魔女の一撃~後日談

 ギックリ腰を患って分かったこと。

 ・歩行者、自転車が怖いこと。

 とにかく、歩くのが精一杯なくらい痛い場合があるので、急な進路変更、体重移動はできません。また、すれ違うときに肩が当たるくらいでも激痛必至なので、とにかく、他の歩行者・自転車に近寄らないよう、十分警戒して歩く必要があります。また、歩行スピードがかなり落ちるので、歩行者用信号が点滅し始めると、もう道路を渡ることは出来ません。急いで渡ろうとする人がすぐ近くを走りすぎると、ドキッとします。

 ・階段の手すりが有り難いこと。

 階段を昇降する際には、結構腰に負担がかかるため、あらゆる階段で手すりが有り難く感じます。そうはいっても、階段の手すりは、通常通路の両はしにあるため、私がヨチヨチと階段を下りている際に、階段の端っこを上ってきて、進路を譲ろうとしない若造とは一瞬鉢合わせ状態になってしまいます。そのときには若造の「何や、このオヤジは!」という無言の圧力にさらされます。 また、階段の手すりが思ったより汚れている場合も多く、これは考える必要があるかもしれないと思いました。

 ・満員電車は痛いこと。

 満員でなくても、電車の中で長時間立つことは苦行になります。腰の負担を軽減するため、周囲に分からないように、できるだけつり革にぶら下がり、腰に重量がかからないようにするのです。しかし、降車する人が後ろを通過するたびに、身体が少し当たりますので、その際には、腰に相当な痛みが走ります。

 ・やっぱり痛み(辛さ)は見えないこと。

 周囲から見れば、全く痛みのない行動が、私にとっては痛みを伴う行動となるので、私が痛がっていることが不思議に思われるようです。この魔女の一撃がどれだけ痛いかについては、体験してみて下さいとしか言えません。特にやっちまった初日は、四つんばいで這うことすら大変な状態でした。

 考えてみると、上記の各点は、いずれも健康なときには気付かないことであって、人間は、やはり相手の立場に立って考えることは難しいものなんだ、と改めて感じさせられました。

予備試験は、「狭き門とするべきか」?

 新司法試験は原則として法科大学院卒業者しか受験できません。

 しかし、経済的理由など諸般の事由で、法科大学院に入学できない方でも、法曹界への道を残すという見地から、新司法試験受験資格を与える予備試験という制度が残されています。

 そして、今、法科大学院を卒業しなくても新司法試験を受ける資格を与える、予備試験をどのように設計するかで、意見が分かれています。

 法科大学院側は、予備試験は簡単に合格させてはならない、予備試験に簡単に合格できる制度設計はおかしい、という見解に立つようです。あろうことか、日弁連もほぼ法科大学院の意見に沿った意見を出しているようです。

法科大学院の本音は、おそらく、次のようなものでしょう。

 予備試験合格を簡単にすれば、みんな予備試験を受けて新司法試験を受けるようになるかもしれず、そうなれば、(高額の費用がかかる)法科大学院に学生が来なくなる。また、予備試験組の司法試験合格率が高かったりすると、法科大学院の教育が意味がないのではないかと叩かれる危険がある。だから法科大学院維持存続のために予備試験を難しくして、簡単に新司法試験を受験できないようにして欲しい。

 ただ、露骨にそう主張すると法科大学院の既得権保護だと言われるので、「プロセスとしての法曹養成を目指す見地から、法科大学院での教育を原則とすべきである。」だから、「プロセスとしての法曹養成の例外なのだから予備試験は狭き門でよい。」という主張をしているはずです。

