ある懲戒処分に関する雑感

 先日、弁護士の某先生が懲戒処分を受けたことを会報で知った。

 私はその先生と特別に懇意にしていたわけではないが、

私の知る限り、

 自分のことよりも依頼者の利益を真剣に考える先生であり、
 知識も経験も倫理観も、十分備わった優秀な先生であり、
 さらに消費者問題など、殆ど経済的利益がない公益活動にも全力で尽力される先生であった。

最初は懲戒処分の記事が間違っているのではないか、と思ったくらいだ。

 詳細は不明だが、事案の概要等からみると、事務所の運転資金に行き詰まった結果の不祥事だったように思われる。
 その先生のことだから、安易に不祥事に手を出したわけではなく、物凄い心理的葛藤があったはずだ。被害金員については、知人に借り入れて弁償が済んでおり、知人に対しても自宅を売却した代金で返済されているようだ。

 このように優秀で、公益活動に熱心な先生でも、事務所運営に行き詰まることがあるのが、今の弁護士界である。(ちなみに、私の元ボスの一人も、弁護士資格と公認会計士資格を持ち、大会社の社外取締役をも務めていたが、「仕事がこない」とのことで5年ほど前に引退している。)

 これまでマスコミや、学者達は、公益活動で自腹を切りながら国民のために働いている弁護士の存在も知らず、安易に、弁護士は資格に甘えるな、弁護士を増やして弁護士も競争しろ、と世論を煽ってきた。
 彼らの理屈は、弁護士にも自由競争をさせれば、より良い弁護士が繁栄して生き残り、悪質な弁護士は淘汰できるというものだった。

 仮にその理屈が正しいとすれば、今回懲戒を受けた某先生は、優秀かつ公益活動にも熱心だったので、社会が求める「よい弁護士像」に合致する方であり、繁栄していないとおかしい。私の元ボスも法務面に加え会計面にも明るく、大会社の社外取締役の経験もある弁護士だから、仕事の面だけから見ると、仕事が集まって来なくてはおかしいということになる。

しかし、現実はむしろ逆だった、ということである。

 そもそも、自由競争は、経済的には、儲けた者(利益を上げた者)が勝つ仕組みである。良い仕事をする弁護士には顧客が集まり経済的に繁栄するであろうし、そうでない弁護士には顧客が来ず衰退し淘汰されるであろう、という仮定のもとに、「自由競争させればより良い弁護士が生き残る」、という理屈は成り立っている。

 だが、弁護士の仕事は極めて専門的であり、依頼者の意向も絡むことから、弁護士の仕事の良し悪しを見抜くことは同業者でも簡単ではない。一般の国民の皆様にとっては、その判断は、なおさら困難だ。また、依頼した弁護士が実際にどのように処理を行うのかについても、依頼の段階では分からない場合も多い。
 だから、依頼者側に弁護士の仕事の良し悪しが判断できない以上、弁護士業に関しては、自由競争の前提が崩れており、自由競争が成り立たない場面なのだ。

 もう少し分かりやすく例えて言えば、
 味の分からない人ばかりの街で、美味い蕎麦屋を生き残らせることができるのか、という状況に近いといってもよいだろう。
 このような状況で、「蕎麦屋をどんどん増やして競争させれば美味い蕎麦屋が生き残るはずだ」とは、到底いえまい。
 このような状況で、蕎麦屋をどんどん増やして競争させた場合、蕎麦の味とは関係なく顧客を集めるのが上手い蕎麦屋が繁栄するだろう。その反面、顧客が集まらなければ、どんなに美味い蕎麦を出していても、その蕎麦屋は潰れてしまうのだ。

 弁護士の仕事に関しても、その良し悪しを依頼者が殆ど判断できない現状では、蕎麦屋の例とよく似た状況と言って良い。

 某先生の記事から、優秀で公益活動にも熱心という、本来国民から求められるべき弁護士像に近い弁護士の先生であっても、経営に行き詰まりかねないという、現在の弁護士界の異常な状況を改めて痛感した次第である。

マドリッドの動物園で。(写真と記事は関係ありません)。

吉田神社節分祭(鈴鹿さんのご祈祷)

 昨年、一昨年のブログにも記載したが、私は、数え年で42歳の時にご祈祷を受けてから、ほぼ毎年、母校の京都大学の近くにある吉田神社の節分祭で、大元宮でのご祈祷をして頂いている。
 今年は、私がパートナーを務める事務所の繁栄と、自身の災難除けをご祈祷の趣旨とさせて頂いた。

