年末の御礼

皆 様

 ウィン綜合法律事務所は、明日より、新年1月4日まで冬季休業を頂きます。

 新年1月5日・6日が土日となるため、新年の業務開始は1月7日からとなります。

 今年1年、地震・台風などの自然災害をはじめ、様々な事がありました。

 それでも当事務所が、弁護士・職員一同、そろって無事に年末を迎えることができたのは、ひとえにクライアントの皆様を始め、多くの方々の御支援があってのことと、深く感謝しております。

 新たな年は、亥年。猪にちなんだ猪突猛進との言葉もありますように、当事務所にとって更なる前進・飛躍の年にしたいと強く思っております。

 新年も、当事務所に対し、変わらぬ御支援、ご指導・ご鞭撻を賜りますよう、お願い申しあげます。

 末筆になりましたが、皆様におかれましては、良き年末、より良き新年をお迎えされますよう、心から祈念しております。

 今年1年間、誠に有り難うございました。

ウィン綜合法律事務所 代表弁護士 坂 野 真 一

判事補採用が一番多いのは予備試験ルート

共同通信社が、新判事補の採用に関して次のような報道をしたとのことだ。

(記事ここから)

最高裁は26日、司法修習を12日に終えた修習生1517人のうち、82人を判事補として採用すると決めた。閣議を経て来年1月16日付で発令される。

 年齢は23~41歳で、平均年齢は26・0歳。女性は21人。女性裁判官は全体で795人、全体に占める割合は約22%となる見込み。

 出身法科大学院は10校。最多の慶応大が16人、次いで東大14人、一橋大9人、京大7人、中央大6人と続く。法科大学院を修了しなくても司法試験の受験資格が得られる予備試験の合格者は22人だった。

(記事ここまで)

 さてさて、法科大学院維持派の御主張は、法科大学院によるプロセスによる教育が法曹には不可欠(だからこそ、司法試験受験のために、法科大学院卒業が要件とされるよう法改正させた)とのことだった。

 以前ブログで指摘したとおり、日本の大手法律事務所は司法試験を受験していない予備試験合格者に対して、青田刈りをやっているし、東京地検もついに予備試験合格者に対する青田刈りをはじめた。

 さらに、最高裁が任命する今年の新判事補においても、予備試験ルートの者がどの法科大学院よりも多いので、最多数を占めることになった。ちなみに新判事補任命のためには、裁判教官が修習中から希望者や見込みのある者をしっかり見極めて選抜することが多く、場当たり的に選抜することはまず無い。検察官の任命もその傾向が強い。

 一流の実務家からみて、予備試験ルートの者が裁判官にも検察官にも、たくさん選抜されるということは、もはや、法科大学院が主張する、「法曹には法科大学院でのプロセスによる教育が必須」という命題がもはや崩壊しているということを意味するだろう。

 もう一度いうが、実務では、法科大学院でのプロセスによる教育が法曹に必須だなんて、法科大学院維持派以外は、おそらくだーれも思っていない。

 万一、法曹に法科大学院のプロセスによる教育が必須だとするなら、大手法律事務所・検察庁・裁判所が、こぞって予備試験ルートの修習生を採用しようとするはずがないからだ。

 実務で必須とは言えない「プロセスによる教育」に、法科大学院維持派の学者は、いつまですがり続けるのか。

 イワシの頭も信心から、とは良くいったものだ。

 念のために説明しておくと、鰯の頭のように取るに足らないものでも、信じる気持ちがあれば尊く見える。という意味だ。

 もし、本当に「法科大学院によるプロセスによる教育が法曹にとって必須」なのであれば、予備試験ルートの法曹にプロセスによる教育が欠けていたことに起因してどのような問題が生じており、法科大学院ルートの法曹がプロセスによる教育を受けた結果どれだけ予備試験ルートに比べて優れているかを、直ちに示せるだろうし、示すべきだろう。

