連続人形活劇 新・三銃士

 ひとーつ、人の世生き血をすすり、

 ふたーつ、不埒な悪行三昧、

 みーっつ、醜い浮世の鬼を退治てくれよう・・・・・・・

 と来れば、だれだって、その続きは「桃太郎!」という決め台詞。

 そして般若の面をさっと外す高橋英樹さん演じる「桃太郎侍」登場!!・・・・・と思いますよね。

 ところがその番組で流れた続きの台詞は、「ポルトス、早く手紙をもって逃げろ」でした。

 このパロディを行った番組は、NHKで毎週放映されている「連続人形活劇新・三銃士」。おいおい、NHKがそんな民放ネタのパロディやって良いの?と思うかもしれませんが、実際に(しかも人形が)やってます。

 それだけではありません。その話の中では、ミレディが登場する場面では、「ラ・セーヌの星」の主人公のような仮面をつけて登場するし、遊んでます。間違いなくスタッフみんなが楽しんでお話をつくっているはずです。

 おそらく、三谷幸喜さんの脚色に依るところが大きいのでしょう。

 誰でも知っている三銃士のお話ですが、登場人物の台詞がそれぞれよくできていて、毎回自然に楽しめます。また、私のような中年が見ても、所々にパロディや、にんまりさせる台詞が散りばめられ、声優さんの熱演もあって、実に楽しく飽きません。パロディも分かる人だけ分かって貰えばいいという潔さで組み込まれており、意外な演出であっても決して過剰な演出や、押しつけがましい演出にはなっていないように思われます。三谷幸喜さんの才能を改めて実感させられる番組です。

 確か以前にNHK教育テレビで放映されており、一度最終回まで放映が終わったのではないかと思うのですが、現在関西地区では毎週日曜日、午前8:10~から放送されています。

 6月27日には、第13話が放映されていますが、HPであらすじも読めます。今からでも遅くはないので、ストーリーを追いかけて、ご家族でご覧になるのも楽しいかと思います。

大阪の夕暮れ

 たった今、大阪の街は、実に美しい夕焼け空の下にある。

 刻々と変化するあかね色の空は、ボンヤリ見ていても、そうでなくても何となしか胸を打つ力がある。

 そういえば「星の王子様」は、一日に43回も夕焼けを見たことがあったな、と思い出したりする。

 しかし、実は、サン・テグジュペリの書いたフランス語の原稿は44回であり、英訳本は正しく44回なのに、仏語版では長らく原稿と違って43回と記載されていたという話を聞いたことがある。私の読んだ内藤訳では確か43回だったように思うので、仏語版に忠実に訳されたものだったのかもしれない。

 43回だろうが、44回だろうが大して違いがないようにも思うが、今日の夕焼け空の美しさを見ると、星の王子様が43回の夕焼けを見たあとで、なおあと1回の夕焼け空を眺めたということは、王子様が自分の心を納得させるためにどうしても必要だったに違いないと思えてくる。

 ここまで書いて、再び空を見たが、既に夕焼け空はどこかに逃げてしまったあとだった。

 何度夕焼けを見てもまた夕暮れを心ゆくまで見られる小さい星も、悪くはないな、と思った。

映画「ザ・コーヴ」について

 映画、ザ・コーブを上映中止にする映画館が出たとの報道は知っていたが、それに関して、日弁連会長が会長声明を出していることは知らなかった。

 確かに表現の自由は大切だ。表現の自由がない世界では、民主主義すら窒息する危険がある。だから日弁連会長の会長声明も分からないではない。

 しかし、まだ観ていない私が断言するのもなんだが、盗撮を行ったことからもわかるように、ザ・コーヴは明らかに片寄った意図で作成された映画である。おそらく、太地町の漁業に携わる人達の生活や、太地町がクジラ類の慰霊碑を建てて、人間が生きていくために命を頂いたことを感謝しその霊を慰めようとしていることなど、全く触れられていないのだろう。

 私自身、太地町の出身であり、小さい頃、父親と漁船に乗ってゴンドウクジラの追い込み漁に参加させてもらったことがある。イルカやクジラを、魚市場で解体しているところを小学校の頃、帰り道で何度も見たこともある。当然海にも血が流れており、子供心に、かわいそうだと思った記憶もある。

