弁護士業に自由競争は本当に正しいのか?

 裁判数も人口も減少しているのに、どんどん資格を与えて弁護士を増加させ、競争させればよいとの声は相変わらず大きい。マスコミも何となくその波に乗って弁護士も競争せよなどと主張しているようだが、それは無責任だと私は考える。

 自由競争させてもよい業種もあるだろうが、こと弁護士業に関していえば、私は、どんどん資格を与えて自由競争をさせることには賛成できない。

 まず、自由競争というからには、どの弁護士に依頼するかを選択する側に、弁護士の仕事の質が良いか否かを判断するだけの能力が必要だ。つまり当該弁護士の仕事が良い仕事か否かを、ユーザーが判断できなくてはならない。
 例えば、どのうなぎ屋さんが美味しいかを審査する際に、審査員が味が分からない人であったら、正しい判断ができるはずもないだろう。だから、競争をさせるなら、最低限、その仕事の良し悪しが分かる能力がユーザーに求められるのだ。

 しかし弁護士の訴訟活動やその作成する書面の質を理解できる一般ユーザーはおそらく極めて少ないだろう。法科大学院の学生でも、大学教授であっても実務を実際には知らないから、おそらくきちんとした評価は出来ないはずだ。法律の世界に縁のない一般の方はなおさらだ。
 これは私の経験であるが、大手事務所の弁護士と民事で争った際に、殆ど意味のない最高裁判例をいくつも引用し、ページ数だけはやたらと多いが、実質的に有効な法的主張は殆ど無いという書面を提出されたことがある。私から見れば、おそらく準備書面1枚当たり幾らの請求をかけるために、当該事件には殆ど意味のない最高裁判例をページ稼ぎに引用したのであろうと推察できるのだが、依頼者はそうは思っていないだろう。
 おそらく、その大手事務所に事件を依頼した人は、書面の一枚一枚に信頼できそうな大手法律事務所の名前が右下に印字され、書面には「最高裁判決」がいくつも引用されていること等から、実際には的外れな書面であるにも関わらず、良い書面を書いてもらったと思っているのだろう。

 上記の私の経験からも明らかなように、また、実際にも、弁護士の仕事の質を選択権者であるユーザーが判断することは極めて困難である。

 このように選ぶ権利を持つ者が弁護士の仕事の質を判断できないのであるから、仮に競争させたとしても、良い仕事をする弁護士が生き残るとは限らない。

 自由競争といえば聞こえはよいが、要するに利益を上げられない者は退場しろということだ。極論すれば、仕事の質はともかく、とにかく依頼者を集め、うまく利益を上げた者が生き残るということになる。
 つまり、良い仕事をする弁護士が生き残るのではなく、むしろ宣伝上手な弁護士や、本来話し合いで済む問題を訴訟等にまで持ち込んでフィーを上手にとっていく弁護士が生き残る可能性の方が、遥かに高いといえるのだ。

 自由競争信奉者は自由競争により、良い仕事をする弁護士が生き残ると主張するようだが、弁護士業務に関しては、自由競争の前提がまず崩れていることを無視している。自由競争は、一見、良い仕事をする弁護士を残すかのような錯覚を産むのであるが、現実に目を向けてみても、必ずしもそのような望ましい結果をもたらすものではない。

 例えば、日本よりも遥かに弁護士数が多く、弁護士の自由競争化が進んでいるとされるアメリカでも、良い仕事をする弁護士が生き残るという自由競争の理想型は実現できてはいないようである。