 私は上記の法科大学院の意見(私の思いこみの場合は申し訳ありません)には全く反対です。

① まず、法科大学院の従来の立場と矛盾します。
 法科大学院協会は、新司法試験の合格者の質が下がりつつあると実務界から非難されていながら、法科大学院の教育には全く問題がない。むしろ、従来より優れている部分があると、大見得を切っています。
 もしそうなら、予備試験合格者を大幅に増やしても、法科大学院が素晴らしい教育を施していれば、新司法試験の合格率で圧倒的に予備試験合格者組を上回るはずでしょう。法曹を目指す人は(新司法試験に合格しないと法曹になれないわけだから)、新司法試験に合格するために法科大学院の教育が必要不可欠で、新司法試験合格に十分な教育を提供してくれるのであれば、競って法科大学院進学を目指すはずです。
 つまり、本当に法科大学院が素晴らしい教育をしているのであれば、どうしても法曹になりたい人は法科大学院を目指すはずです。結果的に、予備試験合格者を増やすことは、法科大学院教育が優れている証明になるはずです。

② 次に、法科大学院の意見は、新司法試験の機能を完全に無視しています。
 新司法試験は、「(法曹となろうとする者に)必要は学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験とする(司法試験法第1条1項)。」と法律で定められた、きちんと法律家の卵としての素養があるかを判断するための国家試験です。したがって、例え予備試験に合格しても、法律家として必要な学識及びその応用能力がない場合は、新司法試験で不適格者は排除できるはずです。それにも関わらず、予備試験合格者はプロセスによる法曹教育を受けていないからという理由で、新司法試験の受験機会すら奪おうとすることは、新司法試験ではきちんとした法律家の素養の判断が出来ないと言っている(国家試験を馬鹿にしている)のと同じです。

③ さらに、サービスの受け手である、国民を無視しています。
 裁判なんて一生に一度あるかどうかでしょうから、国民は、きちんとした法的サービスを期待しているはずです。プロセスの教育を経てもきちんとした法的サービスを行えない法曹と、プロセスの教育を受けていなくてもきちんとした法的サービスを行える法曹とを比べれば、国民がどちらを選ぶかは誰の目にも明らかです。そうだとすれば、真に重要なのはプロセスとしての法曹教育を受けているかどうかではなく、きちんとした法的サービスを行える実力があるかどうかということのはずです。
 そして、きちんとした法的サービスを行えるかどうか(ないし、その素養があるか)については、新司法試験で判断できるはずですから(もし出来ないのであれば新司法試験制度自体がおかしいことになります)、極論すれば、予備試験すら要らないといっても良いのではないでしょうか。

④ 多様な人材の登用につながる
 法科大学院導入の、理由の一つに、多様な人材を法曹界に導くという目的に合致するということが挙げられていました。果たして法科大学院制度は本当に多様な人材の登用に役立っているのでしょうか。法科大学院を卒業しなければ新司法試験を受験できないという現行制度は、却って法科大学院に通う時間的・経済的余裕のない人を完全に排除しています。旧司法試験では誰でもいつでも受験することが出来ました。会社に通いながら独学で勉強して合格した方も何人もおられます。しかし、新司法試験になると、会社に勤めながら法律家を目指そうと思っても、近くに法科大学院がないとアウトです。近くに法科大学院があっても夜間コースがなければアウトです。夜間の法科大学院があっても会社の都合で通えなければやはりアウトです。会社を辞めて法科大学院に入学しなければ、新司法試験を受験することすら出来ないのです。しかし修習生の深刻な就職難が伝えられる現在、会社員という比較的安定した地位を自ら捨てて、就職できないかもしれない法科大学院→新司法試験受験という道を選ぶ方は、むしろ減るのではないでしょうか。家族をお持ちの方ならなおさらでしょう。
 逆に、極めて優秀な方は、短期間の勉強で合格できる実力をつけることも可能なはずですが、法科大学院制度では例え短期間で合格できる実力を身につけていても、最低2年は法科大学院に通わなければならないという回り道を強いられます。
 そうみると、受験資格に一切制限がなかった旧司法試験の方が、むしろ多様な人材を法曹界に導くことが出来たのではないかと思うのです。

