法科大学院は非効率!?~2

(続きです)

 まず、法科大学院推進論者は、やたらめったら、「プロセスによる教育」が法曹養成に必要不可欠だと主張するが、「プロセスによる教育」が具体的に何を意味するものであるかについてあまり明確にされていないし、また、本当に法曹養成に必要不可欠なのかについては、推進論者が適当且つ勝手に主張しているだけで、誰も証明できていない。

 それどころか、日本の大手法律事務所は、法科大学院におけるプロセスによる教育を経ていない、予備試験合格ルートの司法試験合格者を優先して採用している。裁判官、検察官にも予備試験合格ルートの司法試験合格者がかなりの数で採用されている。


 仮に、プロセスによる教育が本当に法律実務家養成に必要不可欠なのであれば、実務界が、プロセスによる教育を経ていない予備試験ルートの司法試験合格者を奪い合うはずがないではないか。
 このような実情から見ても、法曹養成にプロセスによる教育が必要不可欠だとの主張は根拠が全くないどころか、実務界では法科大学院の主張するプロセスによる教育は、全く評価されていないといわれても仕方がない。

 その点を措くとしても、仮に「プロセスによる教育」が、手間暇かけた双方向性の小人数教育を意味するのであれば、私の受けた旧司法試験制度下の司法修習制度はまさに「プロセスによる教育」だった。


 60人程度のクラスに5名の担当教官がつき、起案の添削や講評など、一体教官はいつ寝ているのかと思うほど、丁寧かつ双方向性を維持しつつ手塩にかけた教育を施してくれた。各実務庁でも丁寧に双方向性の高い実務教育をして頂いた。
 この司法修習制度は、当初2年だったが、途中で1年半となり、現在は1年に短縮されている。

 仮に上記の意味での「プロセスによる教育」が、法曹養成に必要不可欠であったとしても、それは司法修習制度でも実現出来ていた教育なのであるから、法科大学院教育の専売特許ではないのである。

 近時、法科大学院を修了させることなく、法科大学院在学中の司法試験受験を認める制度改正が行われたが、これは、法科大学院によるプロセスによる教育が完了していない状態で司法試験を受験させることであり、法科大学院が主張してきた「プロセスによる教育」それ自体が大して意味がないことを自ら認めていることと同義である。

 さらにいえば、法科大学院卒業生が多数を占める司法試験受験者の中で、いまだに論点暗記勉強しかしていないと思われる答案が続出していることが、司法試験の採点実感等において明らかにされている。法科大学院の主張する、プロセスによる教育の結果が、司法制度改革時に避けるべきと強調された論点暗記勉強として結実していることは、実に皮肉である。

 そうだとすれば、法科大学院の存在意義はどこにあるのか。

 法曹教育に関与する権限を得た文科省の既得権の維持、少子高齢化のなかで将来的な学生の確保に汲々としていた大学側及びその関係者の権益の維持、くらいしか考えられないのではないか。


 その権益維持のために、文科省、法科大学院等特別委員会、法務省は、小手先で制度をあれこれいじることに20年も注力し続け(いまだに法科大学院の教育方法、教育内容等について改善が必要であることは、司法試験の採点実感で指摘され続けている。)、法曹志願者に不安を与え続けてきたのである。

 日弁連執行部は、未だ法科大学院礼賛の意見のようだが、導入に賛成した以前の執行部の失態を糊塗するために、法科大学院教育の問題点を無視するのではなく、現実を見て正しい判断をすべきと考える。

 君子は豹変す、というではないか。

 正しい道に戻れないのであれば、日弁連執行部は少なくとも君子ではないというほかない。

(この項終わり)

法科大学院は非効率!?~1

一つ例え話をする。

 あなたが費用を出して、農家の方に、稲の栽培を依頼すると仮定する。

a 種もみを一面、田んぼに撒いて、芽を出すか分からない全ての種もみに対して手間とお金をかけて育てさせる、
b 種もみを苗代に播いて、芽を出してきた中から生育の良い稲を選んで、その稲を田んぼに植えて、手間とお金をかけて育てさせる、

 どちらが効率的だろうか。

 こんな簡単な問題、馬鹿にするな、とお考えかもしれない。
 まあ、おそらく99%以上の方は、bの方が効率的だと考えるだろう。

 aのように、全ての種もみに手間とお金をかけて育てようとすることは当然費用は高くつく。発芽しなかった種もみにかけた手間とお金は、完全に無駄になるうえ、発芽してきた稲に対してもbと同様の手間と費用がかかるからだ。
 したがって、bのように、自ら発芽し、より成長する能力を見せた稲を選抜して、その稲に手間とお金をかけた方が、より効率的に優れた稲を育てることが可能と考えられるはずである。

 ところが、これを法曹養成制度に当てはめて考えると、次のようになる。

① 法律実務家として十分な法的能力を身に付けられるかどうか全く未知数の学生に対して、税金を投じた法科大学院に入学させて教育を施し司法試験合格を目指す。さらに合格後に短い司法修習を行う。
② 司法試験を実施し、法律実務家として耐えうる法的能力を身に付けたことをはっきり示した合格者を、司法修習制度で税金をかけてじっくり丁寧に育てる。

