小さいツバメ

 数年前まで、毎年春になると近所の喫茶店のテントの内側で、ツバメのつがいが子育てをしていた。

 テントといっても、キャンプなどで使うものではなく、お店の入り口でお店の名前などを入れて宣伝がてら、お客が雨に濡れないようにしているテントである。

 テントの構造や、喫茶店が営業しているときは人の出入りが激しいので、天敵のヘビやカラスが来ないのだろう。ずいぶん前から毎年、子育てをしている姿を見ることができた。お店の方も、お客への注意書きや、フンが落ちないような受け皿を作るなどツバメを大事にしている様子がうかがえた。。

 ところが、子育て上手のつがいが引退したのか、ここのところ春になっても、ツバメが子育てに来なくなっていた。確か一度、つがいがやってきて以前よりも形の悪い巣を作ったが、あいにく大雨に遭ってしまい巣が落ちてしまったことがあった。それ以降は、ツバメが巣作りをすることもなく、私は、何となく寂しい思いをしていた。

 ひと月ほど前、ジョギングの帰りにテントを覗いてみると、2羽のツバメが、寄り添うようにテントの内側で眠っていた。
 この場所に戻ってきたということは、少なくともどちらかは、以前ここで育ったツバメなのだろう。

 この2羽がつがいならば、新たな巣作りをするかもしれない。私は、少し期待をしていた。

 ところが、2羽で眠っていた姿を確認できていたツバメが、数日ほどで突然姿を見せなくなった。その後何度か覗いたが、やはりツバメはいなかった。

 ところが1週間ほど前に、未練がましい気持ちでテントの内側を覗いてみると、ツバメがいた。

 だが、眠っている姿は、1羽だけだ。

 周囲には、子育てをしているツバメや、子育てを終えたツバメたちもいる中で、そのツバメは、おそらく自分が生まれ育ったテントの中で、一羽で眠っているのである。

 ツバメに何があったのか私にはわからない。一緒に寄り添っていた相方となぜ、どういう理由で一緒にいないのかもわからない。

 巣立ちを終えた若鳥や親鳥は、河川敷や葦原などに集まり集団生活をすると言われているが、この子はどうして集団を離れ一人でここにいるのか、その理由もわからない。

 ただ、私には、そのツバメが、なんだか、とても小さく見えた。

まだ続く、法科大学院の予備試験敵視

 最新の法科大学院等特別委員会で配布された資料には、「法科大学院改革の取り組み状況」というものがあるので見てみた。

 そもそも法科大学院制度が2004年に創設されてから、すでに16年経過しているにも関わらず、発足当時から現在に至るまでずっ~~~と改革が必要と言われ続けているという、極めてお粗末な状態だが、今回はそれを措くとして、上記資料の中に、なぜか予備試験の項目があり、予備試験を敵視するかのような次のような指摘が記載されている。

 ご丁寧にも、下記のような引用もなされているので紹介する。

(引用開始)
参考:法曹養成制度改革推進会議決定 第4 司法試験 1 予備試験(抄)) 予備試験受験者の半数近くを法科大学院生や大学生が占める上、予備試験合格者の多くが法科大学院在学中の者や大学在学中の者であり、しかも、その人数が予備試験合格者の約8割を占めるまでに年々増加し、法科大学院教育に重大な影響を及ぼして いることが指摘されている。このことから、予備試験制度創設の趣旨と現在の利用状況がかい離している点に鑑み、本来の趣旨を踏まえて予備試験制度の在り方を早急に検討し、その結果に基づき所要の方策を講ずるべきとの指摘がされている。
(引用ここまで)

 回りくどい言い方をしているので、私なりに簡単に言ってやると、予備試験ルートの受験生は圧倒的に法科大学院ルートの受験生よりも司法試験合格率が高い。だから、優秀な学生は予備試験を目指しがちであり、法科大学院制度に来てくれない。優秀な学生が来てくれないと司法試験合格率を上げられない、つまり法科大学院にとって予備試験制度は敵である。だから法科大学院が生き残るために、予備試験を何とかしてください、はっきり言えば制限してくれ、できれば廃止してください、ってことだ。