⑤ 法科大学院制度は、司法過疎の解消につながらない。
 法科大学院を各地方に作ることにより、地域に根ざした法律家が生まれ、司法過疎の解消につながるという意見もあったようです。しかし、その意見は、全くナンセンスだと思います。
 例えば私の郷里は司法過疎地域の一つでしょうが、最も近い県庁所在地までJRの特急で片道3時間はかかります。つまり、夜間コースのある法科大学院が設置されていても結局、会社勤めをしながらロースクールに通うことは時間的・経済的に絶対的に無理なのです。そして始末が悪いことに、そのような遠隔地ほど司法過疎といわれている地域は多いように思います。
 法科大学院が、せめて全国の各市に分室を作って希望者にはいつでも法科大学院の教育を完全に行える体制をつくってくれれば、ひょっとしたら地域に根ざした法律家が誕生し、司法過疎は解消するかもしれません。しかし、需要のないところに法科大学院が分室を作ってくれるはずがありません。当然赤字になるからです。

 少し脱線しますが、法科大学院側で司法制度を論じる方は、司法過疎を解消できていないのは弁護士数が少ないせいであると主張される場合が多いようです。ということは、法科大学院側の方は、数を増やせば、司法過疎は解消すると考えていることになります。
 では、法科大学院の削減が必要であると、法科大学院の過剰設置が言われている現在、遠隔地に住んでいる方の全てが、会社勤めをしながらでも法科大学院に通える状況が出来ているでしょうか。出来ているわけがありません。法科大学院といえども赤字では経営できないからです。法科大学院過疎は法科大学院の増加では解消できません。
 弁護士も全く同じです。弁護士の数を増やせば司法過疎を解消できるというのは、全くの誤りなのです。弁護士も職業ですから、仕事を通じて生計を立てる必要があり、生計が成り立つのであれば弁護士は開業します。

 そうだとすれば、各地に法科大学院を作ることを考えるよりも、むしろ、司法過疎地域・法科大学院過疎地域の人間にも機会を与える、予備試験を広く認める方が理にかなっているでしょう。
 

 少なくとも以上の理由から、明らかに、予備試験は狭き門とすべきではなく、法科大学院卒業者の最低レベルと同等以上の方は合格させ、新司法試験を受ける資格を与えるべきだと思います。

 法科大学院も日弁連も何考えてるんでしょうね。
 

強烈!魔女の一撃!~その2

 キッチンで寝るはめになったと簡単には書いたが、S弁護士も簡単に寝たわけではない。

 まず、薬箱に、幸い、肩こり・腰痛に効くという漢方の痛み止めがあった。それを服用したのだ。

 成分表には、他の成分に混じって地竜エキスと書いてある。地竜とはミミズのことだ。初めてそのことを知ったとき、もう漢方なんて飲まないと思ったものだ。だがこの非常時にミミズだろうが何だろうが、なりふり構っちゃいられない。

 ところが、薬を飲むために顔を上に向けようとすると、またもレベル7~8の痛打がくる。顔を上に向けるためにさえ腰を使っているなんて初めて知った。それでも頑張って、顔を僅かに上に向けることができた。痛みに耐えてなんとか水を少し口に含み、漢方の痛み止めを一気に流し込む。

 頼む!少しでも効いてくれ!

 しかし、次の瞬間S弁護士に聞こえたのは、「う」という自分の声だった。

 漢方薬は、粉末ではあったが、水に溶けるものではなかった。しかも、今さら悔やんでも遅いが、痛みに妥協して口に含んだ水の量が少なすぎた。その結果、全ての粉末を流し込めなかった。つまり、漢方薬の一部がノドの奥に張り付いてしまったのだ。

 咳をすれば激痛必至だ。「止めろ止めるんだ!」頭の中で必死に身体に指令を送る。

 ・・・しかし、人間の身体とは馬鹿なものである。どれだけ脳が咳を止めよと命じようが、現に痛みを感じていようが、しなくても良い咳と、いま目の前にある腰痛のどっちが大事か判断がつけられないほどの大馬鹿野郎である。

