司法試験委員が法科大学院に求めるもの~刑事系1

今回は刑事系第1問を取り上げます。

(引用開始)

刑事系第1問

4 今後の法科大学院教育に求めるもの
刑法の学習においては,総論の理論体系,例えば,実行行為,結果,因果関係,故意等の体系上の位置付けや相互の関係を十分に理解した上,これらを意識しつつ,各論に関する知識を修得することが必要であり,答案を書く際には,常に,論じようとしている問題点が体系上どこに位置付けられるのかを意識しつつ,検討の順序にも十分に注意して論理的に論述することが必要である。
また,繰り返し指摘しているところであるが,判例学習の際には,単に結論のみを覚えるのではなく,当該判例の具体的事案の内容や結論に至る理論構成等を意識することが必要であり,当該判例が挙げた規範や考慮要素が刑法の体系上どこに位置付けられ,他のどのような事案や場面に当てはまるのかなどについてイメージを持つことが必要と思われる。
このような観点から,法科大学院教育においては,引き続き判例の検討等を通して刑法の基本的知識や理解を修得させるとともに,これに基づき,具体的な事案について妥当な解決を導き出す能力を涵養するよう一層努めていただきたい。

(引用ここまで)

【超訳】~司法試験委員が言いたいであろうことを推察しての私の意訳

今後の法科大学院教育はこうやってもらわなあかん。

 刑法の勉強において言うたら、総論の理論の体系、例えていうなら、実行行為、結果、因果関係、故意などについて体系的な位置づけや、相互の関係を先ず理解させなあかん。その上で、総論の理論体系を意識しながら、各論の知識を習得するよう勉強させるのが必要や。ほんで答案を書く際には、今論じとる問題が、総論の体系上、どの部分の話をしとるのかを常に意識しながら、検討せなあかん。その検討の順番にも注意せんと、分かってないと思われるで。

 (問題にもよるかもしらんけど)例えば、いきなり因果関係の話を冒頭で始めたりしたら、こいつ、ほんまに解っとんのか?って思うわな。
 実行行為があって、結果があって、それがつながってるか?っちゅうのが因果関係の問題やから、実行行為も結果も指摘せんといきなり因果関係の話したら、キミ何ゆうてんの?って、採点者が思うてもおかしないやろ。
 そもそも実行行為が全くないんなら、それで罪責の検討は終わりや。これしたら犯罪でっせ、っちゅう刑法典の規定に該当する行為をそもそもしてないんやから、実行行為がない以上、犯罪に問えるわけないわな。実行行為があっても結果がなければ、刑法典(特別法も含む)に予備・未遂等の規定がないんなら、それでも罪責の検討は終わりが普通や。罪刑法定主義から、刑法典に定めのない罪なんて問えへんのやから当たり前やろ。
 要するにそこんとこができてへんねん。体系的に知識が理解されてへんちゅうことや。一番大事なとこやで。

 言い換えたら、論点は覚えとるかもしれんけど、それが刑法体系のどこに位置しとるのかわかっとらん状態や。要するに、お勉強が論点主義になっとるんとちゃうか。予備校教育の問題点として、あんたらが、大きな声で「論点主義や、論点主義や」って批判してきたやろ。まさにそれとおんなじ状態に、なっとるんと違うんかな。

 それから、何回も言うてきたけど、できてへんからしつこく言わしてもらうで。判例の勉強は、単に結論だけ覚えるのはあかんのや。その判例の具体的事案の内容とか、どうやってその結論になっとるのか、ちゅうことの理論構成を意識してそっちをメインに勉強せなあかん。その上で、その判例が挙げた規範やら考慮要素やらが、刑法の体系上どの位置での話か、ほんで、他のどんな事案・場面にあてはまることができるんか、ちゅうことについてイメージできなあかんねん。

