弁護士は社会生活上の医師ではない

 よく、「弁護士は社会生活上の医師として・・・・」などと言われることがある。司法制度改革を断行してきた政府や日弁連も大好きなフレーズである。


 確かに弁護士が社会生活上の医師であって、社会生活上の問題をみんなのために解決してくれるのであれば、社会生活の健康をも守るためにも弁護士の数は多い方がいいという主張にも一理あるのかもしれない。

 しかし、「弁護士は社会生活上の医師」であるという主張に関して、私は全くナンセンスだと思っている。

 基本的に、医師の敵は病気である。

 人間にとっての共通の敵である病気を攻撃して殲滅できれば、患者にも人類にとってもプラスである。要するに、医師の病気を治癒しようとする戦い(仕事)は、病気をやっつければやっつけるだけ、賞められ、人類全体のプラスになる、絶対的正義と言って良い。

 これに対して、弁護士の敵は、基本的には依頼者の相手方である。

 弁護士が自分に弁護士費用を支払ってくれた依頼者の利益のために、相手方を攻撃して成功すれば、依頼者にとってはプラスであるが、相手方にとってはその分マイナスとなるのである。

 つまり、仮に私が、依頼者の為に裁判で奮戦して勝訴判決を得た場合、私の依頼者にとっての私は、自分の言い分をかなえてくれた救世主的弁護士である。しかしその一方、敗訴した相手方にとっての私は、自分の言い分をことごとく粉砕して被害を与えてきた悪徳弁護士に他ならない。

 ぶっちゃけて言えば、弁護士稼業は、相手方をやっつければやっつけるだけ依頼者からは喜ばれるが、相手方からは恨みを買う仕事である。

 要するに弁護士が仕事上で達成できる正義は、あくまで依頼者にとっての正義、すなわち相対的正義に過ぎないのであって、医師のように人類全体にとっての絶対的正義の実現ではない。

 このように、弁護士は基本的には、依頼者にとっての正義を追求する仕事を行うものであるから、人々の社会生活全般に利益を与える行動を取るとは限らないのであって、弁護士が社会生活上の医師と名乗ること自体おこがましいこと極まりない、と私は思っている。

 むしろ、弁護士の仕事の実態から評価すれば、「こんな日弁連に誰がした(講談社α新書)」の著者である小林正啓先生がかつて評価されたように、「弁護士は社会生活上の傭兵」であると考えた方が、よほど現状に即した評価であろうと思われる。

 仮に弁護士が社会生活上の医師であって、社会の全てにおいて絶対的正義を実現してくれる存在であれば、その数は多い方が正義が実現されて良いではないかと考えることも可能である。
 しかし、弁護士の実態が社会生活上の傭兵であり、あくまで依頼者の正義(相対的正義)しか実現できない存在であるとした場合、弁護士を増やしすぎるということは、相手方からいつ傭兵を差し向けられ攻撃されるかも分からない状況を作り出すことであり、また、仮にそうでないとしても、食うに困った傭兵どもが社会内をうろうろしている状況を作り出すことでもある。

 そのような社会を国民の皆様が望んでいるのだろうかと考えた場合、答えは否ではないかと、私は思うのだが・・・・。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です