咳が、腰も使った全身運動の一つであることだけは、痛いほどよく分かった。

(続く・・・かも)

強烈!魔女の一撃!~その1

 S弁護士は、首を痛めていた。受験生時代に交通事故の被害に遭ってから痛めていた首が肩こりから再発したのだ。近くの整骨院で診てもらい、結構ひどいので動かさないようにと、首に治療用のカラーをはめられ、ロボットのようになって帰宅した。

 その夜のことである。
 S弁護士は、風呂から上がって、下に落ちているものを拾おうとしていた。首が痛いので、首に負担をかけないように腰でかがんだのがまずかった。

「?!」

 腰に電気が走った。一瞬背筋が反射的に伸び、直立の姿勢にもどった。別にその姿勢では痛みもないし、どうやら何もなさそうである。

 思えばこの僅か1秒足らずの間に事態の深刻さに気付いていればよかったのだ。だが、悲しいかなS弁護士は、あまりにも経験がなさ過ぎた。

 S弁護士は再度腰でかがもうとした。その瞬間、腰を起点に大激痛が走った。もはや、一瞬も身体を動かせない。動かそうとすると更に激痛が走る。既に今の姿勢を維持するだけが、せめて痛みに耐える最良の方法になっていた。

 やられた。
 これが、ギックリ腰ってやつだ。

 しかも相当痛い。S弁護士はこれまで人間の3大痛みの一つといわれる、尿路結石を3度経験している。そのときの痛みの強さをレベル9とすれば、確かに痛みの強さレベルは7.8~8.0くらいだと思う。しかし、腰椎全体から響く、その痛みの大きさが、結石とは違って、大きい。

  ドイツでは、ギックリ腰のことを魔女の一撃というそうだ。それだけ聞くと、年老いた魔女がよろよろと杖をふるっている姿が想像されるが、そんな可愛いモンではない。まだまだ体力の有り余る太っちょの魔女が、固く乾燥した杖を使って繰り出す、全力をふるっての一撃である。その後、僅かでも身体を動かそうとすると、追い打ちをかけるかのように魔女がレベル7~8の痛打を連打してくれる。しかも腹が立つことに、今から思うと、魔女は笑っていたような気さえするのである。

つまり、その、ギックリ腰というやつの実態は、結構強烈である。

「ちきしょー、痛いぜ、ギックリ腰なんてユーモラスな名前つけやがって、そんなん、実態と合わんじゃないか!伴激痛性腰部挫傷くらいの名前にしてもらわんと、割にあわねえ・・・・。」と見当違いのイチャモンを痛みに向けながら、結局その日、S弁護士は、階段を上ることすら到底出来ず、キッチンで寝るはめになった。

(続く)

やっぱり暴走!日弁連理事会。

 日弁連理事会が、「法曹人口に関する提言(案)」を可決した模様です。

 日弁連が(正確には日弁連のお偉方たちが勝手に)、法曹人口5万人向けて努力することを宣言することになりそうです。

 先日、修習生を就職させてやってくれとビラをまいていたのは日弁連ではなかったのでしょうか。

修習生の就職難=弁護士の需要がない、というだれにでも明らかな事実が何故、日弁連のお偉方には理解できないのでしょうか。

 世の中の企業では、不況で仕事がなく、どんなに仕事を開拓しようとしても需要がない時期に、雇用を激増させ、従業員を倍にすることに全力を注ぐでしょうか?そんな馬鹿なことをしたら、経営者は即刻首が飛ぶはずです。

 そこまで法曹人口が必要だとお思いなのであれば、日弁連理事会で賛成投票した弁護士の先生方(乃至日弁連理事に賛成投票するよう指示した各弁護士会の執行部の方)は、直ちに自分の所得を新人イソ弁並みにしてでも、修習生を雇用して、就職難を解決してやるべきです。

 それが、みんなで痛みに耐えて頑張ると言うことでしょう。企業だって、従業員に痛みを負ってもらう際には役員報酬カットをすることが普通でしょう。

 執行部が「痛みに耐えて頑張ろう」と、美しいかけ声をかけますが、その裏で、自分は痛みを避けて若手に痛みを押しつけているのですから、全く話になりません。

 お偉方は、みんなが痛みを負わなければならない真の理由を説明して私達を納得させて下さい。また、自ら、本当に痛みに耐えているところを見せて、私達を納得させて下さい。

 そうでないと、ひどいじゃないか!!