  司法制度改革審議会第5回会議に出席された藤倉教授(東大名誉教授・ハーバード大ロースクール卒・英米法専攻)によると、アメリカでの弁護士選びは次の通りだそうだ。

 「それではだれが何を基準にして選ぶのか、推薦するのかということになると、もうアメリカではそういう基準もない。結局、市場で店を開いていて、これだけのお金でやりますという人を、それではこれだけのお金を払ってやってもらいましょうということで選ぶしかないという考え方が基本にあって、しかしそれは危険が大き過ぎると考える人はいろいろ問合せをしたり、友達に聞いたり、あるいは知っている法律家に聞いたりというふうなことで弁護士さんを選ぶということはもちろんあるんですけれども、そういうことができるのはある程度生活に余裕のある中産階級以上ですから、低所得者で法律問題に巻き込まれて、弁護士が要るという場合にどうするか、これはもうアメリカではちょうど医療保障制度と同じように最低限の生活保護を受けているような人のためのリーガル・サービスというのは、それは公的なものが一応あるんです(坂野注:日本にはない)。各州に任意のものもありますけれども、その部分はカバーされている。
 それから、お金持ち、あるいは大企業は選び放題ですから、十分いろんな情報を持ってて一番いいのを選ぶことができるんです。中産階級が一番問題なんです。いい弁護士を選ぶ、間違いのない弁護士を選ぶ、この問題はアメリカでもまだ解決されてないと思います。」

(司法制度改革審議会第5回議事録より引用)

 弁護士の自由競争化が進展しているアメリカでは、本来淘汰が進んでよい弁護士ばかりが残っていてもおかしくはないはずだ。しかし、結局のところ、アメリカでは大企業やお金持ちがよい弁護士を選べて、中間層が間違いのない弁護士を選ぶ術がないことのようだ。いくら自由競争を進展させたところで、得をしているのはお金持ちと大企業だけのようなのだ。
 この結果を見れば、一体誰のための自由競争論だったのか、すぐに分かろう。

 また、自由競争の前提としての弁護士資格の濫発は、大きな弊害を産む。

 例えば、ある弁護士が弁護士として能力が低いと市場で判断され、淘汰されるとしても、その弁護士が市場で能力不足と判断されるまでには、実際のクライアントに対する弁護ミスなどの被害が相当多く出る必要がある。その弁護士が退場するまでに「しでかした」被害は、運が悪かったで済ませて良いのだろうか。人が弁護士に依頼しようとするのは、一生に一度の大事件という場合も多いのだ。

 また、儲けられない弁護士は、その実力に関わらず退場せざるを得なくなるから、弁護士は次第に儲けを最優先に考える必要にせまられていく危険がある。弁護士だって人間だ。自らの仕事によって生計を立て、子供を育てなくてはならないからだ。
 その結果、儲かる仕事に弁護士が集中する。良い仕事をのためではなく、儲けるために工夫する必要が出てくる。

 私の知人の弁護士は、アメリカでも弁護士資格を取得して数年アメリカで勤務していたのだが、厳しい売り上げノルマを課され、そのノルマの実現が大変だったそうだ。また、そのようなノルマを課されることから、交通事故の被害者が保険金請求で相談に来た際にも、弁護士費用が高く取れる重傷・死亡案件のクライアントを歓迎し、弁護士費用が比較的多く取れない軽傷案件が来ると、「うちではやれない」として他の事務所を紹介したりする事務所の方針に染められそうな自分が、嫌だった、と語っていた。
 本来事故に遭って軽傷で済んだことを、まだしも軽傷で済んで良かったですね、と喜んであげられるのが人の心ではないかと思うが、自由競争はそのような人の心までをも、弁護士から失わせていく契機にもなるようなのだ。

 さらに、資格を濫発して自由競争させるのであれば、弁護ミスをいくつかやらかした不適格弁護士が淘汰されても、それを上回る勢いで実力不足の弁護士(淘汰される予備軍の弁護士)も大量に追加されてくることになるので、いつまで経っても淘汰など終わりはしないのである。

私はそれではいけないと思うのだが。

花岡幸代さん,ニューアルバム発売!

 新年早々バタバタしていて、花岡幸代さんのブログのチェックを怠っていたが、今日ブログを見てみると、待望のニューアルバムが発売されたとのことだった。
 今回で3枚目。
 実に24年ぶりのニューアルバム発表とのことだ。

 残念ながら、アマゾン等ではまだ購入できないようだが、
 花岡さんのブログ http://blogs.yahoo.co.jp/hanaokayukiyo/ から購入可能サイトにリンクが貼られている。
 
 早速注文させていただいた。
 今から届くのが楽しみだ。

 このブログでも、何度か花岡さんの音楽・歌声をご紹介してきたが、もちろん音楽だから、人それぞれ好みもある。
 だが、今は便利なもので今はYou Tubeで、何曲か花岡さんの歌声を聞くことができる。でも、一度、花岡さんの音楽を何曲か聴いてみて欲しい。