 できてへんから言うてんねん。答案見とったら、「判例の結論しか覚えてへんな、こいつ」、ちゅう答案ばっかりやで。予備校教育の問題点としてあんたらが、大きな声で「暗記重視に陥っとる、暗記重視になっとる」言うて批判してたわな。今の、受験生の答案見とったら、判例の結論だけ暗記しとるとしか思われへんのが多いねん。よう考えて教えたらなあかんやろ。
 そんなこんなで、法科大学院教育は、判例の検討なんかを通じて刑法の基礎的知識や理解を習得させる必要があるで。それができた上で、具体的な事案について妥当な解決に持って行ける能力を養うよう、より一層の努力が必要や。できてへんから言うてんねんで。受験生の答案から見たら、全体的に、基礎的知識も基礎的な理解も、具体的な事案について妥当な解決を導き出す能力も、全て不足しとるんで言うてんねん。心して、やってあげてや。

(続く)

司法試験委員が法科大学院に求めるもの~民事系2・3

今回は、民事系第2問、第3問を取り上げる。

民事系第2問

(引用開始)

3 法科大学院教育に求められるもの
 非公開会社における募集株式発行の手続,新株発行の無効ないし不存在,表見代表取締役,不実の登記,多額の借財,代表権の濫用,株主代表訴訟の対象等についての規律は,会社法の基本的な規律であると考えられるが,これらについての理解に不十分な面が見られる。会社法の基本的な知識の確実な習得とともに,事実を当てはめる力と論理的思考力を養う教育が求められる。

(引用ここまで)

【超訳】~司法試験委員の言いたいことを坂野が推察して意訳した内容。

民事系第2問

3 法科大学院教育はこうやってほしいねん。

 今回の試験で受験生に問うたのは、非公開会社における募集株式発行の手続、新株発行の無効ないし不存在、表見代表取締役、不実の登記、多額の借財、代表権の濫用、株主代表訴訟の対象等の規定やねん。どれもこれも、会社法のほんま基本的な規定やと思うねんけど、その理解が全然たりてへんねん。会社法ゆうたら、日本の経済活動の中心になっとる会社について定めとる、重要な法律やで。法律家になろうっちゅうもんが重要な法律の基本的な規定について理解できてへんかったら、大問題やろ。とにかく、応用や先端分野の話やないで、もっと下のレベルができてへん。

 重要な法律の基礎的な知識が確実やないし、その法律を事実にどう適用するかも分かってへん。しかも自分の主張を論理的に説得的に論じることもまだまだや。

 ようするに、法科大学院では、会社法の基本的な知識を身につけさせることができてへん、知識を事実に当てはめて使う能力も身につけさせることができてへん、論理的に考える能力も身につけさせることができてへん、できてへんとこだらけっちゅうことや。

 ほんま、たのむで。

民事系第3問

(引用開始)

4 法科大学院に求めるもの
 民事訴訟法分野の論文式試験は,民事訴訟法の教科書に記載された学説や判例に関する知識の量を試すような出題は行っていない。むしろ,当該教科書に記載された基本的な事項を正確に押さえ,判例の背景にある基礎的な考え方を理解しておくことが必要である。そして,それらを駆使して,問題において提示された事情等に照らし,論理的に論述する能力を養うための教育を行う必要がある。また,上記3(2)において,設問1に関して,再訴の提起による解決を指摘する答案についてその不合理性を指摘したが,これは,判決(すなわち債務名義)を得ることには,通常,多大な労力を要することを踏まえたものである。法曹養成制度は,文字通り,法曹実務家を養成するための制度であることに照らせば,民事訴訟法分野に係る教育においては,学生に対し,現実の民事訴訟制度を実感させる教育(民事執行制度との連続性を意識させる教育)が期待される。加えて,上記3(3)において,設問2に関して,民法の和解契約が互譲を本質的要素とするものであることから論旨を展開する答案が少なかったことを指摘したが,これとの関係で,各法科大学院には以下のことを希望したい。すなわち,かつて司法試験において民法と民事訴訟法の融合問題が出題されていた頃は,各法科大学院においても,分野横断的な授業科目を設けて熱心に教育に取り組んでいたが,融合問題が廃止されて以降,そうした授業科目を必修から外したり廃止したりする動きがあるようである。もちろん,融合問題の廃止は相応の理由があってのことであり,また,各法科大学院がそれに対応して行動することは理解できるが,そのことが,分野横断的に問題を把握することの重要性に関する法科大学院生の認識を希薄にし,民法は民法,民事訴訟法は民事訴訟法というように,相互の連関を意識することなくばらばらに学習する態度を助長しているとすれば残念なことであり,設問2を採点していてそのような懸念を感じたところである。各法科大学院においては,融合問題の廃止にかかわらず,この点に関する学生の意識を喚起するよう努めていただけると有り難い。