 ご祈祷をして下さる神職の方は何人かいらっしゃるが、幸いなことに今年も、鈴鹿さんにお願いすることができた。
 私が特に鈴鹿さんのご祈祷を気に入っている理由の詳細については、2023年2月3日付のブログに記載しているので参照して頂きたい。

一部だけ引用すると、

「(前略)うまくたとえることができないのが残念だが、鈴鹿さんの祝詞がはじまると、まるで、現世の雑音や世俗の様々な出来事を遮断する、神様の清浄な領域が鈴鹿さんを中心にして現れ、本殿を満たし清めていくようにも感じられる。
 そして、その清浄な領域で響く鈴鹿さんのお声は、どこまでも、よどみなく清んでいるのである。(後略)」

 今年のご祈祷では、幸いにも単独でご祈祷頂くことが出来た。参拝するにも長い列が出来る程混雑していた大元宮で、単独でご祈祷いただけたのは幸運と言うほかない。

 更に言えば、鈴鹿さんのご祈祷は、私の期待を裏切ることがない。

 じつは、これは、簡単なようで、非常に難しいことなのだ。

 例えば、初めて行ってみた飲食店の料理が凄く美味しかったので、しばらくしてもう一回行ったところ、同じ料理なのに思ったほど美味しく感じなかった、という人は多い。
 「このお店の料理は美味しかった」という経験があった場合、客としては、「美味しかった、あの美味しさをまた経験したい」、という期待がどんどん膨らんでしまう。そして、その結果、お店の料理が前回と全く同じレベルでも、お客側が勝手に膨らませた期待を満たすことができず、以前ほど美味しく感じないということが主な原因だろうと思われる。
 逆に言えば、期待を裏切らないということは、お客が勝手に膨らませる期待よりも、提供側が進化していないと実現出来ないのだ。

 このように、期待を裏切らないこと、すなわち、「お客が勝手に膨らませる期待を上回る進化を、提供側が常に実現していなければならないこと」は、実は、並大抵のことではないのである。

 私の期待を裏切ることのないご祈祷をしてくださる鈴鹿さんも(きっと他の神職の方々もそうだろうが)、おそらく、神様に願い事を届けたい人々の想いを実現するために、日々の生活等において、たゆむことなく、常に進化し続けておられるのだろう

 今年の吉田神社の節分祭は、本日の後日祭で終わりである。参道を埋め尽くす露店は昨日までなので、落ち着いた雰囲気がかなり戻っているのではないかと思う。
 吉田神社では、節分の期間に限って、特別な梔色(くちなしいろ~厄除けの色とされている)のお札などが授与されているし、大元宮内院の特別参拝も可能なので、機会があるのなら参詣されることを、お薦めする。

コロナ渦だった2011年の吉田神社節分祭(露店もなく閑散としていた)

もう廃止で良いんじゃないですか?

2009年 「教育の質の向上のための改善方策について(報告)」
2012年 「教育の更なる充実に向けた改善方策について(提言)」
2013年 「今後検討すべき教育の改善・充実に向けた基本的な方向性」
2014年 「教育の抜本的かつ総合的な改善・充実方策について(提言)」
2018年 「抜本的な教育の改善・充実に向けた基本的な方向性」
2022年 「教育の更なる充実と魅力・特色の積極的発信について」

 これらは、2004年に創設された文科省所管のある教育機関について、その機関に関する文科省特別委員会が発信してきた、提言等の名称の一部抜粋である。

 上記の提言等の名称から、素直に考えれば、

 この教育機関では、

 創設の5年後には、当初の目的に比べて教育の質が低いという問題が生じており、その問題に対応するための改善策についての報告がなされている。

 更にその3年後においても、教育を更に充実させなければならない事態が生じている(もしくは改善されていない)ことが分かる。

 その1年後においても、教育の改善・充実が必要な事態は解消されておらず対応が求められている状況が分かる。

 更にその1年後には、もはや抜本的・総合的な教育の改善と充実が必要な状況にまで陥っていることが窺える。

 抜本的というのであるから、さすがに、これで改善したのかと思っていたら、

 更にその4年後にも、抜本的な改善と充実が必要であることが示され、

 その4年後においても、教育の更なる充実が必要であることが示されている。

 あくまで提言等の名称からの推測に過ぎないが、この教育機関における教育の質に関する問題は20年も改善のために様々な議論をし、策を講じてきたものの、結局、何ら解決していないように見える。

