余計なお世話??~その5

 ACCJは、③さらに法律専門職の経歴における流動的な性格があることを指摘し、新規法曹の数は増加させなければならないとしています。

 訳文のせいか、明確な主張は分かりにくいのですが、要するに企業の法務部門に移る弁護士や、裁判官・検察官に任官する弁護士数がますます増加しているし、政府機関の弁護士出向要請も一般化しつつあるから、法律専門職の空白を補うために新規法曹は増加させるべしというのがその主張のようです。更に簡単に言えば、企業・裁判所・検察庁・政府機関などに弁護士のニーズが増加しているのに、それを補うだけの弁護士数がいないではないかということのようです。

 では、ACCJのいうとおりのニーズが本当にあるのでしょうか。

 まず、企業の法務部門に移る弁護士が増加しているという指摘ですが、大阪弁護士会2007年11月月報に掲載された、平成18年の日弁連調査では、上場企業を中心とする国内企業3795社に対して、社内に弁護士を採用することを考えている企業は、回答1129社の内、53社しかありませんでした。
 しかもそのうち、14社は、1人採用して様子を見たいというお試し組ですから、弁護士採用に本当に前向きな企業は、1129社の内39社、わずか3.5%もありません。 そして、回答した企業1129社の内、今後5年間で弁護士をどれだけ採用する予定があるかという質問に対しては、全て併せても47人~127人しか採用予定がありませんでした。1年あたり、全国の主な企業でわずか10人から25人しか、企業側は弁護士を必要としていないことが明らかになっています。

 次に、裁判官への任官者は、ちょっと古いのですが、これしか見つからなかったので最高裁の平成15年度の資料を示しますが、全部で(1年あたりではありません)約60名の任官者しかいません。1年あたり10名未満です。
http://www.courts.go.jp/saikosai/about/iinkai/kakyusaibansyo/iinkai_01_sankouisiryou_10.html

 更に検察官への弁護士任検者は、平成8年以降一人もいないと聞いています。任検者が相当数必要となっているのであればその資料を出して頂きたく思います。

 政府機関の弁護士出向要請が一般化しつつあるかといえば、資料が見つからなかったので分かりませんが、私の周囲の弁護士で出向要請された弁護士は見たことがありません。おそらくごく僅かの出向要請に過ぎないのではないでしょうか。どれくらいの人数の弁護士出向要請がなされているのか、ACCJに示して頂きたいと思います。

 以上の事実から見ても、少なくとも、現段階でACCJが、弁護士不足の根拠として指摘している点が、間違いだらけであることは、ご理解頂けると思います。

 さらにACCJは、事件記録を扱う能力に限界があるため日本における訴訟処理の速度が遅いので、裁判官の数の増加を求め国民の要求に応えるべきだと述べます。

 訳文のせいもあるかもしれませんが、まず個人的には、「事件が多すぎて処理しきれない状態にある」と言われるのであればともかく、アメリカ商工会議所の方に「事件記録を扱う能力的に限界がある」となんの根拠も示さずに見下したような言い方をされたくありません。

 確かに裁判官の仕事の多忙さは私も同期の裁判官などから聞いており、その加重な負担を考えれば裁判官・裁判所職員の増員は必要ではないかと思います。しかし裁判官は、公務員ですから国民の納得の上で、予算措置を講じる必要があります。本当に国民の方が、裁判官を増やすように要求されているのであれば、当然政府はその措置をとっているはずです。

 また「国民の要求」と安易にいってくれますが、アメリカ商工会議所の方が、日本政府よりも日本国民のニーズを理解しているというのでしょうか。少なくともアメリカ商工会議所の方々が日本の世論調査をしたなどという話は聞いたこともなく、そのような方々が日本国民のニーズを本当に把握したというのであれば、それはもはや超能力でも使ったとしかいいようがないのではないでしょうか。
 日本の国民の要求を、ACCJで勝手に作り上げてもらっても困ると思います。

 それに、本当に日本の裁判の速度が遅いのでしょうか。最高裁判所の資料によれば、分かりますが、アメリカと比較しても日本の裁判は、決して遅くはありません(下記URL参照)。

http://www.courts.go.jp/saikosai/about/iinkai/asu_kondan/asu_siryo5/pdf/siryo5.pdf