 かなり図式化しているが、①は現状の法科大学院制度であり、②は、旧司法試験制度と考えていい。

 日本のように限られた財政のもとで、優秀な法律家を効率的に養成しようと思えば、法科大学院に税金を投入する①の方法よりも、司法試験合格者に税金を投入する②の方策の方がはるかに有効且つ妥当であろう。

 この点、法科大学院推進者からは、「法曹養成にはプロセスによる教育が必要不可欠であり、法科大学院はそのプロセスなのだ」との反論がくるだろうから、一言述べる。

〔続く〕

無駄無駄無駄無駄・・・・

 ある会社の取締役が、こういう機械を導入して製造すれば、これまで以上に優秀な製品をたくさん生産できると豪語したので、費用を投入して取締役の主張する機械を導入した。ところが、導入した機械は、その取締役の豪語するような性能を発揮するどころか機能不全を起こし、機械の半数以上が壊れた状態になっている。
 しかもその取締役は、機械導入から20年近く経っても成果が上がらず惨状が明らかになっているにも関わらず、機械が上手く動けば上手く行くはずだと言って、機械をあれこれいじるだけで何ら結果を出せていない。

 さて、このような取締役はどう扱われるのが正しいだろうか。

 会社の話であれば、このような取締役は、当然責任を取らされて、クビになっているはずだ。会社のお金を無駄に使われれば、株主だって黙っていないだろう。

 ところで、この話を法科大学院制度に変えて見るとこうなる。

 法科大学院導入(推進)論者が、法科大学院制度を導入して法曹養成を行えばこれまで以上に優秀な法曹をたくさん生み出せると豪語したので、国は、多額の税金を投入して法科大学院導入論者が主張する法科大学院制度を導入した。ところが、法科大学院制度は、導入論者が豪語したような効果を発揮できず(司法試験合格率に関して、予備試験ルートは約95%、法科大学院卒業者は約40%未満)、半数以上の法科大学院が潰れている。
 しかも、法科大学院導入論者は、法科大学院制度導入から20年近く経っても優秀な法曹を生み出すという成果をあげられず(司法試験合格率で予備試験ルートに大差をつけられ惨敗状態)、惨状が明らかになっているにもかかわらず、制度をいじれば上手く行くはずだと言って、法科大学院制度をあれこれいじるだけで何ら結果を出せていない。

 このような法科大学院推進論者は、当然責任を取らされてクビになっていなければならないのではないか。多額の税金を使われた国民だって、事実を知れば黙っていないだろう。
 しかし、現実には、法科大学院推進派の学者と実務家が雁首揃えて、法科大学院制度をあれこれいじることに注力し、司法試験受験生に不安を与え続けている(文科省、法科大学院等特別委員会など。)

 ちなみに、司法試験予備試験は、法科大学院課程を修了した者と同等の学識及びその応用能力並びに法律に関する実務の基礎的素養を有するかどうかを判定する目的で実施されている(司法試験法5条参照)。
 つまり、司法試験予備試験合格レベルは、国が想定する法科大学院修了者と同レベルなのであり、法科大学院教育がキチンとなされているのであれば、司法試験の合格率において、予備試験組と法科大学院修了者組とで大きな差が生じるはずがないのである。

 荒木飛呂彦先生の漫画ではないが、「無駄無駄無駄無駄・・・・」と言いたくなるときもある。

法科大学院教育の敗北

 司法制度改革の、起点となった司法制度改革審議会意見書には次のような記載がある。

 「司法試験という「点」のみによる選抜ではなく、法学教育、司法試験、司法修習を有機的に連携させた「プロセス」としての法曹養成制度を新たに整備することが不可欠である。そして、その中核を成すものとして、大要、以下のような法曹養成に特化した教育を行うプロフェッショナル・スクールである法科大学院を設けることが必要かつ有効であると考えられる。」

 要するに、上記意見書は、法曹養成にはプロセスによる教育が不可欠で、その中核として法科大学院教育が必要かつ有効、と断言しているわけだ。

 法曹養成にプロセスによる教育がなぜ不可欠であるのかについて、これまで誰一人説得的な理由を述べてくれたことはないし、司法制度改革審議会意見書にもその明確な理由は書かれていない。

 それでも百歩譲って、法曹養成にプロセスによる教育が不可欠だと仮定して考えた場合、法曹になるために不可欠なプロセスによる教育を一番たくさん受けてきた者が、最も司法試験に合格しやすくなければおかしいはずである。

 今年の司法試験受験生を見ると、つぎの3ルートからの受験生が考えられる。

 予備試験ルート組(法科大学院を経由していないか、中退したプロセスによる教育が及んでいない組)、
 法科大学院在学組(法科大学院を経由しているが、実際の教育課程2年のほぼ半分しかプロセスによる教育を受けていない組)、
 法科大学院卒業組(法科大学院の教育課程を修了し、法科大学院を卒業した、最もプロセスによる教育を受けた組)、

 プロセスによる教育を受けた度合いを比較すれば、当然

 法科大学院卒業組>法科大学院在学組>予備試験ルート組

 となるはずだ。

 そうだとすれば、仮に法曹養成にプロセスによる教育が必要なのであれば、司法試験は法曹となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかを判定する試験なのだから(司法試験法1条)、司法試験合格率も上記のプロセスによる教育を受けた度合いに比例しなければおかしいだろう。

