被疑者国選

☆ボランティア募集!

・日時は(都合はお聞きしますが)平日昼間など、当方で指定します。
・熱心にやっていただける方は20時間以上も可能。
・場所の指定を受けた方は、何回通われても8キロ以内は交通費支給無し。
・ボランティアに必要な道具もご自身でご準備頂きます(若干の補助あり)。
※なお、参加1時間あたり7000円程度を支払って頂きます。

 このようなボランティア募集があったとします。
 どう思われますか?

 ふざけんな。誰が金払ってまでボランティアせなあかんねん。

 ボランティアの時間まで指定されたら仕事に差し支える。

 場所をそっちで指定するなら交通費くらい出してよ。

 必要な道具の準備の負担をどうしてしなければならないの。

 自由な時間にできて初めてボランティアじゃないの?

というのが普通の人の反応だと思います。

 だから、上記の条件であれば、誰もボランティアに参加するはずはありませんよね。何らかの事情があって仕方なく参加するとしても参加する時間が長くなればなるだけ損するので、できるだけ短時間ですまそうとするはずです。

 しかしこれが、(給料を頂いている勤務弁護士さんには当てはまりませんが)私のような経営者弁護士から見た国選弁護の実態です。今年から被疑者国選制度が拡大されてはいますが、このような劣悪な条件は殆ど改善されていません。この状況で、経営者弁護士が国選弁護から手を引こうと考えても無理はありません。

 詳しくは、私のブログ2008年2月3日、3月5日、3月6日、3月25日をご覧頂ければお分かりになるかと思います。私は修習生時代、税金で育てて頂いたという気持ちがあるので国選弁護を続けてきましたが、そろそろ考え直す必要があると思いはじめています。せめて赤字にならないようにして頂ければ、もう少し頑張れるのでしょうが。

 やればやるだけ赤字になる仕事を善意だけで続けることは、限界があります。

 被疑者国選が拡大されたが引き受ける弁護士が足りないという報道が一部にあったようですが、どこの世界に行っても上記のような条件のボランティアなど誰も引受けてはくれません。こんな劣悪な条件で引受け手を捜す方が間違っているのです。マスコミの方は、そこまで踏み込んで書いて下さいね。

 ではこれから、被疑者国選の被疑者に面会(接見)に行かなければなりませんので・・・・。

日弁連はもっと文句を言うべきだ(その4)

 さらに、自由競争により弁護士が使いやすくなるのではないかという指摘について述べる。

 仮に自由競争によって弁護士が安く使いやすくなるのであれば、弁護士があふれかえっているアメリカでは、自由競争により非常に安い値段で弁護士が利用できていなければおかしいはずである。しかし、アメリカにおけるリーガルコストは、日本と比較して非常に高いと指摘されており、自由競争により弁護士が安く使えるという状況が実現するかは、実際には大いに疑わしいと考えるべきである。

 この点、アメリカでは確かに企業の使う一部の弁護士の費用は高騰しているが、一般国民の利用する弁護士の費用はそうではない可能性があるではないか、との批判も考えられる。しかし、企業が負担する高額の弁護士費用は、製品・サービス等の値段に転嫁されて最終的には消費者(一般国民)の負担になる。つまり、弁護士費用分を上乗せされた製品を消費者は買わざるを得なくなるということだ。一般国民の方が直接弁護士に依頼する場合に、仮に安くなったとしても、それ以上に、日常の買い物の中でリーガルコストを負担させられていくことになるだろう。
 つまり、弁護士を多数生み出し、自由競争させた結果、高額のリーガルコストが必要になっているアメリカでは、結局国民全体で、多額のリーガルコスト負担をしなければならない状況に陥っているといってもおかしくはないだろう。これでも、自由競争により弁護士が安く使える状況が到来すると言えるのだろうか。

 また、仮に、万一、自由競争により弁護士が使いやすくなるとしても、それは、自分だけが使いやすくなるのではなく、相手方も使いやすくなるということである。これまでは当事者同士の話し合いで済んでいた話が、相手が弁護士を立てて来た場合、法的知識の不足する一般の方としては、やはり弁護士に依頼せざるを得ないだろう。
 今は、まだ(少なくとも私の知る)日本の弁護士は、訴訟しても実質的に回収が困難である場合などには訴訟を勧めることはないが、今後自由競争になり少しでも実入りが必要になれば、実質的に依頼者の利益になるかどうかをさておき、とにかく、訴訟を勧める弁護士が出てこないとも限らない。実際にアメリカでは、すぐに訴訟沙汰になることも少なくないと聞いている。

