冷蔵庫の音

 普段気にされたことがある方はそう多くはないかもしれないが、電気冷蔵庫も音を出している。
 コンプレッサーが動き出す音、冷媒の流れる音、コンプレッサーの動作が止まった際に冷蔵庫が身震いする音など、実は冷蔵庫は意外に多彩な音を出している。
 しかし、冷蔵庫の音に関して、私は普段は気にすることは滅多にない。

 1人で留守番していて心細いとき、病気で楽しみにしていた旅行に行けず横になっているとき、どうしてもやる気が出ずに寮の部屋で学習机に突っ伏しているとき、失恋して泣き疲れぼーっとベッドの上に座り込んでいるとき、同い年の友人が亡くなったことを知り呆然としているとき等、私の記憶に残る冷蔵庫の音は、このような少し寂しく、やるせない気持ちを抱いている情景と、何故か結びついている。

 冷蔵庫の音に関するこのような感覚は私だけかと勝手に思っていたのだが、あるシンガーソングライターの曲を聞いていたときに、私との抱いている感覚をもっと的確に表現しているのではないかと思われる歌詞にめぐりあった。

 柴田淳さんの「変身」という曲だ。

「変身」 作詞・作曲 柴田淳

別れは一瞬だった こんな長く二人で歩いて来たのに
君が隣りにいること 当たり前のことではなかったんだよね

散らかす度 君に怒られてたのに
もうなにをしたって怒ってはくれない

二人じゃ狭すぎたこの部屋が こんなに広いとは思わなかった
僕が黙ってると 遠くで冷蔵庫の音だけ
静かすぎて寒いよ

無意識のうちに 僕は君と同じ人を求め続けていた
だから 君と違うトコ見つけたなら たちまち冷めてしまった

君が育てていた花に水をやる
君が消えないように ずっと 消えないように…

どうしても受け入れられないことがある
かけがえのないモノがある
それが困るなら 僕は変わるか終わるしかない
君の愛した僕を

それでも 心の片隅に隠して
僕はきっと生きてくだろう
誰と出会っても いつか誰かと結ばれようと
演じ続けてくだろう

君を忘れた僕を

(歌詞の引用ここまで)

 遠くで聞こえる冷蔵庫の音に焦点を当てることによって、寒いほどの静けさ、そして、その静けさを通して「僕」の後悔と喪失感と寂寥感が痛切な痛みを伴って伝わってくる。
 その後の歌詞も、今現在の「僕」ではなく、君と一緒だったからこそ、その存在でいられたときの「僕」、君が愛してくれた「僕」、を守り通したいという、純粋な願いとその裏に存在する「君」への忘れ得ぬ想い(祈りといっても良いかもしれない)が伝わってくる。

 柴田淳さんの鋭敏な感性に脱帽せざるを得ない。

 是非、お聴きになることをお薦めする。

日弁連総会議案書における、会員提案7号議案の扱いは・・

 本日、日弁連から5月25日に開催される総会議案書が届いた。

 やはり、議案の最後に7号議案として、会員提案の議案が記載されている。

 ただし、7号議案の提案理由については、僅か19行の提案理由しか記載されていない。

 これに対して、7号議案に対抗する執行部の6号議案(2)は100行以上の提案理由が記載されている。まあ執行部は、後出しジャンケンができる立場なので、沢山理由が書けたのかもしれないが、会員への訴求力は、理由が充実している方が高い可能性がある。

 私は会員提案の7号議案について、どのような提案理由を記載して日弁連宛に提出されたのか全く知らないが、日弁連総会に対して会員の賛同を得ようとする提案であったろうから、本当はもっと詳しく書かれており、それを執行部が要約して記載したではないかのではないかとの疑念を持っている。まあ、これはあくまで推測なので、間違っている可能性もそこそこあるが、万一執行部が勝手に要約した(若しくは文字数を限定させるなどして要約させた)とするなら、これは問題だろう。

 しかし間違いようがないのは、会員提案議案については、議案書におけるフォント(文字の大きさ)が、執行部の提案・理由に比較して、明らかに小さく(2ポイントほどか?)設定されていることだ。

