映画「宇宙(そら)へ」

 マーキュリー計画・ジェミニ計画・そして有人月面着陸を成功させたアポロ計画から、現在のスペースシャトルまで、アメリカの宇宙計画をNASA秘蔵の貴重な映像で紹介する、ドキュメンタリー映画である。

 宇宙から見た地球のあまりにも圧倒的な美しさ、月面の神秘的映像、だけではない。

 人類最大のロケットであるサターン5型の打ち上げシーンは、是非劇場でご覧頂きたい。人類が僅かながら神に近づいたかもしれない、と勘違いしてもおかしくないほどの大迫力である。

 また、月面着陸直前にアポロ11号の着陸船のコンピューターがオーバーフローを起こし、自動操縦に頼れず、急遽手動操縦に切り替える際の緊迫したやりとりなど、映画を観ていることを忘れてしまうほどのリアリティである。

 そして、「幾多の尊い命が、その栄光を支えた」と映画のキャッチフレーズにも書かれているように、栄光の裏側に隠れがちな、無謀ともいえる挑戦、悲惨な事故、貴い犠牲についても目をつぶることなくこの映画は描いていく。

 初めて月に着陸したアポロ11号に搭載されていたコンピューターが、ファミコンレベルの計算能力しかなかったという話をどこかで耳にしたことがあったが、アポロ8号の月周回の計画は、生存帰還率50%以下であったことはこの映画で初めて知った。アポロ8号の宇宙飛行士達は、それを知っていたのだろうか、知っていたとしたら、どのような気持ちで月へと旅立っていったのだろうか。

 アポロ1号の火災事故、スペースシャトル「チャレンジャー号」の発射直後の爆発事故、同じく「コロンビア号」の地球帰還直前の大気圏突入時の空中分解事故、事故の映像だけではなく、地上スタッフの映像も織り込まれ、事故を現場で目撃しているかのように、この映画を観た者に迫る。

「打ち上げの中継を見ていた子供達に伝えたい。冒険や発見の過程では、こうした痛ましい事故がときに避けられないのです。しかし、これは終わりではない。希望は受け継がれます。未来は臆病な人々のものではなく、勇気ある人々のものです。」

 チャレンジャー号の事故の映像が流れ、観客が、何故人類はこのような犠牲を払ってまで宇宙を目指すのか、と心の中で自問し始めたときに流れる、レーガン大統領(当時)が語る言葉が胸に響く。

 ちなみに私が観たときは、公開1週間後でありしかも「20世紀少年~最終章」の公開初日でもあったため、私を含めて観客は5~6名しかいなかった。

 このまま公開が終了してしまうのがあまりにも惜しい映画である。この迫力は、絶対に映画館でなければ体験できない。

 機会があれば是非、映画館で鑑賞されることをお薦めします。

弁護士大激変!~週刊ダイヤモンドの記事 その2

 さて、週刊ダイヤモンドの記事によると、過払い漁りに走るモラルの低い弁護士がいると書かれている。私の知人の弁護士では見たことはないが、日弁連も「債務整理事件に関する指針」を出していることからすると、苦情もあるのだろう。

  ただ、債務整理に関する苦情について私が耳にするのは、弁護士に対する苦情ではなく司法書士に対するものが多いのだが、週刊ダイヤモンドはその点には触れていない。ひどい例になれば、相談者が5件の消費者金融から借りていても、そのうち過払い状態になっている2件だけを受任して他の3件は受任しない場合も聞いたことがある。私が法律相談で話を聞いた人の中にも司法書士にそのような目に遭わされた方がいたし、同じような例を友人の弁護士からも聞かされたことがある。

 債務整理は多重債務者の経済的再生が目的である。そのためには5件の消費者金融からの借入で困っている方に対しては、5件全てを対象に多重債務者の人の経済的再生方法を考えなければならない。儲けやすい2件だけ受任してあとは放りっぱなしというのであれば、多重債務者の経済的再生は困難である。
 この記事に関して宇都宮健児弁護士がインタビューに答えているが、宇都宮弁護士も言うように、信頼できる弁護士が見つからない場合は、弁護士会に相談すべきだ。認定司法書士でも良いのではないかという意見もあるが、認定司法書士でも簡裁代理権(140万円未満)の範囲でしか、代理できない。法律でそう決まっているのだ。