 この資料から分かるように、ACCJにとって、日本の裁判が遅いのであれば、同じように、ACCJにとってアメリカの裁判だって遅いことになるはずです。そうだとすれば、ACCJとしては、他国の裁判を批判するより自国の裁判を批判するのが先ではないでしょうか。あれだけ沢山の法律家が世に溢れているにもかかわらず、日本と同程度のスピードの裁判しか行えないのであれば、それこそ、(事件数の多さもありますが)アメリカの法曹が事件記録を扱う能力に限界があるから裁判が遅いのだ、と言われても仕方がないように思うのです。

 また、ACCJは、民間部門における経験を有する中堅クラスの裁判官及び検察官を採用して、裁判官・検察官の数を増やすべきだと主張します。
 「民間部門における経験を有する中堅クラスの裁判官及び検察官」という意味がまず理解できません。民間部門で経験を有する方が裁判官・検察官になって、中堅クラスになるべきだというのであれば分かります。しかし、民間部門で経験を積んで裁判官に採用されても、採用当初は裁判官としては新人なので、採用して即、中堅裁判官にはなり得ません。

民間で中堅クラスにおられる方を裁判官・検察官として採用すべきだというのであれば、その方々の法的知識・リーガルマインドはどのように判定するのでしょうか。就職以来ずっと営業畑で中堅クラスになられたサラリーマンの方を裁判官に採用して、すぐに裁判ができるはずがありません。このあたりのACCJの主張は(訳文のせいもあるかもしれませんが)私の理解を超えています。

 この項の最後に、ACCJは多くの行政機関に弁護士を幹部候補生として常勤で採用することは望ましい旨を述べています。この点に関しては私も賛成です。ただし、それだけのために、訴訟社会になりかねないほど弁護士を大量生産する必要があるかと言われれば、その必要はないように思うのです。

(続く) 

昔話~高校の想い出(道上先生のこと:その1)

 実際のところ、男ばかりのむさ苦しいクラスで、担任の道上先生が、いちばん大変な思いをされていたのかもしれないと、今になって思う。

 道上先生は数学担当で、授業は教科書で基本をさっと説明され教科書の問題を解いた後、数研出版社の問題集をひたすら解いてみせるというものだったと記憶している。つまり、予習をしていかなければ、黒板を書き写すだけになってしまうという方式の授業だった。

 よく、百獣の王ライオンは、自分の子供を千尋の谷に突き落とすという、という例えが語られるが、道上先生方式は、谷底から一気に駆け上がって見せて、「ついてこい。ついて来れなきゃ、好きにしてろ。」というものだった。当時、ミスDJリクエストパレードやオールナイトニッポンなどの深夜ラジオも聞きながらのんびりしていた私は、あっという間に置いて行かれることになった。

 そうなってしまうと、自力で勉強しなくては、授業が全く理解できない領域になってしまうので、最後は数学を自分で勉強しなければならなくなった。実は、道上先生方式授業は、やる気を出させることにおいて、相当な意味があったのかもしれない。

 無論、他にもついて行けない奴は出ていたし、某君(特に名を秘す)のように、いつ見ても違う数学の参考書・問題集を買い込んで眺めている奴もいた。彼の問題集は、大抵、最初の因数分解の章あたりで止まっており、また新たな問題集も因数分解の章で見捨てられる運命にあった。

 一方、道上先生は、 やる気のある生徒にはとことん付き合って下さる先生だった。やる気のある生徒には毎日プリントを作成して与え、解答を見てやっていた。道上先生ご自身も、毎朝数学の大学入試問題を何題か解いてから、高校に出勤されていたそうだ。

 先日、道上先生にお会いする機会があり、お話をお伺いしたのだが、今でも毎朝何題か、大学入試問題を解いておられるそうだ。現在は、数学の塾のようなものを開いておられるようだが、見た目と声がもう少し優しければ(先生スミマセン!!)、最高レベルの予備校の講師だって十分務めることができる実力派の先生だろうと思う。

 私の田舎の高校生は、やる気さえあるならば、道上先生の塾を利用しない手はない、と私は思っている。

 実際に私も、一度は、やる気になって先生のプリントを頂くこともやっては見たが、あっという間にプリントが雪だるまのように溜まってしまい、あっさりギブアップしてしまった。私と同学年の生徒で、道上先生のプリント1000本ノック?をほぼ完全にやり遂げた超人的な女の子がいたらしいが、当然のように国立大学に現役合格していったと記憶している。

(続く)