 ケチをつけるなら、もともと法科大学院だって入試を行って、法曹になれる可能性のある学生を選抜しているはずだ。だから、仮に優秀な学生が予備試験に合格して中退していっても、残された学生だって、もともと法曹になれる可能性のある学生として入試で選抜されているはずだから、きちんと教育してやれば司法試験に合格させるだけの力を身につけさせることができなければおかしい。優秀な学生が来なければ合格者を増やせないというのは、自らの教育能力のなさを自認するに等しいとても恥ずかしい主張のはずだ。

 それはさておき、司法制度改革の目的は、質・量とも豊かな法曹を生み出すのが目的であり、法科大学院制度はその手段として想定された。これは、いくら法科大学院万歳の学者先生であっても認めてざるを得まい。

 そうだとすれば、手段は重要ではない。要は、目的さえ達成できていればいいのである。

 予備試験が現状通りであっても、質・量とも豊かな法曹が生み出されているのであれば、何の問題もない。再度述べるが、目的が達成されているのであれば、手段はどうだっていいのである。

 法科大学院が何とかの一つ覚えのように振り回す、「プロセスによる教育の理念」だって、プロセスによる教育が優れている、優れた結果を出せるという証明は何一つなされておらず、実際には法科大学院側の学者が、そのように言いつのっているだけなのだ。

 私の知る限り、プロセスによる教育が法曹に必須であるなどという主張に、何の根拠もないのである。

 何の根拠もないプロセスによる教育理念に縋り付き、それを振り回して現実を見ようせず、さらには法科大学院制度維持のために意固地に予備試験の制限すら求める学者先生から、プロセスによる(ある程度の長期間かかる)教育を施された法科大学院生に、他人に共感する力や豊かな人間性が身につくのだろうか。

 私は、むしろ疑問に思う。

 いつも言っているように思うが、学者の先生方には、本当にプロセスによる教育が法曹養成にとって必須なのかについて、はっきり示してから、「法曹教育にはプロセスによる教育が必須であり、だから予備試験ではその点で問題がある」と、堂々と主張していただきたいものだ。

 単に(正しいかどうか証明されてもいない)理念に反する、というのでは理由にならないはずだ。

 理念に反していても、目的を達成に役立つならそれは有用なのである。理念に沿っていても目的達成に役立たない制度ならそれは無用の長物なのだ。

 今では、プロセスによる教育課程を経ていない予備試験ルートの法曹実務家はすでにたくさん世に出ている。

 もし本当にプロセスを経ていない予備試験経由の法曹に、なんらかの問題が生じているのなら、その事実を簡単に証明できるはずだ。

 但し、現実には、ずいぶん前から大手事務所が競って予備試験ルートの合格者を採用しようとする態度を続けているし、予備試験ルートの司法修習生が裁判官、検察官に多く採用されている事実からみても、私には、予備試験ルートの法曹に特に問題があるとは思えない。

 それどころか実務界では高く評価されているといってもいいだろう。

 この私の評価が正しければ、結局プロセスによる教育は法曹養成に必須ではなく、したがって、法科大学院制度自体が不要、ということになると思う。

 上記のような現実を知っていて、なお、法曹養成には法科大学院におけるプロセスによる教育が必須であると主張しているのであれば、法科大学院を維持することだけが目的となった、学者先生(もしくは利害関係者)による身勝手なド厚かましい主張といわざるを得ないだろう。また、知らないのであれば、法科大学院等特別委員会の委員たる資格はないだろう。

 国民の皆様も、必要も効用もない制度に多額の税金を投入されるのは、もうごめんだとお考えになると思うんだけどなぁ・・・。

オンライン演習雑感

 関西も緊急事態宣言が解除されたが、私が非常勤講師を務めている関西学院大学では、まだ学生の登校が許されていないようだ。

 文科省が、オンライン授業をするにしても、授業終了後速やかに、①「設問解答、添削指導、質疑応答等による十分な指導」を行うとともに、②「学生の意見の交換の機会」を確保する必要があるとの告示を出したため、大学側も苦慮しているようだ。