 この教育機関は、法科大学院であり、提言等を行っているのは文科省中央教育審議会大学分科会法科大学院等特別委員会である。

 20年かけても改善できないのであれば、制度自体に大きな問題があると考えるのが最も合理的だ。
 改善します、改善します、といいながら一向に成果が上がらないのであれば、民間なら、さっさと主導者をクビにし、これまでの制度を廃止して、新たな方策を取るはずだ。無駄な制度に投資する余裕など、どこにもないからである。

 制度導入時に導入賛成側の学者は、具体的な根拠も示さず、法科大学院におけるプロセスによる教育が大事などと言っていた。しかし、それなら、実際の司法試験において、予備試験合格者、法科大学院在学中受験者に比べて、プロセスによる教育を最も長期間受けてきたはずの法科大学院卒業者の合格率が、一番低い(しかも圧倒的に低い)のは、なぜなんだ。

 予備試験経由の実務家が法科大学院卒業の実務家に比べて劣っている証拠はどこにもないし、それどころか、大手法律事務所の多くは、プロセスによる教育と関連が最も低い予備試験経由の司法試験合格者を、むしろ優先的に雇用している。
 これと逆に、「予備試験経由の合格者は、プロセスによる教育を受けていないので、採用しません」などという事務所を、少なくとも私は見たことがない。

 このように、実務では、プロセスによる教育の必要性・優位性などは、どこにも見出せないのである。つまり、実務においてプロセスによる教育は全く評価されていないし、意味がないといっても良いくらいの状況にある。

 法科大学院制度の最も重要な売りの一つであった「プロセスによる教育」に意味が見出せないのだから、文科省の権益や大学の権益、見栄もあるだろうが、もう廃止で良いじゃないか。

 

 国民の皆様から多額の税金を投入してもらって、何やってんだ。

 多額の税金を投入しても成果が出せず、実社会でも評価されていないのであれば、税金の無駄としか言いようがないではないか。

遅ればせながら、今年のご挨拶を申し上げます。

 毎年、新年にはご挨拶を申し上げているのですが、ワードプレスの不調により、ご挨拶が遅れました。

 昨年は、ワードプレスにトロイの木馬が侵入してHPも表示できなくなるなど、ひどい目に遭いましたが、今回の不調は私のブログだけだったようです。

 大変遅くなりましたが、今年もウィン綜合法律事務所は、皆様のご依頼に対して最良の結論を目指して、努力して行く所存です。

 御指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い致します。

今年の年賀状は、北海道で撮影した月を用いました。

司法試験の選抜機能の低下の懸念

 今年の司法試験合格者数は1592名とのことだ。

 最高裁判所の令和7年度概算要求には、司法修習78期(令和7年修習開始)のテキスト部数として1535部が予定されていたことから、合格者は1500~1550人くらいではないかと私は予想していたが、予想を少し上回った結果が出た。

 昨年、法科大学院在学中受験制度開始に配慮して1781名の合格者を出してしまったことから、司法試験委員会としては、各所におもんばかって、合格者の急減という印象をできるだけ抑えたかったのだろうと推測する。

 とはいえ、今の司法試験は、ほぼ4人に3人が合格できる短答式試験を突破すれば、2人に1人以上が最終合格してしまうし、総合点で受験者平均点を26点下回っても合格できてしまう試験なので、今の司法試験が選抜機能をきちんと果たしているのかについては、疑念が拭えない

 この点、受験者の質が向上しているから、構わないとの反論もあるだろう。

 

しかし、短答式試験は昔に比べて簡単になっており、その得点率から見ても、上記の反論はあたらないと私は考えている

 平成30年8月3日 司法試験委員会決定
「司法試験の方式・内容等の在り方について」
には、次のように書かれている。

『4 出題の在り方
短答式試験は,裁判官,検察官又は弁護士となろうとする者に必要な専門的な法律知識及び法的な推論の能力を有するかどうかを判定することを目的とするものであるが,その出題に当たっては,法科大学院における教育内容を十分に踏まえた上,基本的事項に関する内容を中心とし,過度に複雑な形式による出題は行わない。

 今の司法試験短答式試験は、昔と違って、基本的事項に関する内容が中心で複雑な形式も取らない、要するに簡単な形式で、基本的な事項に関連する問題しか出さないと司法試験委員会は明言している。
 その短答式試験(175点満点)では、全受験者の平均点が112.1点であるところ、93点取れば合格できてしまう。

 基本的な問題でも、全受験者の平均得点率は64%しかなく、さらに53%しか得点できなくても、短答式には合格できてしまうのだ。

 仮に医師国家試験で、基本的な問題であるにもかかわらず53%しか正解できない受験者を医師にして良いか?と問われれば、国民のほぼ全てが「ダメ」と答えるのではないだろうか。