 仕事にあぶれて食うに困って弁護士が軒先をうろうろしている、一旦もめ事が起こればすぐに弁護士が飛んできて訴訟にしようと勧める、そのような社会を本当に国民の方々は望んでいるのだろうか。

 私の6月19日のブログにも書いたが、ニューズウイーク日本語版の記載からすると、自由競争にさらされてきた現在のアメリカの弁護士の状況は、決して望ましいものではないようにアメリカ国民に受け取られているように読める。

 だから、日弁連も、弁護士を大量増員して自由競争させるべきだという主張に対しては、弁護士業の自由競争化は、社会的強者にとっては有り難いが、一般国民の方に迷惑を掛ける可能性が高い。現に自由競争をしているアメリカの例が成功していると言えるのか、などと毅然と反論して論破して頂きたい。

 これまで弁護士達は、司法修習への協力、国選弁護や当番弁護など、相当多くの赤字の仕事を、その職務に鑑み引き受けてきた。

 完全自由競争にするというのであれば、赤字の仕事はすべてやらない、後進の育成も商売敵を育てることになるからやらない、となってしまっても自由競争だからおかしくはないのである。自由競争を主張する論者が、弁護士達が自腹を切ってこなしてきた仕事の費用負担をしてくれるのであれば、そうでなくても財源の手当をしてくれるのであれば、別であるが、そこのところは完全に無視されたまま話は進んでいるように見える。

 日弁連は、これまでの実績をきちんと説明し、弁護士業務に自由競争を持ち込む発想が、如何に問題が大きいのか、もっと声を大にして主張してもらいたい。

 日弁連はもっと文句を言うべきなのだ。

日弁連はもっと文句を言うべきだ(その3)

 次に、自由競争の過程で生じる問題点について。

 弁護士業にも自由競争を導入すべきとする論者は、不適格な弁護士は法的処理に失敗するなどしてその噂が立つだろうから、そのうち誰もその弁護士に頼まなくなるから、質の悪い弁護士を排除することに役立つと述べる。お医者に例えると、「藪医者」と噂の立つ病院には誰も行かないだろうということになろうか。

 しかし、不適格な弁護士と判断されるためには、法的処理に何度も失敗するなどしてあの弁護士はやばいという噂が立たなければ、その弁護士は排除されない。その噂が立つまでの間にその弁護士に依頼した人の利益は全く保護されないことになる。弁護士に事件を依頼しようとする人は、まさに人生の一大事を専門家に依頼して一緒に戦おうとしているはずである。そのようなときに、弁護士の資格を信じて依頼したのに、「あなたの依頼した弁護士は、不適格弁護士でした。運が悪かったですね。」で、すまされたらたまったものではないだろう。

 裁判で白黒つけるしかないという最後の土壇場で、依頼する弁護士が信頼できるかどうか分からないという状況が本当に正しいのだろうか。

 この点、大企業は資金もあるし調査能力もあるので信頼できない弁護士には依頼しないだろう。しかし、仮に大企業に訴えられた場合に、自らを守るために依頼する弁護士が信頼できないかも知れないとしたら、一般の国民の方は、一体誰に依頼すればいいのだろうか。

 つまり、自由競争は沢山の人に弁護士資格を与えて、競わせ、優れた弁護士だけが生き残ればいいという発想であるが、競わせる過程で犠牲になる人のことを全く考えていない発想なのである。

 また、先に述べたように優れた弁護士かどうかの判断は依頼者の方には困難である。勝訴率で比較できると考える某大学教授もいるようだが、弁護士実務の実際を知らないナンセンスな考えとしかいいようがない。