余計なお世話??~その4

 ACCJは、新規法曹の研修の機会は、a法律事務所がこれまで行ってきた研修、b国選弁護を利用した研修が可能であって、新規法曹の研修の機会の歪みは解消できるはずだと主張するようです。さらに、弁護士会は研修機会を提供する道徳的義務があると述べています。

 ACCJが知っているか知らないか不明ですが、aの研修は昔から各法律事務所で仕事を一緒にやらせるなどの方法で行われてきました。そのOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)が、新規法曹のあまりにも急激な増加により困難になってきているのが問題となっているのです。ACCJは、日本の4大事務所は100名を採用する予定であるなどと述べていますが、すでに大事務所でもリストラが開始されている事実(ある信頼すべき弁護士の方から伺った情報である)を把握しているのでしょうか。法律事務所に雇用されることもかなわず、全く実際の経験もなく独立を余儀なくされる新人弁護士がこれから続々誕生することを把握しているのでしょうか。

 それにも関わらず、ACCJが新人弁護士のOJTは可能だと主張することは、そもそも議論にすらなっていないように思います。例えて言えば歯医者さんに行って治療を受けたときに、あまりに痛いので「痛いです」と言ったら、歯医者さんに「痛くない!」と断言されるようなものでしょう。

 また、確かに理系出身者などが法曹を目指すきっかけとして法科大学院は当初は意味があったかもしれません。しかし、社会人入学者の割合がH16年度では48.4%であったところ、H20年度では29.8%、とほぼ半減に近い状況になりました。法学部以外の出身者の入学者数もH16年度では34.5%あったところ、H20年度では26.1%に減少しています。つまり法科大学院制度を続ければ続けるだけ、社会人・他学部出身者の割合が減少しつつあるのです。なにより、法科大学院を志願する志願者が、H16年度には72800人いたのが、H20年度では39555人であり、これまたほぼ半減に近い大幅な減少ぶりです。沢山の志願者が法科大学院に集まらなければ優秀な人材は確保できないし、優秀な人材が確保できなければどんなに教育を頑張っても、優秀な法曹を育てるには限界があることは当然でしょう。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/houkoku/08100219/007/001.htm

 法科大学院制度(そして法曹の爆発的増加による魅力低下)により、他学部出身者が法曹を目指す意欲はどんどん削がれていると評価すべきではないでしょうか。現実に数字として上がっている事実(上記リンク参照)とACCJの主張は齟齬があるように思います。

 ACCJのbの主張は、私が日本語訳に頼っているせいか、申し訳ないがよく分かりません(誰か教えて下さい)。国選弁護を希望者だけではなく全ての弁護士(若しくは新規法曹?)に割り当てて、その過程で研修すればいいという意味なのかもしれません。もし新規法曹に割り当てて研修させろという趣旨だとすれば、少なくとも大阪弁護士会では既にその研修は行われています。

 大阪では新人弁護士が国選弁護を行う際には必ず、刑事弁護の経験を積んだ弁護士と一緒に事件を行わせるという研修を課し、その研修が終了しないと原則として国選弁護を行うことができない制度となっています。ACCJが言っていることくらいは、既に大分前からやっているのです。

 結局ACCJが、「新規法曹の研修についてはa・bの確かな方法がある」と大層に御主張されることくらいは、既に日本では行われていることばかりです。その中で、爆発的な弁護士人口の増加により、特に法曹として必要と思われる、aのOJTが極めて困難になりつつあるのが最大の問題なのだと思います。

(続く)

余計なお世話??~その3

 ACCJは、日弁連の緊急提言に対して、「司法試験の合格ラインを下げることが新規法曹の質を低下させたという点についてデータがない。」と批判し、さらに「ACCJは現在の法曹候補者の質は大学院レベルの教育を追加したため向上したと考えている。」ということのようです。

 司法試験の合格者を増やすために、合格ラインを下げると、当然レベルダウンした合格者が増加することは証明するまでもないでしょう。100mを11秒以内で走れる人間をランダムに集めたリレーのチームを作るのと、100mを16秒以内で走れる人間をランダムに集めたリレーチームとではどちらが速いかは、明白でしょう。
 さらに司法試験委員会で公表されている新司法試験の採点雑感を見ると、基本ができていない答案が多いことが毎度のごとく指摘されています。以前から指摘してきた司法研修所教官の意見も合格者の質の低下を示唆しています。法曹としての最低限の資質を図る2回試験の不合格者の増大や、これまで沈黙を守ってきた最高裁が2回試験における不合格者のとんでもない内容の答案を開示したこと、近時の裁判官が弁護士の質が低下した旨を非公式に寄稿したなどの情報に鑑みると、レベルダウンした法律実務家が世に出始めており、法務省・最高裁が懸念を感じるレベルまで至ってきていることは明らかです。