 基本的な試験問題しか出されないのであれば、64%の得点率でも、もっと実力をつけてからでないと医師になって欲しくないと考える国民は多いはずだ。

 そして前述したように、司法試験短答式試験に合格すれば、約54%、半分以上の受験生が最終合格してしまう。

 今の司法試験が適切な選抜機能を持っているのかについて、疑念を持っているのは、私だけではないはずだ。

「ミカン買占め作戦」と闇バイト

 子供だった頃、ウルトラマン・ウルトラセブンなどの円谷プロの特撮番組の他、仮面ライダー、人造人間キカイダー、超人バロム・1(ばろむ・わん)など、戦隊モノの前身とも言うべきTV番組があり、毎週楽しみに見ていたものだ。

 大体、悪の秘密組織が世界征服を狙って様々な活動を行うのだが、ヒーローに阻止されるストーリーが多かった。
 

 確か、キカイダー01(ゼロワン)で、世界犯罪組織シャドウが、世界征服のために、ものスゴイ作戦を敢行したことがあった。

 名付けて「ミカン買占め作戦」

 ミカンを買い占めることにより、ミカンを品薄にする。
 ミカンを食べたい子供たちはミカンを奪い合うようになる。
 ミカンの奪い合いにより、子供たちは友達を裏切るなどするようになり、他人を信用せず、自分のことしか考えられなくなる。
 そのような子供たちが大人になれば、他人を信用せず、自分中心の性格の大人ばかりになり、争いだらけの社会になる。
 争いだらけの社会になれば、世界は滅びに向かい、世界はシャドウの思い通りにできる。

 というのが「ミカン買占め作戦」の大体のストーリーだった記憶がある。

 「ミカン買占め」といいつつ、シャドウの怪人ハカイダーは、ミカン運搬車を襲って運搬中のミカンを強奪していたので、実際には、ミカン強奪作戦で、買占めなどやっていなかったのが少し笑える。
 しかし、社会の連帯を断ち切れば世界が滅びに向かうという点においては、着眼点としては優れていたように思う。

 キカイダー01がTV放映されていた時代から、半世紀が経過した。

 新自由主義が推し進めてきた、市場万能主義により、ごく一部の富裕層が世界の富の大部分を独占し、大多数の庶民の富を枯渇させる状況に、社会を追い込んでいるように見える。
 日本の政治家達も、選挙の際にはほぼ全員が、弱者救済、中小企業対策の重要性を唱えるが、実際には、大企業の内部留保は増大、法人税は減税、企業献金は廃止しない、その反面消費税を増税するなど、一部の富裕層に富が集中する現実を招く政治を行ってきた。

 富が枯渇している大多数の庶民としては、生活するだけでも大変な状況になれば、他人を思いやる余裕は当然失われ、自分や家族を守るために、自分中心の考えに傾いても仕方ないだろう。
 近時の闇バイト問題も、富が偏在しすぎている現実の影響から、自分中心の考えが生じて事件を起こしている可能性を捨て切れまい。

 自分中心の考えを持つ大人たちばかりになれば、争いの絶えない社会になり世界は滅びに向かうというのがシャドウの狙いだったが、シャドウの狙いが新自由主義経済の下での政治で、まさに実現しつつあるのではないか。

 社会の連帯を断ちきり、世界が滅びに向かえば、困るのは富裕層も同じじゃないか、とぼんやりと思うのだが。

新海誠監督 「雲のむこう、約束の場所」 放送決定

 10月13日午後7時から、BS-TBSで、新海誠監督の映画、「雲の向こう、約束の場所」が放送されるという報道を目にした。

 

 映画自体は、2004年公開だったと思うから、もう20年になる。当時思春期だった人たちも30代後半~40代に近づいているだろう。

 私は公開当時この映画を見ておらず、後で、DVDを購入して見た。

 まだご覧になっていない方には、強くお勧めする作品である。

 もう13年も前になるが、私は2011年10月27日に、映画を見た私は、ブログに少し長めの感想記事を投稿している。思い違い等もあるかもしれないが、映画鑑賞直後の新鮮な私の受けた印象を記載しているので、「へぇ~、この映画について、こんな見方をする奴もいるんだなぁ~」程度で読み流してもらえれば幸いである。

 但し、私のブログ記事は、ネタバレを含むので、まだ映画を御覧になっていない方で、気になる方は、映画を見てからお読みになることをお勧めする。

(私のブログ記事~映画の感想・ネタバレあり~ここから)

以下、ネタバレを含む私の感想である。私はDVDを見ただけであり、パンフレットなどの関連書籍等も一切読んでいないので、思い違いや不正確な部分があるかもしれないし、後で考えが変わるかもしれないが、映画を見た者としての現時点での感想として、お許し頂きたい。