ちなみに、Zoom等が使用できないなどオンライン通信環境が整っていない学生がいることも想定されるが、それについては、最低限のチャンネルを確保して別途の対応を配慮してくれという、きわめて抽象的な指針しか出されていない。

 幸い関西学院大学には、ネットワーク環境が比較的整っている部分もあったため、私は、事前に学生にアンケートを取ったところ、回答者は全員可能だとの解答であったため、今回初めて、オンライン授業(演習)をやってみた。

 一応無料アカウントからは、1対多数のオンライン会議は40分が限度と記載されていたことと、初めての試みであることから、最初は40分に限って行うことにした。

 結果は、やれないことはないが、相当厳しいのも事実だ。

 私は、学生の理解を助けるために、板書したり、図解するなど、黒板を多用することが多い。私の場合、板書は、学生さんが理解できない点について理解を助けるために行うものであるため、一見分かりにくそうでも学生さんが理解していれば板書は不要だし、簡単そうでも学生さんが引っ掛かっている点があれば、板書でさらにかみ砕いて説明することもある。このようにどの項目を板書して説明するかは学生さんとのやり取りで決まるともいえるので、板書をパワーポイントなどで事前に準備することは不可能である。

 もちろん法律に関する問題を扱っているので、裁判などの事例を説明する必要も出てくるだろうが、どのような事案についての裁判例なのかについて、文字だけの説明を読むよりも間違いなく図示したほうが、理解がしやすい。司法試験の短答式問題を解くときでも、論文答案を作る時でも、登場人物の法的関係を図示してわかりやすくするのは常套手段である。

 また、学生がきちんとレジュメの該当部分を見ているのかについても、確認がとりにくい。

 何より、学生の反応が読み取りにくいのが困る。

 演習なので、学生の反応を見ながらヒントを出したりして誘導することもあるのだが、学生の反応が読めないとどこまで誘導すればいいのか判然としないのである。

 また、私の演習では、六法をバンバン引かせるのだが、学生がどれくらい六法を引くのに手間取っているのかも分かりにくい。

 1度の経験で何が分かるといわれるかもしれないが、現に大学受験予備校がサテライト授業として展開しているような、大教室講義型(一方通行型)の授業のほうが、オンラインではやりやすいのではないかと感じた。

 あとで大学のメールアドレスからアカウントを作成すれば、zoomを無制限で使える可能性があると学生に教えてもらったので、来週からは、一コマ分きっちり時間を取って、学生さんに単位を付与しても大学や文科省に文句をつけられないようにしていきたいと思っている。

 やはりいくら通信手段が発達しても、面と向かってのやり取りにはまだまだ敵わないのだろうと感じた一日だった。

黒川検事長の賭け麻雀

 黒川検事長の賭け麻雀が大きな話題になっている。

 麻雀と聞くと、すぐ悪い遊びだという人もいる。麻雀放浪記や麻雀劇画に出てくるように麻雀にはまって家庭を壊したり借金まみれになったりするイメージがあるのかもしれない。

 しかし、麻雀をやったことがない人には分からないと思うが、麻雀それ自体は、相当面白いゲームである。

 高得点の手役を狙おうとすれば、仕上げるのに時間がかかる上、ツキも必要だし、ガードががら空きになりがちだ。他の人に先に上がられてしまう可能性も高くなる。他人に上がられてしまえば、いくら最高得点の手役が手の内で出来上がっていても無得点だ。
 一方、安い得点の手役は、手の内で仕上げることに時間はかからないことが多いが、いくら上がっても、一発でかい役を上がられてしまえば、逆転されてしまう。

 その中で、状況を読みながら自分に最も有利になる戦い方を選択していくのが楽しいのだ。もちろん相手がいることなので、相手の状況や心理も加味して、いま自分がとるべき行動を選択する必要があるのが麻雀であり、それ故に面白いのだ。

 ゲーム自体の面白さだけではない。運気の流れが見えるように感じられる場合もある。
 ツイているときは、狙った方向にどんどん進展する。失敗したはずなのに、その失敗すら、よりよい結果に結びつくこともある。下手な人でもツキさえあれば、経験者をあっさり食ってしまうこともある。一方ツイていないときは、どんなに足掻いても、ちっとも好転してくれない。何も失敗しているつもりはないのに、持ち点だけは減っていくような場合もある。