 私自身の経験からいえば、受験者の上位1500番くらいまでは、結構早く到達できたものの、そこから合格に至るまでが大変でした。受験者のうち上位の方は、合格者とやむを得ず受験をあきらめた少数の方しか減少せずに再受験されますし、優秀な若手もどんどん成績を伸ばしてくるので、1500番くらいから合格レベルまでが本当に大変な競争でした。しかし逆に、その大変な競争にさらされたからこそ、基礎的知識も、論理構成力も、かなりしっかり身につけなければ合格できなかったと思います。私の感覚から言えば、仮に1500番くらいを取れる実力しかないときに運良く合格していても、(自分がいちばんよく分かりますが)基礎的知識もしっかりしていない状態だったので、それで実務家を名乗るなんて、今考えると相当恐ろしい状況だったように思います。
 今は、法科大学院を卒業しても3回受験して失敗すれば、失格になるので、受験者集団に成績優秀な方が残りにくい制度になっています。つまり新司法試験は過度な競争が起こりにくい状況にしてあるのです。さらに合格者が2000人を超えるのですから、基礎的知識に不安があっても合格者の数を合わせるために相当数の方が合格されている可能性があります。昨年法曹人口問題PTで、新司法試験を受験された方にお話を聞く機会がありましたが、「新司法試験において試験問題を完全に理解して解答しているのは、おそらく成績上位1~2割くらいの受験生だけで、極論すれば、私を含めて、他の受験生は問題の意味を完全に理解できないまま、それらしいことを書いているのではないかと思う」という感想を述べていた方がおられました。

 確かにACCJが言うように、質の低下を示す直接的・客観的なデータがあるのか、出してみろ、といわれると困難があるとは思います。質の低下を100m走のように客観的に数値化することはおそらく不可能だからです。
 しかし、2回試験不合格者の増大や最高裁のあまりにもひどい不合格答案の開示、司法研修所教官や新司法試験採点者から基本的理解が欠けているという指摘がひんぱんになされるなど、質の低下を意味する数多くの指摘がある中で、逆にACCJが言うように法曹候補者の質が向上したという客観的データはあるのでしょうか。それをACCJは示すことができるのでしょうか。

 ACCJは「受験予備校よりも法科大学院が有益であるということは証明可能だ」と主張するようですが、それは論点のすり替えです。問題は新人法曹の質がどうかという問題であって、新人法曹教育制度の問題ではないからです。つまり、同じ自動車を手作業で組み立てるA社と、組み立てを自動化しているB社があるとします。この場合、どちらの自動車が優れているかは、出来上がってきた自動車同士を比較する他ありません。製造過程が自動化されているからB社製の自動車が優れていると主張しても何も意味がないということなのです。
 すなわちACCJがここで証明すべきは、法科大学院制度を経て法曹になった者が、(個々人ではなく)全体として、旧制度の下で法曹になった者よりも優秀か同程度であるということであるはずです。その証明は、私は無理だと思います。できるものならやって頂きたいし、客観的に証明してみせるのが、日弁連の主張を批判して証拠を出してみろと凄んでいる、ACCJの義務というべきでしょう。

 また、ACCJが法科大学院によって法曹候補者の質が向上していると主張するのであれば、ACCJに加盟する米国企業は、優秀なんだから、新人弁護士や法科大学院卒業者を、さぞかし沢山就職させているはずでしょう。しかし、その点については、ACCJはなんら触れておりません。この点も明らかにして主張して頂きたいように思います。
 仮に、ACCJが新人弁護士や法科大学院卒業者を多数就職させておらず、その言い訳として、ACCJ加盟企業としては日本人法律家を必要としていないという理由が、もしACCJ側から出されるとするならば、なぜ、ACCJは加盟企業となんら関係のない法曹人口に関して、「法曹の増加は司法改革において決定的に重要である」などと主張するのか、という根本問題が生じます。

(続く)
 