(引用ここまで)

【超訳】

民事系第3問

4 法科大学院に言いたいねん

 誤解してもろたら困るけど、民訴法分野の論文式試験は、「教科書や判例について、君、どんだけ知っとんねん?」っちゅうような知識重視の問題は出しとらへんで。教科書に書かれとる、「基本的な知識を受験生は正しく押さえとるか、ある事件についての判例の判断に、どんな基礎的な考え方が背景にあるのかを受験生は理解しとるか」っちゅうことを、見ようとしとるんや。
 そして、その基本的知識、基本的な考え方を一所懸命に使うて、論理的に破綻せんように、解決せなあかん問題を何とか結論まで持っていく力を身につける必要があるねん。

なにも特別なことやない。法律家なら誰でもやっとることやで。

 設問1に関してふれたけど、現実的やない解決手段を答案に書いても、あんまり評価できへん。司法試験は実務家登用試験やから、法律上あり得ても、現実的やない解決方法を評価するわけにはいかんことくらい、分かるわな。法科大学院は、実務家を養成する制度でもあるねんから、現実の民事訴訟制度を学生に実感させるだけの教育をせなあかん。たとえば、民事執行制度との連続性を意識するような教育や。

 でも答案見たらできてへんで。一体なにを教えとんねん。畳の上で泳ぎの型だけ教えても実際、泳げんやろ。ホンマに泳げる人間育てよう思うたら、泳ぎ方の講義だけやのうて、実際に泳げる方法まで教える必要があるんと違うの?

 さらにいうなら、設問2のとこでも触れたけど、民法定めた規定の本質的議論から出発する答案がほとんどなかったわな。民法は民法、民訴法は民訴法っちゅうように、バラバラで教えとるんと違う?以前、民法と民訴法の融合問題を司法試験で出しとったときは、法科大学院でもそれに応じた教育しとったと聞いたで。せやけど、融合問題が廃止されたあとは、そんな授業を廃止する動きがあるとも聞いとる。そもそも、司法試験に影響されずにじっくり教育するというのが法科大学院の建前やったんと違うの?せやから、原則、法科大学院卒業せな司法試験受けられへんようにして、法科大学院を優遇したんちゃうの?司法試験合格だけを考えて、じっくり教育やめて、合格目標教育になったら、実際のとこ予備校とかわらへんわな。設問2を採点しとったら、そんな懸念感じたわ。

 法科大学院は融合問題の廃止にひよって、予備校みたいな教育にかえるんとちごうて、学生にしっかり分野横断的な視点を持つよう教育してもらわんと困るわな。
 それが法科大学院の使命やろ。

(続く)

司法試験委員が法科大学院に求めるもの~民事系1

今回は民事系第一問を取り上げることにする。

(引用開始)