 しかし、今年の司法試験合格率は以下のとおりである。
 予備試験ルート組92.6%
 法科大学院在学組59.5%
 法科大学院卒業組32.6%

 予備試験ルート組>>法科大学院在学組>>法科大学院卒業組

 つまり、プロセスによる教育を最も長期にわたり受けてきたはずの法科大学院卒業組が最も合格率が低いのである。


 すなわち、法科大学院のプロセスによる教育が、法曹養成に関して意味をなしていないということであり、それ以外の理由が見出しがたい。


 優秀な学生は、予備試験や在学中受験に流れるので、やむを得ないとの法科大学院側の反論もありうるかも知れない。しかし、そもそも法科大学院入試時に、法科大学院教育を施せば法曹になる見込みのある人材を選抜している(法科大学院で教育しても合格不可能な学生を入学させているのであれば、詐欺的であろう。)以上、法科大学院がキチンと教育すれば合格レベルになるはずで、教育成果が身についているかについても厳格な修了認定をしていると自認しているのだから、何ら反論にはならないだろう。

 つまり、一言で言えば、


 法科大学院のプロセスによる教育は、法曹養成に関して、実に見事に敗北しているのである。

「司法試験合格者の質は落ちているのか?」論争の参考資料:平成13年度司法試験(旧司法試験)

 某サイトで、司法試験合格者の質の問題が議論になっていたようなので、昔のデータを参考までに示そうと思う。

法務省HPで手に入る最も古いデータは、平成13年である。

平成13年度司法試験は、
総出願者数38,840名
最終合格者990名
だった。
 これでも平成元年の2倍ほどの合格者数であり、合格者を増加させた結果の最終合格者だった。

 なお、論文試験合格者に関して、「おおよそ5/7は受験回数に関係なく合格させ、残り2/7は受験回数3回以内の受験生からしか合格させない」という丙案が実施されており、受験回数の少ない受験生が圧倒的に有利な状況下で実施されていた。

最終合格者の多い大学トップ10
東京大学   206名
早稲田大学  187名
慶應義塾大学 100名
京都大学    90名
中央大学    76名
一橋大学    36名
大阪大学    34名
明治大学    27名
上智大学    19名
同志社大学   17名
である。

上記トップ10の大学の出願者数は
東京大学   2764名
早稲田大学  4949名
慶應義塾大学 2535名
京都大学   1515名
中央大学   4863名
一橋大学    719名
大阪大学    630名
明治大学   1941名
上智大学    585名
同志社大学  1157名
である。

最終合格者数÷出願者数で単純合格率を計算すると
東京大学   7.45%(13.4人に1人合格)
早稲田大学  3.78%(26.5人に1人合格)
慶應義塾大学 3.94%(25.4人に1人合格)
京都大学   5.94%(16.8人に1人合格)
中央大学   1.56%(64.1人に1人合格)
一橋大学   5.01%(20.0人に1人合格)
大阪大学   5.40%(18.5人に1人合格)
明治大学   1.39%(71.9人に1人合格)
上智大学   3.24%(30.9人に1人合格)
同志社大学  1.47%(68.0人に1人合格)

この計算からすれば、
東大・京大卒(在学中も含む)の受験生でも、14~15人に1人しか合格しない、
早大・慶大卒(在学中も含む)の受験生でも、25~26人に1人しか合格しない計算になる。

 もちろん、出願者全員が受験したわけではないだろうし、記念受験者もいたので、真剣に法曹を目指していた者の実質上の合格率は上記の数字より多少落ちるだろうが、今年の司法試験のように合格率42.8%(ほぼ2.3人に1人合格)と比較すれば隔世の感がある。

 ちなみに平成元年の(旧)司法試験一発合格者数は僅か4名。
 令和5年度司法試験の一発合格者数は1584名である。

令和5年度司法試験合格者数増加は出来レース?!

 令和5年度の司法試験合格者発表が、11月8日に発表された。合格者は1781名で政府目標であった司法試験合格者数1500名を上回った。

 日経新聞などは、法曹離れに歯止めがかかったかのような報道をしているが、司法試験合格者増だけでそう言えるかは極めて疑問である。私が受験していた四半世紀前は司法試験受験者は約3万人いたが、現在は法科大学院志願者は延べ人数で約1万人前後である。法科大学院志願者は複数の法科大学院を受験している可能性が高いので、法曹志願者の実数はもっと少ないだろう。

日経新聞の記事
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE069WQ0W3A101C2000000/

 それはさておき、問題は、今年の司法試験合格者数である。私はこの数字は出来レースであったのではないかとの疑念を持っている。

 
 その根拠は裁判所の予算概算要求である。裁判所の令和6年度の概算要求書には、1800名の司法修習生を前提にした概算要求がなされている。

https://www.courts.go.jp/about/yosan_kessan/vcmsFolder_1269/vcms_1269.html

 上記の裁判所令和6年度歳出概算要求書48枚目以下には、78期導入修習(1,800【→1,800人の意味】)との記載があるし、司法研修所で用いる修習記録(修習生に配付される資料)の数も78期分は(1,910)【→1,910部の意味】での予算が要求されているからである。