最初に、この映画を見終わったときに、まず、ノスタルジックで美しいという印象を受けた。しかしその中で、いくつかの違和感を感じた部分があった。

違和感に関連するのは、

まず、主人公ヒロキの「あの遠い日に、僕たちはかなえられない約束をした。」というモノローグである。

つぎに、冒頭に大人になったヒロキがタクヤと一緒に飛行機(ヴェラシーラ)を作っていた思い出の地を訪れるのだが、そのときヒロキが一人であり、決して楽しそうな表情を浮かべているわけではない、ということ。

サユリが廃駅跡から落下しそうになったときにヒロキが手をさしのべるが、そのときサユリが「以前にも私たち・・・・」と語ること、

ユニオンの塔まで飛行する前日の眠りで、夢の中の教室で再会したサユリに対して、ヒロキが帰ろうとする際に、「おやすみ」と声をかけること、

そして、ユニオンの塔まで飛行し、長い眠りから覚めたサユリが、夢の中でヒロキ君と呼んでいたにも関わらず、目覚めたときにヒロキに対して藤沢君と呼びかけること。

彼女はいつも何かをなくす予感があるといっていた、というモノローグ、

等である。

「雲のむこう、約束の場所」という映画の題名から考える限り、ヒロキのモノローグで言うところの「約束」とは、タクヤと一緒に作った飛行機ヴェラシーラで、サユリをユニオンの塔まで連れて行くことと解釈するのは素直かもしれない。しかし、ヒロキは実際にはタクヤの協力を得てヴェラシーラを飛ばし、ユニオンの塔までサユリを連れて行きサユリの長い眠りを覚まさせているのである。

つまり、上記の意味での約束であるならば、約束はかなえられているのだ。

だが、ヒロキの「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というモノローグは、その経験の後において語られている。

どこか引っかかる。

確かに、ヒロキとタクヤとサユリは3人で、一緒にユニオンの塔まで飛ぼうと中学生の時に約束をしている。そして、その約束はかなえられた(3人一緒という意味では約束は叶っていないが、元もとヴェラシーラは2人乗りなのでこの点は考えない。)。しかも「かなえられない約束」というモノローグは、あくまでヒロキ一人の発言でしかない。もし3人で交わした約束がかなえられていないのなら、タクヤもサユリも同じ言葉を述べていてもおかしくはない。だがそのような場面は見あたらない。

おそらく別の約束があったのではないか、そういう視点で、この映画を見てみると、ヒロキがサユリともう一カ所約束をかわしていると思われる場面がある。

サユリのいた病室で、夢を通じて惹かれあい、求め合っていたヒロキとサユリが、夢の中で再会するシーン(お互いが「ずっと・ずっと探していた・・・」と話すシーン)の続きに、ヒロキが「(正確ではないかもしれないが)これからは、ずっと一緒にいてサユリを守るよ、約束する。」という言葉を交わす場面があるのだ。その場面のあと、ユニオンの塔の活動が活発化して沈静化するシーンが描かれるが、その直後にもう一度「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というヒロキのモノローグが入る。

ユニオンの塔まで飛んだ後でも、なお、残った「かなえられない約束」という点から考えると、ヒロキのいう「かなえられない約束」とは、「これからずっと(一緒にいて)サユリを守る」という約束と考えるほうがよさそうだ。

ヒロキとサユリの約束であれば、なぜ、サユリがその約束を語らないのか。それは、夢から覚め、現実に戻ることと引き替えに、サユリは夢の中での記憶を全て失ってしまったからだ。サユリが夢の中で、その存在を感じ、求め続けていた、ヒロキへの思慕の感情、サユリはそれを目覚めるとなくしてしまうことに気づき、目覚めの直前、必死で祈る。「この気持ちをヒロキ君に伝えられたら他には、もう、何もいりません。」とまで祈るのだ。

しかし、現実に目覚めたときに、夢の中で育み続けてきたヒロキへの想いは、無残にも消え去ってしまう。だからこそ、目覚めたときに真っ先にヒロキ君と呼びかけておかしくないサユリが、藤沢君、と若干遠慮がちな呼びかけになってしまっているのではないだろうか。