4 法科大学院における学習において望まれる事項
 これは,民法に限ったことではないが,法律家になるためには,何よりも,具体的なケースに即して適切な法律構成を行い,そこで適用されるべき法規範に基づいて自己の法的主張を適切に基礎付ける能力を備える必要がある。こうした能力は,教科書的な知識を暗記して,ケースを用いた問題演習を機械的に繰り返せば,おのずと身に付くようなものではない。重要なのは,一般に受け入れられた法的思考の枠組みに従って問題を捉え,推論を行うことができるかどうかである。それができていなければ,条文や判例・学説の知識が断片的に出てくるけれども,それを適切な場面で適切に使うことができず,法的な推論として受け入れられないような推論を行うことになりがちである。
 そうした法的思考の枠組みの要となるのは,法規範とはどのようなものであり,法的判断とはどのような仕組みで行われるものかという理解である。例えば,法規範には,要件・効果が特定されたルールのほかに,必ずしも要件・効果の形をとらない原理や原則と呼ばれるものがある。法規範となるルールが立法や判例等によって明確に形成されており,その内容に争いがなければ,それをそのまま適用すればよいけれども,ルールの内容が明確でない場合には,解釈によってその内容を確定する必要がある。そこでは,それぞれの規定や制度の基礎にある原理や原則に遡った考察が必要となる。また,法規範となるルールが形成されておらず,欠缺がある場合には,同じような規定や制度の基礎にある原理や原則,さらには民法,ひいては法一般の基礎にある原理や原則にまで遡り,これを援用することによって,不文のルールを基礎付けなければならない。そのような法規範の確定を前提として,その要件に事実を当てはめることによって,実際の法的判断を行う。
 そうした基本的な法的思考の枠組みが理解され,身に付いていなければ,幾ら教科書的な知識を暗記しても,また,幾ら問題演習を繰り返し,答案の書き方と称するものを訓練しても,法律家のように考えることはできない。
 司法試験において試されているのも,究極的には,このような法的思考を行う能力が十分に備わっているかどうかである。もちろん,その前提として,それぞれの法制度に関する知識は正確に理解されていなければならず,それらの知識の相互関係も適切に整理されていなければならない。しかし,そのような知識や理解を実際に生かすためには,法的思考を行う能力を備えることが不可欠である。
 法科大学院では,発足以来,まさにこのような法的思考を行う能力を養うことを目指した教育が行われてきたと見ることができる。司法試験の合否という表面的な結果に目を奪われることなく,その本来の目標を今一度確認し,さらに工夫を重ねながら,その実現のために適した教育を押し進めることを望みたい。また,受験生においても,法律家となるための能力を磨くことこそが求められていることを自覚して,学習に努めていただきたい。

(引用ここまで)

<超訳>~司法試験委員の言いたいんだろうなということを推測しての私の意訳

4 法科大学院の学習はこうやらなあかん

 法律家になろうと思たら、具体的なケースを解決できるような適切な法律構成ができなあかん。ほんで、その法律構成で使われるべき法規範に基づいて、自分の主張をきっちり基礎づけるだけの能力がいるのが当たり前。せやけど、こんな力は、教科書的な知識の暗記と事例式問題を機械的にやれば身につくモンとは違う。大事なんは、一般に認められとる法的思考の枠組みの中で、問題を捕まえて、法律にきちんと書いてないけどこうなるはずや、と当たりがつけられるかどうかや。それができひんのやったら、条文や判例学説は形だけ知っとるけど、つかえへんちゅうことや。バラバラの知識は持ってても、使える知識と違うってことやな。

 法的思考の枠組みの中で大事なんは、法規範ってどんなもんか分かっとること、法的判断ちゅうたらどんな仕組みでやるかについて理解できとるかどうかや。法規範ゆうたら、どんな要件があったらどんな効果が認められるかっちゅう、決まったルールがあるねんけど、その背景には要件・効果の形はとってへんけど、その規範を生み出した原理や原則があんねん。従うべき法規範のルールが法文とか判例できっちりされとって、内容に争いがないんならそれ使うだけでええネンから簡単やわな。せやけど、一応、法律には書いとるけど、それにあてはまるんかどうか分からん場合もあるやろ。