 負債ないし過払い金額で140万円以上の債務整理事件を扱おうとする司法書士は、法律違反を覚悟で取り組もうとしている危険性があり、十分注意する必要がある。
 

 弁護士に依頼すると極めて高額の弁護士費用を請求されるのではないかという心配をされる方もいるが、弁護士会経由の場合は弁護士会基準が定められているし、実際には司法書士の方がはるかに高額の費用を請求している場合もあるときいている。イメージに騙されないことだ。

 確かに大々的に宣伝をしている過払い事務所では、莫大な宣伝費の元を取るためにも、できるだけ手間がかからず儲かる仕事をする必要があるだろう。また資本主義を徹底し、規制緩和を進めたため、弁護士も激増しており、徐々に競争原理が働きつつある。
 

 競争原理の元で生き残るかどうかの基準は、よい弁護士か否かではなく、儲けられる弁護士であるか否かである。

 そして、儲けるための最も良い手段は、手間をかけずに儲かる(またはかけた手間以上に儲かる)事件だけをすくい取ることである。
 派手な広告で依頼者を集め、その相談者をスクリーニング(選別)して、過払い状態になっていると見込まれる事件だけを受任し、面倒な分割払いの和解が見込まれる場合は受任しないという方針をとれば、楽で儲かる仕事だけを得ることが出来る。競争原理のもとでも、当面は生き残れる。しかも、この行為は全く適法である。

 また、先ほどの司法書士の例のように儲けやすい2件だけを受任し、他は受任しないという扱いをすれば、5件の借金を抱える多重債務者の経済的再建は困難になるかもしれない。しかし、極論すればそのような扱いも、儲けた者勝ちの資本主義の競争原理の中では、何一つ恥じることのない正当な競争だといわれてもしょうがない。

 私自身は、これまでブログで述べてきたように過度の規制緩和(今以上の弁護士人口の激増)は、儲けた者勝ちの競争原理をさらに進めるだけで決して好ましいものとは思っていない。

 しかし、若手弁護士の多くがビジネスロイヤーを希望するなど現実的に競争原理は確実に弁護士の変質をもたらし始めている。

 国民の多くは、儲けた者勝ち主義の弁護士が増えて欲しいと、本当に思っているのだろうか。

 おそらくそうではあるまい。

 しかし、このことについて、声を上げている人は少ないように思う。

(続く)

イルカ漁映画「The cove」 アメリカで話題~日経新聞の記事から

 和歌山県太地町のイルカ漁を取り上げた米ドキュメンタリー映画「ザ・コープ(入り江)」が米国で話題になっている。多数のイルカがモリで突き刺され、血の海が映し出されるラストシーンが観客に衝撃を与えており、米国内の映画祭で賞も受けている(後略)(日経新聞2009.8.26第38面記事より引用)。

 ちょっと本題からはずれるが、こういう小話を聞いたことがある。

 ある日本の温泉地で、世界的な女性問題の会合が開かれた。世界中の女性が集まり、様々な議論がなされた。会合も終わり、各国の女性達が温泉旅館の大浴場(女風呂)で入浴していたときに、誰かが悪戯で男風呂と女風呂の表示を入れ替えた。そのため、数人の男性客が間違えて女風呂に立ち入ってしまった。
 女性の悲鳴が大浴場中に響き渡り、女性達は男性に見られないように、一斉に小さなタオルで身体を隠した。多くの国の女性は下を隠し、ある国の女性は胸を隠した。しかしその2カ所以外を隠す女性もいた。ある国の女性が「こんなところ絶対に男性に見せられない」といって小さなタオルで必死で隠したのは、顔だった・・・・。

 この小話から分かるように、それぞれの国には、それぞれ異なる文化がある。そして、その文化の善し悪しについては、少なくとも反人道的であったり、他国に迷惑をかけるような内容の文化でない限り尊重されるべきであって、文化が異なるというだけで他国から野蛮だとか残酷だとか非難されるいわれはないように思う。

 話を映画に戻すが、この映画は、立入禁止の入り江に隠しカメラを設置して撮影したと記事にあることからわかるが、おそらく盗撮の映画である。日本では公開されていないし、私も見ていないので内容は分からないが、観客が衝撃を受けているという記事からすると、おそらく、残酷・野蛮(そして、ひょっとすると残酷な行為をを隠す日本人)というイメージを与える映画に作られているのだろう(間違っていたらスミマセン)。