 例えば、国家に対する訴訟のように勝ち目は低いがどうしても依頼者がかわいそうでなんとかしたいと思って、訴訟を引き受けることの多い弁護士は、勝訴率は低くなるだろう。一方、もともと勝ち筋の事件しか引き受けない弁護士であれば訴訟の勝訴率は圧倒的に高くなるだろう。この場合、両者の優劣の比較はできない。むしろ、勝ち目の低い事件をいくつか勝訴まで持ち込んだ前者の方が、弁護士として優秀な場合もあるはずだ。しかしそのことは勝訴率を基準にした場合には、誰にも分かってもらえないだろう。このように、某教授の発想は、弱者のために頑張ってきた弁護士を自由競争により、排除してしまう危険すらある考えなのだ。

 さらに、新司法試験合格者の爆発的増加と法科大学院の機能不全により、基礎的知識の不足する司法修習生が見られるようになってきていると指摘されているが、その大部分が弁護士になる事実を自由競争を導入すべきとする論者は見落としている。

 つまり、仮に弁護士業務に自由競争が機能して、不適格弁護士が排除される事態が発生したとしても、排除される数を上回る勢いで、今まで以上に基礎的知識の不足の危険がある弁護士が大量に増産されてくるのだから、弁護士の淘汰はいつまでたっても終わりはしないのだ。

 更に加えるならば、こんな点も問題になる。

 先にも述べたように、弁護士資格を乱発して自由競争にまかせた場合、弁護士のレベルにばらつきが生じていても、大企業は弁護士を選択するのに困らない。資金も情報も調査能力もコネも持っているからだ。

 しかし、一般の国民の方々はどうだろうか。弁護士を選択するのに必要な、資金も情報も調査能力もコネもない。弁護士のレベルにばらつきがある場合には、不適格弁護士に依頼してしまう危険を、常にはらむことになる。

 結局、弁護士業務を自由競争化させるべきだという主張は、その裏に、「社会的強者は弁護士業務が自由競争にさらされても、良い弁護士を選べるので、全く被害を受けない。一般国民が不適格弁護士を選んでしまうリスクがあっても、それは資金も情報も調査能力もコネもないのが悪いのであって、弁護士を選ぶ時点から勝負ははじまっている。」という弱肉強食の思想が流れている、と考えることもできそうだ。

 そもそも、裁判の世界は、社会的な力関係に左右されることなく、法的に見て客観的に筋の通った主張をする方を勝たせる公平・公正な場であるはずだ。その裁判の場面で一緒に戦う弁護士を選ぶ時点で既に、社会的強者が有利な立場にあるとすれば、公平・公正な場であるはずの裁判の前提が崩れはしまいか。

 また、資本主義社会における自由競争は、言い換えれば、儲けたモン勝ちである。いくら誠実に業務をこなし、依頼者にとって素晴らしい弁護士でも儲けられない場合は退場しろということである。依頼者のために良い弁護をしようとすれば、時間がかかる。しかし、時間を掛けていれば仕事を沢山こなせないから儲からない。いきおい、良い弁護よりも儲かる弁護が横行する傾向が進むことは間違いないだろう。

 既に、最近の司法修習生にはビジネスロイヤー志向が強くなってきているという指摘が、司法研修所教官からなされている現状は、弁護士の大量増員と無関係ではないようにも思われる。

 (続く)

日弁連はもっと文句を言うべきだ(その2)

 次に弁護士業も自由競争した方が良いのかという点についてのべる。

まず、自由競争の前提として、弁護士業が自由競争になじむものなのかという点である。

 弁護士業務のもっとも典型的業務として訴訟があるが、訴訟は過払い金請求事件のような特殊な類型を除けば、何一つ同じ物がないといっても良い。相手方の主張・反論も千差万別であるし、再反論も相手の主張に対応する内容になっていくことも多い。つまり一つ一つの訴訟がオーダーメイドなのだ。しかも弁護士の訴訟追行には職人技的な面もある。

 確かに、同じ仕立て料を払い、全く同じ生地を使って、全く同じ注文で、紳士服を何軒かにオーダーメイドすれば、どこの店が優秀かどうかは分かるかも知れない。
 しかし、ある一つの事件を訴訟にする場合、同一の事件を全く別の弁護士に依頼して別の訴訟で争ってもらうわけにはいかない。全く同じ事件で、弁護士の比較をすることが、本質的にできないのだ(比較ができない問題)。この場合、結局、クライアントとしては、依頼した弁護士がきちんと仕事をしてくれることを期待するしかないのだ。