確かに、サユリは目覚めた後、ヒロキに取りすがって泣く。しかしそれは、決して夢から覚めたうれしさや、夢の中で求めていたヒロキに再会できたうれしさの涙ではないだろう。夢の中で育み続けてきたヒロキとサユリの想いについて、サユリにはその想いがかつてあったことすら全く記憶から失われてしまったのだ。サユリは、もうヒロキとの夢の中であるが故に純粋に結晶化した想い自体の存在すら、忘れてしまったのだ。このときのサユリの涙は、なにか分からないが、極めて大事な何かをなくしてしまった、というサユリの漠然とした巨大な喪失感を感じているからこその涙だったのではなかろうか。

一方ヒロキにとっての現実は極めて残酷だ。サユリとの夢の中での邂逅、惹かれあい、求め合った時間、その感覚は、夢の中でのものであるというその純粋さ故に、全てヒロキの記憶に鮮明に残っている。しかし、現実に戻ったサユリの中では既にその記憶は跡形もないのだ。ヒロキはサユリが目覚めた直後、「何か大事なことを伝えなきゃいけないのに、忘れちゃった・・・・」と泣くサユリに対して、「大丈夫だよ、もう目が覚めたんだから」となぐさめる。

しかし、現実はそうではなかった。もしサユリが、夢の中でヒロキと2人で育んだ純粋な思いを覚えていてその想いが実現したのなら、ヒロキが約束通りサユリをずっと守っていられたのなら、冒頭のシーンでヒロキとサユリは二人で思い出の場所にやって来ていてしかるべきだ。

だからこそ、冒頭にヒロキは「現実は何度でも僕の期待を裏切る」と語っているのではないか。

「かなえられない約束」をした日が「あの遠い日」であるというのも、こう考えれば頷ける。一緒に約束を交わしたサユリが、そのときの記憶を失った以上、もはや、サユリと約束を交わした日は、ヒロキだけに残された遠い遠い記憶の中にしかないのだから。

このままの時間がずっと続いていくように、なんの疑いもなく感じられた思春期。この痛いほど純粋で壊れやすい思春期の記憶を新海誠監督は、ついにかなえられることのなかった、ヒロキとサユリとの第2の約束になぞらえたように思えてならない。サユリは、夢の中のあまりにも純粋であったヒロキとの心の交流(思春期の記憶)を失い、巨大な喪失感と引き替えに現実に目覚め、大人へと成長していく。

現実に目覚めることによって、大人として現実に適合していかなければならないときに、無残に失われ、封じ込められていく、あまりにも儚い思春期の記憶。

どこか切なく、ノスタルジックな、(過剰ともいえる)映像の美しさも、この人生の宝物のような思春期の記憶を表現するためだと考えれば納得がいく。

ここまで考えたとき、私は、サユリが、目覚めてからヒロキが思い出の場所を訪れるまでの間に、死んでいてくれればいいのにとさえ、思ってしまった。

仮に、サユリが死んでしまったのであれば、ヒロキも納得がいくかもしれない。あの美しい思春期の(夢の)記憶を一人でヒロキが胸に抱えたまま、しかしサユリが別の人と生き続けていたとしたら、あまりにもヒロキにとって、つらいかもしれないと思ったからだ。

だがおそらく、サユリは他の人と別の道を歩み、ヒロキは、この痛みを抱えつつ生き続けているはずだ。

映画の最後に流れる、エンディングソング「きみのこえ」の歌詞はこのようになっているのだから。

「きみのこえ」    作詞新海誠     作・編曲 天門

色あせた青ににじむ 白い雲 遠いあの日のいろ
心の奥の誰にも 隠してる痛み
僕のすべてかけた 言葉もう遠く
なくす日々の中で今も きみは 僕をあたためてる
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 僕のこえ どこかのきみ とどくように
僕は生きてく
日差しに灼けたレールから 響くおと遠く あの日のこえ
あの雲のむこう今でも 約束の場所ある
いつからか孤独 僕を囲み きしむ心
過ぎる時の中できっと 僕はきみをなくしていく
きみの髪 空と雲 とかした世界 秘密に満ちて
きみのこえ やさしい指 風うける肌
こころ強くする
いつまでも こころ震わす きみの背中
願いいただ 僕の歌 どこかのきみ とどきますよう
僕は生きてく
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 生きる場所 違うけれど 優しく強く
僕は生きたい

映像だけではなく、音楽も実に素晴らしい映画である。いろいろ考えていると美しい夕陽がどうしても見たくなる、そんな映画だ。

一度ごらんになることを、強くお勧めする。

(ブログ記事ここまで)

喫煙疑惑で代表権を奪うべきではない

 パリオリンピック代表の体操女子、宮田選手の喫煙疑惑が報じられ、宮田選手に対して日本体操協会が調査に入ったとの報道がなされている。

 細かい事情が不明なので、あくまで現時点で得た情報に基づく私個人の見解なのだが、仮に万一喫煙の事実があったとしても、宮田選手の代表権を奪うべきではないと考えている。