余計なお世話??~その2

 そもそも、ACCJが在日米国商工会議所であることから、さぞかし、日本の弁護士が少なくて採用できないなどの不利益が、在日アメリカ企業にあるのだろうと思って意見書を読んでみました。

 お読みになった方はお分かりかと思いますが、実際に法曹不足でACCJ加盟企業が不利益を被ったなどという理由は一切書かれていません。

 ACCJの主張の根拠を、もう少し詳しくあげてみると、①司法制度改革審議会が国民の需要に応えるために2010年までに新規法曹を3000人とするといい、閣議決定をしたではないか。そのために、法科大学院が設立されたではないか。②日弁連の2008年7月18日の緊急提言は根拠がない。③新規法曹に質の高い研修機会は可能である具体的には、法律事務所による研修、刑事裁判制度による研修が可能である。④弁護士以外の企業法務部・裁判官・検察官などになる弁護士の数が増大しているから法律専門職の空白を補うため(坂野注:弁護士が不足しているという趣旨か?)新規法曹の数は増加させなければならない。④日本における訴訟処理の速度が遅いため裁判官・検察官の増員も必要で、それに備えて新規法曹の増員は必要である。⑤実際には、東京・大阪以外では弁護士数は不足している。司法過疎は改善されていない。⑥諸外国と比較して弁護士数が少ない。というくらいになるでしょうか。

 順次反論していきます。

 まず、①についてですが、法曹人口増大論者がよく閣議決定を持ち出して、新規法曹を2010年までに3000人にするという決定がなされていると主張します。ではその閣議決定を見てみましょう。

http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/keikaku/020319keikaku.html

これが、3000人を決定したとして引用される閣議決定です。

問題の箇所は、

Ⅲ 司法制度を支える体制の充実強化
第1 法曹人口の拡大
の部分に出てきます。

 確かに、「平成22年頃には司法試験の合格者数を年間3000人程度とすることを目指す。」と書かれていますので、一見すると3000人は決定事項かと思われます。

 しかしこの閣議決定を良く読まれれば分かりますが、きちんと決定した事項については(実行できたかどうかはともかく)「所要の措置を講ずる」「必要な対応を行う」と明確に実行を断言しています。例えば、法曹人口の大幅な増加という項目で「平成14年に1200人程度に、平成16年に1500人程度に増加させることとし、所要の措置を講ずる」と記載されていますので、この部分については閣議決定で決まっていると言われても仕方がないでしょう。

 ところが新規法曹人口3000人の部分についての表現は、実行を断言する表現とは明らかに異なり、「目指す」となっています。
 あくまで「目指す」という努力目標でしかありません。決定した事項ではないのです。

 更に詳しく見てみると、司法試験合格者3000人を目指すという文章の前に、「今後の法的需要の増大をも考え併せると、法曹人口の増加が急務となっているということを踏まえ」と書かれた部分があります。このように、法曹人口の増加は、法的需要が増大することがまず前提だったのです。しかし、司法統計をご覧になれば明らかですが訴訟案件は微増ないし減少レベルに止まり、法的需要が増大するという前提は大きく崩れています。しかも、大阪弁護士会某会派の方のお話によれば、現在地裁訴訟案件の55%が過払い金訴訟だということです。つまり、通常の民事事件は大幅な減少傾向にあるのであって、一般国民の間で、法的需要が増大しているとは到底言えない状況にあるというべきでしょう。

 また、「法科大学院を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、平成22年頃には司法試験の合格者数を年間3000人程度とすることを目指す」とも書かれています。新司法試験委員会の採点に関する報告などを読むと、もっと基本的な知識を習得させるべきであるという意見が多く上がっているなど、決して法科大学院制度が成功している制度ではないことは明らかです。

 以上述べたように、2010年3000人というのは、あくまで「目指す」という努力目標です。また、目指すとしても法的需要が増大する前提が満たされ、法曹養成制度の整備の状況を見定めた上での話です。法的需要が増大せず、法曹養成制度の整備も不十分である現状では、増員努力目標の前提が完全に崩壊した状況にあると言えましょう。前提が崩壊している以上、努力目標であった2010年3000人の目標も修正されるのが当然です。

 繰り返しになりますが、閣議で決定されているのはあくまで、「平成14年に1200人程度に、平成16年に1500人程度に増加させることとし、所要の措置を講ずる」点までであり、それ以降ないしそれ以上の増員については、なんら決定されていないのです。

