司法試験に関する最近のマスコミ報道~その1

近時、日本経済新聞の社会面の記事(9月24日)、東京新聞(9月26日)の社説等で、司法試験制度の問題を主張する記事がよく出ている。

現在の司法試験を受験する資格を得るためには、多額の費用と2年以上の時間をかけて法科大学院を卒業しなくてはならない。つまり法科大学院を卒業しないと受験すら出来ないのが今の司法試験だ。

しかし、諸般の事情から法科大学院に通うことの出来ない人もいるだろうし、独学で十分な実力を身に付けることが出来る人も当然いる。そのような人に、司法試験を受ける途を残さないというのは酷だ。そこで、法科大学院を卒業したのと同程度の学識・応用能力・法律実務の基礎的素養があるかを判定する予備試験(司法試験法5条1項)が設けられている。

今年初めて予備試験ルートの受験生が司法試験を受験したのだが、問題は、その合格率があらゆる法科大学院を上回る圧倒的な合格率を示した点だ。法科大学院で最も高い合格率(対受験者合格率)を出した一橋大学法科大学院が合格率57.0%、法科大学院全体での合格率は25.1%のところ、予備試験組はなんと68.2%の合格率をたたき出した。

予備試験は司法試験を受験するための資格を与える試験だし、あくまで法科大学院卒業レベルの学識等があることを判定する試験だから(法律にそう明記されている)、法科大学院卒業レベルであれば合格させなくてはならないはずだ。
本当に、平均的な法科大学院卒業レベルの実力がある受験生を全て予備試験に合格させる運用を行っているのであれば、受験生のレベルは、予備試験ルートも法科大学院ルートも異ならないはずなので、両者の司法試験合格率と同程度に収まるはずだ。
しかし現実は上記の通り、司法試験合格率でみると25.1%と68.1%の数字から分かるように、圧倒的な差が開いた。

裏を返せば、予備試験は、あくまで法科大学院卒業レベルの学識等があることを判定する試験だから(法律にそう明記されている)、予備試験を実施する法務省が考えている法科大学院卒業レベルは、予備試験合格者レベルということにならなければおかしい。

だが現実には、予備試験ルートの司法試験合格率を上回る合格率を出した法科大学院はただの一校もなかった。
考えられる可能性は、少なくとも二つある。
ひとつは、法科大学院が、しっかり教育を実施し厳格な卒業認定をするという制度理念に反して、法務省の考える法科大学院卒業レベル(=予備試験合格者レベル)までの学識等が身についていない学生を安易に修了認定して卒業させている可能性(つまり、うなぎ屋の看板を出して金を取っておきながら、そのうなぎ屋はウナギすらさばけない店だった)。
もう一つは、予備試験に関して、法科大学院卒業レベルで合格させるという法律の明文を曲げて、敢えて、法科大学院卒業レベル+αの実力者しか合格させていない可能性(その、とんでもない、うなぎ屋を守るために、これ以上のうなぎ屋の開店を許さない)。

いずれも許されて良いことではないが、どちらの弊害が大きいかといえば明らかに前者だ。法曹全体の質の低下をもたらすからだ。

この点、司法試験で最低レベルは確認できているのではないかとの指摘もあるが、司法試験採点委員の採点に関する雑感を読んで頂くと分かるが、近時では、優秀でも良好でもない、一応の水準の当案を書く実力しかなくても合格者となる状況にあることが示されている。
つまり司法試験では、もう法曹としての最低水準の実力を図ることは出来なくなりつつあるのだ。だから法科大学院の機能不全は、法曹の全体的なレベルダウンに直結し、極めて大きな弊害をもたらしていることになるはずだ。

これは伝え聞いた話だが、予備試験の試験委員をされた弁護士の某先生は、予備試験合格者でも大したレベルではなかった、と仰っていたそうだ。
その感想が事実であるならば、大したレベルではない予備試験ルートの受験生に惨敗を喫した法科大学院は既に機能不全に陥いり、法曹の質をどんどん低下させている制度であると指摘されてもやむを得まい。

もちろん、私としても、法科大学院出身者でも上位の方は、当然優秀であることは否定しない。しかし法科大学院全体としてみるならば、全体として質の低い司法試験受験者を生み出しつつあるといわれても仕方がないのではないか。

いくら理念が素晴らしくても、それを実現出来ない制度なら意味がない。次々と崩壊していく社会主義国家だって、理念だけは素晴らしかったと評価する人はいただろう。

マスコミは、法科大学院の理念を生かせと何とかの一つ覚えのように連呼するが、その主張は、法科大学院が理念に沿った教育ができていることが前提であり、その前提が崩れていることを(故意かどうかは別にして)完全に見落としているように思う。