WBC

 今日のお昼に弁護団会議があった。男性陣の話題は、弁護団事件もあるが、もっぱらWBCだ。

 「やっぱりニッポンに勝ってもらいたいよなぁ。」と言っていると、女性弁護士が「どうして男の人はそんなに夢中になるのですか?」と不思議そうに聞いてきた。

 「えっ、だってニッポンに勝ってもらいたいやン」と答えながら、日本代表を応援する私達が、彼女には不思議に思えるのだということが、逆に不思議だった。

 私は熱烈な愛国主義者ではないが、やはり世界で戦う日本の選手には勝ってもらいたい、日の丸をセンターポールに揚げてもらいたいと強く思うたちである。

 オリンピックでも相当力を入れて応援する。勝ってくれ!と念力を送ったり、それでも日本の選手が負けてしまったりすると、スマン!念力を送りすぎたのか・・・。と訳の分からない反省をしたりもする。

 仕事の合間にインターネットで速報を見たところ、日本は残念ながら韓国に4-1で破れてしまった。

 しかし、敗者復活戦がある。頑張ってWBCで二連覇してもらいたい。そのためには次に韓国と当たるときには絶対に負けられない。

 夜、弁護士会で研修があった。法曹人口問題PTでご一緒し、激論?を交わした、次期副会長の藤木先生が偶然となりに座っておられた。研修が終わり、藤木先生に副会長おめでとうございます。と、ご挨拶したところ、「WBCの結果、知ってる?」と聞かれた。「負けました。4-1です。」というと、「うーん、ダルビッシュが打たれちゃったのか・・・・」と非常に残念がっておられた。

 法曹人口問題についての立場は違うが、日本を応援する気持ちは藤木先生も一緒だった。

 なんだか少し嬉しかった。

行政書士が債務整理??

 今日の弁護士会の法律相談で、ネットで見たという行政書士に半年前に借金の整理を依頼したのだが、結局なんにもしてくれず放り出された、という方が来られていました。どこの行政書士か聞こうとしたのですが、契約書も作らず領収書も出していないようで、どこの行政書士か全く不明でした。極めて悪質と言わざるを得ず、本当に腹が立ちます。

 行政書士には、債務整理に関しての代理権はありません。つまり、借金に困った方の代わりに行政書士がサラ金と交渉することは法律違反であって出来ません。もし本当にやっていたとしたら、その行政書士は弁護士法違反で懲役刑もある刑罰が科される危険があります。

 また、行政書士が間に入って仮に話がまとまったとしても弁護士法違反の行為は公序良俗違反で無効ですから、サラ金からこの前の話し合いは無効であると主張される危険がつきまといます。

 原則として借金で困った方の代わりに(代理人として)、サラ金と交渉できるのは弁護士と一部の認定司法書士だけです。そして弁護士は全ての借金の範囲について代理人として交渉できますが、認定司法書士が借金で困った方の代わりに交渉できるのは140万円までの範囲に限定されます。140万円を超える事件について司法書士が代理した場合、先ほど行政書士で述べたような弁護士法違反となります。

 最近債務整理の広告を沢山の司法書士が出していますが、交渉が比較的楽な過払金のあるサラ金とだけ交渉して多額の報酬を取り、それ以外の解決に時間がかかり報酬があまり見込めないサラ金の案件は、「これ以上はウチでは出来ない、弁護士にやってもらえ。」と言って突き放す例が知り合いの弁護士からいくつか報告されています。