 しかし本当に(イルカを含む)捕鯨は残酷で野蛮なのだろうか。

 翻って考えると、人間は他の生き物を食べなければ生きていけない。つまり人間が生きていくということは、動物であれ植物であれ、他の生き物の命を必然的に奪う営みでもある。この行為を反人道的とは言えないだろう。アメリカ人が好んで食べるといわれる牛肉だって、生きた牛を屠殺して得たものであるはずだ。海の上で多くの牛を屠殺すれば当然血の海になろう。それがどうして牛の命を奪うことなら野蛮ではなくて、クジラ・イルカの命を奪うことが野蛮だと言われなければならないのか。いずれの行為も、人間が生きていくために他の生物の命を奪うという点では等価値である。

 昔、欧米の大金持ちがアフリカで行っていたサファリ(猛獣狩り)などは、生活のためや、食べるために猛獣を殺すのではなく、剥製にして自慢したり、猛獣を殺すスリルを味わうという残酷な楽しみのために、他の生物の命を奪っていたはずだ。そっちの行為の方がよっぽど野蛮である。ちなみに、18世紀には北アメリカ全土で50億羽も生息していたと推測され世界で最も数の多い鳥であった、リョコウバト(アメリカリョコウバト)を食用以外に飼料用やスポーツの一環として乱獲し、1914年に絶滅させたのはアメリカである。また、太平洋・大西洋でクジラが激減し危機に瀕したのは、17~19世紀の欧米の鯨油目的の乱獲が大きく影響しているはずだ。

 少なくとも太地町のイルカ・クジラ漁は、食用にするため、住民の生活のための漁であって、剥製にする目的や、殺すスリルを味わうための漁では断じてない。しかも資源保護のために水産庁が定めた枠内での捕獲である。捉えたクジラ・イルカも一片も無駄にしないよう慎重に解体し、利用する。それが、命を頂いたせめてもの礼儀だからだ。太地町には、クジラの供養碑もある。太地町のホームページには、クジラの供養碑について次のように説明されている。

(以下太地町のHPより引用)
 人間が幸せに生きていくために大事なことの1つは、自分に生き甲斐のある職業を持つことです。しかし、どんな仕事にしても働くことの満足感や喜びがある反面、そのきびしさや悩みも伴います。私達の先人の多くは、鯨に挑むことを誇りとして生き甲斐と糧を求め、長い間生計を営んできました。しかし、仕事の宿命というべきか、捕鯨に関わる人達は避けて通れない心の痛みや悲しみに直面せざるを得ませんでした。
 それは「いのち」を持つ鯨をしとめるということでした。
 どんなに仕事や生活のためとはいえ、つい今しがたまで恰も大洋を楽しむかのように泳いでいたその鯨を追いつめ、射止めてしまうのです。鯨との闘いの末、懸命にもがき廻ったその鯨がぐったりとその巨体を横たえた時、海の男達は「やったぞ。」と勝利者の叫びをあげながらも、その歓喜はまた「なんと申し訳のないことをしてしまった、許してくれ。」という深い詫びと悲しみに変わるのでした。そして、ひたすら異口同音に「南無阿弥陀仏、、、、」と唱え、鯨に向って手を合せるのでした。
 それが海の男達の精一杯の気持ちでありました。
 このことは、陸に揚げられた鯨を処理する人達にも全く同じことでした。
 熊野灘を一望する梶取崎園地の一角には我が国の捕鯨発祥の地として「鯨魂の永く鎮まりますよう」という願いを込めたくじら供養碑が建立されていて、毎年4月29日にはここで捕鯨OBが主催する「くじら供養祭」が行われます。
(引用ここまで)

 果たして、この映画「ザ・コープ」は、日本の沿岸捕鯨の文化、漁業に携わる人たちの生活や心境、クジラ・イルカ(イルカはクジラの一種である~大きさで区別されている)の供養、昔の欧米のクジラ乱獲の歴史、などについて、きちんと触れているのだろうか。もし触れていないのであれば、ドキュメンタリー映画など、とんでもない話で、偏向映画というそしりを免れまい。

 もしこの映画「ザ・コープ」が日本で公開され、万一上記の点に触れられていない偏向映画だったら、映画館を出るときには、「うまそうやったな。あ~イルカが食べたい。」と言ってやろうかと思っている。

弁護士大激変!~週刊ダイヤモンドの記事 その1

週刊ダイヤモンド8/29号に、弁護士大激変!と書かれた特集がなされている。

内容は、①過払い請求の宴、②弁護士の使い方入門、③弁護士非情格差、④タレント弁護士の本音、⑤法科大学院の蹉跌、⑥やめ検人脈の系譜というもので、最初に過払い請求について書かれているのが昨今の状況を反映していて興味深い。