 概算要求は確か、8月31日までに提出しなければならないはずだから、その時点(司法試験合格発表の2ヶ月以上前の時点)で、既に裁判所は今年の司法試験合格者数は1800名を少し切る程度になると分かっていたことになろう。

 ここ数年、司法試験合格者数が政府目標の1500名を割り込むことが多かったにもかかわらず、裁判所が突然司法修習生1800名を前提にした概算要求をしていることからすれば、1800名弱を司法試験に合格させることは、既に既定路線(悪くいえば出来レース)だった可能性が高いように思う。

 では、なぜ、このように司法試験合格者数約1800名を、突然既定路線にしていたのか。
 司法試験合格者数の政府目標が変更になったわけでもなければ、今年の受験生に突然優秀層が激増したことが理由だとも考えにくい(仮に万一そうであったとしても合格発表前に裁判所に分かるはずがないし、何より何人合格するかは分かるはずがない)。

 そうだとすれば司法試験合格者数を約1,800人にしたその理由は、司法試験制度の変更の影響くらいしか考えられない。
 この点、日経新聞の記事にもあるように、今年の司法試験には試験制度の変更があった。
 それは
 ①今回の司法試験では、法科大学院の最終学年の在学中受験が認められた
 ②学費や時間的な負担軽減を目的に20年度に設けられた、大学3年、法科大学  院2年の計5年で修了できる「法曹コース」出身の受験生が受験した。
 主にこの2点である。

 文科省の法科大学院等特別委員会は、これまでさんざん法科大学院改革に失敗してきたことから、上記の2点の変更に関して、もはや失敗は出来ない、と相当追い詰められていたようだ。

 これまで、文科省・法科大学院側は「プロセスによる教育が大事だ、そのための法科大学院だ」と言い続けながら、法科大学院を修了せずに司法試験を受験させるよう制度変更するなどしており、実質的にはプロセスによる教育の放棄ともいえる手段を自らの生き残りのために実施している。
 また大学入学直後から法曹コースに入れて、大学生活の多くを司法試験に向けての勉強に没頭させることは、司法制度改革審議会意見書が求める「21世紀の司法を担う法曹に必要な資質として、豊かな人間性や感受性、幅広い教養と専門的知識、柔軟な思考力、説得・交渉の能力等の基本的資質に加えて、社会や人間関係に対する洞察力、人権感覚、先端的法分野や外国法の知見、国際的視野と語学力等が一層求められる」との法曹像からかけ離れた法曹を生み出す危険もあるはずだ。

 何より、当初設置された法科大学院の半数以上既にが潰れており、近年希に見る失敗政策だったことは誰の目にも明らかである。

 しかも、法科大学院等特別委員会の議事録には、「これら制度の変更の成果は長い目で成否を見守って欲しい」という最初っから負け戦を恐怖するかのような発言が多くみられていた。

 つまり文科省・法科大学院側からすれば、どうしても法科大学院在学中受験者の合格者数も法曹コースの合格者数も増やさなければならない強い必要性があった。しかし、そのために司法試験でそれらの者だけを優遇するわけにはいかないから、司法試験合格者数を増やして、法科大学院在学中受験者の司法試験合格者数と、法曹コースの司法試験合格者数を増やす必要があったのだと考えるのが合理的だと私は思う。

 日経新聞の記事には、法務省の担当者の話として
 「新制度が始まったことにより受験者数と合格者数が増加した。こうした傾向が来年以降も続くかどうか注視したい」との内容が記載されている。
 この法務省担当者の話が事実だとすれば、その発言は、文科省・法科大学院が導入した新制度開始が合格者増加の原因であると法務省関係者が認めたとも受け取ることが可能であり、私の考えも決して的外れではないのかもしれない。

法科大学院制度に一言

 

 法科大学院側が金科玉条の如く振り回す、司法制度委改革審議会意見書(2001年6月12日提言)の、法曹養成制度改革の箇所には、以下のように記載されている。

①「司法試験という「点」のみによる選抜ではなく、法学教育、司法試験、司法修習を有機的に連携させた「プロセス」としての法曹養成制度を新たに整備することが不可欠である。」

②「21世紀の法曹には、経済学や理数系、医学系など他の分野を学んだ者を幅広く受け入れていくことが必要である。社会人等としての経験を積んだ者を含め、多様なバックグラウンドを有する人材を多数法曹に受け入れるため、法科大学院には学部段階での専門分野を問わず広く受け入れ、また、社会人等にも広く門戸を開放する必要がある。そのため、法学部以外の学部の出身者や社会人等を一定割合以上入学させるなどの措置を講じるべきである。その割合は、入学志願者の動向等を見定めつつ、多様性の拡大を図る方向で随時見直されることが望ましい。」


 まあ要するに、①で法曹養成には法科大学院によるプロセスによる教育を実施することが不可欠だ、②で法曹の多様性を確保できるよう人材確保を図る、ということを目標にしているってわけだ。