 だが、漁師さんたちが真剣にイルカやクジラを解体しており、どこも無駄にしないように非常に気を遣っていたことだけは、子供でも分かった。それだけ、漁師さんたちは真面目に、人が生きるために頂いた命と向き合っていたのだった。

 ふざけ半分か妙な使命感か知らないが、映画スタッフが変装して太地町にやってきたり、半分スリルを求めるように盗撮カメラを設置する行為とは、間違いなく次元が違う真剣さで漁師さんたちは働いていた。かつて、太地町には、かつて古式捕鯨時代に、鯨を捕獲中大暴風に遭遇し、漁に参加していた漁師たちがほぼ全滅するという、極めて悲惨な事故もあった。それでも生きる糧を得るために、危険を乗り越え、太地の男たちは捕鯨を続けてきたのだ。

 私が仮に映画館の主人なら、腹は立つが、多分ザ・コーブは上映すると思う。但し、ザ・コーブを見てもらったあと、ザ・コーブの監督やスタッフが、牛肉やチキンをバクバク食っているシーンを流し、その後に、「いのちの食べ方」という映画を流してやりたい。当然途中での退席は禁止だ。

 人が生きていくためには、どうしても他の生き物のいのちを頂かなければならない事実を再認識してもらい、ザ・コーヴが如何に片面的なとらえ方をしているかについて、良く考えてもらいたいからだ。

 ザ・コーブが公開され、私がそれを観て考えが変われば、この映画について、また書きたいと思う。ただし、オフィシャルサイトの監督の話から想像するに、99.9%私の考えが変わることはないと思うが。

ゼロに近い確率

 ゼロに近い確率を表す際に、よく使われるのが、「宝くじで一等に当たる確率」という言葉だ。

 確かに、ジャンボ宝くじの1等賞の当選確率は1000万分の1だから、まず当たらない、ほぼ当たらない、確率といっても良いだろう。その意味では、「宝くじで一等に当たる確率」という表現は正しいように思う。

 ところで、1000万分の1といっても全く想像が付かない確率だ。

 それよりも、昨年の年末ジャンボでは億万長者が210人!(但し、2等を含む)と宣伝していたので、「210人も当たるなら、俺だって」と思っても、不思議ではないし、もちろん買わなきゃ当たらないので、宝くじに夢を託すのも、人間の自然な反応のようにも思う。私の父も昔、何度か、宝くじで1等が当たったら~~を買ってやる、と約束してくれたものだが、未だに実現していない。

 しかし、1000万分の1とはどれくらいの確率なのだろうか。

 ある天文学者の計算では、この1年の間に、恐竜が滅亡のした際に地球に衝突したのと同じクラスの巨大隕石が地球に衝突し、人類が滅亡する可能性は、100万分の1の確率だと、本に書かれていたのを眼にしたことがある。

 ということは、ジャンボ宝くじで1等に当選するする確率は、今年一年に隕石が地球に衝突して、人類が滅びてしまう可能性よりも、十倍ほど実現困難な確率ということになる。もちろん、ジャンボ宝くじを10枚購入すれば、当選確率は10倍に跳ね上がるが、それでも当選確率は100万分の1で、今年中に地球が滅亡するのと同じ確率にすぎないということになる。

 そうなると、ジャンボ宝くじで1等に当選する人などいないようにも思うが、現実には毎年何十人かは当選する。

 ほぼゼロに近い確率の領域では、何が起きても不思議ではないということのようだ。

題名の付け方

 毎日新聞の「ニュース争論」で、宇都宮日弁連会長と連合の元会長高木氏が、毎日新聞の論説委員伊藤正志氏・伊藤一郎氏を立会人として、対談している。

 題して、「法曹人口はなぜ増えない」。

 題名からして、ちから一杯、誤導モードである。

 内容も、最初の問いかけ自体、司法試験の合格者数が当初目標とされていた3000名に届いていないではないかという、マスコミのこれまでの論調から一歩も外に出るものではない。その質問には、司法制度改革審議会の答申でも「質を維持しつつ」という前提があることを無視しているし、さらにその前提として法的需要の増大、法的紛争の増加、国民意識の変化などが見込まれていたことをも無視している。

