らない新人弁護士と、民事法・刑事法の基礎はあやふやだが先端科目の知識を少し持っている新人弁護士とでは、実務家として明らかに前者の方が優れています。いざというときに基本に戻って考えることができるからです。

 (詳しい事情は不明ですが)善意に解釈すれば、京都産業大・東海大は法科大学院生といえども、その実力不足に驚き、「良い法曹を育てるためには基礎を十分教えておく必要がある」との強い懸念を持って、法律基本科目を身につけさせようと努力していたと言えるのかもしれません。

(続く)

日弁連ニュース(10月15日付)について

 10月15日付の日弁連ニュースに、新・旧61期の就職状況が掲載されていました。

 9月2日に司法修習を終了した旧61期について、10月15日時点での調査では、609名中裁判官任官者24名、検察官任官者20名、弁護士登録したもの546名、進路不明者19名とのことだそうです。弁護士登録をしたもののうち、法律事務所に就職せずに即時独立した弁護士は13名と推計されているようです。

 この結果を基に、日弁連は旧61期についての就職問題は収束しつつあると、述べているようですが、非常に脳天気な書き方だと思います。
 問題があるのであれば、その問題を詳しく分析して対策を講じなければ問題は解決しません。日弁連はその問題点の分析や問題点についての対策について、特になんの言及もなく、とりあえず旧61期の就職問題は結果的に収束に向かっていると述べるだけです。現実の問題がとりあえず下火になってきたからといって、問題を先送りしていると、取り返しのつかない問題に発展することは、これまで歴史が証明していると思います。日弁連執行部には、この問題に対応する義務があるはずです。

 ちなみに、同じ日弁連ニュースによると、新61期(12月17日修習終了予定、約1800名)の採用状況は、9月末にアンケートに回答した約1400名中8%は就職先未定だそうです。未回答の400名については更に就職先未定である可能性が高いので、実際には、200人くらいは就職未定者がいると考えてもそう間違いではないでしょう。
 たいした数ではないと思われる方も多いでしょうが、これは、実は凄い数です。山口県弁護士会が昨年弁護士人口が多すぎるとして中国地方弁護士会連合会で議題を提出していますが、その山口県の弁護士数は105名です。昨年、中部弁護士会連合会で法曹人口の激増に関して問題がある旨の決議がなされましたが、その決議に参加した三重県弁護士会の会員数は100名です。(ちなみに会員数100名以下の弁護士会は52弁護士会中、20弁護士会あります。)

 つまり、仮に200名が就職できないとして、単純に就職できない200名を吸収しようとすれば、三重県または山口県全体の弁護士が解決している総事件数の2倍の事件数の増加が必要ということになります。

 これから日本の人口は減少期に向かうはずですが、わずか一年で三重県または山口県全体の弁護士が解決している総事件数の2倍の事件が増えるわけがありません。自然に事件が増えないのであれば、弁護士も食うためにやむを得ず、アメリカで問題となっている弁護士のように法律を徹底した金儲けの手段と考えて、事件を作りだそうとするようになるかもしれません。仕事にあぶれた弁護士が、仕事のネタを探して近所をうろつくようになるかもしれません。また、弁護士が増加すれば依頼しやすくなるとお考えの方もおられるでしょうが、こちらが依頼しやすくなるということは相手方も依頼しやすくなるということです。つまり相手方から弁護士を通じて何らかのアクションを取られる危険性が今までより格段に増加するということです。

 そんな訴訟社会を誰が望んでいるのでしょうか。

 来年度は、更に多くの就職できない司法修習生の増加が見込まれています。事態は急を告げています。早急に改めるべきところを改めなければ大変なことになります。

Posted by sakano at 14:06  | パーマリンク |
2008年10月17日
反射望遠鏡

 私は、夜空の星を眺めることは結構好きな方ですが、特に天体の知識があるわけではありません。

 ですから、星の名前や星座については実はあまり、知らないのです。

 ところが大学時代、一度だけ反射望遠鏡を振り回したことがあります。以前も書いたように私は京大グライダー部に所属していました。グライダー部というところはなぜか、理系の学生が多いクラブで、私の同期でも文系の学生は教育学部のI君(途中でやめちゃいましたが)くらいしかいませんでした。