 「閣議決定で、平成22年の司法試験合格者3000人が決まっている」という主張は、誤解か、自分に都合良く閣議決定を読み替えた曲解なのではないかと私は考えています。

(続く)

余計なお世話??~その1

 仮に、在米日本国商工会議所という架空の団体が存在したとします。

 そして、その団体が、アメリカにおける弁護士人口が過剰であり、その結果、弁護士がかつて担っていた公的責任を放棄し、自分の事務所の経営だけを考えるように変質したこと、弁護士が自らの利益のために時間を浪費する訴訟や無闇な買収までを勧めるよう変質してしまったこと、諸外国に比べて異常に高額なリーガルコストを企業・国民が負担せざるを得なくなっていること、仕事を失った弁護士などによる反社会的行為を行われ弱者が被害に遭う事例が毎年多数見られることなどに鑑み、アメリカの弁護士人口を1/10にまで減少させることは、決定的に重要である。
 なんて主張したら、アメリカの弁護士達は黙っているでしょうか。

 余計なお世話だ。
 これは内政干渉ではないか。
 自由競争で弱者が負けることはやむを得ない。それが資本主義だ。
 弁護士といえども職業だ。それを利用して稼いで何が悪い。
 公的責任を負えというなら生活を保障しろ。
 商工会議所に何が分かる。
 アメリカにはアメリカのやり方がある。

その他様々な反論が、噴出することは確実だと思います。

 ところが、在日米国商工会議所(実在の団体です)は、次のような意見書を出しています。

 「法曹の増加は司法制度改革において決定的に重要である」

 その理由として、①日弁連は主張を裏付ける客観的データを提供していない。②新規法曹に対する研修については確かな方法が存在する。③法律専門職の経歴における流動的な性格はより多くの若手法曹の供給を求めている。④弁護士は東京以外、特に過疎地域では不足している。という4点が上げられています。

以下のリンクをご参照下さい。

http://www.accj.or.jp/doclib/vp/VP_BengNKNI.pdf

(続く)

最新司法修習生就職(難)状況

 新62期修習生は、全国各地での分野別修習を7月29日に終了して、集合修習のため埼玉県和光市の司法研修所に戻ることになっているようです。

 私達が司法修習生の頃は、各地での修習を終了し、和光の司法研修所に戻る際には、すでに就職が決定している方がほとんどでした。

 最新の、情報によると、大阪で司法修習中の260名中、アンケートに回答してくれた方が約160~170名、そのうち約45%の方が、まだ就職先が見つかっていないようです。全国平均でも、アンケート回答者の約30%が就職未定のようです。

 しかもこれはアンケート調査ですから、就職が決まった修習生は回答しやすいけれども、就職が決まっていない修習生としては、自分は決まっていませんと回答しにくい 調査です。したがって、本当に就職先が見つかっていない方は、おそらく全国的に見ても40%以上いてもおかしくありません。

 そういえば、前日弁連会長の平山正剛氏は、司法修習生の就職は2010年まで大丈夫とおっしゃっていたはずですが(2007年11月9日の当職のブログをご覧下さい)、この状況でも大丈夫とおっしゃるおつもりなのでしょうか。

 仮に2010年まで大丈夫であっても、大丈夫なのが2010年までということは裏を返せば、その後は大丈夫じゃないということです。平山氏の見解が日弁連執行部の見解だったとすれば、まず現状をどうするのか、次に2010年の後はどうするのか、日弁連執行部に明確に説明して頂きたいところです。

 また、昨今、法科大学院への志願者が減少の一途であることが、報道されていますが、無理もありません。時間もお金もかけて法科大学院へ進学し、新司法試験・2回試験に合格して、ようやく資格を得ても、就職すら困難なのですから。

 そして、就職困難な状況は、需要がないのに供給が増え続けるのですから、更に悪化することはあっても改善する兆しは今のところありません。

 法科大学院の関係者の方には、新司法試験の合格率が低いから志願者が減少しているのだ、と主張されることがあるようですが、世の中の人々は、そんな馬鹿ではありません。

 法科大学院卒業というだけでは、なんら就職に有利でもない現状を十分知っているのです。そのうえで、新司法試験が、法科大学院に対してたくさんのお金と貴重な時間を費やしたうえで、なお、挑戦するに値する試験なのか否かを冷静に判断しているはずです。