過払い請求は、比較的定型的な業務であり、大手消費者金融会社相手だと取りっぱぐれもなく、報酬も頂きやすいため、扱う弁護士・司法書士が一気に増加した。

 もともと過払い請求は債務整理の一つである、任意整理の一環である。

 任意整理は、これまで消費者金融が取得していたグレーゾーン金利を、利息制限法の法定利率で引き直し計算を行い、払いすぎの金利部分を充当して減額させ、法律上支払うべき金額を確定し、多重債務者が支払える限度で、債権者(消費者金融)と個別に分割の支払約束を取り付ける、という多重債務者の経済的再建を目指す手続である。

例えば、消費者金融から50万円を借り入れ、利息が25%を支払っていたとすると、元本50万円の場合利息制限法上は18%が上限金利なので、25-18=7%分が、払いすぎ利息(いわゆるグレーゾーン金利)となる。この7%分を返済したとして扱って計算を行い、借金の額を減らしていくのである。長期間借入をしている人ほどこの7%分が積み上がっていくので、取引期間が長期にわたる場合は、すでに完済状態になっている場合もある。それでも支払っていた場合は逆に、消費者金融にお金を返してと請求できる。これがいわゆる過払い金だ。

 もちろん、引き直し計算の結果、過払い金が発生している場合は取り戻す請求を行うが、過払い金請求自体はそう手間はかからないことが多い。むしろ、借金が残った場合に、どうやって債務者が支払える範囲で分割払いの約束を消費者金融と締結するかの方が、やっかいなことが多い。債務者は支払が困難だから弁護士に相談に来ているのだし、消費者金融は早く回収したいから長期の分割に難色を示すことが多い。また、遅延損害金をカットするかでもめることも多いからだ。しかも、このような場合、弁護士報酬もそう高くはないし、分割でないと支払いできない場合も多い。

 一方、引き直し計算の結果、過払い状態になっている消費者金融ばかりだと、弁護士としては楽である。まずやっかいな分割払いの交渉をしなくて済む。現在では、大手の場合、取引履歴はすぐ出てくるので証拠もあるから訴訟しても敗訴の危険はまず無いし、勝訴の場合は少なくとも相手が大手であれば取りはぐれることがない。なにより依頼者からものすごく感謝される。もちろん報酬も分割払いの話し合いをつけたときよりも高く取れるし、実際上も過払い金からもらえるので取りはぐれる危険もない。

 私は、独立してこの事務所を開設する前から過払い金請求事件を取り扱ってはいたが、当時は大変だった。

 まず、今では受任通知を送ればすぐに出してもらえる取引履歴が、何度請求しても出してもらえない。仕方なく、推定計算で訴訟を提起し(訴状受理の段階で、推定計算の根拠をしつこく聞く裁判所書記官もおられたように記憶する。)、その手続の中で、文書提出命令を申立て、履歴を出すよう裁判所から命令してもらうよう努力する。

 文書提出命令の争いに勝って、裁判所から消費者金融会社に対して取引履歴を提出するよう命令が出ても、抗告され、再度争う必要がある。抗告審で勝っても、許可抗告の申立までされる。
 取引履歴を出してもらうだけでも、これだけの遠い道のりが必要だった。

 さらに、本訴においても、みなし弁済の主張をはじめ、ありとあらゆる抵抗を受けたのが、当時の過払い訴訟だった。最高裁判決が出てずいぶん楽になり、多くの過払い金問題は和解でケリがつくようになった。

(続く)

冗談で言っていたら・・・・・

 衆議院選挙の公示がなされ、夏の選挙戦が戦われている。

 日本国民一人あたりの借金額は、(生まれたばかりの赤ん坊を含めて)700万円弱になっているそうだ。超高齢化社会で、かつ、出生率の低下も止まらない。私はあまり歴史は得意ではないが、人口が減少しながらなお繁栄していった国は、有史以来ほとんど無いのではなかろうか。人口減少問題だけではなく、今の若者の世代は、このままでは、現行世代が積み上げた借金の責任も負わされることになる。

 今の日本が、極めて憂慮すべき事態になっていることは誰もが認めるところだろう。

 うちの事務所のパートナー弁護士で、食事の際の談笑中に、日本は、どうしてこんな借金まみれになって、しかも、子供に対する支援が薄い国になったのだろうという話になった。

 何となく頷ける意見としては、政治家は選挙に当選しなければならないから、票を得るために選挙権のある人間を優遇してきたからではないか、そのツケが回って来たのではないか、という意見があった。確かに、選挙の時に福祉を語る場合、最近まで高齢者の福祉が中心だったようにも思う。