 例えば、殺人罪は「人を殺したるものは・・・」と書いとるけど、そこで書いとる「人」に、生まれてくる途中の嬰児が含まれるかどうかは、条文上はわからへん。なんぼ条文見つめてもそれだけでは答えは出てけえへんのや。こんな場合は、解釈によってその内容を決めなあかん。この解釈をするときに、それぞれの規定や制度の基になっている原理・原則にまで遡って、考えなあかんのや。殺人罪は人の生命、傷害罪は人の身体ちゅう法益を守ろうとする規定やろ、胎児には堕胎罪があるけど、これは殺人罪・傷害罪に比べて刑は軽いわな。ってことは刑法は、生命・身体に対する罪の章での「人」は、胎児より厚く保護しようと考えとるっちゅうことや。自然の分娩期で出産途中の胎児は生育可能性は高いやろうし出産したら当然「人」や。あと少しで疑いなく「人」になれる段階や。だから、部分的であっても母体外で独立且つ直接的に生命・身体が侵害されうる時点になれば、堕胎罪で保護するよりも、「人」として殺人罪・傷害罪で保護すべきやと考えることには十分理由があるやろ。それに、一部でも露出したら攻撃可能やわな。だから、母体から胎児が一部露出した時点で「人」として扱う一部露出説を唱える根拠があるっちゅうことになる。それに、全部露出説やったら、ほとんど露出している状態の嬰児を殺しても殺人にならんことになるけど、それは一般常識から見ても不合理やろ。

 こんなふうに、簡単に見える解釈にも相当の原理原則からの論拠がある。単に母体から露出しただけで侵害が可能になるからっちゅう理由だけしか覚えてへんのやったら、一部露出説の理解として十分やないともいえるんや(私見も入っていますのでご注意)。

 そればっかりやないで。そもそも法規範となるべきルールがない場合もある。事実は小説よりも奇なりやから、立法者が想定しておらん場面かて当然あり得る。そんなときは、似たような規定や制度がどういう原理・原則で作られとるんか、さらには民法やそれだけやのうて法一般の基礎にある原理・原則まで遡って、「書かれていないけど、こう解決すべきや」と考えるルールに、多くの者が納得できるようなきちんとした根拠付けをしてやらんといかん。勝手にこう考えたら都合がエエからそうさせてもらいます、ちゅうのでは、無茶苦茶な世の中になるさかいな。
 そういうルールを確定した上で、そのルールに照らしたらこの問題をどう解決するべきか、ってことを考えなあかんのや。

 こんな感じの法的思考の枠組みを理解して身につけとかんかったら、実務家としては全く使えん。いくら教科書に書かれたような内容を暗記しても、幾ら問題演習を繰り返して、答案の書き方を勉強しても、そもそもの考え方を身に付けておかんと、全く実務家としては使えんのや。実際持ち込まれる問題は、教科書通りの事案なんてないし、同じものなんてあらへんで。一つ一つ事情の違う問題に対応できひんのでは、法律家とは言えんわな。

 司法試験で見とるのも、結局は、法的思考をする能力があるかどうかや。もちろんその前提として、法制度に関する知識は正確に理解されてへんとあかんし、個々の知識が相互にどのような関係にあるのかについてもよう分かっとかんとあかん。敢えて指摘するっちゅうことは、現段階では答案を見る限りは、全体として知識も関係についての理解も不十分やっちゅうことやで、念のため。

 法科大学院では発足以来、本来やったらこんな法的思考能力を養うことを目指してきたはずや。目標通りに事がはこんどるんやったら、わざわざこんなに長くは書かんでもええねん。「法科大学院の教育成果が出て満足してます、この調子で教育してね。」で済む話や。でも、答案見たらできてないねん。だからわざわざ指摘してんねん。よう読んでもろたらわかるけど、法科大学院の教育が成果を上げている、上手く行っている、とはどこにも書いとらんやろ。司法試験の合格も大事やけど、とにかく一番大事な法的思考力ができてへんのやから、しっかり工夫して教育せなあかん。
 受験生もそうやで。将来法律家になったときに、教科書に書いていないから分かりません、ではとおらんのやから、しっかり勉強して欲しいと思うてんのや。
 

おそらくこんな感じではなかろうか。

司法試験委員が法科大学院に求めるもの~公法系2

今回は、公法系第2問を取り上げる。

(引用開始)

