ある日、S弁護士は京阪電車の駅を出て、自宅に向かっていた。
時刻は22:40を過ぎており、雨がそぼ降る晩だった。何となくお腹の調子も良くないので、急ぎ足で横断歩道を渡るS弁護士の視界に、地図を片手に辺りを見回す外国人がいた。迷っているかもしれないな、とS弁護士は直感した。
S弁護士は、これまでなぜか人に道を聞かれることが多かった。海外で外国人から道を聞かれてしまったこともあるくらいである。しかし、いまは駄目だ。お腹の具合もあるので、できれば早く帰宅したかった。「頼む、俺に聞かないでくれ。後ろから来ている学生風の女性の方が絶対、英語通じるぞ!俺なんかに聞くなぁ-・・・・!」と祈りつつ横断歩道を渡った。
「アノー、スミマセン、バスストップドコデスカ?」
苦しいときの神頼みは駄目だった。後ろをさっと通り過ぎる学生風の女性。もう助け船は来ない。ここで、外国人を無視することも、途を知らないふりをすることも、日本語が分からないふりをすることさえもできた。しかし、やはりS弁護士は弱かった。
「バス停ですか・・・・。あっちにあるんですけど。」とバス停のある方向を指さすS弁護士。しかし、たまたまそこは京阪電車の地上出口が視界を塞ぎ、バス停はこちらからは直接見えない。首をかしげる外国人。
溺れる者は藁をもつかむというが、おぼれている人は、藁と分かっていてもその藁を簡単には手放さないのだろう。その外国人もS弁護士を容易に解放しない。
「ヨンバンノバス、カミガモジンジャ、イキタイノデスガ」
バス停の場所を聞くよりも要求がエスカレートして来ている。このままではまずい。お腹の調子からしてタイムリミットはそう長くはないはずである。
「そんなん、わからへんわ。大体、俺は市バスをほとんど使わへんのやから。分かるわけないやろ!」と心の中でぼやきつつ、S弁護士の口から出る言葉は、S弁護士の心の中を裏切る。
「しょうがないですね。バス停まで行ってみましょうか。」
こんなときに限って信号は赤である。いつもより長く感じる赤信号が変わるのを待ち、のんびり歩く外国人の先を導くように早足で、バス停に向かうS弁護士。果たして、バス停には市バス4系統の表示があった。
「ほら、ここでいいでしょ。」
「オー、ヨンバン、ヨンバン、アリマス」
よかった、これで解放される・・・・・。と思いつつバス停のバス接近表示板をみると、赤い表示が。
赤い表示には「終了」と書いてある。市バス4系統は既に終了していたのだった。市バス4系統が止まるバス停を、S弁護士は確かに教えてあげた。相手の要望には応えたはずだ。だが、このまま放っておけば、この外国人は帰れない。
「あ~、残念ですけど、市バス4番はもう終わっていますね。アウトオブサービスです。」
通じるかどうか分からないが、相手の日本語能力がそこそこあることに期待して、日本語で答える。もちろん、アウトオブサービスで正しいのかも分からない。しかし、思ったよりも日本語が達者な外国人であったようで、すぐに意味を理解したようだ。
「オワッテル?マア、ドウシマショウ?」
とこちらを振り返る外国人。
「そんなん聞かれても、知らんがな」(S弁護士の心の叫び)
さすがに、お腹のタイムリミットが近いS弁護士にも時間的限界が来ていた。
「そうですね、バスがないならタクシーを使うしかないのではないですか。上賀茂神社までは結構距離がありますから。」
と言って、向こうに見えるタクシー乗り場方向を指し示す。そして、「(今思うと、何も悪くはないと思うが)悪いけど、もう帰らせて」と心の中で言って、その外国人と別方向に向かい、早足で自宅に急ぐことになった。
その後、自宅にたどり着き、ようやく落ち着きを取り戻したときに、S弁護士はつい、考えてしまった。
あの外国人大丈夫やったかな、バス停に行く前にタクシー乗り場の近くにいたんやから、本当はお金がなかったのかもしれないな、もしそうやったら、どうしたんやろ。
外国人に声をかけられたときに、分からないふりをして素通りしておけば、そんな心配までしなくてすんだのかもしれない。しかし、バス停まで案内した今の方が心配になってしまう。こんなことなら、聞かれたときに分からないふりをした方が、こんな心配しなくてすんだだけ楽だったのかもしれない。
どっちが良かったのだろうか・・・・・。