 ちょうど私が3~4回生の頃、2年後輩に理学部の学生であったK君がいて、クラブの学生のたまり場で、何かの拍子に理学部の反射望遠鏡の鍵を預かっているとかいう話をしてくれたのです。幸い私と同期には、盛岡一高天文部の部長であったC君がいたため、相当な夜更けでしたが、C君・K君ほか何人かで忍び込んで星でも見ようぜ、ということになりました。

 確か理学部の屋上に設置されている、40㎝クラスの反射望遠鏡だったと思います。暗い中、理学部の建物に入り込み、屋上まで行きました。そこで、C君に星雲やら、惑星に照準を合わせてもらって、交互に宇宙をのぞきました。

 C君が選んで見せてくれた星雲の名前は忘れてしまいましたが、その星雲は望遠鏡の視野の真ん中に捉えられていても、その真ん中を見つめると見えず、望遠鏡の視野の端を見ようとすると何となく目に画像が捕らえられるというもので、じつに儚げな感じがしました。

 また、土星も見せてもらったのですが、時期も良かったのでしょう、ぱっと見たところ、まるで輪っかを帽子のようにかぶった可愛い子どものような佇まいをしていたように思います。

 このとき私が初めて直に見た土星は、望遠鏡の視野の中では、たった今、真っ暗な虚空からマジシャンが取り出して、そっとおいたような、それでいてずいぶん昔からあるような、実に不思議な雰囲気で、闇の支配する宇宙の中に、たった一人で白く輝きながら「ポッ」と奇跡のように浮かんでいました。

  その後、今まで、望遠鏡で土星を見たことはありませんが、機会があれば是非あの可愛い姿を見てみたいと思っています。

論告・求刑と判決

 刑事裁判のお話しになりますが、「論告・求刑」という言葉をどこかで耳にされたことはあるかもしれません。

 刑事裁判の証拠取り調べが終わったあと、検察官が事実及び法律の適用について意見を陳述しなければならず(刑事訴訟法293条1項)、このことを「論告」といいます。実務上は、更に具体的な刑の量定についてまで意見を述べますが、これがいわゆる「求刑」というものです。

 求刑は、あくまで検察官の意見ですから、裁判官が検察官の求刑よりも重い刑を宣告してもなんら問題ありませんし、そのような場合も当然あります。

 ただ、実際には、検察側の求刑に対して、弁護側は軽い刑を求めて最終弁論を行いますから、検察側の求刑に対して2~3割ほど割り引いた刑が宣告されることが多いようです。あくまで真偽は不明ですが、求刑の6割以下の刑の宣告だと、検察官控訴の対象として検察庁で考慮されるという噂もあるようです。

 今日は、私の担当した、ある国選事件の判決がありました。追起訴が4件もあったこともあり、検察官の求刑は懲役5年でした。ところが、裁判官の判決は「懲役2年6月、未決勾留日数中90日をその刑に算入する」というものでした。

 「未決勾留日数の算入」は、 簡単に言うと、裁判で有罪となるまでの間、身柄を拘束されていた日数は自由を奪われていたわけですから、その身柄拘束を受けていた日数のうち幾ばくかを、もう刑を受けたことにしてあげようという制度です。裁定通算(裁判官の裁量で通算できるもの)と法定通算(法律上当然に通算しなければならないもの)があります。

 ちなみに、裁定通算は刑法21条、法定通算は刑訴法495条に規定があります。同じ未決勾留日数の算入に関して別々の法律に規定があるのも、少し面白いですね。

 さて、今回の私の担当した事件の場合、判決は懲役2年6月ですが、裁定通算で裁判長が未決勾留日数中90日を算入してくれました。したがって、被告人は2年6月-90日で、実際には求刑が懲役5年のところ、2年3月の間、懲役刑として刑務所に入らなくてはならないという判決が出されたことになります。

 残念ながら執行猶予とはいきませんでしたが、きちんと被告人が罪を償って、帰りを待つ家族のもとに戻り、きっと更生してくれると信じたいと思っています。

国がネットオークションで売られる?