 高齢者は選挙権を持ち、子供は選挙権を持たない。 どちらを喜ばせれば票が集まるかは明らかだ。

 そうだとしたら、子供にも選挙権を与えて親が行使したら、候補者も子供のことを考えるだろうから、これまでの問題点が改善されるのではないかという意見もあった。確かにそれは良い案だな、と冗談で言っていたところ、実は冗談ではなく学者さんもそのような意見を言っているらしいことが、分かった。

 本日(8月20日)の日経新聞、25面「経済教室」の欄に、一橋大学の青木玲子教授が書かれた論文によると、子供にも選挙権を与えて親が行使する方法については、既に北大の金子勇教授、阪大の大竹文雄教授らが提唱しており、海外では1986年にハンガリー生まれのアメリカの人口学者、ピーター・デーメニが提案しているそうである。

 確かに、デーメニの方法は、青木教授も認めるように相当ラジカルな方法である。しかし、将来の世代に現行世代の借金のツケを残さないのであればともかく、そうでない現状を見る限り、借金を押しつけられる側の世代にも(親を通しての間接的な意見になるが)意見を述べるチャンスを与えるべきことは、当然のようにも思われる。

 自分の当選よりも、この国のことを真剣に考えて実行してくれる候補者に、投票することが出来ればベストなんだけれどね・・・・・。

極楽丸事件~その2

 冗談ではない。こちらはまだ仏ではない。極楽はどんなに素敵なところなのか知らないし、漁船に乗っている誰かが仏様や先祖の霊にどんなに愛されているのかも、学生Sは知らない。しかし、どんなにエライ仏様やご先祖様であっても、向こうさんの勝手な都合で、一緒に連れて行かれるのはゴメンである。

 エンジンをかけることあきらめたオッチャンが仕切って、若い衆が両舷に配置され、水をかいて、岸を目指すよう指示が出た。水をかけといわれても、オールがあるならばともかく、そのような便利なものが漁船に装備されているはずがない。だから手のひらで水をかくしかない。しかし他に方法もない。

 学生Sを含めた数人が両方の船端につき、手で水をかき始めた。水をかくことに集中するせいか、船をまた沈黙が支配する。誰かの話し声がしていないと、また聞こえてくるのが、チャプチャプという仏船を叩く波の音である。仏船は自らの意思を持ったかのように揺らいでいる。不気味だ。

 学生Sは、空元気をだして、「まあ、こんな経験、滅多に出来ひんわ。あとで話の種になるわ。なあ、H兄ちゃん。」と話しかけたが、H兄ちゃんは答えてくれない。見てみると、前を睨み必死のパッチで水をかいている。話しかけた声も聞こえていないようである。真っ正面を向いて、ひたすら水をかいている。そういえばH兄ちゃんは新婚だった。後から考えれば必死になるのは無理もない。

 ところが、大の男が6~7人乗った漁船である。いくら小さな漁船とはいえ、数人が手で水をかくくらいでは、引き潮に逆らって、岸に戻れるわけはない。
 漁船は、多少方向を変えたものの、一向に陸地は近くならない。むしろ引き潮に乗って、さらに沖合へと流され始めた。もちろん極楽丸も一緒である。

 「こりゃ駄目だ。しょうがない、誰かが泳いで助けを求めに行った方が早い。」と若い衆が言い始め、「いいや、この潮では危ない。」とオッチャンが止める。そうこうしているうちに、船外機を取り外して船の上に引き上げ、点検していた漁船の持ち主が、エンジンストップの原因を突き止めた。

 「ペラ(スクリュー)に縄が噛んどる。誰ぞ、カッターかドライバーかなんぞ持ってへんか。」。誰かが海に捨てた縄が漁船のスクリューに絡んで堅く食い込んでいたのだ。原因は分かった。その縄をスクリューからはずせば、エンジンはかかるのだ。岸に帰れる。しかし、先祖の霊を、カッターナイフやドライバーを懐にしのばせて見送ろうとする不届き者がどこの世界にいるだろう。一瞬の光明は敢えなく消えそうになった。

 しかし追い込まれれば人間、知恵が出るものでもある。試行錯誤をしているうちに、誰かの発案で、縄の食い込んだスクリューを逆に回して、縄の食い込みをゆるめようということになった。大の男が何人かで力を合わせて、相当苦労はしたものの、縄の絡んだスクリューを、なんとか人力で逆方向に回転させることに成功した。その結果、堅く絡んだ縄をゆるめ、スクリューからはずすことが出来たのだ。