 さて、法科大学院制度は2004年4月に設置されたが、その後20年近く経過している。
 当初68校(最終的には74校)開校された法科大学院だが、現在35校しか学生を募集していないから半分は潰れてしまったということだ。それだけでも近年希に見る大失敗事例であることは明白である。
 また、実際に司法試験受験者も激減するなか、法科大学院維持のために司法試験合格者を減らすことができないこともあって、今や司法試験も受験者平均点よりも50点以上下回っても合格できる試験になってしまった。
 このように、私から見れば、法曹の人気凋落と法曹の全体的レベルダウンに、力一杯貢献しているのが、われらが法科大学院制度である。


 この点、先日の公明新聞の記事のように、法科大学院出身の法曹は優秀であると根拠なく主張する者もいる。
 しかし司法試験合格率が、実受験者比で、予備試験組(約97.5%)に比べて法科大学院組は圧倒的に低い(約37.7%)こと、大手法律事務所が競って予備試験合格者を囲い込もうとしていること等からみても、法科大学院出身の法曹の全体的レベルが優秀だとは到底いえないことは明白である。

 ちょっと脱線したが、話を戻すと、文科省内の法科大学院等特別委員会(第108回配付資料)で、法科大学院のさらなる充実に向けての議論まとめ案が、出されている(資料3)。ちなみに、この特別委員会には弁護士の菊間千乃さんも参加されているが、「周囲の社会人法曹志願者には予備試験を勧めている」と述べた当初の勢いは何所へやら、今は法科大学院礼賛の意見がほとんどになってしまっているのが残念だ。

 さて、上記資料3は、今後の法科大学院の目標と言い換えても良いだろう。そこに大きく書かれているのは、
 ①多様なバックグラウンドを有する人材の確保
 ②プロセス改革の着実な実施、法科大学院教育の改善・充実
 なのである。

 ちょっと振り返ってみれば、この二つは、司法制度改革審議会意見書が目指した法曹養成制度の目標と変わらない。
 だとすれば、司法制度改革審議会が法科大学院制度を創設して実現しようとした目標を、法科大学院は設立後20年近くかけても、ほとんど実現出来ていないことを自白しているということになりはしないか。

 以前もブログに書いた気がするが、法科大学院等特別委員会は、受験生の予測可能性を奪うような制度をいじる提言ばかりやるのではなく、まずは、自分達が根拠なく素晴らしいと絶賛している法科大学院での、教育効果がきちんと上がっているかどうかを検証すべきだ。
 方法は簡単だ。
 法科大学院出身者の司法試験答案を読めば一目瞭然のはずだ。答案には受験番号だけで氏名の記載もないだろうし、守秘義務を課せば、なんら問題は無いだろう。
 なぜ、やらないのだ。


 売れないうなぎ屋の業務を改善をしようとする際に、まずその店で出されているうなぎの味を確認するのが最優先事項だろう。
 客層だとか、立地条件とか、調理器具とか、衛生状態の問題とか、売れまくっている競合店への非難(予備試験制度への批判)等は、自らが提供するうなぎの味が調ってから検討すべき問題であるはずだ。
 法科大学院はもう18年間も売れないうなぎ屋であることを、上記資料3で自ら明らかにしているのだから、自分の店のうなぎは美味いのだ!(法科大学院教育、プロセスによる教育は素晴らしい、法科大学院出身法曹は優秀である等)と根拠なく過信・断言することはやめ、まずは、一番大事な、うなぎの味をチェックすることからはじめるべきだ。


 司法試験採点実感では,受験生のレベルダウンが示唆され、あれだけ法科大学院が問題視していた論点ブロックカード暗記答案の続出も指摘されているのに、一流の学者たちが、そんな簡単なこともやらずに、制度面だけを議論し、予備試験を敵視しているのは、どうにも解せない。さらに、もし文科省から委員としての費用が支出されているのであれば、私に言わせれば、税金の無駄使いとしか評価できない。

受験者平均点を50点以上、下回っても合格できちゃう司法試験

今年の司法試験の結果が公表された(法務省HP参照)。
久しぶりに、現行の司法試験について思うところを述べておこうと思う。

☆司法試験の総合点の結果は以下のとおりである。

令和2年度(一昨年) 
       最高点1199.86点、最低点439.18点、
受験者平均点807.56点
合格点780点以上(平均点を約27点下回っても合格

令和3年度(昨年)
       最高点1248.38点、最低点413.66点、
受験者平均点794.07点
合格点755点以上(平均点を約39点下回っても合格

令和4年度(今年)
       最高点1287.56点、最低点464.97点、
受験者平均点802.22点
合格点750点以上(平均点を約52点下回っても合格

 このように、ここ数年、受験者平均点と最低合格点との差がどんどん広がってきている。
 合格者の数を維持しようとすれば、このように受験者の平均点から50点以上も低い得点しかできない受験生を合格させる必要が出てくることになる。

 かつての旧司法試験では、短答式試験で5~6人に1人に絞られ、短答式試験に合格した者だけで受験する論文式試験でさらに、6~7人に1人に絞られ、口述試験も課せられていた。
 そして、私の受験していた頃は、短答式試験は、ほぼ8割は得点しないと合格できなかった。
 旧司法試験時代では、受験者の平均点以下で合格できるなど、あり得ない事態であった。

 ただこのような比較を提示すると、現在の司法試験の受験者は法科大学院を経由しているため受験生の質が高いから、最終合格者のレベルには何ら問題がない、との反論が出されることがある。