 そのせいか知らないが、会員提案議案は、弱い印象を受ける。ざっと議案を見てしまった会員であれば、フォントが違ってきているので、議案ではないと思って読み飛ばしてしまうおそれすらあるだろう。

 会員の議案提案が総会直前であり、印刷の都合上やむを得なかったとか、紙幅の関係でやむを得なかったというのであれば分からないでもないが、6号議案(2)は内容的には明らかに7号議案への対抗策であって7号議案提案後に作成された内容であることは丸わかりだし、7号議案記載のページには相当広い余白も残されているので、今回の場合、そのいずれでもない事は明らかだ。

 しかも見開きの左ページにフォントの大きな執行部の提案理由が記載され、その右側に7号議案が記載されているため、一目でフォントの違いは明確だから、校正ミスとの言い逃れも通らないだろう。

 となると、執行部は意図的に、かつ徹底的に会員提案議案を冷遇しているといわれても仕方がないだろう。

 議案も明らかにしない状態で執行部への委任状勧誘を行ったことも併せて考えてみると、そこまでやるか、ちょっと姑息すぎませんか、と私などは思ってしまうのである。

  会内民主主義って、一体何なんだろうね。

太地中学校のこと

 私が中学時代を過ごしたのは、太地中学校だった。
 太地中学校は、平見地区という高台にあり、灯明崎まですぐという、環境抜群、通学大変という地域にあった。

 私は、太地町の中でも平見地区とは、町の反対側の端の地区である森浦地区に自宅があったため、そこから自転車通学をしていた。森浦地区のみ自転車通学が許されていたため、結構うらやましがられたのか、通学路で軟式テニス部の先輩から雑草を投げつけられたこともあった。実際には、先輩達からのお下がりの少々くさいヘルメットの着用が義務づけられていた上に、雨などが降るとかなり辛く、友人と仲良くお話ししながら帰宅することもできなかったため、それほど羨ましいものではなかったように思う。

 小さな町であるとはいえ、町の端から端まで自転車をこぐ必要があったため、そこそこ運動量必要だった。また、1クラス35人程度の学級が学年に2クラスしかなく、生徒数は多くはなかった。

 そのおかげかどうか分からないが、東牟婁郡の陸上大会や駅伝大会に、選手として出場させて頂いたこともある。幸いにも、駅伝大会では3位に入賞し、賞状のコピーを頂いた記憶もある。

 学校自体は、木造平家建で、相当古かった。強い雨が降ると雨漏りがして、掃除用のバケツを雨だれ受けに使って凌いでいたような状況だった。

 また、風が通りにくい構造だったので、夏場は暑くて、窓枠から窓を外して、窓の外に置いて対応していたりもした(窓を開けても半分しか開かないため)。

 晩秋になり、日が落ちるのが早くなる頃、居残りで体育祭などの準備などで遅くなると、遠くに梶取崎灯台が、暗い太平洋に向けて灯火を投じる姿も見えた。なぜだか、私には、灯台が黙り込んだまま、そこにいるように感じられた。

 みんなが思春期だったこともあり、猿が集団で順位付けをするために争うように、意味もなく尖ってみたり、いわゆる不良に絡まれかけたり等、良い思い出ばかりというわけではない。しかし、思い返してみれば、校長先生がしょっちゅう芝を刈ったり、廊下にニスを塗っていたり、住み込みの用務員のおばさんが猫を何匹も飼っていたり、汲み取り式のトイレだったり、おそらく現代では考えられないような中学生活だった。もう、霞のかかったような記憶で、対象が誰だったのかもよく思い出せないが、同級生の女生徒に意味もなく一方的にドキドキしたことや、下級生からラブレターをもらってすぐ近くの灯明崎の神社に呼び出されたりしたことも、なんだか懐かしい思い出だ。

 私達が卒業した後、鉄筋の校舎が立てられ、居住性は格段に増したようであるが、現在では、過疎化が進んで、私達の頃からすれば、生徒数も3分の1程度になってしまったと聞いた。

 帰省したときは、ときおり、わざと近くまで行って校舎を眺めると、自分は変わっていないつもりでも、何もかも変わっていくのだ。そして、もうあの頃には戻れないのだ、と少しだけ、センチになったりする私がいる。