 まず、20歳未満の者に喫煙を禁じている法律は、次のように定められている。

明治三十三年法律第三十三号
二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律
第一条 二十歳未満ノ者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス
第二条 前条ニ違反シタル者アルトキハ行政ノ処分ヲ以テ喫煙ノ為ニ所持スル煙草及器具ヲ没収ス
第三条 未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者情ヲ知リテ其ノ喫煙ヲ制止セサルトキハ科料ニ処ス
② 親権ヲ行フ者ニ代リテ未成年者ヲ監督スル者亦前項ニ依リテ処断ス
第四条 煙草又ハ器具ヲ販売スル者ハ二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ防止ニ資スル為年齢ノ確認其ノ他ノ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス
第五条 二十歳未満ノ者ニ其ノ自用ニ供スルモノナルコトヲ知リテ煙草又ハ器具ヲ販売シタル者ハ五十万円以下ノ罰金ニ処ス
第六条 法人ノ代表者又ハ法人若ハ人ノ代理人、使用人其ノ他ノ従業者ガ其ノ法人又ハ人ノ業務ニ関シ前条ノ違反行為ヲ為シタルトキハ行為者ヲ罰スルノ外其ノ法人又ハ人ニ対シ同条ノ刑ヲ科ス

 カタカナで分かりにくいが、大まかに言えば、

第1条で、20歳未満の者に対して喫煙を禁止し、
第2条で、20歳未満の者が喫煙をした場合、タバコや器具を、行政処分で没収する、
第3条で、親権者や親権者に代わって未成年者を監督する者が喫煙を止めなかった場合は科料に処する、
第4条で、タバコや器具の販売業者は20歳未満の者が喫煙しないように年齢確認などの措置を採ること、
第5条で、20歳未満の者が自分で使用することを知って、タバコや器具を販売した者は50万円以下の罰金に処する、
第6条で、第5条違反の行為について両罰規定を定める、

ということである。

 注目すべきは、実際に喫煙した20歳未満の者に対しては、行政処分でタバコ等は没収されるものの、喫煙行為に対して何ら刑事処罰が定められていないことだ。
 つまり法律は、20歳未満の者が喫煙をしてもその喫煙行為自体を刑事的処罰の対象にしていないのである。
 20歳未満での喫煙は、法律違反ではあるものの、処罰するまでには至らないというのが立法者の考えだと読むのが素直だ。

 これに対し、科料・罰金は、刑法で定められた刑であり(刑法9条)、刑が科される行為を犯罪だとすれば、親権者や監督者が未成年者の喫煙を止めない行為や、販売業者が20歳未満の者が自分で使用することを知ってタバコや器具を販売する行為は、れっきとした犯罪と評価されるのだ。
 なお、没収は刑法9条で付加刑とされているが、この法律の第2条は行政処分で没収すると定められているので、刑法上の刑ではない。

 確かに日本代表に選出された選手は、子供たちの憧れとして品行方正であることが求められるのかもしれないが、果たして法律が処罰すべきではないとしている行為を行ってしまった場合にまで、努力に努力を重ねて勝ち取った代表権を奪うことを正当化できるのだろうか。

 インターネット上の情報で、『為末大氏が、「問題だったとは思いますが、代表権を奪うほどではないと思います」との私見をつづり「どうか冷静な判断をお願いします」と体操協会へ呼びかけた。』との報道があったが、私も為末氏と同意見である。

裁判は事実を明らかにするとは限らない

 今回の都知事選の結果、石丸伸二候補の得票数の多さに驚いたのか、メディアでは石丸バッシングが開始されているように、私には見える。

 その中には、市長時代の裁判でも負けているのに、とか、裁判で負けても最高裁まで争っている、等という批判も見受けられるようだ。

 上記のような批判をする方は、裁判は事実を明らかにしているはずだ、それに反する主張を石丸氏が続けて、最高裁まで争うのは問題がある、という前提に立っているのではないか、と私には感じられる部分がある。

 しかし、裁判は事実を明らかにするとは限らないのである。

 例えば、民事裁判において、
 原告が「事実はAだ。だから被告は損害賠償すべきだ。」と主張して訴えを起こし、
 訴えられた被告が「事実はAではなくBだ。だから損害賠償する必要がない。」と反論した場合を例にして、極めて簡単に考えて見る。