 現在、非常に深刻な通貨危機に陥っているアイスランドですが、世界最大手のネットオークション会社である「eBay」で、アイスランドが国ごと売りに出されていた、というニュースを耳にしました。

 ご丁寧なことに、世界的に有名なアイスランド人歌手であるビョーク、それにグリーンランドはオークションの対象ではありません、などと注意書きもあったとのことです。

 アイスランド国民にとっては、ひどい冗談だったと思います。

 ニュースによると、現在、通貨危機に瀕しているアイスランドが、大手銀行を政府管理下においたところ、これまでアイスランドの高金利を狙ってアイスランド系銀行にイギリスの個人・団体が約1700億円もの預金をしていたことが発覚。イギリス政府がアイスランド政府に対し、自国民の預金保護を要請したが、危機的状況のアイスランドはその要請に応じきれない状況のようです。これに対し、イギリスは、反テロ法を発動してイギリス国内にあるアイスランドの銀行が保有する資産を凍結、アイスランド首相がそのイギリスの措置に不快感を示すなど、溝が深まりつつあるようです。

 国家の総人口が約30万人強に過ぎなくても、アイスランドは立派な独立国家です。エイプリル・フールでもないですし、もし、イギリス系の人による悪戯であったなら、国家に対する悪戯・いじめもインターネットで行える時代になってきたということなのかもしれません。

 私は、アイスランドの荒涼としていながらも美しい自然や、素朴な人々、澄み切った空気の素晴らしさに感動したクチですから、今回のニュースには少なからず不愉快な思いを感じました。

 インターネットは、その匿名性から、内容に責任を持たずに発言することが可能な媒体ともいえます。それはある意味では本音を言える媒体なのかもしれませんが、匿名という隠れ蓑を着た責任を持たない発言を通して、人の悪意がストレートに表現される危険がある媒体でもあります。

 神様ではなく人間である以上、人の心には善・悪の双方がどうしても存在していると思います。最終的には、私は、人の心の中には善の総量の方が上回っているのではないか(より正確には、上回っていて欲しい)と考えてはいます。

 しかし、人のむき出しの悪意は、いうまでもありませんが、非常に醜いものです。インターネットを通じて、そのような悪意が身の回りに氾濫する社会が、当たり前になってしまうことは、私達全てにとって不幸を招く危険があるような気がします。

金木犀

 少し盛りを過ぎ始めていますが、金木犀(キンモクセイ)が良く香る季節になりました。

 普通、花の香りは、香りを放つ花を中心に同心円上に広がっていきそうなものですが、不思議なことに、金木犀の香りは、一定の調子?で香ってくるものではありません。金木犀の香りだと思って周囲を見渡してみても、金木犀の木が見つからないこともしばしばです。かといって、金木犀の花の近くに寄ってみても、必ずしも香りが強くなるわけでもありません。そのくせ、鴨川の橋を渡っている際に、ある一瞬だけ強く香ってきたりします。

 なんだか、金木犀の木が目に見えない香りの織物を、少し冷たい空気に気まぐれに投げかけていて、その香りの織物を人が通り過ぎるときにだけ、強く香るような、そんな感じがします。

 私が司法研修所を卒業する朝も、金木犀が良い香りをさせていました。同じクラスのO君が、早朝に趣味のホルンを聞かせて下さったことを思い出します。朝の冷たい空気に、O君のホルンと金木犀の香りが妙に似合っていたように記憶しています。

 O君は検察官になりました。

 きっとご活躍のことでしょう。