 私は大学の頃、クラブの連中に教えてもらって、よくやったが、やはり面白いゲームだった。

 ゲームセンターに行くと、麻雀のアーケードゲームがあり、よくあるパターンだが、勝つと一枚ずつ漫画の女の子が服を脱いでいくようなものもあった。もちろん、あと数枚までたどり着くと、急にコンピューターが強くなり、なかなか勝てなくなるのが常だった。今はもうない、北白川バッティングセンターだったと思うが、コンティニューを続けてあと1枚までたどりつき、最後のコインでコンティニューしたところ、牌が配られた瞬間にコンピューターに「ロン!」といわれ、詐欺のようなテンホウを食らって、撃沈された記憶もある。

 ちなみにテンホウとは、配られた牌で上がっている状態である。つまり、コンピューターがテンホウで勝つということは、お互いに牌を配った時点で勝負が決まり、お金を入れたはずのこちら側は、画面を見ていただけで、何一つできなかったということだ。

 多分、麻雀ゲームでテンホウを食らったことのある人は、ほとんどいないと思われる。

 ただ、怒られるかもしれないが、麻雀は確かに少しだけ賭けた方が絶対に面白いのは事実だと思う。

 全く失うものがない場合の麻雀は、どれだけ相手に高い手を上がられても痛みがないので、相手に気を使わずに自分が高い手だけ狙うことができてしまう。どんなに相手に放銃(相手の当たり牌を出してしまい、相手に点棒を支払わなければならないこと)してしまおうと、全く平気だからだ。
 みんながみんな自分のことだけを考えて戦っても、麻雀は面白くない。

 大きなリターンを狙うにはリスクを伴う。その状況下で他人と駆け引きしつつそのリスクを管理していくのが麻雀の楽しさの一つだからだ。

 ただ、今回、検察庁方の改正などで、渦中にあったといって良いはずの黒川検事長が、緊急事態宣言の中、自ら進んで、賭け麻雀を行ったとは考えにくい。想像だが、黒川検事長は、麻雀に誘われ、大したレートではないから楽しくするためにやりましょうなどといわれて賭けることになったのかもしれない。おそらく気心の知れた中であったか、何らかの信頼関係があった上でのことだったと考えるのが自然だと思う。

 一応刑法上賭博罪も規定されてはいるが、競馬・競艇・競輪・オートレースなど公営賭博が堂々と適法に行われ、街中にはパチンコ店も多数存在する中で、賭博行為に処罰に値するだけの法益侵害があるのかにつき、疑問がないわけではないが、「賭け麻雀」という見出しがマスコミに踊れば、当事者の失脚は免れない。

 もし、黒川検事長が嵌められたとすればの話だが、そのような機会を提供した側には信頼関係を裏切って相手を地獄に蹴落としてでも、自らの利益を図るという空恐ろしい計算が見えるようで、私は好きではない。

ベネチアの夜

 ベネチアは、深夜のほうが、素顔に近い。

 4~5回しかベネチアに行った経験がない若輩者のうえに、ここ10年ほどは人の多さに嫌気がさしてしまい、行ってもいないくせに、私は生意気にも、勝手にそう思い込んでいる。

 ご存じの通り、ベネチアは世界的観光都市だから、昼間の混雑は相当なものだ。ヴァポレット(水上バス)にあふれんばかりに観光客が乗っていることもあるし、土産物店などが集中している地区では、すれ違うのもやっと、ということもある。

 しかし、私が何度か行っていた頃のベネチアでは、夜の飲食店が店を閉めた後の深夜は、人通りも少なくなり、少しだけ静かな時間が戻っていた、と記憶している。

 大体、どこの観光都市でも道路が近くを通っていることが多く、人通りがほとんどなくなった深夜でも、遠くからごぉーっという、自動車の走る低い響きが聞こえてくるところがほとんどだ。私は京都に住んでいるが、京都だって、この音から無縁ではいられない。