 しかも司法書士・行政書士の殺し文句は、「弁護士に頼んだら幾らかかるか分からない」だそうで、そうやって自分のところは安いと説明しながら、実際は弁護士会よりも高額の報酬を取る場合もあるようです。

 私の知り合いである司法書士の方は当然キチンとされていますが、最近何度もそのような、借金に困った方を食い物にする一部のとんでもない司法書士の存在を耳にします。更に今日の法律相談に来られた方のお話のように、本当は全く債務整理の代理権がないはずの行政書士までが借金に困った方を食い物にしようとしてネット広告を行っているのでしょうから、問題は大きいでしょう。

 弁護士会では弁護士会で定められた基準でしか弁護士費用(着手金・報酬)を取ってはいけないことになっており、弁護士会を通じて弁護士に依頼したときは、契約書も3枚綴りで、一枚は依頼者の控え、一枚は弁護士の控え、最後の一枚は弁護士会法律相談センターに提出して審査を受けることになっています。

 つまり大阪では、弁護士会法律相談センターの報酬基準より高すぎたり不当に安すぎたり出来ないようになっているのです。

 弁護士会の法律相談を通じてご依頼されるのが最も安心できるものだと思います。サラ金関係の借金に関する法律相談は原則無料で行っているはずですので、出来るだけ早くご相談されることをお薦めします。 

日弁連は暴走しないでもらいたい。

 日弁連が、3月17・18日の理事会で、当面の法曹人口の在り方に関する提言を決定し、対外的に提言を行う予定だそうです。

 その内容は、かいつまんで言えば、

 ① 法曹人口5万人を目指して最大限努力する。

 ② 司法制度改革は弁護士人口増大以外の、改革が進展していないし、新規法曹の質の懸念が各方面から指摘されている。

 ③ ここ数年は、現状の合格者(2200人)を目安とし、その後改めて検討すべきである。

 といったものです。

 ②はともかく、今でも新人弁護士の就職困難者が溢れている現状を日弁連執行部はどう思っているのでしょうか?弁護士を含め法曹の人口は、日弁連が勝手に決めて良いものではなく、社会のニーズに合わせて国民が決めるものでしょう。国民の方はアメリカのような訴訟社会になっても良いから弁護士数を激増して欲しいと本当に言っているのでしょうか?その証拠はどこにあるのでしょうか?

 国民が弁護士に頼みたくてたまらない、弁護士の順番待ちをしているという状態であれば、どの事務所にも仕事が殺到して大変になり、あらゆる事務所が新人弁護士採用したくてたまらないはずです。新人弁護士の就職難などあり得ません。新人弁護士の就職難は、国民がそこまで弁護士を利用しなくても良いと思っている、すなわち弁護士過剰の最大の証拠なのです。

 実際に訴訟件数は微増に過ぎず、しかもその内訳は過払い金請求が多くを占め、過払金請求以外の通常訴訟事件は大きく減少していると言われています。

 既に弁護士は、大幅増員されてきています。1950年頃には6000人にも満たなかった弁護士数は、次第に増加し、40年かけて1990年頃には13800人ほどになりました。その頃弁護士不足がさかんにいわれ、増員が次第に行われたこともあり、2009年3月1日時点では、約27000人となりました。

 弁護士不足が言われていた1990年頃と比べれば、現在の弁護士数は倍増しているのです。 

 それにも関わらず、更に倍増するほど弁護士数を増やす必要がどこにあるのでしょうか。国民の方々が、1990年頃に比べて、弁護士を活用される頻度が2倍になっているでしょうか?