 何の根拠もなく、法科大学院教育を礼賛し続けても、私から見れば、鰯の頭を拝んでいるとしか思えないのだ。

 もちろん、現実認識ができないほど、頭の中にタンポポが咲き乱れている先生方ばかりではないと思うので、本当は法科大学院維持派の先生方もご存じなのだろうとは思う。

 だとすれば、どうすればよいかはすぐ分かると思うのだが、、、。

IWC脱退報道に関して。

 私は、和歌山県太地町出身であることもあり、捕鯨容認派である。

 今回のIWCからの脱退報道に接して、ようやく脱退に踏み切ってくれたかとの感想を持っている。

 私の立場は、以前イルカの追い込み漁に関して記載したブログをもとに、作られた下記の記事を参照して頂きたい。

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0614/bdc_150614_1793192415.html

 また、太地町で町民を挑発したり盗撮して作成されたザ・コーヴという映画の虚偽、欧米の傲慢さを暴き立てることに成功した映画「ビハインド・ザ・コーヴ」についてもブログで触れたのでこれも参照されたい。

 http://win-law.jp/blog/sakano/2017/11/post-209.html

この映画を御覧頂ければ、いかに欧米反捕鯨国が身勝手な主張をしているか、理解して頂けるだろう。

 特に、かつて捕鯨国であったアメリカも、ある時期から反捕鯨運動をとるようになるが、その動機はベトナム戦争の環境破壊問題から目をそらせるためだったという事実(もちろんその証拠も映画の中で提示される)もあるし、反捕鯨の立場をとりながらも、ある時期まで宇宙開発に不可欠であったマッコウクジラの鯨油について、アメリカは日本から輸入していた事実もあるそうだ。
 その際に、輸入品の名目としては「高級アルコール」と名前をつけ反捕鯨の立場と矛盾しないような小細工も弄していたという。

 また、捕鯨を批判する方には、まず、「いのちの食べ方」という映画を見て欲しいと強く思っている。

 人が生きていくためにはどうしても、食料として他の生き物の命を奪わなくてはならないこと、そして食料とされる他の生き物の命がどう奪われ、現実にはどう扱われているのか等につき、いかに私達が無知であることが少しは理解できるのではないか。

 自分達は食用にしない動物について、それを食用とするのは野蛮だという発想には、自己の価値観が絶対であるという尊大な考えがその裏に潜んでいる。

 もちろん国際協調は必要だが、価値観の押しつけに屈する必要はないはずだ。

 私の知る限りではあるが、「鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図る」という設立目的から、いつの間にか、かけ離れた行動に終始してきたこれまでのIWCの活動から見れば、むしろ遅すぎるIWCからの脱退だといってもよいのではないだろうか。

ギャップターム問題ってホンマにあるのかな?

法科大学院制度改革の一つとして、近時ギャップターム問題が盛んに取り上げられているようだ。

 いわゆるギャップターム問題とは、法科大学院修了(卒業)の3月末から、5月に行われる司法試験、司法試験合格を経て、11月末頃から開始される司法修習までに、約8ヶ月程度の期間が存在するが、この期間の存在が法曹志願者の時間的経済的負担になっていると指摘するものである。

 そしてこのギャップタームが解消されれば、激減した法曹志願者が回復に転じるという見通しの下、法科大学院在学中に司法試験の受験を認めようとする制度変更が議論されているようだ。

 確かに、法科大学院卒業と同時に司法修習を開始しようとすれば、法科大学院在学中に司法試験を受験させ、合格させておかなくてはならないことになる。

 しかし、そもそも法科大学院は、司法試験という点の選抜は弊害があると主張し、法科大学院でのプロセスによる教育が法曹に必要だと主張していたはずだった。学生が法科大学院で勉強中であり、卒業もできていない段階という、プロセスによる教育課程の途中で、司法試験を受験させることを主張することは、自ら法曹に必要だと主張したはずの、プロセスによる教育が実は不要であったことを自認するに等しい。

 以前から指摘しているように、大手法律事務所は予備試験ルートの司法修習生を優遇する就職説明会を開催しているし、ついには東京地検までが、予備試験に合格しただけで、まだ司法試験を受験していない者に対して、体験型プログラムを実施する等、検察庁も予備試験合格者の囲い込みに動き出した。

 つまり、法科大学院が、「法曹には法科大学院におけるプロセスによる教育が不可欠なのだ」と、いくら主張しても、実務界では、法科大学院におけるプロセスによる教育などには、全く価値を置いていないというべきなのだ。