 次に、やっかいなことに、訴訟になどにおける弁護士が作成した書面の優劣について、クライアントは判断することが難しい面があげられる。この点、ラーメン店であれば簡単だ。美味いかどうかはすぐ分かるし、美味くないラーメン店には行かなければ良いだけだ。

 しかし、弁護士の作成した準備書面を見て、それだけで弁護士の仕事の優劣を判断できるクライアントがどれだけいるだろうか。前にも述べたが、関東の某大手事務所に勤務する弁護士を訴訟相手にしたことがあるが、法的に意味のある主張は僅かであり、その他は、事件とあまり関係のない判例を多数引用しただけの書面であった。しかし、書面自体は立派な某大手法律事務所の名前入りの紙に印刷され、あちこちに最高裁判例が引用されているので、おそらくクライアントとしては、非常に頼もしい書面を作ってもらったと誤解しているだろうと思われた(仕事内容の優劣がクライアントに分かりにくい問題)。

 したがって、通常の場合、弁護士に自由競争をさせたところで、クライアントとしては比較もできないし、仕事の内容の優劣も分からないという状況に陥ることになる。

(続く)

日弁連はもっと文句を言うべきだ(その1)

 今日の読売新聞大阪本社版朝刊では、司法修習生の就職難が報じられているらしい。既に弁護士数は、20年前の2倍にまで増加しているが、訴訟件数は大して変わっていない。また、あれほど弁護士の必要性をさけんでいたはずの経済界の弁護士採用が、ごく僅かである以上、弁護士が余っているのだから就職難は当然だ。

 弁護士の需要がない以上、これ以上の増員をする必要性は乏しいはずだ。

 このような主張をすると、必ずと言っていいほど、司法過疎をどうするのだ、自由競争させた方が良いはずだ、という反論が出てくる。

 まず、司法過疎についてであるが、この問題は本来国の責任というべき問題だと思われるが、本当に地域住民の司法過疎が看過できない状況にあるのであれば、地方自治体が弁護士誘致を図るべきだし、図るはずである。医師の偏在も大きな問題とされているが、医師がどうしても必要と考える自治体は医師の誘致を図ったりしているはずだ。どうして弁護士だけが、弁護士の責任で過疎を解消しろといわれなければならないのか、まず私には理解できない。

 地域住民が弁護士の過疎対策を要求した場合、これに弁護士会が応えなければならないのであれば、全く同じ理屈で、無医村の地域住民が医師会に過疎対策を要望した場合、医師会が全国の医師から集めた医師会の費用で医師を派遣しなければならないことになるはずだ。むしろ日々の病気が住民の生活に与える影響が、法律問題以上に深刻であることが多い現実を考えるならば、医師の偏在の方が明らかに問題が大きいはずであるし、したがって医師会の責任がもっと厳しく問われてもおかしくはあるまい。

 医師会の責任が問われないのは、お医者さんにも生活があるから、開業しても生活ができないところにお医者さんが来てくれなくても仕方がない、という当たり前の理屈が理解されているからだろう。日本医師会の事業計画にも、次のように書かれている。「地域医師会との緊密な連携の下、医療財源の確保を前提に、すべての国民への平等で良質なサービスの提供を目指して、地域における保健・医療・福祉を推進し・・・(後略)」(日医雑誌第138巻第2号別冊より抜粋された日本医師会事業計画より)。

 つまり、医療だって財源の確保が前提なのだ。医師だって職業だから生活ができることが大前提であり、これは弁護士だって全く同じである。

 それがこと弁護士になると、上記の当たり前の理屈が何故か忘れ去られてしまい、開業しても生活できるか否か関係なしに、司法過疎は弁護士会の責任だと叫ばれるのは、どう考えてもおかしい。

 更にいえば、ここ10年間、日弁連は会員から過疎対策の費用を集めて、過疎対策を行ってきた。2000年1月から弁護士一人あたり年間12000円、2005年からは弁護士一人あたり年間18000円、2007年からは弁護士一人あたり年間16800円を過疎対策として負担し、過疎偏在地域にひまわり基金法律事務所を設置し、弁護士の定着支援などを行ってきた。ここ3年を考えただけでもおおよそ11.8億円弱を全国の弁護士が負担して過疎対策に充ててきた。文句を言うなら、弁護士会が個々の弁護士に負担させてきた過疎対策費用を代わりに負担してから言ってもらいたいくらいだ。