 この点についての答えは簡単だ。

 現在の司法試験の短答式試験の問題は、以下の申し合わせ事項からも明らかなように、旧司法試験の短答式試験よりも簡単になっている。
 以下のとおり、法務省が、短答式試験について基礎的な問題を中心に据えて、形式的にも簡単にした問題を出題することを公表している。

「司法試験における短答式試験の出題方針について」
 ~平成24年11月16日司法試験考査委員会議申合せ事項
 司法試験の短答式による筆記試験は,裁判官,検察官又は弁護士となろうとする者に必要な専門的な法律知識及び法的な推論の能力を有するかどうかを判定することを目的とするものであるが,その出題に当たっては,法科大学院における教育内容を十分に踏まえた上,基本的事項に関する内容を中心とし,過度に複雑な形式による出題は行わないものとする

 そしてこのように基礎的事項を中心とした簡単な形式の問題を中心にした短答式試験の結果はこうである。

令和3年度(175点満点) 受験者平均点117.3点、合格最低点99点
            (8割以上得点した者は648名)

            合格者2672名(3424名中)

令和4年度(175点満点) 受験者平均点115.7点、合格最低点96点
            (8割以上得点した者は453名)
            合格者2494名(3082名中)

 短答式試験に56.57%(R3)、54.85%(R4)の得点率で合格できてしまうのだ。そして短答式試験に合格した受験生の半分以上が最終合格する(短答式試験合格者の最終合格率R3:53.18%、R456.26%)。

 かつて現在よりも、基礎的事項だけに留まらず、複雑な形式による出題がなされていた旧司法試験の短答式試験であっても、ほぼ8割の得点が合格に必要で、更に短答式試験に合格した受験生のうち論文式試験で6~7人に絞られたことと比較して考えると、「現在の司法試験は受験生の質が高いから最終合格者の質も維持できている」と主張するなど、現実を何ら見ていない暴論であると言うほかはないと思われる。

 更に言えば、予備試験経由者の合格率である。
 令和3年度 予備試験経由者の最終合格率93.5%(実受験者比)
 令和4年度 予備試験経由者の最終合格率97.53%(実受験者比)

 そもそも予備試験は、法科大学院卒業した者と同程度の学識、応用能力、法律に関する実務の基礎的素養があるかを判定するための試験であると明記されているから(司法試験法5条1項)、当然予備試験に合格するレベルは、法務省が想定する法科大学院卒業者と同程度のレベルということになる。
 したがって、現在の司法試験では、法務省が想定する法科大学院卒業者と同レベルであるならば、約95%が合格する試験になっている。


 かつて司法制度改革審議会意見書では、
 「法科大学院では、その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7~8割)の者が新司法試験に合格できるよう、充実した教育を行うべきである。」
 と記載されていた。

 この内容が誤解されて、法科大学院を卒業すれば司法試験に7~8割合格できると約束したではないかなどと、マスコミや法科大学院擁護派の学者等から指摘されたこともあった。

 それはさておき、現在の司法試験制度は、法科大学院卒業レベルにあると法務省が認定した予備試験合格者が約95%合格できるレベルにあるということであり、司法制度改革審議会が想定していた、きちんと法科大学院で勉強し卒業したレベルの受験生が7~8割合格できる司法試験合格レベルよりも、合格レベルが相当下がっているということもできよう。

 誤解して欲しくはないのだが、私は司法試験に合格された方の全てがレベルダウンしていると指摘しているのではない。もちろん私なんかより優秀な方も多いだろうし、国が合格を認めたのであれば、胸を張って資格を取得し、仕事をされれば良いだけのことである。

 ただ、司法試験合格者の全体としてのレベルダウンはどうしようもなく進行していることは間違いないと思われる

 そもそも国民のための司法制度改革だったはずであり、国民の皆様に信頼出来る司法を提供するのが目的だったのではないか。

 国民の皆様に、弁護士の仕事の質の良し悪しは、なかなか理解しがたい。そうだとすればきちんと能力を持つ者に資格を与えるようにして、資格の有無でその者の仕事の質をある程度担保することは、一つの有力な方法である。

 それなのに、司法試験合格者を減少させれば法科大学院の存続に関わることから、いまの司法試験は、合格レベルを下げてでも法科大学院の利権維持のため合格者を減少できない試験制度に成り下がっているように感じられてならない。

弁護士は社会生活上の医師ではない

 よく、「弁護士は社会生活上の医師として・・・・」などと言われることがある。司法制度改革を断行してきた政府や日弁連も大好きなフレーズである。


 確かに弁護士が社会生活上の医師であって、社会生活上の問題をみんなのために解決してくれるのであれば、社会生活の健康をも守るためにも弁護士の数は多い方がいいという主張にも一理あるのかもしれない。

 しかし、「弁護士は社会生活上の医師」であるという主張に関して、私は全くナンセンスだと思っている。

 基本的に、医師の敵は病気である。

 人間にとっての共通の敵である病気を攻撃して殲滅できれば、患者にも人類にとってもプラスである。要するに、医師の病気を治癒しようとする戦い(仕事)は、病気をやっつければやっつけるだけ、賞められ、人類全体のプラスになる、絶対的正義と言って良い。