 ところが、ベネチアにはその響きがない。深夜で運行本数が減ったヴァポレットが響かせるディーゼル機関の音がときおり遠くで聞こえるくらいなのである。
 自動車が入れない街だから当然なのだが、そこが、まず、かなり素敵に感じられる。

 それに加えて、静かな通りを、ゆっくり歩いていると、ちゃぷちゃぷ、とか、ぴちゃぴちゃ、という、運河の波が、岸を優しくなでているような音が聞こえてくる。不思議なことに、急いだり、普通に歩いているときにはその音は聞こえず、ゆっくり歩いているときに限って、その音に気づくことができるようにも感じられる。

 どういうわけか、このような水の音を聞くと、不思議と気持ちがなだらかに、穏やかになっていくような気がする。

 おそらくこの町で眠っている人は、特に気にもしていない音かもしれないが、街の本質的属性としてこの音が、住民やこの町を訪れる観光客が眠っているうちに、ひそやかに彼らの無意識の中に深い影響を与えていくように、私には感じられたりするのだ。

 だから、深夜のほうが、街としての素顔に近いのではないか、と感じたりするのだろう。

 もちろん、治安のいい日本と違ってイタリアだし、いくら当局が威信をかけて警備に力を入れているからといっても、強盗が出ない保証もない(聞いた話では、暗殺者通り~アサシンストリートという名前の通りもあるとか・・)。したがって、あまりお勧めはしないのだが、やはりベネチアの深夜の散歩は魅力的だという思いが私には強い。

 機会があれば、是非再訪してみたい都市のひとつである。

法科大学院等特別委員会での意見

文科省中教審の法科大学院等特別委員会は、私の見る限り、司法制度改革の目的よりも、手段であったはずの法科大学院制度の維持存続に汲々としている印象がある。

 プロセスによる教育のどこが優れているのかも明らかにせず、司法試験合格率で彼らからすればプロセスによる教育を経ていない予備試験組に惨敗し続けながらも、学者の先生方は何の根拠も示すことなく、「プロセスによる教育」というマジックワードを振り回し続けている。

 議事録についても、学者の現実を見ない、偏った法科大学院ありきの意見ばかりが多く、腹が立つので最近読んでいなかった。

 しかしふと思い立って少し近時の議事録を見てみると、多くの学者委員が、本来の目的を見失い、法科大学院維持存続ばかり考えた発言を繰り返す中、弁護士の酒井圭委員は問題の本質に迫る、なかなか鋭い提案をなさっているときがあることに気づいた。
 しかし、残念ながら、結局多くの学者委員に、はいはいそんな意見もございますな・・・という感じでスルーされている印象が強い。

 また、最近、専門委員に加わった、弁護士菊間千乃委員も令和元年9月10日の第94回特別委員会で、「(法科大学院における)法学未修者教育の充実」の議題について、未修者を切り離す意見もあるとの報告に対し、面白いことを述べているので一部引用する(着色は坂野による)。

(引用ここから)
【菊間委員】 菊間です。私は未修者で社会人で4年コースの夜間のロースクールに行った経験からお話しさせていただきますけれども,未修者といっても社会人と,あと仕事をしないで未修の人とでは全く違うので,そこをまず分けて考えなければいけないかと思っています。私も社会人から弁護士になったので,弁護士になってから本当にたくさんの社会人の方から法律家になりたいのだという御相談は受けています。ただ,皆さんロースクールには行っていません。私がいた頃よりも夜間が減っているということがあるのと,今こういう現状だと,仕事を辞めてロースクールに,私が行った2期生の頃は仕事を辞めてロースクールに入る人が多かったのですが,今は非常にそれは危険だということで,働きながらとなるとロースクールは難しいので予備試験を私も勧めていますし,予備試験の方に社会人の方は今受かっている。その社会人の方もロースクールの中に取り込んでいきたいということであれば,大きく考え直さないといけないのではないかと。今の状況で社会人がロースクールにはまず来ないのではないのかという気がしています。
学習の未修者のことを考えた場合もですけれども,例えば私も加賀先生と同じ御意見で,既修者との切離しというのは違うのではないかと思います。自分の経験からいっても,先生方は未修者からするとできない人の気持ちが分かっていないというか,何が分からないのかが分かってくれないのですね,先生方が。私も法学部出身ですけれども,ここで先生方にこんなことを言うのも何ですが,大学には全く行っていなかったので,本当に何も分からないままロースクールに入ってしまったので,一からだったのですね。その時に何が一番役に立ったかというと,既修者の人に勉強の仕方を教わったことですよ。既修者の方はどう勉強したら物事が分かるかとか,どういうノートの取り方を取ったらいいかとか,どう論文を書いたらいいかとか,今まで自分達がいっぱい悩んで考えてきたことを未修者の人に教えてくださった。