(続く)

ディクテーター~独裁者 身元不明でニューヨーク

(ストーリー)
ワディヤ共和国の将軍アラジーンは、力いっぱい独裁者である。アラジーンは、核兵器開発疑惑の釈明を求められ、国連サミットに出席するためニューヨークを訪れる。しかし、そこで何者かに拉致され、ヒゲをそられてしまう。その頃将軍の側近は、将軍の影武者を使い、裏で石油利権を狙う中国資本・石油メジャーなどと手を組んで驚きの民主化宣言をしていた。将軍の威厳を失ったアラジーンは、反撃の機会を狙い、スーパーの店員として潜伏することに。

多少下ネタも、不謹慎なネタもある、R15指定の映画だが、かなり笑わせてもらえる。しかも笑わせるだけではないところが良い。

アラジーン将軍は言う。

「アメリカが独裁国家になったらどうなる?」

「上位1%の富裕層が国の富を独占する。金持ちに減税し金融危機を引き起こした銀行を国税で救済する。庶民の教育費や医療保険は援助しないのに。囚人を拷問する。国民の電話を盗聴する。選挙で投票数を誤魔化す。国民に嘘をついて戦争を起こす。メディアは裏で1人の人物に支配され、国民の利益に反する投票を促す。誰も文句を言わない!」

民主主義国家を標榜するアメリカで実際に生じている病理現象をネタにした痛烈な風刺だ。独裁者は、現代では、1人の人間ではなく、民主主義の仮面をかぶり社会機構として命脈を保っている(若しくは復活しつつある)ということか。
民主主義の名の下に、独裁国家よりひどい状況が生じようとしているのではないか。それは民主主義という誰も非難できない外観を持つだけに、その裏に隠された残酷な状況を見過ごしているのではないか、そのような指摘をこの映画は押しつけがましくなく提示しているような気がする。

ニューヨークのスーパーでのアルバイトと恋愛経験によって、帰国後に良い将軍に変わってくれるのかと思えば、さにあらず。変に教訓的でないところも気に入った。

これだけ面白い映画なのに、関西地区では京都で1館、大阪・兵庫で2館ずつの上映。しかも、明日(21日)の上映で終わってしまうところが多そうなのが残念。

公式サイトは以下のURL

http://www.dictator-movie.jp/

司法試験合格発表に思う

先日、司法試験の合格者が発表された。合格者数2102名で、私の予想は外れてしまった。

昨年より若干増えたことが、新聞各紙で報道されていたように思うが、なんのことはない、従前の法科大学院卒業合格者数に、予備試験合格者数を加えた人数になっているようなものだろう。

ちなみに、予備試験合格者の合格率は、予想通り高く、最も合格率の高い一橋法科大学院を大きく上回っている。私は従前、「予備試験制度が新司法試験を受けても良いだけの基礎的素養があるか、つまり法科大学院卒業生レベルの素養が身についているか、を確認することを目的とする資格試験」でありながら、合格レベルをその目的に照らして異常なまでに高く設定しすぎではないかとの指摘をしてきたが(当職の2012年3月8・9日ブログ参照)、おそらくその指摘は正しいことが明らかになったのではないだろうか。

山岸日弁連会長は、司法試験合格者について会長談話を発表している。日弁連の提唱する1500人より多いことについて遺憾であると述べた点は評価できるが、予備試験について、「予備試験を経て今回最終合格した者の年齢、学歴、経歴などを踏まえ、予備試験が上記制度趣旨に沿ったものとなっているかどうかについて検証・分析がなされるべきであると考える。」と述べたことについては賛成できない。

(あくまで法科大学院側の自称だが)素晴らしいスタッフと設備を揃え、プロセスによる素晴らしい教育を行っていながら、予備試験組に惨敗した法科大学院の方こそ、多様な背景を持ちつつも優れた法曹を養成する、という制度趣旨に沿ったものになっているのか検証・分析すべき対象だろう。

余談になるが、今年、大阪弁護士会で、法科大学院に関して討論会がなされたときに、予備試験を批判する法科大学院賛成派に業を煮やして、私は、ちょっと嫌みになりますがと前置きして、「それなら、○○先生(法科大学院擁護派の大事務所の先生)の事務所では、予備試験出身の修習生を採用しないんですか?」と聞いてみた。
司会者の△△先生(法科大学院擁護派)が、「そんな問題じゃないでしょう!」と一喝してきたが、予備試験ルートではなく法科大学院ルートでなければと主張するなら、予備試験ルートの修習生を採用しないのが筋というものだ。