 これに対して、弁護士の敵は、基本的には依頼者の相手方である。

 弁護士が自分に弁護士費用を支払ってくれた依頼者の利益のために、相手方を攻撃して成功すれば、依頼者にとってはプラスであるが、相手方にとってはその分マイナスとなるのである。

 つまり、仮に私が、依頼者の為に裁判で奮戦して勝訴判決を得た場合、私の依頼者にとっての私は、自分の言い分をかなえてくれた救世主的弁護士である。しかしその一方、敗訴した相手方にとっての私は、自分の言い分をことごとく粉砕して被害を与えてきた悪徳弁護士に他ならない。

 ぶっちゃけて言えば、弁護士稼業は、相手方をやっつければやっつけるだけ依頼者からは喜ばれるが、相手方からは恨みを買う仕事である。

 要するに弁護士が仕事上で達成できる正義は、あくまで依頼者にとっての正義、すなわち相対的正義に過ぎないのであって、医師のように人類全体にとっての絶対的正義の実現ではない。

 このように、弁護士は基本的には、依頼者にとっての正義を追求する仕事を行うものであるから、人々の社会生活全般に利益を与える行動を取るとは限らないのであって、弁護士が社会生活上の医師と名乗ること自体おこがましいこと極まりない、と私は思っている。

 むしろ、弁護士の仕事の実態から評価すれば、「こんな日弁連に誰がした(講談社α新書)」の著者である小林正啓先生がかつて評価されたように、「弁護士は社会生活上の傭兵」であると考えた方が、よほど現状に即した評価であろうと思われる。

 仮に弁護士が社会生活上の医師であって、社会の全てにおいて絶対的正義を実現してくれる存在であれば、その数は多い方が正義が実現されて良いではないかと考えることも可能である。
 しかし、弁護士の実態が社会生活上の傭兵であり、あくまで依頼者の正義(相対的正義)しか実現できない存在であるとした場合、弁護士を増やしすぎるということは、相手方からいつ傭兵を差し向けられ攻撃されるかも分からない状況を作り出すことであり、また、仮にそうでないとしても、食うに困った傭兵どもが社会内をうろうろしている状況を作り出すことでもある。

 そのような社会を国民の皆様が望んでいるのだろうかと考えた場合、答えは否ではないかと、私は思うのだが・・・・。

弁護士の質に関する議論について雑感~3

(前回の続き)

さらに、年輩弁護士は法律を知らない、法改正にも対応しておらずレベルが低い人もいる等の、若手からの批判もあると聞く。


 これに関して本音を言えば、確かに弁護士資格取得後は、仕事に追われることもあり、司法試験受験時代のレベルでの勉強を継続できる人は、おそらく希である。また、自らが主に担当する分野の事件についてはより深く勉強するが、そうでない分野についてはさほど勉強が進んでいかないことも当然ありうる。

 したがって、弁護士になったあとは、経験は積み重ねられていくが、仕事等に追われて、多くの弁護士の勉強時間は少なくなっていく傾向が強いであろうと思われる(当然、厳しい勉強を重ねてどんどん優秀になっていく弁護士の存在を否定はしない。あくまで一般論としての私の見解である)。

 そうだとすれば、現在の若手弁護士だけが、これまでの弁護士たちと異なって特別に勉強時間を多く取って勉強を継続しているという事実があるのならいざ知らず、そうでないのであれば、現在の若手も年を経れば、現時点で批判対象としている年輩弁護士のようになっていく可能性も相当高いのだ。

 その際に、厳しい試験を通過するために相当程度の知識を得た時点(若しくは簡単になった試験でも優秀な成績で合格した時点)から知識的に劣化していくのと、簡単な試験にぎりぎり合格できるだけの知識しかない時点から劣化していく場合とでは、最終的に落ち着く先はかなり異なる可能性が高いと考えられる。

 つまり、今の若手が40年選手を笑っていても、自らが40年選手になった際には笑っていた相手よりもさらに低い高度でしか飛べていないことも、理屈上、ありうるのだ。

 また、仮に年輩弁護士の知識面に不安があると仮定しても、事件の見立て、和解のやり方など、一見分かりにくいが、経験に基づいた紛争解決能力が進化している場合も当然ありうる。


 したがって、(そもそも司法制度改革に関しては、質の問題は司法試験の合格時で判断すべきであることは既述したとおりであるが、)現時点の法的知識の比較だけで、弁護士の質の議論をすることは十分な検討にならないことはお分かり頂けるのではないだろうか。

 次に、質の議論からは少し外れるが、司法試験合格者を減員しても、弁護士数は増え続ける。

 私はよく例え話をするのだが、乗客が1万人乗っている船に1500人乗って500人が下りた場合、乗客は増えることは分かるだろう。その翌年に、乗る乗客が1000人に減っても、降りる乗客が500人であるならば、船に残った乗客数は増えるのだ。


 長らく司法試験合格者数500人時代が続いたため、法曹をやめる人の人数はしばらくは毎年500人と考えられる。したがって、司法試験合格者を1500人から1000人に減らしたところで、法曹の数は増え続けるのだ。