(後略・引用ここまで)

 つまり菊間委員は、大宮法科大学院の卒業生でありながら、自らの体験を踏まえても、後進の社会人法曹志願者には、法科大学院ではなく予備試験を勧めているのだ。法科大学院の先生方は、未修者にとって、何が分からないのかという根本問題すら理解してくれなかった、勉強の仕方、ノートの取り方、論文の書き方など大事なことは法科大学院教員ではなく、既修者に教わったとも述べている。

 このような現実が指摘されていることについて、文科省・中教審・法科大学院の教員は、恥ずかしいと思うべきだ。

 確かに、未修者の教育には教員の多大な労力と、未修者自身の多大な努力が必要である。法科大学院制度導入の当初、えらい学者の先生達が、1年もあれば既修者に追いつくだけの力を身につけさせてやれると自らの教育能力を過信したため、法科大学院では1年間で既修者に追いつくという無茶苦茶な制度設計がなされた。
 未修者を切り離す制度を考えるのであれば、自分たちが自らの教育能力を過信して制度設計をしてしまったことへの反省がまず最初に必要だと思われる。しかし、残念ながら、私が読む限り議事録から学者委員にはそのような反省の動向はうかがえない。

 今回の未修者を切り離すという問題提起の中には、おそらく、既修者とは別の未修者向けの教育が必要だからという建前があるのだろうが、その裏には、既修者のみの法科大学院にして司法試験合格率を上げたいという、自分たちの教育能力の欠如を棚に上げた野望が潜んでいるように感じられてならない。

 話は少しずれてしまうが、法科大学院側(学者委員)は、現実を見ていないだけでなく、菊間委員が現状に即して、社会人法曹志願者に対して勧めている予備試験を敵視し、プロセスを経ていないとか、本来の趣旨と異なるなどと批判することにより制限しようと躍起になっている。

 そもそも、予備試験を通じてでも、多様なバックグラウンドを持つ優秀な法曹が生み出されるのであれば、何ら問題はないはずだ。

 仮に学者委員が言うように、プロセスを経ない予備試験ルートに問題があるというのなら、すでに予備試験ルートでの法曹も相当数存在するのだから、彼らを調査し予備試験ルートの法曹に何らかの問題があることを立証する必要があるし、それは容易に可能なはずだ。

 ところが現実には、大手法律事務所が予備試験ルートの司法試験合格者を就職において長年にわたって優遇し続けているし、予備試験ルートの司法試験合格者も多数、裁判官や検察官に任命されていることから、予備試験ルートの司法試験合格者は問題があるどころか、むしろ見どころがあると実務界では思われているとみて間違いあるまい。

 だとすれば、予備試験ルートを制限する理由は存在しないということになるはずだ。

 結局、未修者を切り離し、予備試験を制限しようとする法科大学院等特別委員会は、多様なバックグラウンドを持つ優秀な法曹を生み出すという司法制度改革の目的を達成することを目標にしているのではなく、ひとえに法科大学院制度という手段を維持することが最優先事項にしているといわざるをえないだろう。

 さて、菊間委員の発言を聞いた学者先生方は、どう反応していくのか。

 今まで通り、現実から目を背け、プロセスによる教育というマジックワードにすがって、それを振り回し続けるのだろうか。もしそうなら、そのような人間を有識者として専門委員に任命した文科省の見識も疑わざるを得なくなるだろう。