澄みきって宇宙に溶けゆく空を感じさせる「The Water is wide.」(カヴァー)
花岡さん撮影の、空の写真と一緒に聴ける「ルフラン」
私がライブで聞いて滂沱の涙に暮れてしまった「サイド・バイ・サイド」

等がお薦めだ。

 いつの間にか心の奥底に封じ込めてしまっていた、暖かい想いや優しさ、切ない想いを、また揺り動かし、思い起こさせてくれるかもしれない。

 そして、それは、とても、大事なことかもしれない。
 人にとって・・・。

谷川会長の辞任報道

 谷川九段が、18日、日本将棋連盟会長を辞任することを発表した。

人格、識見、実績とも会長として非の打ち所のないと、私には思われる谷川九段であるが、今回の三浦九段の事件での引責が主な理由のようだ。

 将棋のプロ棋士の座は、小さい頃から天才の呼び声高い俊才の中から、さらに抜群の成績を上げたものしか到達できない地位である。
 したがって、おそらくは、個性の強い(我の強い?)人間が多く集まっている集団であり、その棋士の集団をまとめ上げることは、幾ら人格者の谷川九段とはいえ、実に苦労が多いことだったろうと思う。
 谷川九段の、その真面目な性格から、今回の事件について人一倍心を痛め、苦悩されてきたことは想像に難くない。また、その真面目な性格ゆえに、会長辞任という潔い責任の取り方を選択したのだろう。

 私は、芸術的ともいえる光速の寄せや、なぜかそれと同居する、ここ一番で悲運に泣かされる危うさ、などからずっと谷川九段のファンである。将棋連盟会長という重責から解放されて、また、かつての「光速の寄せ」でファンを魅了してくれることを願ってやまない。

谷川先生、お疲れ様でした。

ご満悦

今年も、画家の諏訪敦先生から年賀状を頂くことが出来た。

私は諏訪敦先生の大ファンなのだが、近年いろいろお忙しくされている中で、諏訪先生から一筆添えた年賀状を頂戴し、先生のファンを大切にする姿勢に恐縮しながらも、かなりご満悦なのだ。

諏訪先生から頂く年賀状は、作品として十分鑑賞に堪えるクオリティなので作品を頂いたかのように嬉しい。

現在は、事務所の待合に、先生の個人情報はマスキングした上で、昨年の年賀状と今年の年賀状を飾っている。

今年も、諏訪先生のご活躍を祈念するばかりだ。

新年 あけましておめでとうございます。

本日よりウィン綜合法律事務所は、新年の業務を開始しております。

新しい年が、皆様にとって素晴らしい1年になるよう祈念しております。

今年も、ウィン綜合法律事務所に、御支援・ご鞭撻賜りますようお願い申しあげ、新年のご挨拶に代えさせて頂きます。

弁護士 坂 野 真 一

司法試験~予備試験制限の動きに反対する。

 昨年12月8日のブログで、予備試験を制限する動きが出るかもしれないと予測したが、早速そのような動きが年末の忙しい時期にひっそりと開始されたようだ。

(引用開始)
司法予備試験、見直し議論 「近道」対策で、法務省など
https://this.kiji.is/187106651979843062

 法務、文部科学両省や最高裁などが近く協議会を開き、法科大学院を修了しなくても司法試験の受験資格を得られる予備試験制度の見直しを議論することが29日、関係者への取材で分かった。経済的理由などで法科大学院に進学できない人を救済するための制度が、法曹への「近道」に使われる傾向が強まったため。議論が受験資格の制限といった具体策にまで至るかは不透明だ。
 多面的な能力を持つ法曹を養成しようと、法科大学院修了者を対象にした現行の司法試験は06年にスタート、予備試験は11年に始まった。
(共同通信47NEWS 2016.12.30)

(引用ここまで)