日弁連定期総会(5.25 高松)7号議案に関して

 現在、大阪弁護士会の常議員会では、5月25日に高松で開催される日弁連定期総会において、大阪弁護士会にも投票権があるので、その投票権をどのように行使するかについての議案が出されている(現在討議中であり決議は来週の常議員会)。

 さて、4月19日のブログにも書いたが、執行部は定期総会の議案の内容も明確にしないうちから、委任状勧誘のFAXを会費を使って全会員に送付した。

 その4月19日に届いたFAXによれば、6号議案は「宣言・決議の件」とだけ書かれており、どのような内容の宣言・決議を行うのか全く分からない。そのような状況でありながら、執行部としては、弁護士に、執行部宛の委任状を出して欲しい、という内容だった。

 簡単に言えば、「あんさん(一般会員)は、中身なんぞ知らんでもかましまへん、執行部があんじょうしたるさかいに、執行部宛に委任状だしとき」

 という扱いだ。まあ、完全に会員をなめきっていると言っても過言ではないだろう。

 執行部が何を考えてこんな変てこな委任状集めをしたのかについて、常議員会で日弁連副会長でもある大阪弁護士会の会長に質問しておいたので、ひょっとしたら次の常議員会で説明してもらえるかもしれない。

 それはさておき、大阪弁護士会の常議員会では、もちろん上記のような内容不明の議案では、賛否の議論することは不可能なので、総会議案書が取扱注意で配布されている。取扱注意なので、もちろん公開することは現段階ではできない。

 だが、大まかに言えば議案書の内容によれば、6号議案は二つに分かれ、

6号議案(1)は憲法9条改正に関するもの、

6号議案(2)は、「安心して修習に専念するための環境整備を更に進め、いわゆる谷間世代に対する施策を早期に実現することに力を尽くす決議(案)」

 とされている。

 ざっと見たところ、6号議案(2)は、7号議案を緩やかにして、谷間世代救済については日弁連の努力義務にしておこう、というような内容に読めた。

 私の見る限り日弁連執行部とべったりな大阪弁護士会執行部(大阪弁護士会の会長は日弁連副会長を兼任するのが慣例)の意見は、もちろん6号議案に賛成し、7号議案に反対というものであり、おそらく次の常議員会では賛成多数で、日弁連執行部と同じ立場での議決権行使と決議されるものと思われる。

 私個人の感想だが、6号議案(2)を提出するやり方は、法曹人口問題の時と同じく、日弁連執行部が会員を丸め込むために行う伝統的な常套手段だ。

 つまり、執行部から見て過激と思われる提案が会員からなされた場合、実質的には実効性をそぎ落としているものの、方向的にはよく似た提案をぶつけて、委任状を集め、会員提案をつぶすのだ。

 そして、努力規定化されてある執行部案は、その後はほとんど実行されず、実際にはかけ声だけに終わる。後に会員から批判を受けても努力規定だからとか、努力はしたとか、言い逃れができる。

 伝統的に行われているということは、変わりばえはしないが、日弁連総会の対策としては、極めて有効であるということでもある。

 ちなみに、先の常議員会で、執行部は谷間世代救済について考えているようだが、裁判官、検察官について、どのような動きがあるのか把握しているかと質問したところ、大阪弁護士会執行部の返答は、「そのような話は聞こえてきていない。」というものだった。

 いや、谷間世代の問題が法曹全体の問題であり、その対応について真剣に考え、6号議案(2)のように、力を尽くすというのなら、聞こえてくるかどうかの問題ではなく、積極的に聞きに行くはずだろう。まあ、上記の返答からしても、おそらく日弁連執行部は、いくら「力を尽くす」と本気っぽい書き方をしていても、本気ではない可能性が高いと私には思われるのである。

 私は、残念ながら、裁判期日が入っており総会には参加出来ないが、実りのある議論が総会でなされることを期待している。

「銀河英雄伝説」~田中芳樹著

 銀河・英雄・伝説と広大・偉大・そして歴史を全て含んだ、えらく大上段に振りかぶった題名だが、その名に恥じぬ内容で、いわゆるスペースオペラ小説としては、実に面白い。最近再読したが、やはりその面白さは変わらなかった。