 ちなみに、大阪弁護士会司法改革推進本部の調査によると、フランスにおいても、弁護士の過疎偏在は解消されていないとの指摘がなされている。司法改革推進本部はフランス並みの弁護士数が必要といっているようだが、そのフランスでも司法過疎が解消されていないということは、結局、弁護士数と司法過疎は関係がないことを裏付ける。つまり、弁護士増員では司法過疎は解決できないことは実は既に明らかになっているといってもいいくらいなのである。

 だから私は、日弁連が司法過疎問題で仮に叩かれた場合は、「司法過疎対策のひとつとして法曹人口増大に反対していませんので、そこのところをお酌み取り下さい」、という弱腰な態度ではなく、もっと怒って欲しいと思っている。

 誰が今まで司法過疎の対策をしてきたのか、その費用はいくらであり、誰が負担してきたのか。日弁連が個々の弁護士から集めた費用で行う対策で不満があるのなら、それ以上の負担を誰に納得させて負担させるのか、司法過疎を非難する相手が負担してくれるのか等、厳しく反論して欲しいと思っている。

(続く)

新型インフルエンザ

 新型インフルエンザウイルスに対して、タミフルが有効であることは知られている。しかし、デンマークでタミフルに耐性を持った新型インフルエンザウイルスがついに現れたという報告があったらしい。

 ものの本によると、インフルエンザウイルスは体内の細胞に侵入し、そこで増殖して細胞外に放出され、更に別の細胞に侵入して増殖するという過程をたどって爆発的に増殖するようだ。
 そして、タミフルには体内の細胞に侵入しそこで増殖したインフルエンザウイルスが細胞の外に飛び出す際に必要な酵素を作らせないようにして、増殖したインフルエンザウイルスが細胞の外に飛び出すことを防ぐ働きがあるそうだ(ノイラミニダーゼ阻害薬~したがって、ノイラミニダーゼを用いずに増殖するC型インフルエンザにはタミフルは効かない)。

 誤解を恐れずに簡単に言えば、タミフルにより、インフルエンザウイルスが、他の細胞に増殖するのを抑えているうちに、体内の免疫機能の作用が追いついて、侵入してきたインフルエンザウイルスをやっつけるという、いわば時間稼ぎをやってくれる薬のように考えても良さそうだ。

 しかし、そもそも、病原性のウイルスとは一体どういう目的で出現し、増殖するのだろう。増殖して人間の身体の機能に害を与えるが、ひとつとして人間の身体に役立っているわけではないように思う。とにかく人間の身体の細胞にとりついて増殖し、他人に伝播し更に増殖をする。ウイルスの働きだけを見れば、自己増殖以外の何らかの目的があるとは思いにくい。また、ウイルスが下手に増殖しすぎれば人間が死んでしまって、自らも運命を共にしなければならなくなる危険もある。

 「ウイルスよ、一体、何考えてんねん。」というのが私から見た正直な感想だ。

 と、ここまで考えたところで、地球から見た人間の存在が、人間から見たウイルスにちょっと近いことにふと思い至った。

 人間は子孫を残して増殖しつつある。日本はともかく世界的には爆発的な人口増加といわれている。その過程で人間は地球に穴を穿って地下資源を掘り出し、自然を破壊し、海洋や大気を汚してきた。かといって地球に役に立つことを何か一つでもしてきたかというと、ちょっと思いつかない。

 地球から見れば、「人間よ、一体、何考えてんねん。」といわれても仕方がないような気もする。

 ひょっとして、仮に万一、地球にも自らを守る免疫機能があったとしたら、その免疫機能を使って人間を排除しようとしても不思議ではないだろう。

 案外、地球自身がその免疫機能として、人間という地球にとって有害な存在を排除するために、人に有害な病原性ウイルスを自然界の作用を用いて生み出している可能性があったりするのかもしれない。

 新型インフルエンザは、豚や鳥など自然界に存在する動物に感染しているうちに、人間にも感染する能力を得るとも聞いた。そうだとすれば、人にとっての病原性ウイルス=地球の免疫作用?説もあながち突飛な発想とまでは言い切れないような気もしてくるね。