 立会人が行う最初の質問は、法的需要は劇的に増大しているし、法的紛争も増加しているし、国民の意識が変わって訴訟社会になりつつあるし、さらに法科大学院は法曹を目指す志願者に溢れ、厳格な卒業認定もなされ、なんの問題もなく優秀な卒業生を輩出し続けているという前提でかろうじて成り立つ質問だ。現実は、過払い金返還訴訟を除けば、訴訟は大幅に減少している。国民が訴訟社会を望んでいるとの世論調査もない。法科大学院については、問題大ありであることは既にこのブログでも指摘しているとおりである。

 また、司法試験合格者3000名はあくまで努力目標に過ぎず、確定した目標ではないし、そもそも、実働法曹数をフランス並みの5万人にするために儲けられた努力目標だ。現時点で司法試験合格者を1000名に減らしたとしても、法曹人口は増え続けるので、根拠もなく目指していたフランス並みの法曹人口5万人はほぼ達成できるのだ。

 さらにいえば、隣接士業を含めて比較をした場合、日本の法律家人口は既にフランスを大きく上回っている(弁護士白書2009年版によれば、フランスは国民1275人に1人、日本は国民773人に1人、ドイツは国民547人に1人)。

 論争の内容は、法曹人口といいながら、実質は弁護士人口の問題に終始している。題名だけから見るとあれだけ司法改革といいながら弁護士人口は増えていないのかと、普通の人なら思うだろう。

 では本当に弁護士人口は増えていないのか。

 弁護士人口は、1980年には、11441名、司法改革がいわれはじめた1990年に13800名、その後2000年には17126名、2010年には28810名まで増加している。

 増加人数で見ると

 1980年→1990年  2359名増員

 1990年→2000年  3326名増員

 2000年→2010年 11684名増員

 ここ10年だけ見ても1.7倍にまで増加しているのだ。

 すなわち、法曹三者(弁護士・裁判官・検察官)のうち、人数だけでなく比率からいっても、司法改革路線に則って、最も増員したのは弁護士である。法曹人口が増えないというのであれば、一番増加している弁護士よりも、なかなか増加しない裁判官・検察官について論じるのがスジであるはずだ。

 しかし、マスコミはどういうわけか、弁護士増員問題ばかり採り上げる。毎日新聞も例外ではないようだ。

さらに、立会人は、弁護士の収入は高いと非難するようだが、欧米のリーガルコストはそれこそ、日本の何倍、何十倍である。国際社会で戦われている企業の方はご存じだろうが、おそらく、世界的に見て日本の弁護士費用は極めてリーズナブルな方に入るはずだ。

 例えば、以前にブログにも書いたが、2007年度売上1位の巨大ローファームであるクリフォード・チャンスは、弁護士数2654名で、売上高およそ22億1000万ドル、当時のドル円レートである1ドル=91円換算で、2002億9100万円である。つまり、クリフォード・チャンスというローファーム一つに、2000億円ものリーガルコストの支払がなされているのだ。

 これに対し、平成21年度の日本司法支援センターの資料を見ると、民事法律扶助事業経費として支出予定の予算額は、わずか139億8400万円である。弁護士数2654名のクリフォード・チャンスの売上の約15.75分の1の予算しか、日本の全国民のための法律扶助予算は、つけられていないのだ。単純に計算しても、国民1人あたりに換算して、イギリスの約40分の1しか民事法律扶助の費用が出ていないのだ。

 この貧弱な法律扶助制度を充実させずに、何が司法改革だと私はいいたい。

 このような事実も知らないで(若しくは無視して)、勝手なイメージで弁護士の収入は高いとして議論をさせようとするのが立会人なのだから、宇都宮会長もさぞかし困ったのではないだろうか。立会人である以上、誤った方向に導く質問をするのはフェアではないだろう。

 だんだんエスカレートしてしまいそうなので、このあたりにしておくが、きちんと事実を報道するべき新聞社が、フェアでないのでは、国民はいったい何の情報を信じればいいのか分からなくなる。権力や利権に負けず事実を報道する、万一誤りがあれば訂正して正しい情報を国民の皆様に伝える、というマスコミの矜持を取り戻してもらいたい。

ちょっと嬉しいこと

 2年ほど前に、自治体で無料法律相談をし、その後何度か事務所に法律相談に来たことのある方が、尋ねてこられた。

 法律相談の際には、その人は、ある財産犯を犯しており、発覚する寸前だった。私が調べたところ、私の持っている量刑データベースによると、同じ犯罪で同じくらいの被害額では、執行猶予になった事例はなかった。

