最近、法科大学院在学中に司法試験を受験することを認める案が、議論されている。それとともに、予備試験ルートを狭めるべきという主張も併せてなされているようだ。
私は、上記の議論には、もちろん(というより法科大学院制度を維持すること自体に)反対だ。
そもそも、旧司法試験制度に異議を唱え、法曹としての必須の素養を身に付けさせるために時間をかけて双方向授業を行うなどプロセスによる教育が必要だと主張したのは、法科大学院推進派だった。
その法科大学院の方から、プロセスによる教育も終わっていない段階での司法試験受験を認めることを提唱するなど、自己矛盾も良いところだ。
さらに、法科大学院在学中に司法試験に合格しても、法科大学院を卒業しないと司法修習生に採用させない方法も考慮していると聞く。
司法試験に合格すれば、その時点で、国から法曹として必要な最低限度の知識や応用能力が認められることにはなるはずだから(近時の採点雑感によるとそれすら危ういといわんばかりの批判も多いが)、何も法科大学院を卒業させる必要など無い。
結局のところ、在学中受験を認める策は、法科大学院延命のための弥縫策にすぎないのだと考えるしかないだろう。
しかし翻って考えるに、法科大学院がいうように、法科大学院におけるプロセスによる教育が法曹にとって本当に必要なのだろうか。
私達、旧司法試験世代が体験した司法研修所での教育は、一流の実務家教官の献身的な努力によって実施される、密度が濃く、双方向性の高い、まさにプロセスによる教育の理想型に近いものだった。
私は、少なくとも私の時代の司法研修所の教育を上回るだけの、プロセスによる教育を、法科大学院ができるはずがないと断言しても良いと思っている。
理由は簡単だ。
プロセスによる教育が効果を生むためには、教育を受ける側と教育を施す側のレベルがいずれも高く粒ぞろいでなくてはならないが法科大学院にそれは望めないし、司法試験がある以上法科大学院生は受験対策をせざるを得ないから、悠長なプロセスによる教育など受けていられる状況にはないからである。
そうかといって、人間は怠け者だから、突破すべき試験がないと勉強しない人がほとんどだ。また、権利侵害を受けた場合の最後の拠り所がヘボ法曹ばかりだったとすればそれこそ、優秀な法曹を生み出すはずの司法改革が司法改悪になってしまうから、(現実には、採点雑感等から合格レベルは相当下がっていると思われるが)これ以上司法試験のレベルを下げて合格させ易くしろとは言えないだろう。
だから、法科大学院で、かつての司法研修所のような、きちんとしたプロセスによる教育を行うことは、ほぼ不可能だと私は考える。
旧司法試験制度では、司法試験を突破する実力をつけた者に対して、国がまさに手塩にかけて、プロセスによる教育を行い実務家の卵を育ててくれたのだ。
それと比較して、法科大学院は、志願者減もあって優秀な学生を集めることに苦慮しているばかりではなく、司法試験に合格したことも実務を体験したこともない学者が多数、教員として学生を教えている。
以前にも例えたことがあるが、
旧司法試験制度は自ら生育の可能性を示した稲を司法試験で選抜し、司法修習で手塩にかけて育て上げる方法、
法科大学院制度は田んぼ一面にモミを撒き、芽を出すかどうか分からないモミも含めて、最初から手間と金をかけて教育を行おうとする方法、である。しかもその農家は、農業の一部分の(例えば遺伝子とか、肥料とか)研究ばかりをしており、畑に出たこともない研究者が、相当数を占めていることになるのだ。しかもその農家の耕作方法は、発足から10年以上、ずっと改善すべきと指摘され続けているのだ。
優秀な法曹を生み出すという効率を重視すれば、もちろん前者の方が優れているだろう。
しかし、農家(法科大学院側)とすれば、国から補助金が出るのであれば、モミが育つかどうかは関係がなく、多くのモミをいじる方が(きちんと育て上げられるかどうかは別として)儲かることになる。
その補助金の出所が、国民の血税であるところが泣けるところだ。
そもそも、法科大学院が行うプロセスによる教育が法曹に必須であるのなら、法科大学院制度以前の法曹は全て欠陥があることになる。
また、予備試験ルートの司法試験合格者も同じはずだ。
ところが現実はどうだろう。法科大学院でも法科大学院を卒業していない優秀な実務家が教鞭をとっていることも多いだろうし、新人法曹に関しては、裁判所、検察庁でも予備試験ルートの司法試験合格者は何ら排除されていない。そればかりか、大手法律事務所は、こぞって予備試験ルートの司法試験合格者を募集し続けている。
つまり、法科大学院がいくら法科大学院によるプロセスによる教育が、法曹に必須だと主張しても、現実世界ではそんなお題目、一顧だにされていないのだ。
それでも、法科大学院でのプロセスによる教育が法曹にとって必須であると主張するのであれば、少なくとも、予備試験ルートの法曹にどれだけの問題が生じているのか、また、法科大学院ルートの法曹が予備試験ルートの法曹と比較してどれだけ優れているのか、を示すことが先だろう。
その実証もしないで、法科大学院のプロセスによる教育が優れていると言い張るのであれば、それは、イワシの頭を神様だと断言して崇めることとそう変わりがなかろう。それを法科大学院推進派の、学者としては一流と思われる方々が、こぞって主張しているところが、悲しすぎる。
さらにいえば、司法試験受験制限(5年5回、かつては5年3回)の理由として、法科大学院教育の効果は5年で消滅するからと説明されていたはずだ。
しかも、法科大学院教育に関しては、発足からこれまで10年以上ずっと、教育の改善必要性が指摘され続けているではないか。
もういい加減、小手先の延命策はやめるべきではないのか。
過ちを認めることができずにひたすら繕うことに尽力するより、過ちを認めてやり直す方が傷は浅くて済むことが多い。
そろそろ、(何が何でも法科大学院維持という)結論ありきではなく、現実を見据えた議論を期待したいところだ。