以下、坂野の意見

 以前から述べているように、法曹としての実力が身についているのであれば、どこで学んでこようと一向に構わないと私は思っている。
 予備試験を法曹への近道に使って何が悪いのだ。
 予備試験経由の法曹が、法曹としての資質に欠けているという実証的データでもあるのだろうか。
 もし本当に予備試験経由者が法曹としての資質に欠けているというのであれば、法務省や最高裁が予備試験経由者を検察官や裁判官に任命するとは思えない。
 また、日本を代表する大手法律事務所などは、競って予備試験経由者を採用しようとしており、その傾向はずっと続いている。この事実は、予備試験経由者が法曹としての資質に欠けることなどなく、むしろ大手法律事務所は、こぞって法科大学院経由者よりも資質において優れていると評価しているからだろう。

 受験生にとっても、高い学費と最低2年間の拘束を余儀なくされる法科大学院の教育は、費用対効果として、魅力がないのだ。魅力があれば法科大学院志願者が激減するはずがないではないか。

 ちなみに、司法制度改革審議会意見書では法科大学院の理念を次のように表現していた。

•「法の支配」の直接の担い手であり、「国民の社会生活上の医師」としての役割を期待される法曹に共通して必要とされる専門的資質・能力の習得と、かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養、向上を図る。
→専門的資質・能力は独学でも身に付けられる。豊かな人間性は教わって身につくものとは思えないし、司法試験問題を漏洩するような一部教育陣が豊かな人間性を口にするだけでもおぞましい。
•専門的な法知識を確実に習得させるとともに、それを批判的に検討し、また発展させていく創造的な思考力、あるいは事実に即して具体的な法的問題を解決していくため必要な法的分析能力や法的議論の能力等を育成する。
→知識・思考力は独学でも身に付けられるし 法的分析能力も同じである。法的議論の能力についても結局きちんとした知識と法的分析能力が基礎となるし、口頭の議論については司法修習期間でも十分身に付けられる。
•先端的な法領域について基本的な理解を得させ、また、社会に生起する様々な問題に対して広い関心を持たせ、人間や社会の在り方に関する思索や実際的な見聞、体験を基礎として、法曹としての責任感や倫理観が涵養されるよう努めるとともに、実際に社会への貢献を行うための機会を提供しうるものとする。
→司法試験受験科目以外を熱心に勉強する法科大学院生がどれだけいるか疑問だし、仮に基本的な理解ができたとしてもそれだけでは実務では使えない。結局、自分で勉強するしかないのだ。責任感や倫理観も、教わってどれだけ身につくものか疑問である。

 このようにみてみると、法科大学院の理念をみても、本当に法科大学院が必要なのか疑問だらけである。
 このようないい加減な理念を旗印に、どうして法科大学院制度設立に走ったのか、どうしてマスコミも法科大学院制度万歳となって何ら疑問を呈しなかったのか、について疑問に思えて仕方がない。

 今後の展開としては、おそらく、予備試験が法曹へのバイパスとなることは当初の理念に反しているという形式的理由で、文科省・法科大学院側は予備試験を制限しようとするのだろう。しかし、前にも述べたが、司法試験受験回数を制限する理由として、法科大学院教育の効果は5年でなくなるから、とされていたはずだ。

 わずか5年でなくなり、実務界からも評価されていない法科大学院教育の効果を、あくまで理念は正しいのだから、と言い張って、受験生に多大な費用と時間を負担させつつ、今後も行い続ける必要があるのか。
 社会人経験者など多様な法曹を送り出す目的を謳いながら、夜間の法科大学院がどれだけあるのか。
 多くの法科大学院が撤退した現在、地方の法曹志願者に対応する体制は整備されているのか。

 仮に予備試験が法曹へのバイパスになっていても、その制度のおかげで多くの人材が法曹を目指し、その制度を経由した法曹が資質として問題がないのなら、何も馬鹿高い税金を投入して法科大学院を維持する必要など無い。

 根本的なところをまず考え直す必要があるはずだ。

 そのためには、まず、予備試験経由者法曹を採用している、最高裁・法務省・大手事務所にヒアリングを行い、予備試験経由者が法曹としての資質に欠けているのかを確認することから始めるべきだ。
 それもせずに、文科省中心に予備試験制限を考えるなど、文科省と法科大学院の利益だけを優先し、国民を無視した制度検討になること必定だ。

 予備試験を制限するべきではない。