 実務の役に立たないうえに、税金食いの制度など、マスコミなんかがすぐに批判しそうなモンだが、法科大学院はマスコミを利用して宣伝をしてくれるスポンサーでもあるためか、ちっともまともな批判をしないのは、見ていて悲しくなる。

 そもそも、ギャップターム問題を言うなら、旧司法試験時代だってそれ以上のギャップタームはあった。5月に短答式試験を受験し、7月に論文試験、10月に口述試験を経て最終合格し、司法修習開始は翌年の4月からだった。それなのに、ギャップターム問題それ自体を誰1人問題視することなく、法曹志願者も増加の一途だった。

 それはつまり、当時は、法曹になれば少なくとも食いっぱぐれはないと考えられており、法曹資格はプラチナチケットと言われるだけ法曹という資格に魅力があったのだ。だからこそ、合格率2~3%という狭き門であっても、ギャップタームが大きく存在したとしても、法曹志願者は増加の一途をたどっていたのだ。

 断言しても良いと思うが、いまギャップタームを解消したところで、法曹志願者が急に増加に転じることはないだろう。法曹の職業としての魅力を上げない限り、優れた人材が法曹界を志願しない傾向は変わらないだろう。

 当たり前のことだが、良い人材を得るためには、それに見合った対価が必要だ。ヘッドハンティングをしようとするときに、金か名誉か権力か、とにかく魅力のある提案をしないと良い人材は得られまい。努力や能力に見合ったリターンが得られない道を選択する人間は極めて少ない。

理由は簡単だ。

職業は生活を支える手段でもあるからだ。

 だとすれば、法曹志願者を増やすことは簡単だ。

 現在志願者が激増している医師と同様、その資格の魅力を上げればよいのだ。

 なぜこのような簡単なことがわからないのか。

 いや、分からないふりをして、議論していないのだろう。法曹資格の価値を上げようとするなら、(今さら遅いかもしれないが)司法試験合格者を減少させて資格の価値を上げることが最も効果的だが、それでは法科大学院を卒業しても司法試験に合格できない生徒が激増することにつながり、法科大学院制度の自殺にもつながるからだ。

 法科大学院を維持しようとすることが、いまや、法曹養成制度の桎梏となっていることを直視する必要があるだろう。

  それに、こんなに制度をいじくり回したら、受験生は予測可能性を失い、さらに志願者が減少するだろう。

 もういい加減、(法科大学院維持派の)学者の先生方による、現実無視の議論は止めてもらいたいものだ。

もうやめて、法科大学院延命策

 最近、法科大学院在学中に司法試験を受験することを認める案が、議論されている。それとともに、予備試験ルートを狭めるべきという主張も併せてなされているようだ。

 私は、上記の議論には、もちろん(というより法科大学院制度を維持すること自体に)反対だ。

 そもそも、旧司法試験制度に異議を唱え、法曹としての必須の素養を身に付けさせるために時間をかけて双方向授業を行うなどプロセスによる教育が必要だと主張したのは、法科大学院推進派だった。

 その法科大学院の方から、プロセスによる教育も終わっていない段階での司法試験受験を認めることを提唱するなど、自己矛盾も良いところだ。

 さらに、法科大学院在学中に司法試験に合格しても、法科大学院を卒業しないと司法修習生に採用させない方法も考慮していると聞く。
 司法試験に合格すれば、その時点で、国から法曹として必要な最低限度の知識や応用能力が認められることにはなるはずだから(近時の採点雑感によるとそれすら危ういといわんばかりの批判も多いが)、何も法科大学院を卒業させる必要など無い。

 結局のところ、在学中受験を認める策は、法科大学院延命のための弥縫策にすぎないのだと考えるしかないだろう。

 しかし翻って考えるに、法科大学院がいうように、法科大学院におけるプロセスによる教育が法曹にとって本当に必要なのだろうか。

 私達、旧司法試験世代が体験した司法研修所での教育は、一流の実務家教官の献身的な努力によって実施される、密度が濃く、双方向性の高い、まさにプロセスによる教育の理想型に近いものだった。