5 今後の法科大学院教育に求めるもの
基本的な判例や概念等を正確に理解する訓練を重ねることはもちろんであるが,こうした訓練によって得られる基礎的な知識・理解と,具体的な事実関係を前提とした,事案分析能力,法の解釈・適用能力,文書作成能力等との結び付きを意識して習得させるという視点に立った教育を求めたい。
多くの答案からは,本問で論ずべき主な論点の内容自体について基本的な知識・理解を有していることがうかがわれ,この点,法科大学院教育の成果を認めることができた。しかしながら,各設問における具体的な論述内容を見ると,問題文等の指示から離れて一般論・抽象論の展開に終始している答案や,会議録から抜き書きした事実関係と一般論とを単純に組み合わせただけで直ちに結論を導くような,問題意識の乏しい答案が,相変わらず数多く見られた。
また,本年度においては,行政法における基本的な概念の理解が不十分であると思われる答案も少なからず見られたが,これは,概念自体を学習していないというよりは,具体的な状況でこれらの概念をどのように用いるのかといった視点での学習が不十分であることに起因するように思われた。
法律実務家に求められるのは,法律解釈による規範の定立と,丁寧な事実の拾い出しによる当てはめを通じた,具体的事案の分析・解決の能力であり,こうした能力は,理論・法令・事実を適切に結び付ける基本的な作業を,普段から意識的に積み重ねることによって習得されるものである。法科大学院には,判例等具体的な事案の検討を通じて,基礎的な知識・理解を確認する学習機会を増やすなど,こうした実務的能力の習得につながる教育を求めたい。

(引用ここまで)

<超訳>~司法試験委員が言いたいんだろうなと思うことを推測しての私の意訳

法科大学院に言いたいねん。

 応用なんていらんねん。基本的な判例や、概念について正確に理解させてほしいねん。それが出発点やねんから。でもそれだけじゃ足りへん。基礎的な知識と理解が学生に身についたっちゅう仮定の上で話すけど、具体的事実を前提として、事案の分析、法の解釈・適用能力、文書作成能力、要するに法律家として最低限必要なことやわな、これらとの結びつきをよう考えさせて、指導してほしいんや。簡単に言うたら、基礎的な知識と理解だけできてもあかんねん。

 ぎょうさん答案見てみたら、この問題で論ずるべき論点の内容自体には、基本的な知識と理解があるようには「窺うこと」はできるかな。でも知識と理解が身についとるとまでは、よう断言できひん。けどまあ、そこんとこは、敢えて言うたら法科大学院教育の成果と言えるかもしれへんな(旧司法試験でもできてたことやけどそれは言わんといたる)。

 せやけど、よう答案読んでみたら、凄いで。問題文の指示を無視して、一般論・抽象論ばーかり書いとる答案、問題文から抜き書きした事実関係と一般論だけ書いて全~く問題の個別的な特性(真の問題点やわな)を無視して結論づけとる答案、こんなふうに問題文の個別的な問題点をほとんど分析できてへんような答案ばっかしや。今年だけとちがうで、だいぶ前から言うてきたと思うけど、相変わらずできてへん。

 ちょっとと違うで、数多くの答案でそうなんや。これはエライことと違うか。

 それから、今年の試験みたら、行政法における基本的概念の理解が不十分な答案も結構あったんや。応用ちゃうで、基本的な、誰でも知っとらなあかん、ほんま基礎の概念の理解やで。まあ、ええように言うたると、概念自体を勉強しとらんちゅうより、具体的な状況でどうやって概念使うたらええのか分かっとらんのかもしれんけど、どう使うたらええのか分からんのやったら、結局使いモンにならんから、そもそも概念の理解ができとるとは言えんわな。「はさみ」つーたらどないな形をしとるもんかを知っとっても、使い方分からんかったらよう使わんわな。それやったら、「はさみ」を理解したとは言えんやろ。

 法律実務家には、法律解釈による規範定立、丁寧な事実の拾い出しによるあてはめを通じた具体的事案の分析・解決の能力が必要やねん。こんな能力は、理論・法令・事実をええように結びつける、ホンマ基本的な作業を普段から積み重ねることで身につくことやねん。悪いけど答案見てたら、法科大学院ではできとらんとしか思われへんわ。法科大学院には、判例などの具体的事案の検討をさせることなんかを通じて、基礎的な知識・理解を確認する学習機会を増やさなあかん(もう一回言うけど、基礎的な知識・理解やで、応用まで行ってないところやで。)。そうせんと、実務的能力を学生に習得させることはできへんで。

