法務省も認める質の低下

 法曹人口問題PTで配付された資料ですが、次のようなものがありました。

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/minutes/wg/2007/0508_02/summary050802.pdf

 長文になりますが、是非一度お読み下さい。法務省の佐々木宗啓参事官(司法研修所の民裁教官も務められた方です)が、法曹人口を増加させるとしても質を落としてはいけない。一般の国民の方に害を与える危険が高まってしまう。現に相当質が落ちつつある。と警告されています。

 ところが、これに対して規制改革会議の大学教授達は、学者とも思えない揚げ足取り、非論理的な反論を浴びせています。ついには、「否認と抗弁の違いがわからなくても良い」「弁護士の資格なんてなくても良い」など、信じられない主張までしています。増員問題においては、弁護士を社会生活上の医師と位置づけているのですから、極論すれば、「医者は風邪と癌の違いがわからなくても良い」、「(競争させれば能力のある人が残るから)医師の資格なんてなくても良い」と言っているのと同じです。

 これではたくさんの弁護士を調査するお金と能力のある大企業や富裕層は被害を被ることはないでしょうが、一般の方々は被害を被ります。

 つまり、再びわかりやすくするために、お医者さんに例えて話しますが、どんどん資格を与えて自由競争させればいいという考えは、藪医者でも何でも良いからたくさん医師の資格を与えて競争させればいい。駄目な医者はつぶれるから問題ないじゃないか。という考えです。

 最低限のレベルが保証されていないのですから、ある人が病気になって病院を探し、そこの医者が医師免許を持っていても、その病院で診察を受けて大丈夫かどうか解らないということです。何人かの方が、その病院で不適切医療で被害を被り、その事実が次第に知れ渡った後で、初めてその病院が駄目だということが、みんなにだんだん解ってくるはずです。

 確かにそのような藪医者は、つぶれることになると思われますが、その医者がつぶれるまでに被害に遭ってしまったひとは救われるのでしょうか。またそのような被害を受けてまで自由競争させて欲しいと、本当に一般の方は考えているのでしょうか。

 私は疑問だと思います。

 彼ら(規制改革会議の大学教授連中)の言い分からすれば、とにかく市場原理が消費者のためになるという主張ですから、大学の教員だって、教授・准教授・助手・講師・非常勤講師、あらゆる教員に全て大学教授の肩書きを与えて自由競争させればいいことになります。

 後は学生の批判や研究業績の評価という市場原理で淘汰してもらえばいいのですから。市場原理を振り回す彼らの言い分からすれば、その方が学生・世の中のためになるはずです。

 彼らが、それでは大学教員全体のレベルが下がる、学生受けの良い教員だけが生き残る、教員のレベルを判断することが困難な学生が迷惑する、大学の自治が危惧される、というのであれば、弁護士の増員問題には、その趣旨の反論はもっと適合するはずです。

 大学教授と異なり、我々弁護士には、今現実に問題を抱え、解決を望む方が実際に来られているのですから。

Posted by sakano at 20:02  | パーマリンク |
2008年05月30日
日弁連総会

 本日、大阪弁護士会で日弁連総会がありました。

 これまで一度も出たことがないので、出てみたいと思っていたのですが、その日に法律相談と、当番弁護が当たっていたので、駄目でした。しかもこの日は総会に出るため出動可能な弁護士の方が少ないらしく、法律相談から帰ってみると、当番弁護を2件当てられてしまいました。

 1件は先ほどすませましたが、もう1件は、勾留質問の行われる裁判所から警察の留置場まで、まだ帰ってきていないようです。 裁判所も大変ですが、こっちも時間が取られます。

 結局、総会に出るために東京から来られた、同期の野村弁護士とお会いする予定だったのですが、それも駄目になってしまいました。野村弁護士とは大阪での刑事裁判修習中に同じ部に配属され、私は彼のことを「ノムさん」と呼びながら、もう一人同じ部に配属されていた藤澤さんと一緒に、とても楽しく修習させて頂いた記憶があります。

 ノムさんもブログをやっています。

http://nomura.asablo.jp/blog/

 結構いろんなことを考えている人です。会ってみるととても面白い方なので、今回お会いできなかったことがとても残念です。

教養選択

 大昔の司法試験の論文試験は7科目あり、憲法、民法、刑法、商法、訴訟法(刑訴・民訴いずれか)・法律選択科目・教養選択科目が、試験科目でした。その後教養選択が廃止され、法律選択がなくなって両訴選択とされた経緯はご存じのとおりです。