 酒井委員や菊間委員が現実に即した発言を今後も続けた場合、次回の委員編成で再任されるのかも要注目だ。

喧嘩はいつでもできるもの

 私が弁護士になった頃と比べての実感だが、最近は、内容証明郵便や、訴訟での準備書面などでやたら攻撃的な書面を書いてきたり、電話での話し合いの際に極めて高圧的な態度をとる弁護士さんが目立つ気がする。

 意味もなく高圧的な態度で相手方に接することは、とくに弁護士が相手方代理人として就任した場合は、あまり良い結果につながらないように思われる。

 ある事件で、不法行為的な迷惑行為をしてしまった加害者側に対し、被害者側弁護士が極めて高圧的な態度をとってきたことがあった。
 私は加害者側からの依頼を受けていた。
 依頼者から聞き取った話と録音などの事件の証拠等からみれば、仮に訴訟提起されても相手方からの不法行為の立証は極めて困難だろうと考えられる案件だった。

 私は、依頼者の話が事実であれば、訴訟になっても恐らく負ける可能性は低いことを示したうえで、依頼者と協議の結果、それでも相手に迷惑をかけたことは事実なのだから相応の賠償を考えよう、という方向性で一致し交渉を始めた。

 ところが、相手方弁護士(最初の弁護士は解任され、経験の浅い弁護士が次に就いた)が何ら証拠に基づかず、極めて高圧的かつ首尾一貫しない書面をいくつも送り付けてきた。
 私は、遠回しに相手方弁護士の主張の問題点を指摘して、そのような態度に出るべきではないことをやんわりと諭した(「○○先生の△△というご主張は、~~という証拠に鑑み、事実と相違した、いささか勇み足のご主張であり、相当ではないと思料いたします。」程度の書面)が、効果はなく、例えていうなら「おまえ、被害者と弁護士様に向かって何言うとるんじゃ」と言わんばかりの書面が続いて届くことになった。

 そのような失礼な書面を連発されたことが主な原因で、当方の依頼者が話し合いをすることに最終的に賛意を示さなくなってしまった。
 したがって、相応の金額での和解が可能だったにも関わらず、結局和解はできなくなってしまった。そして、私の見立て通り不法行為責任を追及する訴訟も提起されてこなかった。
 結局、余計なことを弁護士がしたため、相手方は相応の賠償を受けそびれたのである。

 おそらく、相手方弁護士は、自分の依頼者が被害者なのだから、それを前面に押し出せば有利になると単純に考えていたのではないだろうか。そして、訴訟しても勝てると安易に思いこんでいたか、被害に関する証拠の精査を怠って訴訟になった場合のことまで考えが及んでいなかったか、のいずれかではないかと思われる。
 残念なことに、そのような高圧的な書面を書く弁護士のほうが、依頼者が「よくぞ言ってくださった!」と胸のすく思いがするためなのか、交渉段階での依頼者受けは良かったりするのである。

 確かに弁護士も客商売だから、依頼者受けも大事なのだが、私は、紛争解決のお手伝いをするのが弁護士本来の仕事であろうと考えている。

 訴訟を起こせば絶対に勝訴でき、しかも回収が絶対に確実であるというような特殊な状況があるなら別かもしれないが、そうでない場合、やみくもに高圧的な態度に出て、相手方をぶん殴っておけばいいというものではない。

 紛争の相手方だって人間だ。

 人間は感情のある生き物だ。

 感情をさんざん逆なでされた挙句に、和解したいので譲歩してくださいといっても到底応じてもらえまい。

 私だって、あまりに高圧的かつ依頼者に対して無礼な書面が来た場合には、依頼者の意向を確認の上、同様の内容で打ち返すことはあるにはある。しかし、自分の方から、積極的に高圧的な行動をとることはしないように心掛けている。

