和歌山県太地町のイルカ漁を取り上げた米ドキュメンタリー映画「ザ・コープ(入り江)」が米国で話題になっている。多数のイルカがモリで突き刺され、血の海が映し出されるラストシーンが観客に衝撃を与えており、米国内の映画祭で賞も受けている(後略)(日経新聞2009.8.26第38面記事より引用)。
ちょっと本題からはずれるが、こういう小話を聞いたことがある。
ある日本の温泉地で、世界的な女性問題の会合が開かれた。世界中の女性が集まり、様々な議論がなされた。会合も終わり、各国の女性達が温泉旅館の大浴場(女風呂)で入浴していたときに、誰かが悪戯で男風呂と女風呂の表示を入れ替えた。そのため、数人の男性客が間違えて女風呂に立ち入ってしまった。
女性の悲鳴が大浴場中に響き渡り、女性達は男性に見られないように、一斉に小さなタオルで身体を隠した。多くの国の女性は下を隠し、ある国の女性は胸を隠した。しかしその2カ所以外を隠す女性もいた。ある国の女性が「こんなところ絶対に男性に見せられない」といって小さなタオルで必死で隠したのは、顔だった・・・・。
この小話から分かるように、それぞれの国には、それぞれ異なる文化がある。そして、その文化の善し悪しについては、少なくとも反人道的であったり、他国に迷惑をかけるような内容の文化でない限り尊重されるべきであって、文化が異なるというだけで他国から野蛮だとか残酷だとか非難されるいわれはないように思う。
話を映画に戻すが、この映画は、立入禁止の入り江に隠しカメラを設置して撮影したと記事にあることからわかるが、おそらく盗撮の映画である。日本では公開されていないし、私も見ていないので内容は分からないが、観客が衝撃を受けているという記事からすると、おそらく、残酷・野蛮(そして、ひょっとすると残酷な行為をを隠す日本人)というイメージを与える映画に作られているのだろう(間違っていたらスミマセン)。
しかし本当に(イルカを含む)捕鯨は残酷で野蛮なのだろうか。
翻って考えると、人間は他の生き物を食べなければ生きていけない。つまり人間が生きていくということは、動物であれ植物であれ、他の生き物の命を必然的に奪う営みでもある。この行為を反人道的とは言えないだろう。アメリカ人が好んで食べるといわれる牛肉だって、生きた牛を屠殺して得たものであるはずだ。海の上で多くの牛を屠殺すれば当然血の海になろう。それがどうして牛の命を奪うことなら野蛮ではなくて、クジラ・イルカの命を奪うことが野蛮だと言われなければならないのか。いずれの行為も、人間が生きていくために他の生物の命を奪うという点では等価値である。
昔、欧米の大金持ちがアフリカで行っていたサファリ(猛獣狩り)などは、生活のためや、食べるために猛獣を殺すのではなく、剥製にして自慢したり、猛獣を殺すスリルを味わうという残酷な楽しみのために、他の生物の命を奪っていたはずだ。そっちの行為の方がよっぽど野蛮である。ちなみに、18世紀には北アメリカ全土で50億羽も生息していたと推測され世界で最も数の多い鳥であった、リョコウバト(アメリカリョコウバト)を食用以外に飼料用やスポーツの一環として乱獲し、1914年に絶滅させたのはアメリカである。また、太平洋・大西洋でクジラが激減し危機に瀕したのは、17~19世紀の欧米の鯨油目的の乱獲が大きく影響しているはずだ。
少なくとも太地町のイルカ・クジラ漁は、食用にするため、住民の生活のための漁であって、剥製にする目的や、殺すスリルを味わうための漁では断じてない。しかも資源保護のために水産庁が定めた枠内での捕獲である。捉えたクジラ・イルカも一片も無駄にしないよう慎重に解体し、利用する。それが、命を頂いたせめてもの礼儀だからだ。太地町には、クジラの供養碑もある。太地町のホームページには、クジラの供養碑について次のように説明されている。
(以下太地町のHPより引用)
人間が幸せに生きていくために大事なことの1つは、自分に生き甲斐のある職業を持つことです。しかし、どんな仕事にしても働くことの満足感や喜びがある反面、そのきびしさや悩みも伴います。私達の先人の多くは、鯨に挑むことを誇りとして生き甲斐と糧を求め、長い間生計を営んできました。しかし、仕事の宿命というべきか、捕鯨に関わる人達は避けて通れない心の痛みや悲しみに直面せざるを得ませんでした。
それは「いのち」を持つ鯨をしとめるということでした。
どんなに仕事や生活のためとはいえ、つい今しがたまで恰も大洋を楽しむかのように泳いでいたその鯨を追いつめ、射止めてしまうのです。鯨との闘いの末、懸命にもがき廻ったその鯨がぐったりとその巨体を横たえた時、海の男達は「やったぞ。」と勝利者の叫びをあげながらも、その歓喜はまた「なんと申し訳のないことをしてしまった、許してくれ。」という深い詫びと悲しみに変わるのでした。そして、ひたすら異口同音に「南無阿弥陀仏、、、、」と唱え、鯨に向って手を合せるのでした。
それが海の男達の精一杯の気持ちでありました。
このことは、陸に揚げられた鯨を処理する人達にも全く同じことでした。
熊野灘を一望する梶取崎園地の一角には我が国の捕鯨発祥の地として「鯨魂の永く鎮まりますよう」という願いを込めたくじら供養碑が建立されていて、毎年4月29日にはここで捕鯨OBが主催する「くじら供養祭」が行われます。
(引用ここまで)
果たして、この映画「ザ・コープ」は、日本の沿岸捕鯨の文化、漁業に携わる人たちの生活や心境、クジラ・イルカ(イルカはクジラの一種である~大きさで区別されている)の供養、昔の欧米のクジラ乱獲の歴史、などについて、きちんと触れているのだろうか。もし触れていないのであれば、ドキュメンタリー映画など、とんでもない話で、偏向映画というそしりを免れまい。
もしこの映画「ザ・コープ」が日本で公開され、万一上記の点に触れられていない偏向映画だったら、映画館を出るときには、「うまそうやったな。あ~イルカが食べたい。」と言ってやろうかと思っている。