(続く)

司法試験委員が法科大学院に求めるもの~公法系1

平成26年司法試験に関して、採点実感等に関する意見が公開されている。

最近は昔に比べて法科大学院に配慮した内容の意見が増えてきてはいるが、よく見ていけば、司法試験委員会が今の法科大学院教育に決して満足していないことはよく分かる。

各論を見ていけば、もっと問題を端的に指摘している意見もあるが、今回は、司法試験委員が法科大学院に求めるものに注目してみたい。

【公法系第1問に関して】

今後の法科大学院教育に求めるもの

昨年度と同様であるが,判例及びその射程範囲が理解できていない答案が目立った。それゆえ,「法科大学院教育に求めるもの」として,昨年度と同じ指摘をしたい。
法科大学院では,実務法曹を養成するための教育がなされているわけであるが,その一つの核をなすのは判例である。学生に教えるに当たって,判例への「近づき方」が問われているように思われる。
判例の「内側」に入ろうとせずに「外在的な批判」に終始することも,他方で,判例をなぞったような解説に終始することも,適切ではないであろう。判例を尊重しつつ,「地に足を付けた」検討が必要であるように思われる。判例の正確な理解,事案との関係を踏まえた当該判例の射程範囲の確認,判例における問題点を考えさせる学習の一層の深化によって,学生の理解力と論理的思考力の養成がますます適切に行われることを願いたい。

(引用ここまで)

さすがに一流の学者・実務家が書いたものだけあって上品だ。

これを、あまり品が良くない私が、言いたいことはこうだろうな~と推察して意訳するとこうなる。

法科大学院に言いたいねん

 去年も言うたんやけど、判例そのものと、その判例がどこまで及ぶのかについてが、全然理解できてないねん。せやから、くどいようやけど、もう一回言うで、よう聞きや!
そもそもお宅ら法科大学院ちゅうところは、実務家を育ててはるんやろ、それやったら実務でめちゃくちゃ大事なことは判例や、ちゅうことくらいよう分かってんのんと違うの。学生に教えるにあたって、判例をどう思って教育しとんねん。
 受験生の答案見とったら、判例分かってへんねん。判例の中身を吟味させんと、形式論理的な批判ばーかりしてもあかん。もちろん、形式的に判例を解説しただけやってもあかん。まさかそんなんばっかりしとるんと違うわな?でもそうなんちゃうかと疑うでホンマ。判例は大事やねんから、しっかり尊重してじっくり教えてあげなあかんやろ。
 判例の正確な理解も、事案との関係も考えたその判例の及ぶ範囲も確認できてへんし、判例の問題点を考えさせるなんてできてへんわな。考えさせる学習(教育?)ができてへんわな。答案見たら分かるけど、学生の理解力も論理的思考力もたりてへんねん。ホンマしっかりやってくれることを切に願うで。

実務家にとって判例は極めて重要であるが、その肝心の判例が分かっていないという指摘は、毎年のようにいわれている。理論と実務の架橋を標榜しながら、未だに司法試験委員を満足させる結果を、法科大学院は出し得ていないようだ。

(続く)

鴨居玲展~2

 金沢に行く機会があり時間的余裕があるとき、私は石川県立美術館で、鴨居玲の作品を見ることが多い。そして、「1982年 私」の作品が持つ力に打ちのめされる。

 キャンパスを前にした自画像の周囲に、これまで鴨居玲が絵画の題材として描いてきた人物が描かれる。背景は中心から端に向かって暗くなっていく。しかし、鴨居によりかつて絵画としての生命を吹き込まれたはずの人物が、誰1人として、嬉しそうな表情を浮かべてはいない。困惑・諦観・不安・刹那的感情等の入り交じった感覚にとらわれたまま、その場に配置されている。そして中心に座る鴨居は、何も描かれていない白いキャンパスの前で絵筆を持たず呆然と座り込み、この絵を見るものに何かを問いたげに口を開けている。