 その人は本当に悩んでいた。自首することは非常に勇気が要ることでもある。自首せずに逃げてしまおうかと本気で考えていた。家族も、そう勧めたそうだ。

 私は、迷うことなく自首を勧めた。第一には、その人の家族や今後の生活を考えれば、間違いなくその人は社会内で更生すべきだと思われたため、執行猶予の可能性を少しでも高める方法として、自首すべきだと考えたからだった。

 もちろん、自首したからといって執行猶予が付く保証は全くなかった。しかし、そのリスクがあっても、事件関係者とその人との関係、その人のこれからの人生も考えるなら、罪は罪と認めてきちんと責任を取ることが、その人にとって最善だと判断したという面もあった。

 結局その人は、自首した。起訴された後の裁判では、私選では弁護士費用が捻出できないということだったので、国選弁護人の先生に弁護してもらったそうだ(国選弁護では弁護人を選ぶことはできないので、私が弁護することはできなかった)。

 そして、被害弁償もほぼできないというギリギリの状況下ではあったが、国選弁護人の先生の努力と、自首したことが情状面で考慮され、執行猶予をもらえたのだそうだ。

 判決を聞いた際に、体中から力が抜けたそうだ。

 「あのとき、先生(私)に相談して、自首を勧められなかったら、間違いなく実刑でした。先生の言葉がずっと心に残っていて、自首する勇気につながりました。本当に有り難うございました。」

 その人は、そう言って深々と頭を下げてくれた。

 どのように、その人を説得したのか、2年も前のことなので、私はもう覚えていなかった。 しかし、執行猶予判決を伝えるその人の顔は、心からの安堵と決意に満ちていた。

 執行猶予が付されたとはいえ、刑事責任が0であったというわけではない。また、その事件についても、他の面についても、その人には、これからやらなければならないことは多い。

 しかし、刑務所に行かなくてすんだということで、これから、皆さんにご迷惑をおかけした分、頑張って恩返ししていきたいという思いが、その人には、みなぎっていたのだ。決して平坦な道ではない、むしろ極めて厳しい道だろうが、この人なら頑張れるかもしれないと、私は思った。

 その人の人生に、ほんの僅かではあるが、お役に立てたかもしれない。そう思うと、ちょっと嬉しかった。

ネットの功罪

 私は、大学で演習を担当して4年目になるが、学生のインターネットへの依存度が年々高まっているのではないかと感じている。

 私の演習では、事前に課題を出題し、解答させて検討するというスタイルを取っているが、殆ど同じような間違いを犯した解答が連続して学生から提出されることがある。

 先日など、遺失物(落とし物)に関する出題をしたのだが、学生のほぼ7割が「遺失物は、遺失物法に定めるところに従い、広告をした後六ヶ月以内にその所有者が判明しないときはこれを取得した者がその所有権を取得する。」(民法二四〇条)と解答してきた。

 遺失物法は平成18年に改正され、遺失物に関しては広告後三ヶ月以内と期間が短縮されている。民法二四〇条にもそう書いてあるので、民法の教科書を読むか、六法で条文を参照すれば、間違いようがない問題だ。

 間違えた学生たちに、どこで調べたのか聞いてみると、ほぼ全ての学生がインターネットで調査したと返答していた。私の感触では、年々その傾向は強まりつつあるようだ。

 インターネットの情報は確かにお手軽だ。キーワードを上手く拾えば、検索エンジンを用いて容易に解答にたどり着けることもあるだろう。しかし、その情報は必ずしも正確なものではなく、過ちを含んでいる可能性がある。ネット上の情報は、コピーアンドペーストにより、ねずみ算的に増殖していくので、誤った情報の方が多くネットで流通している危険すらある。

 言い古された言葉になるが、インターネットを情報の手がかりとして利用するのは良いが、その情報に全面的に頼った場合、思わぬ痛手を被る危険があることを知って利用すべきだ。

 それでも、ネットの情報が正しいのか、教科書くらいチェックしたらどうなんだろう。

 だって、大学生なんだから。

善き羊飼いの教会

 ニュージーランドのテカポ湖の湖畔にある小さな町、テカポに、「善き羊飼いの教会」という名の小さな教会がある。

 ものの本によると、1935年に開拓民により建てられたそうで、小さく質素な教会である。ここの祭壇は特徴的で、小さな十字架の掲げられた祭壇の後ろは、ガラスになっており、湖と遠くの山脈が一望できるように作られている。