 エンジンがかかってしまえば、岸へ帰り着くことは拍子抜けするくらい簡単だった。どうやら、港の方でも漁船が帰ってこないことで騒ぎになっていたらしく、あと10分遅かったら消防に連絡して捜索してもらうところだったと、伯父から聞かされた。伯父の本当にホッとしたような表情が印象的だった。

 後に町長を務め、名町長と謳われたその伯父も、今年鬼籍に入り初盆を迎えた。

 S弁護士は、今年の8月16日、京都五山の送り火を眺めつつ先祖の霊を送りながら、ふと極楽丸事件を思い出したのだった。

極楽丸事件~その1

 大分記憶が薄れているが、S弁護士がまだ大学生か高校生の頃、田舎で経験した事件である。

 学生Sの田舎は和歌山県太地町であるが、居住地区は太地町の森浦という地区にあった。森浦区では、初盆の家は、お盆初日に百八体と呼ばれる線香を焚く行事などがあり、8月16日(だったと思うが)に先祖の霊と初盆を迎えた仏様をお送りする行事があった。

 その行事は、わらなどで造った粗末な船(といっても5mくらいはあったと思う)に先祖の霊などをお乗せして、小さな漁船で引っ張りある程度沖の方まで引っ張っていって、適当に花火など打ち上げて、切り離し、お送りするというものだった。

 まだ学生であったSは、母親の親が亡くなったことでもあり、初盆の仏様をお送りする役目を、本家筋の従兄弟であるH兄ちゃんと一緒に仰せつかった。

 薄暗くなってきた森浦湾をゆっくりと、他の初盆を迎えた人たちの親類縁者6~7人と一緒に、一隻の小さな漁船に乗って、仏様をのせた船(もちろん紙製の灯籠などが吊ってあり、飾り付けされているが、わらなどで造った粗末な船~以下「仏船」という。)を引いていく。引っ張る側の漁船には、ヤマハかヤンマーの船外機が取り付けられており、順調に沖の方に向かっていった。

 ちなみに最近は、環境問題もあって、仏船を一度沖の方まで引っ張っていくが、最後は浜までそのまま引き返し、浜で焼くように変わっているそうだ。しかし、当時は、沖合で切り離し、あとは仏様達にお任せする(放置する)のが常だった。子供の頃に、流した数ヶ月後に浜にボロボロになった仏船が漂着していることを見かけることもあり、「本当に、あの世に帰れたのかな」と不思議に思ったこともあった。

 さて、ある程度沖合に出た頃、そろそろ花火を上げるようにと年輩の方に指示され、学生Sは、他の若い衆と適当に手持ち花火を、沿岸で見送っている人たちに見えるようにくるくる振り回したり、ロケット花火を打ち上げたりして、暢気にお役目を果たしていた。

 そのとき、であった。

 急に漁船のエンジンの回転音が下がり、えっ?と思う間もなく、エンジンが止まってしまった。
 慌てて漁船の持ち主が、スターターの紐を引っ張り、エンジンをかけようとするが、どうしてもかからない。何度やっても駄目である。若い衆は「なんでかからんの?」とか「ガス欠ちゃうの」等と気楽なことをいっていたが、辺りは次第に暗くなる。引き潮に引かれるように、次第に船は沖へと徐々に流されていく。

 誰かが岸に向かって、故障を告げようと声を張り上げたが、既に岸は相当遠くて声は届かない。遠目に見えていた見送りの人たちは、花火も終わったので、ぞろぞろ帰りだしているようだ。

 エンジンがかかっていない船の上は、不気味なほど静かで、これまで全く聞こえなかった、仏船にあたる波の音がチャプチャプ、チャプチャプと聞こえてくる。うちの田舎の町から鯨を追っかけていき、帰れず、漂流して多くの犠牲者を出した事件を書いた本を読んだ記憶が、何故だか蘇る。

 「舟板一枚、下は地獄」確かそんな言葉を聞いたこともあった。この薄いプラスティックの舟板の下は地獄かもしれない。

 後ろを振り向けば、あの世に帰る先祖の霊を乗せた船だ。すっかり暗くなってきた中で、怪しく仏船の灯籠が揺れている。どういうわけか船の動きと連動せずに、自分の意思を持って揺らいでいるように思えてくる。潮のせいなのか、仏船はゆっくりと漁船に近づいてくる。本来同じ潮にのって流されつつあるのだから、距離は一定に保たれていておかしくない。しかし仏船は何故かこちらに近づいてくる。不気味だ。