その後、「○○先生のところでも、予備試験ルートであっても、優秀でいい人なら採用するでしょ?」(○○先生頷く)「だったら、法科大学院が良いといってもその程度なんじゃないですか。」というやりとりになったと記憶している。その後の○○先生の反論もあったと思うがちょっと覚えていない(○○先生スミマセン)。

確かに、大阪弁護士会の極めて優秀な先生が法科大学院の教授になっているところもあり、私自身、その先生方の講義を聴けたらどれだけためになるかと思えるような魅力的な法科大学院もある。しかし、物事にはタイミングというものがある。上記の優秀な先生方の講義は、合格して、実務を少しかじってから聞くほうがはるかに理解しやすいと思うし、ためになるとも思う。おそらく未修者が聞いてもその先生方の講義の素晴らしさは理解できない可能性が高いのではないか。

今の制度のように、芽吹くかどうかも分からない田んぼ一面の籾の全てにお金をかけて(法科大学院で)育て、若葉になったらお互いの成長を妨げるほど群生していても間引きもせずに(大量合格者)、自己責任だからといって放置する(貸与制)方法と、旧司法試験制度のように、自力でしっかり成長してきた苗に十分お金をかけて育てる(給費制)方法とでは、優れた稲を育てる観点から見たときに、後者の方が圧倒的に効率がよいことは明らかだ。

元々出来もしないのに、田んぼ一面の籾全てを育てようとしている法科大学院には、何百億という税金が補助金として投入されているはずだ。明らかに税金の無駄遣いだ。また、法科大学院の学生の経済的負担も大きい。

他にもいろいろ突っ込み処はあるが、やっぱり、法科大学院という制度は、おかしすぎる。

明日、司法試験合格発表

明日の午後4時に今年の司法試験合格者が発表される。

司法試験合格者激増のため、昨年は、弁護士会の一括登録時において、司法試験に合格し司法修習を終了した弁護士志望者の約2割にあたる400名ほどが弁護士登録できない事態になっていた。
また、司法試験の採点雑感では、採点者から、優秀・良好・一応の水準・不良の採点基準で、「一応の水準」でも合格させているとの指摘があるほど全体としてのレベルダウンが指摘されている(法務省HPで平成23年の採点実感等に関する意見参照)。

総務省が合格者数目標数値(3000人)の見直しを勧告し、政府が司法試験合格者数目標数値を2000人に引き下げる方針であると報道された今年は、どれだけ合格させるのか興味深い。

それでも、私は、今年の合格者数は2000人弱くらいと予想する。

これまで3000人目標で合格者2000人前後(目標の約67%)だったことからすれば、2000人目標だとすれば、1350名前後でもおかしくはない。
しかし、そこまで合格者を絞れば、法科大学院・文科省が自らの教育の問題を棚上げにしてでも黙っていないだろうし、法務省にも、「だって合格させられるレベルにないんですから・・・」と断言する勇気はないだろう。

本来、一応の水準の答案しか書けないのに、司法試験に合格してしまうのはおかしい。しかし、政府の合格者目標数値があるから、法務省としては、仕方なく合格させている実態があるのだと推測する。

だが、私は実感として思うのだ。私は、受験開始3年目で2000番台には、入っていたはずだ。そこから合格するまで、丙案(若手優遇策)の犠牲者になったこともあり、7年かかった。合格してから振り返ると、2000番台の実力なんて、到底弁護士になるための基礎の基礎すら出来ていないレベルだった。

現在では法曹志願者が激減しており、実質競争率は下がる一方だ。このまま2000人程度の合格者を継続して、本当に法曹界は大丈夫なのか。競争による淘汰が出来ると主張する人もいるが、仮に淘汰が出来るとしても、淘汰はいつまでたっても終わらない。毎年大量に新人弁護士が生み出されてくるからだ。

法律事務所が新人弁護士採用の際に、司法試験の成績表を提出させることが多くなっているのも、司法試験合格が合格者の実力(法曹の最低限度の実力)を保証しなくなっていることの裏返しではないか。

いずれにしても、明日の合格者発表は注目だ。

とある少年事件の裁判官~その3

(昨日の続き)

ある窃盗保護事件の際に、私はこの詩を少年に読ませ少年の詩に対する感想を意見書に記載して提出した。

その審判の場で、裁判官は少年がこの詩に対して述べた感想に触れて、少年の反省を感じてくれようとしていた。
しかし、その裁判官は、それだけではなかった。

この詩を書いた少女が、この詩を一気呵成に書き上げたものではなく、先生から何度も何度も書き直しを命じられて、少女がそのたびに辛い思いをしながらかき上げた詩であること、先生としてはもう二度と、このようなことをして欲しくない気持ちから敢えて、何度も少女を事実と向き合わせ、書かせたものであることまでを指摘して、少年を諭したのだ。