 もう描けない、自分には絵を描くしかできないのに、もはやそれもできない。
 これ以上何を画くのか、何を描けば良いというのか、何が画けるというのか。
 それなのに、あなたは(神は)、何故、なお描くことを私に求めるのか。

 そのような声にならない鴨居の叫びが、ズンと響く。

 画家にとって絵を描くことは本能にも等しく、またその存在価値に直結する行為である。絵が描けないということは画家にとって自らの存在価値を否定することにもつながる。鴨居に兆した、もはや絵を描くことができないという自己否定の思いと、その自己否定の思いに抗いつつ感じていたであろう自負と、その自負を飲み込むに十分な底知れぬ恐怖と絶望。それを裏付けるかのように、展示されていた、鴨居の使用していたパレットの裏側に残された「苦るしかった」との走り書き。

 鴨居の自己否定にもつながりかねず、鴨居の心の奥底に封じ込まれ暗黒の天幕に覆われていてもおかしくないこの心的情景を、神が、あるとき、残酷にも部分的に光を当て浮かび上がらせたのかもしれない。
 そして、その情景を見てしまった鴨居が、自らの意思というよりも、画家としての本能で描ききったのがこの作品ではないか、とさえ思える。

もちろん、「1982年 私」も、この展覧会で展示されているはずだ。

東京、函館、金沢での展示が終わり、伊丹が最後の展覧会だ。

是非ご覧になることをお薦めする。

※作品に関する感想はあくまで坂野の個人的な感想であり、画家本人、解説者の方の見解と異なっている場合は当然あり得ます。

鴨居玲展~1

没後30年 鴨居玲展~踊り候え~が、現在伊丹市立美術館で開催されている。
http://artmuseum-itami.jp/exhibition/current_exhibition/10915/

 素直に、必見の展覧会だと思う。

 ただし、自分の精神状態がちょっと不安定かもしれないな、と感じる方には、お薦めはしない。鴨居玲の作品から受ける重さに耐えきれない可能性があると思うからだ。

 私は10月に金沢で、この展覧会を見た。
 土曜日で兼六園などの人出は多かったようだが、幸い、展覧会は空いていた。

 金沢は鴨居玲の生誕の地であることもあって、金沢市にある石川県立美術館には、鴨居玲の作品が多く所蔵されている。
 そのおかげもあってか、石川県立美術館では、この鴨居玲展と同時にもう一つの鴨居玲展と題して、所蔵する鴨居玲の作品を展示しており、まさに鴨居玲を堪能できる贅沢な環境だった。その一方、多くの鴨居作品に触れすぎて、随分疲労もしたようにも記憶している。

 学生の頃、わざわざバイクで広島県立美術館まで見に行った「教会」も展示されていた。「教会」を題材にしたいくつかの絵も興味深い。

 最初期の「教会」は、存在する教会を写実的に描いたもののように見える。しかし、時を経るに従い、鴨居玲の描く「教会」は、入口も出口もそして光を教会内に取り入れる窓さえも失っていく。まるで、石から切り出したかのような教会が描かれるのだ。

 誰もその中に入れず、誰もその中から出ることのできない教会。
 その中に光さえ届かない、堅い石造りの教会。

 鴨居にとってキリスト教や信仰は、このように見えたのか。

 その後、教会は、不安定に傾き、あるいは地中に埋没し、さらには空中に浮遊していく。巨大な十字架のような影を落とす作品もある。背景も陰鬱な暗度の高い色調の作品や、悲しみを感じる青で描かれた作品もある。青の背景で描かれた教会には、教会自体もその青に染まり、空間に同化しやがて消え失せる過程であるかのような作品もある。
 暗い背景の中に、忽然と佇む教会の向こうの地平に明るい光の兆しのようなものが描かれた作品もある。しかしその光は、遙か向こうにある。救いにつながるかもしれないその光には、おそらく、人の手が届くことはないのだ。

いくつかの「教会」作品を一度に眺めることができるだけでも、価値があるように思う。

(続く)

※絵に対する感想は、坂野個人の感想であり、鴨居玲本人や高名な解説者の方が全く違う意味で解説をされているかもしれません。あくまで絵画好きの素人の感想とお考え下さい。