 また、テカポ湖は、氷河の溶けた水が流れ込むこともあり、非常に美しいターコイズブルーの湖水を持つ。したがって、教会内からみる祭壇は、その美しい湖水と、遠くに雪を頂く山々を、同時に十字架の背景にしているという仕組みになるのだ。

 そのこぢんまりしたかわいらしさに着目してか、日本人のカップルの結婚式も時々あるそうだ。その話を聞いて、私は、勝手に俗化された教会をイメージしていた。だから敢えて人のいなさそうな遅めの時間に教会に行ってみたのだった。

 私がわざと遅く訪れたときは、もう夕暮れ時で、教会も閉まっていた。そのため残念ながら特徴的な祭壇を教会内から見ることはかなわなかった。ただ、遅い時間に訪れたため、観光客は殆どおらず、ゆっくりと暮れていく夕陽の中で、ひっそりと湖畔に佇む小さな質素な教会を(外からだけだが)のんびりと見ることができた。

 夕陽が、誰もいない教会の窓に灯をともし、鳥たちが隊列を組んでねぐらに向かっていた。

 あたりは、ひたすら静かだった。

 俗化しているのではないかという私のありきたりな予想などとは全く関係なく、教会は、すっと背筋を伸ばし、遠くを見つめるように、そこにいた。それを見て、私は、おそらくこの教会は俗化などとは一切関係がない教会なのではないかと考えを改めた。

 教会自体は、建てられた当初から、ただ信仰のために訪れる信者の拠り所としての役目を果たしているだけであって、それ以上のものではないのだ。どれだけ観光客が訪れようが、その役目に変わりはなく、またその役目を立派に果たしていることにも変わりがない。俗化しているかどうかは結局他者から見た外部的判断であって、どんな判断をされようと、教会自体は、自らの役目をじっと、黙って果たしているし、これからも果たし続けるのだろう。

 その光景の静けさを上手くカメラに納められない自分に少しいらだちながらも、私は、75年前に建てられた、小さな湖畔の教会から、静謐だが、豊かな夕方をプレゼントしてもらったような気分になっていた。

法科大学院志願者減

 法科大学院志願者の減少が止まらない。

 法科大学院志願者は、大学入試センターが行っていた「法科大学院適性試験」か、日弁連法務研究財団が行っていた「法科大学院統一適性試験」を受験しなければならないから、その志願者数を見ればおおよその見当は付く。

 大学入試センターが行ってきた適性試験の志願者は、平成15年から平成22年までの8年間に次のように推移した。

 39,350→24,036→19,859→18,450→15,937→13,138→10,282→8,650

 なんと、8年間で、ほぼ5分の1、冗談のような減少ぶりである。

 日弁連法務研究財団の適性試験の方は、大学入試センターほどの落ち込みはないにしても、平成15年に20,043名いた志願者が、平成22年には7,819名に減少している。こちらは6割減で、当初志願者数の4割程度になっている。

 明らかに異常な減少だろうと思われる。志願者数が少なければ優秀な人材を確保することが困難になることは、誰の目にも明らかだろう。少なくとも、この8年間のデータを見る限り、優秀な人材を継続的に確保するという意味において、法科大学院は失敗したと言っても良いのではないだろうか。

 法科大学院には、当初、多様な人材を法曹界へと導く意義があると強調されたこともあるが、学部別の統計がある大学入試センター主宰の適性試験で見てみると、平成15年には42.57%あった、法学部以外の出身の志願者が、年々減少を続け平成22年度では、ついに26.36%にまで落ち込んだ。

 もはや、法科大学院制度には、多用な人材を法曹界に導く意義すら失われつつある。先日引用した、第151回国会の法務委員会での質疑で、この惨状を暗示するかのような、次のような委員の発言があった。

○中村(哲)委員 

 先生(坂野注・ここでの「先生」は佐藤幸治教授を指す。ちなみに中村委員は京大法学部出身で、佐藤教授の講義も受講していたそうだ。)、だからこそ、枝野さんが申しましたように、教育のあり方、鍛え方というのが予備校が今すぐれているということは認識しないといけないと思うのです。
 私は、先生の講義を聞いて大学の講義を中心に勉強しましたけれども、結局司法試験に受かりませんでした。そうじゃなくて、大学の授業に一年生から出なくて、予備校に行った人が受かっていっています。そういうふうなことを真摯に考えていただかないと、若者は本当に、大学の先生の言葉を信じて勉強した人はばかを見ます。
 その点だけ確認させていただきまして、時間がなくなりましたので、私の質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。

(引用終わり)

 果たして、大学の先生の言葉(もちろん当時の日弁連執行部の責任もある)を信じて作られた法科大学院制度が本当に正しかったのだろうか?