 弁護士過疎地と目されていた各地の弁護士会からも、弁護士数激増に反対する決議が上がりつつあります。

 日弁連は、自分のメンツだけを考えて暴走しないでもらいたいと思います。

 登山に関する小説で、「本当のリーダーは、天候の悪化が予想される場合には、きちんと状況を見つめ、例え現時点で快晴で山頂が目の前にあったとしても、隊員の安全を考えて撤退を決めることが出来る決断力を持った人である」というような内容読んだことがあります。

 それを、一応みんなのために働きたいと言って選挙で選ばれ、リーダーを自認する方が、

「天気予報も聞かず、きちんと状況を見つめることもなく、天候が悪化しつつあることを分かっていながら(但しどれくらい悪化するかは想像できていない)、自分は重装備でベースキャンプという安全な場所に構えつつ、『ルートは俺が決めてやった。退路はないかもしれないが気にするな。後は頑張れ。』と、装備もない隊員達に山頂へのアタックを強行させる」

そんなことがあって良いのでしょうか。

 少なくとも提言の①はおかしいでしょう。③も現状維持ということは現状の悪化具合を容認することですから、問題が大きいはずです。

 この点について、弁護士武本夕香子先生が、日弁連会長宛に再考を促す意見書を作成して下さいました。読んで頂ければ、以下に日弁連執行部がやろうとしている提言が危険であるかがよく分かると思います(下記のURLよりダウンロードして下さい)。

ファイルをダウンロード

 わたしは、武本先生の意見書に賛同します。賛同者として名前を挙げても良いと仰る弁護士の方は、当職宛にEメール又はファクシミリでご連絡下さい。賛同者として載せて頂けるよう、私の方から武本先生にお伝えさせて頂きます。

誰かの願いが叶うころ~宇多田ヒカル

 決して大ヒットした曲、とまでは言えません。

 しかし、映画「CASSHERN」の主題歌として映画のラストに流れたこの曲は、言葉で簡単に説明できない程、観客の心を揺り動かしたのではないかとわたしは、思っています。

 非常に素晴らしい歌詞でもありながら、謎めいた部分もある歌詞です。

 少しだけ、この名曲の歌詞について考えてみました(あくまで私見です。宇多田ヒカルさんが全く違う解説をされていても、わたしの思いこみで書いていますので、ご了承下さい)。

 「自分の幸せ願うこと、わがままではないでしょ。それならあなたを抱きしめたい、出来るだけギュッと。」

と歌った後で、宇多田ヒカルは

 「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ。みんなの願いは同時には叶わない。」

という歌詞をつけています。

そして短い間奏の後、

 「小さな地球が回るほど 優しさ身に付くよ。もう一度あなたを抱きしめたい、出来るだけそっと。」

と歌って締めくくります。

 「出来るだけギュッと」が「出来るだけそっと」に変わっています。優しさを身につけ、自分中心に考えていた望みを捨て、相手にも配慮した希望へと変わっているように思います。あるいは、「あなた」を出来るだけそっと抱きしめた後、宇多田ヒカルは「あなた」のことを考えるあまり、大好きな「あなた」の元を去らねばならないという決意をしているのかもしれません。

 なぜなら、曲の中盤で、「自分の幸せ願うこと、わがままではないでしょ。それならあなたを抱きしめたい、出来るだけギュッと。」と自分の望みを切なく歌い上げる直前に、

「みんなに必要とされる君を 癒せるたった一人になりたくて 少し我慢しすぎたな」

という、今までの歌詞とはかなり口調が異なる歌詞が突然出てくるのです。

 これまで一人称で「わたし」・「あなた」で紡いできた歌詞が、突然その部分になると「君」となります。

 素直に考えれば、「わたし」・「あなた」で歌っているのは宇多田ヒカルです。歌の途中で急に「君」と言い換えたり、男性口調に換える必要はありません。そうだとすれば、この部分は、むしろ宇多田ヒカル本人を「君」とよべる存在から、宇多田ヒカルに対して向けられた詩であるように思われます。

 つまり、歌詞のこの部分は、「みんなに必要とされる君(宇多田ヒカル)を癒せる、たった一人であったはずの、当時夫であった紀里谷氏(映画「CASSHERN」の監督)が、宇多田ヒカルを大事にするが故に我慢しすぎていた」ということに、宇多田ヒカルが気付いてしまったことを表したものではないでしょうか。