 その冷静な判断の結果、挑戦するに値しない制度であり、資格であると判断するからこそ、志願者が激減しているのではないでしょうか。

 おそらく法科大学院としては、「法曹はいつの時代でも食いっぱぐれないし、法曹の魅力はいつの時代でも変わらない」と思っていたのかも知れません。しかし、いくら社会的に有意義であっても、仕事がなく食えない職業であれば、多くの人はその職業を目指しません。職業は、自分を実現していく手段ですが、同時に生活の糧を得る手段でもあり、いずれかを欠く職業は魅力がないからです。しかも、その職業に就くために、たくさんのお金と時間がかかるならなおさらでしょう。

 ちょっと脱線してしまいましたが、法科大学院も、いつまでも新司法試験のせいにせず、自らへの志願者の減少の本当の原因を、冷静に探る必要がある時期に来ていると思います。

※ このブログの記事掲載の日時が誤って7月17日と表示されていました。正しくは7月21日ですので、訂正いたします。

昔話~高校の想い出(クラス分け)

 私の通っていた、和歌山県立新宮高等学校の普通科は男女比率はほぼ同じであったが、1年生の時は特にコースわけを行うこともなくクラス分けをして授業をし、高2からは、生徒の希望を基本に、通称文系・文理系・理数系の3系統に別れて授業を行うことになっていた。

 私の通っていた高校でも、世の中でいわれている傾向通り、女性は理数系は苦手な人が多かったらしく、文系>文理系>理数系の順で、女子生徒の比率が高く、大学進学率は理数系>文理系>文系という傾向にあった。

 何せ、色気づき始めた高1~高2生である。どのコースに進むかの希望を出すときに、どうもあの子が○○系を希望しているようだとかいう噂が立ったりする。私もご多分にもれず、そんな単純な理由で、文理系にするか理数系にするか悩んだものだ。

 私は結局、理数系を選択した。

 クラス分けにより理数系は2年10組の一クラスとされるとの発表があった。

 私は、初めて理数系に分類された2年10組の教室に入った瞬間の景色を、いまだに忘れることができない。

 そこには、男子生徒しかいなかった。誰一人として女子生徒はいなかったのだ。

  しかも集まった連中は、基本的に理系志望だから、純情可憐な文学的要素などもってのほかで、理系っぽい何となくダークな雰囲気が充満しているのだ。

 男女比率が同じ共学の高校で、何故か男子クラス!知ってりゃ絶対文理コースにしたはずだ。

 しかも、2年間はクラス替えがない。

 思春期の最も中心的な2年間を、男の園で暮らさなければならないのだ!

 終わった・・・・・・・。

 私の高校生活は完全に終わった・・・・・・・・と思った。

 この悲惨な状況は、体験したことがある人にしか分からないだろう。

 体育祭のフォークダンスの練習は、半分が女性の役割をしなければならない。そんなフォークダンス、頼まれたって嫌だろう。

 修学旅行で、学校側が気を利かせて催してくれたキャンプファイアーを囲んでの懇談会でも、周囲は男ば~っかり。

 男同士で踊ろうったって、気味が悪いだけで踊る気が湧くはずもない。男同士で語ろうったって、たいした人生経験もない思春期真っ最中の当時は面白くもなんともない。

 竹内まりやの曲で、「毎日がスペシャル」という曲が、TVで流れていたことがあったが、その当時の私にとってみれば、理数科教室での毎日は、大げさにいえば「♪~毎日がモノクロ」という感じだった。 

 しかも担任は、柔道5段?くらいだった道上徹先生。生意気盛りの高校生がささやかな反抗を考えても、柔道5段が立ちふさがるのだ。

 そのうち、女性に気を遣わなくても済むというメリットもあるし、良い奴もいるんだということが分かってくるが、まあ、当初は落ち込んだものだった。

(続く) 

高速道路で

 私は結構ドライブが好きなので、仕事で遠隔地の警察署などに接見に行かなければならないときなど、高速道路をよく利用することがあります。

 先日、新名神の追い越し車線を気持ちよく走っていたところ、前を走っているボルボの運転席から何かが飛んできました。一瞬何のことか分からなかったのですが、小さな白いものが飛んできて、私の自動車のボンネットに当たりました。高速走行中に小さな虫が当たったような音がしたので、大したことはないのは分かりました。しかし、一体なんだろうと思っていたところ、こんどは、同じボルボの助手席の方からもう一度同じようなものが飛んできました。