 大学の先生の言葉を信じて勉強した法科大学院生たちは、馬鹿を見ることはなかったのだろうか?

 そして、誰がその責任を取るのでしょうか?

予備校の弊害って・・・・?

 昨日の続きになるが、旧司法試験批判として、予備校の存在が大きくなっていたという事実を指摘する声が大きかったのは事実だろう。

 しかし、本当に予備校通いをすることが、弊害になっていたのだろうか。大学入試だって予備校がある。司法試験予備校で受験勉強をすることが、それ自体で問題視されるなら、大学受験予備校だって同じ問題が指摘されても不思議ではない。

 上記の通り、素朴な疑問もあるが、本当に、旧司法試験時代における受験生の予備校通いに問題があったかどうかについては、司法研修所教官が最もよく分かっているはずだ。

 なぜなら司法研修所教官は、司法試験合格後に合格者が司法修習を行う司法研修所の教官であり、一流の実務家(裁判官・検察官・弁護士)がその任に当たっているからである。司法試験合格直後の司法修習生を、一流の実務家が担任制で半年以上も直接様子を見ているのだから、司法研修所教官以上の確かな回答をできる立場の人はいないはずだ。

 残念ながら、司法研修所教官らの声はなかなか外に洩れることはない。もちろん司法制度改革審議会も新たな法曹教育のあり方を検討するうえで、最前線でその任に当たっている司法研修所教官から事情を聴取したはずだ(昨日記載した佐藤教授のように直接聴取していない可能性は否定できないが、まさかそこまでひどく偏向した審議会であったとは思いたくはない・・・・。)。

 ところで、日弁連法務研究財団が10年前に行っていた、次世代法曹教育フォーラムでは、司法研修所教官の貴重な声が、垣間見える。下記のリンクを参照されたい。

http://www.jlf.or.jp/jlfnews/vol6_1.shtml

 リンク切れの虞もあるので、そのフォーラムに参加された、東大教授(当時)の高橋宏司教授の「次世代法曹教育フォーラムに出席して」から、引用させて頂く(アンダーライン、字句の色の変更は、坂野が行っています)。

大学人と司法研修所教官経験者との認識のずれが明確化(第1回)

 3月22日に開かれた第1回は、委員がお互いを知り合う顔合わせを兼ねて、次世代の法律家のあるべき姿は何かの自由な意見交換に当てられた。結果として、参加委員全員がなんらかの発言をし、相互の理解は深まったように思われる。しかし、内容面では、どちらかと言えば現行の司法研修所修了者に照準を合わせ、そこが次世代でもあるべき姿だと捉える見解と、次世代の法律家はそれでは足りず更に上の質を目指すべきだという見解に分かれたようである。ともあれ、第1回の大きな収穫は、大学人が現在の司法試験合格者が暗記に走り法的思考能力が劣ると批判するのに対して、司法研修所教官経験者側から司法研修所の教育によってその程度のマイナスは十分に矯正されている、司法研修所修了者の質が劣化していることはない、との反論があったことであろう。大学人側の認識と司法研修所側の認識のずれが、明確になったのである。関連して、司法研修所教官経験者の一部から、大学は司法試験予備校に教育において負けたのである、その点を大学人は見ようとしないし認めようとしない、そこに大きな問題があるという指摘もなされ、議論は白熱した。第1回は、相互の親睦を深めるため、地下の桂で親睦会を開き、盛会であった。

出席者の語る司法試験予備校の実態(第2回)