 仏船には、お経などの幟(のぼり)が立てられており、その幟の一つに船名が書いてある。次第に近づいてくる仏船の幟に墨痕鮮やかに、書き付けられた船名はこうだった。

 「極楽丸」

(続く)

昨晩

 昨晩の月は、特に満月でもないし、三日月でも、半月でもない、取り立てて名前の付かないような月でしたが、妙に冴え冴えした月でした。

 おそらく、道路がぬれていたので、雨によって空気中の塵が少なくなって、月の光が澄んで見えたのでしょう。秋の月を思わせるような月でした。

 まだ立秋を過ぎて僅かしか経っておらず、まだまだ日中も夜も猛暑が続くのですが、着実に季節は秋へと移りつつあるようです。鴨川に架かった橋を渡っているときに、鴨川を流れる水の音に乗って、まるで、月の光に誘われたかのような一匹のコオロギの鳴き声が遠くから聞こえてきました。

 日中は暑い日が続く季節であっても、静かな明け方近くの夜空にオリオン座を見つけることができるように、夜空は、誰にも気付かれないうちに、季節を少しだけ、密かに先取りしているように感じられるときが、私には何故か時々あるようです。

 帰省などで忙しいお盆の時期ですが、時には夜空を見上げてみるのも良いかもしれませんね。

昔話~高校の想い出(道上先生のこと:その2)

 当時の高校普通科で習う数学は、数Ⅰ・数ⅡB・数Ⅲとなっていた。大学受験で試験科目として課されるのは、共通一次は数Ⅰのみ、数学を課す文系の大学は数Ⅰ・数ⅡBまで、理系の大学は数Ⅰ~数Ⅲまでが、範囲とされていたように思う。そして、高校1年生は数1を学ぶことになっていた。

 私の記憶がはっきりしないのだが、道上先生は多分、高3の1学期くらいまでに数ⅡBと数Ⅲの教科書を終わらせて、あとは問題集を解いてみせてくれたように思う。

 私は、物理は好きだったが数学は今ひとつで、特に数Ⅲで習った、極限の概念がよく分からなかった。無限に増えていくのに、ある一定の数値を超えないことがある、ということが理解できなかったのだ。

 単純に考えれば、とにかく増え続けるのだから、いずれある数値に到達し、到達すればその数値を超えるはずだと思えたのだ。コップに水を注いでいくと、どんなに僅かずつ注いでもいずれ一杯になり、溢れなければおかしい(蒸発は考えない)。そのように考えると、どんなに水を注いでも溢れないという状況があるとはどうしても思えなかった。

 ずいぶん道上先生にも質問し、道上先生も丁寧に教えてくれたが、そのときは納得できなかった。
 

今なら分かる。

 例えとして適切かどうか分からないが、板にくっついたカマボコがあり、どんな薄さにも切れる特殊な包丁があるとする。その包丁で、最初はカマボコの半分、次はカマボコの半分の半分・・・・と無限に切っていけば、それこそカマボコの切れ端は無限の数になり、切れ端の数は永遠に増え続けることができる。しかし、その無限の切れ端を集めてくっつけていけば、限りなく元のカマボコの大きさに近づくものの、元のカマボコの大きさを超えることは決してない。

 どうしてその頃、この簡単な発想の転換ができなかったのかと不思議に思うのだが(ひょっとすると道上先生もカマボコのような例で説明してくれたのかもしれないが、どうしてもコップのイメージから私が抜けられなかったのかもしれない。)、このような劣等生でも(一浪はしたが)なんとか、大学に滑り込む際に、数学が致命傷にならない程度にまでは、道上先生に引き上げていただいたような気がする。

 もっとも、私が合格した年の京大の数学入試問題は、異常に難しく、数学が抜群にできる生徒でないと、大変だったという噂もあった。

 そもそも、数学の入試問題は、難しすぎると文系なのに数学抜群の変わった奴か、私のようなおっちょこちょいの受験生が得をする。数学抜群の受験生は、数学だけで圧倒的な得点差を広げることができるので、他の科目で失敗しても数学の得点でカバーできる。また、私のような数学のおっちょこちょいは、大抵の受験生が数学で失敗するので、数学で得点できなくても他の科目でカバーすれば合格できる可能性が出てくるのである。