 今度は、路上で跳ねて私の運転する車のフロントグラスに当たり、そのまま運転席側の窓に沿って飛んでいったので、何が飛んできたのか分かりました。

 小さい物体の正体は、タバコでした。

 あまりのことに、私は唖然とし、次に怒りがこみ上げてきました。おそらく、火も消さずに窓の外に放り投げたタバコでしょう。もし私が、窓を開けて運転していたのであれば、そのタバコは運転席側の窓沿いに飛んでいったことから、窓から車内に飛び込んできてもおかしくないはずです。

 万一火のついたタバコが、私の車の後部座席に飛び込み、私が気付かなければ、車両火災になっていてもおかしくありません。タバコの火を消したつもりでも、完全に消えていなければ同じ危険が後続車に生じます。
 しかも、タバコを捨てた方の車種はボルボです。安全性に相当配慮されて作られたことで有名な自動車メーカーの車に乗っている方ですから、おそらく家族の安全には相当配慮されているはずです。しかし、運転席だけではなく助手席からもタバコが路上に投げ捨てられたことから考えれば、おそらく、自分たちさえ安全であれば良いという発想のご家族ではないかと思ってしまいました。

 これだけではなく、最近タバコの灰を窓から捨てる方、吸い殻を平気で投げ捨てる方を、昔よりよく見かけるような気がします。確かにタバコの灰や吸い殻を車外に捨てれば車内は綺麗なままだし、灰皿の掃除も不要でしょう。しかし、自分の都合で、誰かに迷惑をかけても構わないという発想は、社会全体を汚していくように思えてなりません。

 公の場で他人に迷惑をかけることは恥ずかしいことだという、ごく当たり前のことが次第に忘れ去られつつあるような、残念な思いがしました。

プロセスを重視した法曹養成って・・・・?

 法科大学院が素晴らしいものであることを示す理由の大きな柱として、「プロセスを重視した法曹養成」があげられてきたことは、皆さんご存じのことと思います。

 要するに、今までの司法試験は一発試験であり、そこでの成績が合否を決めてきたが、法科大学院制度では違う、もっと法律家養成のプロセスを重視するとの、うたい文句であったように思います。

 でも、翻って考えると、法科大学院の成績と関係なく、法律家となるための関門として新司法試験がある以上、新司法試験の時点では、一発試験の成績で合否が決まることには変わりありません。

 新司法試験に合格するかどうかの前段階でプロセスを重視するということを意味しているのかも知れません。しかし、そうだとすれば、旧司法試験が論点暗記に走っていると批判されていた(受験した経験があるものとして断言しますが論点暗記だけでは、旧司法試験は絶対に合格はできませんでした。)ことが、法科大学院制度では大幅に改善されていないとおかしいような気もします。

 ところが、日弁連法務研究財団認証評議会第11回議事録のなかで、井上日弁連法曹養成対策室長は次のように述べています。

「今、司法研修所の民事裁判教官室自体が、要件事実というのはやめようと。学生が要件事実を暗記するという傾向がやっぱり最近強まっている。大事なのは物の考え方であって、それを暗記することでは決してないんだというようなことを非常に強くメッセージとして研修所が発しているという、そういうふうな印象を受けるんですね。」

 これは要するに、物の考え方よりも暗記を優先する傾向が、法科大学院生・司法修習生において、更に進んでいるということを述べているようです。前述の通り、法科大学院は、旧司法試験を暗記優先であると批判して作られた制度でもあるはずです。そのうたい文句がプロセスを重視した教育だったはずです。

 ところが、その新しい制度でプロセスを重視して教育を受けるはずの者が、今まで以上に暗記に走っているとすれば、いったい何のための制度変更なのでしょうか。

 私には、どうもプロセスを重視する法曹養成という意味がよく分かりません。そしてプロセスを重視すればどういう利点があるのかも分かりません。何となく司法改革の中で、プロセスを重視した法曹養成という言葉が一人歩きして、何となくその方が良いような気になっているだけかも知れないのです。

 どなたか、プロセスを重視する法曹養成の利点を教えて頂けないでしょうか。

 そして、そのプロセスを重視する法曹養成を行っているはずの法科大学院制度が実施されているにもかかわらず、暗記重視の傾向が従来より強まっているという指摘は何故なのか、教えて頂けないでしょうか。