 それにも関わらず、なぜ、日弁連は司法試験合格者1500人を目指すように受け取られる宣言をしようとしているのか。

 私が思うに、それは法科大学院制度を維持するため(そして法科大学院支持を決めた自分達の過ちを認めたくないため)という理由に尽きるのではないだろうか。

 弁護士全体で見た場合、弁護士増加に見合うだけの仕事が増えていないことから、弁護士の収入は減少傾向が続いている。

 裁判所データブック2021によれば、全裁判所に新たに持ち込まれる事件数は、平成元年に約440万件あったが、令和2年は約336万件に減少している。1年間に裁判所に持ち込まれる事件数は30年以上経って、増えるどころか約100万件減っているのである。平成元年の弁護士数は約14000人程度、令和2年の弁護士数は約42200人(平成元年の3倍以上)である。

 確か月刊プレジデントでは、取得に時間もお金もかかり苦労する、その割には見返りが少なすぎるなどの理由で弁護士資格はブラック資格と認定されたこともあったと記憶している。

 医師会だって、無医村に医者を派遣するのは経済的に成り立つかどうかが大前提としている。これは医師も職業である以上、その収入で生活をし家族を養う必要があるので生計が成り立つことが大前提であると、当然のことを述べているに過ぎない。

 一方日弁連は、弁護士ゼロワン地区解消のため、弁護士業が経済的に成り立たない地区にでも弁護士会費を突っ込んで弁護士を派遣する等、自腹を切って弁護士過疎解消に努めている。しかしそのお金は日弁連が産み出したお金ではない。支払わなくては弁護士資格を失うため、強制的に各弁護士から徴収されている弁護士会費から支払われているのだ。要するに、蛸が自分の足を食べているのとなんら変わりはない。

 日弁連も、弁護士のための団体であるのなら、弁護士の職業としての意味を失わせないように、むしろ積極的に司法試験合格者を減少させるよう発言しても良いくらいなのだ。

 それにも関わらず、司法試験合格者をむしろ現在(1421名)よりも増やすべきといわんばかりの宣言を出そうとするのは、別の目的があるからとしか考えられない。

 そして司法試験合格者1500人以上を強力に求めてきたのは、法科大学院関係者である。1500人以下の司法試験合格者だと、法科大学院の維持が相当困難になるのだろう。日弁連執行部は、文科省と組んで法科大学院賛成の方針を採用し、半数以上は廃止され、法曹志願者を激減させるなど、大失敗に終わった法科大学院制度に関して、未だに過ちを認められずに維持するよう働きかけを継続している。

 有為の人材を法曹界に導く目的で、日弁連は法科大学院と組んで法曹志願者を増やすために、やりがいを強調するなどの宣伝活動を弁護士会費を用いて行っているようである。それでも法曹志願者の減少傾向は止まっていない。法科大学院側からは、もっと合格者を増やせば志願者も増えるはずだと、机上の空論を振り回す意見もあるようだが、完全に間違っているとしか言いようがない。

 旧司法試験は合格率が低く、2%台未満の時代もあったと思うが、志願者は(丙案導入時の受け控えを除き)一貫して増加していた。それは資格に魅力があったから、難関であっても多くの志願者を引き付けることができていたからだ。合格しやすくなれば志願者が増えるという単純なものではないのである。

 一般社会で有為の人材をヘッドハンティングしようとする場合を想定して欲しい。

 仕事のやり甲斐だけで、優秀な人材をハンティングできるだろうか。確かにやりがいも一部の理由になるかもしれないが、実際には収入や名誉や地位など現世利益(少なくとも、今後安心して食べていけるだけの収入)を提供しないと、多くの場合成功しないだろう。優秀な人ほど仕事・生活の将来性を含めてきちんと検討するからである。

 弁護士数の激増傾向は変わらない、裁判所での事件はどんどん減少していく、日本の人口も減少段階に入っている、このような状況から分析すれば、優秀な人材ほど法曹界を敬遠してもおかしくはないのだ。

 やりがいだけでは、お腹は膨れないし、将来自分の家族を養うこともできないのである。

 現在の医学部人気も、現時点では医師資格がほぼ唯一、安心して将来を設計しやすい資格であると見做されているからと考えれば合点がいく。

 だから、法曹志願者を増やすことは、実は簡単なのだ。

 (もう手遅れかもしれないが)法曹資格の魅力を上げれば良いだけである。


 そのためには、安易に法曹資格をばらまく方針をやめ、法曹人口激増にブレーキをかけ、法曹資格者がより安心して暮らせる状況を目指すことは当然の前提と言って良いだろう。


 
 これくらい、誰だって分かる話のはずだ。

 それにも関わらず、現状の分析もきっちり行わず、さらに司法試験合格者を増加させる必要があると言わんばかりの意向を表明しようとする日弁連の腹の中は、私には、なんとか法科大学院制度を守りたい(そうでないと執行部の失敗となってしまう)という一念で凝り固まっているとしか、考えられないのである。

 君子は豹変す。


 君子であればこそ、過ちがあるなら直ちに認めて正しい方向に向かって歩き出せるはずなのだ。

 日弁連執行部に君子はいないのか。

 君子がいなければ、烏合の衆と呼ばせてもらって良いのか?

(この項終わり)