有名な詩ではあるが、裁判官の方が、たまたまその裏側を知っていたとは考えにくい。おそらく、この詩を資料として提出を受けた後、その詩の背景まで調べた上で、その話をしてくれたのだろう。

私は、正直いって、その裁判官の熱心さに「負けた」と思った。しかし同時に、こういう裁判官もいてくれるのだと、嬉しく思った。

その裁判官とは、何度か審判でお世話になっている。私が担当した前の少年の審判のことも覚えておられて、「そういえば、○○君は元気でやっていますか」、などと少年の現状に気を配ってくれたりもする。
多くの少年審判に携わりながら、付添人だけではなく少年の名前まで覚えているとは、並大抵のことではない。

この裁判官のような方が増えてくれれば、もっと少年事件も充実したものになるのではないかと思う反面、あまりに多忙な裁判官の状況を聞くにつけ、心ある裁判官の方々がどこまで頑張って頂けるのか、少し心配でもあったりもする。

とある少年事件の裁判官~その2

「チューインガム一つ」という詩は、次のようなものだ。
内容は重いが、素晴らしい詩なので、引用しておく。

チューインガム一つ 3年 村井 安子
せんせい おこらんとって せんせい おこらんとってね わたし ものすごくわるいことした
わたし おみせやさんの チューインガムとってん
一年生の子とふたりで チューインガムとってしもてん
すぐ みつかってしもた きっと かみさん(神様)が
おばさんにしらせたんや わたし ものもいわれへん
からだが おもちゃみたいに カタカタふるえるねん
わたしが一年生の子に 「とり」いうてん
一年生の子が 「あんたもとり」いうたけど
わたしはみつかったらいややから いややいうた 一年生の子がとった
でも わたしがわるい その子の百ばいも千ばいもわるい
わるい わるい わるい わたしがわるい
おかあちゃんに そつからへんとおもったのに やっぱり すぐ みつかった
あんなこわいおかあちゃんのかお 見たことない
あんなかなしそうなおかあちゃんのかお見たことない しぬくらいたたかれて
「こんな子 うちの子とちがう 出ていき」 おかあちゃんはなきながら そないいうねん
わたしひとりで出ていってん いつでもいくこうえんにいったら
よその国へいったみたいな気がしたよ せんせい どこかへ いってしまお とおもた
でも なんぼあるいても どこへもいくとこあらへん なんぼ かんがえても
あしばっかりふるえて なんにも かんがえられへん おそうに うちへかえって
さかなみたいにおかあちゃんにあやまってん けどおかあちゃんは
わたしのかおを見て ないてばかりいる わたしは どうして あんなわるいことしてんやろ
もう二日もたっているのに おかあちゃんは まだ さみしそうにないている せんせい どないしょう
(「灰谷健次郎 子どもに教わったこと」角川文庫より)

私は、窃盗をした少年に、この詩を読んでもらって、感想を聞き反省への糸口をつかもうとすることがある。
この詩から何かを少年がつかんだ場合は、裁判所に提出する意見書に、この詩と少年の語ったことを記して提出したりもするのだ。

(続く)

とある少年事件の裁判官~その1

私は、儲かりもしない少年事件を飽きもせずにやっているが、これまで少年事件の裁判官については、正直言えば、幾人かの例外を除いて、失望せざるを得ない方もいた。

もちろん、弁護士は裁判官と異なり、何度も少年と会って話を交わすので少年に情が移りやすい。一方、裁判官は、通常、警察・検察の作成した法律記録(供述調書など)や、家庭裁判所調査官の作成した社会記録を検討した上で、審判で初めて少年と顔を合わせることになる。

だから、弁護士と裁判官とでは少年に対する入れ込み度は、随分温度差があってもおかしくはない。弁護士からすれば、もっと少年の良い面もあるのに、審判で裁判官のお話がそこまで届かなかった、と思う場面も少なくはない。

私は、窃盗を犯した子供達が、最初から喜んで窃盗をやっているとは思わない。何らかの理由があって、「他人のものを盗むなんて、やってはいけない」という気持ちを乗り越えて、あるいは自分に何らかの言い訳をして、その良心の壁を乗り越え窃盗に至るものだと思っている。

だから、最初の頃の罪の意識がまだあった自分を思い出してもらいたくて、いろいろな話をする。

「チューインガム一つ」という、初めて盗みをしてしまった子供の心からの後悔を綴った詩を読ませることもある。

(続く)