 物事には、喧嘩以外の解決方法も存在し得るのだ。

 喧嘩はいつでもできる。

 しかし、一度喧嘩を売ってしまえば、他の解決の道を、極めて狭くしてしまう。

 このような簡単なことに気づけない弁護士さんがいるのは残念だ。

やはり司法試験は簡単になっている。

 司法試験が、受験者数の減少、受験者の総体的なレベル低下により選抜能力を失いつつあるのではないかという危惧を以前ブログにも書いたが、その危惧は当たっていたようだ。

 法務省に掲載されている平成30年8月3日司法試験委員会決定に基づく、「司法試験の方式・在り方について」と題する文書には、次のように書かれている。

 短答式試験は,裁判官,検察官又は弁護士となろうとする者に必要な専門的な法律知識及び法的な推論の能力を有するかどうかを判定することを目的とするものであるが,その出題に当たっては,法科大学院における教育内容を十分に踏まえた上,基本的事項に関する内容を中心とし,過度に複雑な形式による出題は行わない。

 たぶん誰も、本当のことを直接言わないだろうから私が言ってやるが、司法試験委員会としては、本音としては、次のように言いたいのだろう。

 本来法曹(裁判官・検察官・弁護士)になろうとする者に必要とされる、専門的な法律知識や法的推論能力(それに私見であるが、事務処理能力も必要である)を判定できるだけの、しっかりとした質と量の短答式試験問題を司法試験で出題するべきだと司法試験委員会は考えている。何故なら司法試験は、法曹になろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験である、と法律上明記されているからだ(司法試験法1条1項)。
 しかし、法科大学院経由の受験生全体の実力から推察される、法科大学院での教育内容を踏まえれば、受験生が法科大学院で身につけてきた実力が十分だとはとてもいえない状況にある。
 仮に、司法試験委員会が、法曹に通常必要な法律知識や法的推論能力を試そうと考えて、きちんとしたレベルの短答式試験を出題すれば、短答式試験で足を切られてしまい、現状の合格者数すら確保できなくなる。
 そこでやむなく、司法試験のレベルを落として、基本的事項に関する内容を中心に出題せざるを得ないのであり、本来法曹の資質を見るために必要と思われる複雑な形式による出題ができなくなっている。

 おそらくこういうことだろう。

 ちなみに、基礎的な問題に限定されているはずの、令和元年度の短答式試験は、175点満点で108点以上が合格(但し1科目でも40%以下の得点である場合は不合格)とされている。受験生全体の平均点は119.3点だから、受験生の平均点を10点以上、下回っていても短答式試験には合格できるというザル試験になっている。

 このようなザル試験であるがゆえに、予備試験ルート司法試験受験生の短答式試験合格率は令和元年度で約99%となっている。これに比べ同年度の法科大学院ルートの司法試験受験生の短答式試験合格率は約71%に過ぎない。

 予備試験考査委員が、法科大学院卒業者と同等の実力を持っている、裏を返せば、法科大学院を卒業したならこれくらいの実力を持っていなくてはならない、と判断したレベルにある予備試験合格者が99%合格する試験で、法科大学院ルート受験生は3割も落第するのである。

 そして、志願者が激減しているにもかかわらず合格者を1500人程度に維持しているため、短答式試験に合格した受験生のうち約半数が最終合格するのだ。

 私は思うのだ。

 法科大学院卒業生の実力が全体的に見て不足だからといって、司法試験を簡単にしようというのは、目的と手段が完全に入れ替わってしまっているのではないかと。かつて大学教員たちが、司法試験に合格するだけの実力くらい3年で身につけてみせると豪語して導入された法科大学院なのだから、本来であれば法科大学院の側から、司法試験を簡単にしないでくれ、というのが筋だろう。

 司法試験を法科大学院のレベルに合わせるべきだ(簡単に合格できるようにしてくれ)という、一部学者の主張は、自らの教育能力が乏しいことを自認する、極めて恥知らずな主張だと知るべきだ。

 法科大学院に意味(乃至は価値)を持たせるために、司法試験を簡単にすれば、実力不足の弁護士があふれ、結局国民の皆様が困ることになる。司法改革はそのような社会を目指したわけではない。

 だいたい、2004年に開校してから、おおよそ20年近く経っているのに、未だに教育内容の改革を検討し続けなければならないようなポンコツな制度を、どうして高額の税金を投じて維持しなくてはならないのか。

 本当に世の中わからないことが多いものだ。