 私は、少なくとも私の時代の司法研修所の教育を上回るだけの、プロセスによる教育を、法科大学院ができるはずがないと断言しても良いと思っている。
 理由は簡単だ。
 プロセスによる教育が効果を生むためには、教育を受ける側と教育を施す側のレベルがいずれも高く粒ぞろいでなくてはならないが法科大学院にそれは望めないし、司法試験がある以上法科大学院生は受験対策をせざるを得ないから、悠長なプロセスによる教育など受けていられる状況にはないからである。
 そうかといって、人間は怠け者だから、突破すべき試験がないと勉強しない人がほとんどだ。また、権利侵害を受けた場合の最後の拠り所がヘボ法曹ばかりだったとすればそれこそ、優秀な法曹を生み出すはずの司法改革が司法改悪になってしまうから、(現実には、採点雑感等から合格レベルは相当下がっていると思われるが)これ以上司法試験のレベルを下げて合格させ易くしろとは言えないだろう。
 だから、法科大学院で、かつての司法研修所のような、きちんとしたプロセスによる教育を行うことは、ほぼ不可能だと私は考える。
 

 旧司法試験制度では、司法試験を突破する実力をつけた者に対して、国がまさに手塩にかけて、プロセスによる教育を行い実務家の卵を育ててくれたのだ。

 それと比較して、法科大学院は、志願者減もあって優秀な学生を集めることに苦慮しているばかりではなく、司法試験に合格したことも実務を体験したこともない学者が多数、教員として学生を教えている。

 以前にも例えたことがあるが、
 旧司法試験制度は自ら生育の可能性を示した稲を司法試験で選抜し、司法修習で手塩にかけて育て上げる方法、
 法科大学院制度は田んぼ一面にモミを撒き、芽を出すかどうか分からないモミも含めて、最初から手間と金をかけて教育を行おうとする方法、である。しかもその農家は、農業の一部分の(例えば遺伝子とか、肥料とか)研究ばかりをしており、畑に出たこともない研究者が、相当数を占めていることになるのだ。しかもその農家の耕作方法は、発足から10年以上、ずっと改善すべきと指摘され続けているのだ。

 優秀な法曹を生み出すという効率を重視すれば、もちろん前者の方が優れているだろう。
 しかし、農家(法科大学院側)とすれば、国から補助金が出るのであれば、モミが育つかどうかは関係がなく、多くのモミをいじる方が(きちんと育て上げられるかどうかは別として)儲かることになる。

 その補助金の出所が、国民の血税であるところが泣けるところだ。

 そもそも、法科大学院が行うプロセスによる教育が法曹に必須であるのなら、法科大学院制度以前の法曹は全て欠陥があることになる。
 また、予備試験ルートの司法試験合格者も同じはずだ。

 ところが現実はどうだろう。法科大学院でも法科大学院を卒業していない優秀な実務家が教鞭をとっていることも多いだろうし、新人法曹に関しては、裁判所、検察庁でも予備試験ルートの司法試験合格者は何ら排除されていない。そればかりか、大手法律事務所は、こぞって予備試験ルートの司法試験合格者を募集し続けている。

 つまり、法科大学院がいくら法科大学院によるプロセスによる教育が、法曹に必須だと主張しても、現実世界ではそんなお題目、一顧だにされていないのだ。

 それでも、法科大学院でのプロセスによる教育が法曹にとって必須であると主張するのであれば、少なくとも、予備試験ルートの法曹にどれだけの問題が生じているのか、また、法科大学院ルートの法曹が予備試験ルートの法曹と比較してどれだけ優れているのか、を示すことが先だろう。

 その実証もしないで、法科大学院のプロセスによる教育が優れていると言い張るのであれば、それは、イワシの頭を神様だと断言して崇めることとそう変わりがなかろう。それを法科大学院推進派の、学者としては一流と思われる方々が、こぞって主張しているところが、悲しすぎる。

 さらにいえば、司法試験受験制限(5年5回、かつては5年3回)の理由として、法科大学院教育の効果は5年で消滅するからと説明されていたはずだ。
 しかも、法科大学院教育に関しては、発足からこれまで10年以上ずっと、教育の改善必要性が指摘され続けているではないか。

 もういい加減、小手先の延命策はやめるべきではないのか。

 過ちを認めることができずにひたすら繕うことに尽力するより、過ちを認めてやり直す方が傷は浅くて済むことが多い。

 そろそろ、(何が何でも法科大学院維持という)結論ありきではなく、現実を見据えた議論を期待したいところだ。