 逆転の発想をすれば、自分の不得意科目だけに、受験生のレベルを超えた難問を出す傾向のある大学を受験対象として選択することも、一つの受験対策といえるかもしれない。

余計なお世話??~その7

 ACCJは、法曹数と国民数の比率において、日本は著しく低いのだから、法律家は不足していると主張するようです。
日本のマスコミも、この法曹の数と国民の数の比率を持ち出して、日本は法律家が少なすぎると主張することが良くあります。

 確かに、国民の数を法曹の数で割って、法曹一人あたりの国民の数で比較することは、一見分かりやすく、なんの問題もなさそうです。

 しかし、この主張は、意図的にねじ曲げられた主張であることに注意すべきです。

 既に私の2008年10月8日のブログ
http://www.idea-law.jp/sakano/blog/archives/2008/10/08.html
でも書きましたが、法曹一人あたりの国民数の比較は、隣接士業(税理士・弁理士・司法書士・行政書士・社会保険労務士など多くの隣接士業)や企業法務部におられる方など、法律業務に実際に携わっている方々を意図的に排除して計算されているのです。

 「司法の崩壊」を書かれた河井克行元法務副大臣の計算によれば、アメリカで弁護士が従事し、解決を行っている問題や仕事に関して、日本で同様の問題に従事している法律関連職種の人数を計算すると、弁護士・隣接士業・企業法務部員なども含め、およそ、27万人になり、人口比で計算すれば、日本は世界でもアメリカに次いで法律家の多い国と言えるそうです。

 分かりやすく例えていえば、アメリカ・フランスではスポーツカー(弁護士)でなんでも用を足してしまう(法律関連問題を解決しようとする)文化があり、日本では用途(法的問題・分野)に合わせた自動車(弁護士・隣接士業・企業法務部員など)を用いるという文化があるのです。

 その文化や制度の違いを無視して、「日本では6748人に1台の割合でスポーツカーが所有されているが、アメリカでは248人に1台の割合、フランスでは1476人に1台の割合でスポーツカーが所有されているから、比較すると日本では自動車が全く普及していない。だからもっとスポーツカーを普及させろ。」と主張したとしたら、その主張は、わざとある結論へと誘導したいための主張か、お馬鹿さんの主張かのいずれかでしょう。
 自動車の普及は人口と自動車の台数全てを考慮に入れて初めて分かる問題であって、人口とスポーツカーの台数だけの問題ではありません。普通の自動車、軽自動車、トラックなども含めて全てで判断されるべき問題です。そして、用途に応じてどのような自動車を利用するかはその国の文化の問題でもあります。

 さらに、ACCJは韓国の弁護士増員を高く評価しているようですが、既に、韓国では弁護士が大量に余ってきており、お金さえもらえれば受刑者の執事のようなことをやる弁護士や、月額4000円程度の弁護士会費用すら払えない弁護士が増加して、問題になりつつあるそうです。しかし、このような韓国の実情について、ACCJは全く触れていません。
 ACCJ加盟企業が韓国で訴訟を行う場合に、そのような弁護士に、自分の大事な事件をまかせることができるのでしょうか。

 以上のように、一見してもっともなACCJの主張ですが、子細に見ていくと論拠が不明確であったり、意図的なデータの利用法など、明らかに一つの方向へと結論を意図的に誘導するものです。

 そして、外交問題の報道を見れば明らかですが、国同士の熾烈な駆け引きは、本質的には、それぞれの自国の利益を守らんがためです。ACCJが米国企業の意思を色濃く反映する団体なのであれば、米国企業に有利になる提言しかするはずがありません。企業は国家と異なって営利団体であり、利益を上げることが本来の目的ですから、なおさらその傾向は強いでしょう。米国企業の利益になるということは、どういう面で現れるか明確ではありませんが、トータルでみれば、結局、日本の不利益になる危険は、相当程度あると考えるのが自然です。

 確かに敗戦直後から、アメリカは本当に日本を親身になって見てくれた部分があったと思います。だから、私を含め日本人の多くはアメリカを好きになったのです。しかし、規制緩和の行き過ぎ等によるアメリカの中流層の崩壊と格差社会の進展、マネー資本主義に見られるような節度無き強欲の蔓延など、アメリカも大きく変わってしまった部分があります。

 現実をよく見て、本当に法曹(特に弁護士)の爆発的増加が日本に必要なのか、何となく増加が必要な気にはなってはいるが、それは誰かの意向に乗せられているだけではないのか、冷静に判断する必要があるように思います。

(この項、終わり)