 4月20日の第2回は、大学での法学教育の問題点を探ることに当てられたが、司法試験予備校の実態を探ることから始められた。最近、司法研修所を修了した、ということは数年前に予備校を利用して司法試験に合格した若手弁護士2名から自己の予備校体験談、および他の予備校の探察談が語られた。大学人は予備校を常に批判するけれども、どれだけ予備校の実態を見て批判しているのか危ういところがあるとの感想も付け加えられた。弁護士委員の一部からは、今や日本では予備校でこそ体系的法学教育がなされている、大学においてではない、という強い声も飛び出した。若手弁護士へのアンケート結果でも、大学教育は役に立たなかったという割合の方が高いという大学人にはショッキングな報告もなされた。公平に見て、大学人からの反論は十分ではなかったというべきであろう。

司法研修所の本当の問題点は?(第3回)

 5月24日の第3回のフォーラムは、大学の法学教育の問題点の補論と、司法研修所での修習に問題点があるかに向けられた。前半では、大学側委員の一人から、大学人は真剣に反省しなければならない、予備校に教えに行く大学教師も少なくないが、そういう者が大学教師としては予備校批判を口にする、これは奇妙ではないか、という発言があったのが印象深い。司法研修所に問題点があるかの本題では、スキル教育に偏重している、法哲学や法社会学を教えないのはおかしいという批判が弁護士委員からなされたが、裁判官委員その他から、司法研修所は司法試験合格後の修習であるからスキル教育でよいとの反論があり、大学人委員の多くもそちらに同調した。続けて、本当の司法研修所の問題点は、裁判官のリクルートの道具となり「官僚裁判官の養成場と化していると主張されていること」ではないか、それを討議しなければフォーラムの意味がないのではないかという発言があり、そこに討議が向けられることになったが、残念ながら、裁判官リクルート批判を強度に展開する委員が少なく、やや不完全燃焼の感が残ったようにも思われる。
 さて、現状についての相互認識の開陳は終わり、第4回、第5回は、いよいよ近未来のあるべき法律家養成に焦点が向けられる。法科大学院の構想、実務教育のあり方、司法研修所の存置等が、直接の話題となるであろう。これまでの3回でよい意味での本音がかなり出されたので、深みのある討議がなされると期待しているところである。

(引用終わり)

 このような当時の現場の声を聞いてみると、いかに予備校教育が流行しようが、むしろ体系的理解を与えてくれて実務に役立つのであれば、大学より良いわけだ。大学受験予備校だって大学に入学できるだけの学力を身につけてくれるのであれば、それで大成功であるはずだ。

 昨日の佐藤教授の発言が明確に示していたように「予備校=悪」とみなして進められた法科大学院構想が、大学側の勝手な思い込み(若しくは学生を奪い返すための姑息な手段)であった可能性は極めて高い。

 いくら大学教授が、予備校教育によって丸暗記の弊害があると言い張っても、現場の一流の実務家が(仮にそのような弊害があっても)司法研修所での教育で十分矯正され、実務家としてのレベルは落ちていないと言っているのだから、後者の評価が正しいことは明白だ。

 なぜなら、殆どの大学教授は、実務家ではないし、司法研修所の教育を受けたこともないからである。実務家の評価は、実務家が一番分かっている。それにも関わらず、佐藤教授を会長とする司法制度改革審議会は、実務家教育について、実務家の意見を聞き入れたのかどうか明確ではない。むしろ、昨日のブログに引用した枝野vs佐藤論争からみれば、佐藤教授は明らかに、「予備校=悪」の観念に凝り固まったまま審議会を主催されていた様子が伺える。

 このフォーラム第1回で司法研修所教官経験者が語ったように、大学は法曹教育において予備校に負けたのである。しかし大学は、その事実を頑なに認めようとせず、法科大学院制度を導入する、制度変更という手段によって予備校を駆逐しようとしたのだろう。しかし、大学側はもう一度敗北したのだ。仮に、法科大学院が本当に素晴らしい教育をしているのであれば、今も司法試験予備校が隆盛しているはずがないではないか。つまり、枝野vs佐藤論争で、いみじくも佐藤教授が予備校のような教育をやろうと思えば出来ると豪語していたが、実は、それすらも出来なかったということになりはしないか。

 さらに、法科大学院側は、予備試験合格者を減らすよう要望しているという。また、法科大学院志願者が激減していることを、新司法試験の合格率のせいにして、新司法試験の合格率を上げるように要求しているそうだ。

 ちょっと厚かましすぎるんじゃないだろうか?