 宇多田ヒカルは、自分を大事にしてくれているが故に、紀里谷氏が我慢しすぎていたことを知ってしまった。それでも、紀里谷氏が大好きだった、だから、「自分の幸せを願うことはわがままではないでしょ」と、歌い、「それならあなたを抱きしめたい、出来るだけギュッと」、と歌った。

 けれども、残酷であるけれども、「みんなの願いは同時には叶わない」のです。

 (もしかしたら、宇多田ヒカルは、紀里谷氏から、「このまま僕らの地面は乾かない」と言われたのかもしれません。この部分も若干歌詞に違和感を感じる部分です。) 

 だから、最後に、せめてもの望みとして、こう歌わざるを得なかった。

 「もう一度あなたを抱きしめたい。できるだけ・・・・そっと。」

 そしてそのことに宇多田ヒカルが気付くためには、地球が何度も回るだけの時間が必要だったのではないでしょうか。 

 宇宙全体から見れば本当に小さな地球です。宇宙を流れる時間に比べれば地球が回る時間など、そして私達の一生など、一瞬の出来事でしょう。しかし、優しさを身につけなければならない私達にとっては、地球が何度も回らなければならないほど、途方もなく長い時間がその道のりには必要なのかもしれません。

 その他にも、いろいろ想像できますが、とにかくこの素晴らしい曲を、一度お聞きになって下さい。そして、歌詞の内容について考えてみるのも、たまには良いのかもしれません。

民事法律扶助制度

 理不尽に権利を侵害された人が、裁判を起こそうとしたときに弁護士に依頼するお金がない場合があります。その場合に、いったん、弁護士費用を立て替えてくれる制度が民事法律扶助制度です。

 そもそも憲法で裁判を受ける権利が保障されていますから、その権利を保障するためにも、この制度は国民の方にとって大事なものだと思います。

 他方、政党助成法という法律があります。この法律は、議会制民主政治における政党の機能の重要性にかんがみ、国が政党に対し、政党交付金による助成を行うこととし(中略)、もって民主政治の健全な発展に寄与することを目的とする。とされており、その目的達成のために政党には政党交付金が交付されます。

 ここで問題です。民事法律扶助制度と、政党交付金はどちらがどれだけ多く国費が投入されているのでしょうか?

 おそらく多くのかたは、民事法律扶助制度は国民みんなのために直接役立つけど、政党交付金は何となく政党と国会議員だけが得しているような気がする。

 国会議員は衆議院480人、参議院242人だから、どれだけ政党や国会議員が大事と言っても、民事法律扶助制度にも同じくらいお金が出ているのではないか、と思われるのではないでしょうか。

 ところが・・・・・・。

 国民一人あたりの負担額にしてみると、

 民事法律扶助制度  国民一人あたり年間40円(日弁連新聞による)

 政党交付金      国民一人あたり年間250円(政党助成法第7条)

 なんと政党交付金の方が6倍以上も多くの国費が支出されているのです。

 政治にはお金がかかるというのも理解は出来ますが、いくらなんでも、民事法律扶助制度の6倍以上というのはいかがなものかと思います。

 しかも政党交付金により本当にクリーンな政治が行われるようになったのであればともかく、私には、西松建設事件に象徴されるように、従前とあまり変わらない、少なくとも目立ってクリーンな政治になったのかというと疑問があるように思われます。

 国民の方の権利保護に直接役立つはずの、民事法律扶助制度に対して、政党交付金と同じくらいお金を出してもらえれば、お金がなくて裁判が出来ず、泣き寝入りする人たちも減るのではないかと思うのですが、法律を作る立場の国会議員の方の多くが、政党交付金を受ける政党に所属している現状では、簡単ではないようです。

 どっちが国民のためになるのか、考える必要があるかもしれません。