 私が知人に勧められて初めて読んだのは、40歳過ぎの頃で、約10年ほど前に出版されたと思う創元SF文庫版だったが、文庫本で10巻にわたる長編だ。その他にも外伝が5巻存在する。この小説を読み始めたときは、小説を読める通勤電車の行き帰りの時間が、とても待ち遠しかった覚えがある。

 小説の中では、実に様々な人物が、銀河帝国側と自由惑星同盟側で登場し、活躍する。

 まだ未読の方の楽しみを奪うかもしれないので、あまり内容に触れることは避けたい。また、未読の方で、興味を持たれた方は、ここでブログを読むのを止めて、銀河英雄伝説の第1巻を手に取るべきだ。

 登場人物の人気投票を行えば、おそらくトップ3は、帝国側の常勝の天才ラインハルト、同盟側の不敗の魔術師ヤン、そしてラインハルトの腹心であり親友でもあったキルヒアイスで占められるのではないかと思うが、それ以外の個性豊かな登場人物の誰かに自分をなぞらえて、作者の紡ぎ出す銀河の歴史をたどるのも楽しいものだろう。

 私が自分を登場人物になぞらえるなら、客観的な年齢からいけば、そこまで昇進できるかどうかは別として、ビュコックかメルカッツあたりになるだろう。客観面を無視して最大限に自分を美化することが許されたと考えても、主人公の器でないことは自覚しているので、僭越ながら性格的にはミッターマイヤーあたりではないかと思うのだが、実は、とても自分には真似ができないという点で秘かに憧れるのはオーベルシュタインであったりもする。

 以前アニメ化もされており、クラシック音楽をBGMとした銀河英雄伝説のアニメーションを深夜に御覧になった方も多いはずだ。

 最近、新しく「銀河英雄伝説 Die Neue These」が製作されており、深夜に放映されている。旧アニメ版と比較すると、キャラクターのデザインは旧アニメ版の方に分があるように思うが、艦隊どうしの戦闘シーンなどはおそらくCGを駆使した、新アニメ版の方が遥かに良いように思う。

 大ベストセラー小説であるが、ベストセラーだからと毛嫌いせずに、ご一読をお薦めする。

レインガ岬(ニュージーランド)

 「ここに地終わり(ここに地果て)、海始まる」とは、ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの詩の一節であり、ポルトガルのロカ岬(ユーラシア大陸最西端)に、その石碑があることは有名なお話しである。

 私はポルトガルに行ったことはないが、通っていた中学校が岬(灯明崎)近くにあったことや、小学校の遠足で梶取崎やら、本州最南端の潮岬にいった影響からか、けっこう灯台のある岬が好きである。

 そのせいもあってか、以前ニュージーランド北島を旅行した際に、北島最北端に近い、ケープ・レインガ(レインガ岬)をみてこようと思った。

  ガイドブックによると、先住民からは、死者の魂が旅立つ場所であり、神聖な場所として扱われているとの記載があった。私は、死後の世界のことは何ら分からないが、魂が旅立つ神聖な場所なら、是非ともその場所に立ってみたいと思ったのだ。

 宿では、前夜、嵐だった上に、道中、大雨にも降られながらも、自分は晴れ男だと念じながら、私はレンタカーを走らせた。

 岬の小さな駐車場に着いたときには、一面が霧に覆われていて、自動車が7~8台、ツアーと思われるマイクロバスが1台のみ、所在なげに止まっていた。

 あたりは一面の霧であったが、せっかくここまで来たのだから、ガイドブックに載っている灯台までは歩こうと思い遊歩道を歩き出した。

 途中、次第に霧が晴れ、ついには視界が大きく開け、写真のような灯台が姿を現した。

 遠くに見える海は、タスマン海と太平洋がぶつかっており、空の雲と光る海面が遠くで渾然と一体化し、どこが水平線なのかわからない。

 まるで、海と空が溶け合っているかのような不思議な感覚に包まれた。

 このような美しい光景が見られるのなら、先住民が、死者に別れを告げる際に、ここから空でもなく海でもない、遥か遠いところへ、私の大事な人は向かうのだ、と感じても何ら不思議はなかったのだろうと、想われた。

 嘘のような話だが、この晴れ間は僅か25分くらいしか続かず、私が駐車場に戻ったときには、再び霧によって、ケープ・レインガは私の視界から消え失せていた。