 この場合、裁判官が事実を映し出す魔法の鏡でも持っているなら話は簡単だ。
 魔法の鏡を見れば、事実がAだったのか、Bだったのかがはっきりするので、そのはっきりとした過去の事実に対して法律を適用して判決すれば足りるからだ。

 しかし、現実には、そんな魔法の鏡は存在しないし、時間を巻き戻して観察することもできない。
 もちろん、裁判官がなんの根拠もなく適当に、良く分かりませんが事実はこっちにしましょう、と勝手に判断されたら当事者としては、たまったものではない。

 そこで、原告に対しては「原告が事実をAだと主張するのであればそれを証明する証拠を出して下さい。」、被告に対しては「被告が事実をBだと主張するのであればそれを証明する証拠を出して下さい。」として、それぞれ証拠を出させて判断するしかないのである。

 仮に、原告がa b c d、被告がe f g hの証拠を提出した場合には、裁判所としては、それらの証拠のなかで信頼出来ると思われる証拠を選別し、信頼出来る証拠からみれば、「原告と被告との争いに関しては、こういう事実があった」と判断するのである。

 より簡単に言えば、「信頼出来る証拠をレゴのブロックのように考えて、そのブロックを組み合わせて、どういう事実があったのかを判断(構築)する」のだ。

 つまり、(本当の事実は分からないのだが)提出された証拠等から、「この裁判では、こういう事実があったことにする」、と判断し(この結果を「認定事実」という。)、この認定事実に法律を適用して結論(判決)を出すのである。

 だから、何らかの事情で事実がBであることを証明する証拠が不足し、事実がAであったような証拠の方が多い場合は、本当の事実がBであっても、裁判所はAという事実があったものと認定して、それを前提に判決してしまう場合も当然ありうるのだ。

 そしてこれが、人間が行う裁判の限界なのである。

 裁判に負けたから、虚偽の事実を主張していたとは限らないのである。

崩壊しつつある法曹養成制度2

法科大学院協会の令和元年度アンケート付記意見から


p108
・ 法科大学院に行かず、予備校で勉強したいわゆる予備試験組が学部在学中に合格したり、卒業してすぐに合格しています。法科大学院の教育は試験の合格のためには不要ということが改めて示されています。これらの合格者が何か問題があるのかというと、採用した事務所からは優秀であり評判が良いと聞きます。私のゼミでも、本当に頭がいいと思われる者は皆、予備試験から合格しています。司法修習を廃止して、2年次の3月に司法試験を行い、3年次は実務修習とし卒業を法曹資格取得の要件にし、卒業認定を厳しくするなど抜本的な改革が必要だと思いました。
→(坂野のコメント):司法試験に合格するには法科大学院での教育は不要であること、また法科大学院を経ずに司法試験に合格して実務家になっても何も問題が生じていないばかりか、むしろ、採用した事務所からは優秀であり評判が良いとの指摘があること、という法科大学院側としては認めたくない事実を明確に指摘した意見である。この事実からすれば法科大学院側がいつも振り回す「プロセスによる教育」という理念が、現実には全く意味がないお題目であることが理解できる。そもそもプロセスによる教育が法曹養成に必要だとか、効果があるなどと法科大学院側は主張するが、プロセスによる教育がなんであり、どれだけの効果があるかなど誰も実証できておらず、法科大学院賛成論者が単にそう言い張っているだけの状況なのである。だとすれば、法科大学院制度を高額な税金を投与してまで維持する必要があるのか、大いに疑問があるということになろう。

P112
・ もっとじっくり腰を据えて法律学を習得することに期待するが、試験制度全体が反対の方向を向いているような気がする。3+2年+在学中の試験では、法律学を十分に修得したと言えないのではないか。仮に、このような受験スタイルが主流になるのであれば、従来よりもさらに充実した司法修習(期間+内容)を用意する必要があるように思う。そうでなければ、ますます司法制度が弱体化してしまうのではないかと懸念する。

→(坂野のコメント):法科大学院在学中受験制度に対する危機感を示した意見である。3+2年+在学中の試験では、法律学を十分に修得できないのが普通なのに、その状態で司法試験を受験させ合格させると、レベルの低い合格者がどんどん増加してしまい、司法制度がますます弱体化するとの懸念を示してもいる。既にこの意見を述べた人から見た司法制度は、レベルの低い合格者があふれかえって弱体化が進んでおり、これに加えて在学中受験制度によるレベルダウンによって、さらなる司法の弱体化が進むおそれがあるということである。ちなみに、令和5年度司法試験では、レベル低下が懸念されている状況にありながら合格者数は増加している。さらに、合格者1781名中在学中受験合格者数は637名であった。

本当に大丈夫なのだろうか。