 (受験歴の長い)私は、教養選択科目で、心理学を受験科目として選択していました。法律科目と違って非常に面白く、受験科目中唯一のオアシス的な科目でした。

 ただ、その心理学を勉強中に、知覚心理学の分野で、もっと早く生まれていれば・・・とすこしだけ悔やんだことがあります。

 私は小学校に2キロの道を歩いて登校していました。雨天のときと下校時だけはバスに乗っても良いと親からいわれていました。寒い冬は、しもやけができて相当辛かったりもしたのですが、秋などはイガ栗を拾ったりして、意外に楽しかった覚えもあります。ところがある日、15分くらい歩いた後、登校途中の道でちょっと立ち止まってみると、道路が自分からどんどん遠ざかっていくように見えました。不思議なことだと思って、一緒に歩いていた姉妹にも教えたのですが、やはり同じように見えたようです。これは私としては非常な大発見だと思っていたのですが、そのうち忘れてしまいました。

 また、電車通学をしていた高校生のころ、踏切を見ていたときに、踏切の警報機の赤ランプが右左に移動して見えているけれど、これは右と左の赤ランプがそれぞれ点滅しているだけで、本当は移動も何もしていないことにふと気づきました。これも不思議だなと思ったのですが、そのうち忘れてしまっていました。

 私の記憶では、知覚心理学の分野では、前者は運動残効、後者は仮現運動というものだと説明されていたような気がします(間違っていたら済みません)。本で読んだときには、いずれも自分で既に発見していたものでしたから、もう少し早く生まれていれば発見者として名を残せたのに・・・・などと考え、残念な気がしたことを覚えています。

 法律選択科目以外に教養選択科目があったため、昔の司法試験合格者の方は、いろいろ特色があったように思います。 新司法試験にも選択科目はあるようですが、多様な人材が必要なら教養選択を入れてみたらどうでしょうかね。

不動産の即時取得??

 近時の司法修習生で、不動産の即時取得を主張した人がいたそうです。最初に聞いたときはまさかと思ったのですが、どうやら本当のようです。
 上記のミスは、通常では到底考えられない間違いであり、そのような受験生が合格してしまう最近の司法試験は(合格者の急増も含めて)、本当にこれで良いのか疑ってしまいます。

 ただ、法律をご存じではない方には、不動産の即時取得を主張するとは、どんなに、ひどいレベルなのかはおわかりにならないと思います。
 私の感覚として、この間違いのレベルをわかりやすく、お医者さんにたとえて説明しようとすれば、次のようなレベルだと思われます(現実にはこんなひどいお医者さんはいませんが、わかりやすくするためにお許しください。)。

☆ある日
 親    先生助けてください。うちの子が、熱を出しているのですが。
(藪)医師 どれどれ、うむ、これは風邪ですな。心配いりませんよ。熱冷ましを出しておきましょう。

☆その翌日
 親    先生、まだ子供の熱が下がらないのですが。
(藪)医師 む、これはいかん。すぐに手術しなければ。いいですな。
 親    そんなにひどいんですか。お願いです。先生、うちの子を助けてください。
(藪)医師 任せておきなさい。全力を尽くしましょう。

☆手術後
 親    先生、うちの子供、大丈夫でしょうか。手術は成功したのでしょうか?!
(藪)医師 全力を尽くしましたが、手術は成功とは言えません。手術ではこの病気は直せませんでした。・・・残念ながらこれが現代医学の限界です。
 親    そんな・・・・・。ただの風邪だとおっしゃっていたのに・・・・・。うちの子はもうだめなんですか?
(藪)医師 だから風邪を手術で治そうとしていたのです。あとでわかったのですが、風邪を手術で直すのは現代医学では無理だったのですよ。

 笑い話のようですが、即時取得は民事の基本法である民法の条文に明記されているものでもありますし、法学部でも物権法で必ず学ぶ基本中の基本です。それを一瞬でも勘違いするというレベルは、風邪を手術で治せると一瞬でも考えてしまう医師くらい、とんでもないレベルなのです。

 これまでの合格者の増員により、そのような方でも司法試験に合格することが可能となってきました。さらに増員すれば、もっとレベルダウンした方が法律家となってしまう危険性が高いと考えられます(もちろん優秀な方の存在も否定はしませんが、法律家の最低レベルがダウンすることは間違いないと思われます。)。

 恐ろしいことだと思いませんか?

小林先生からの御批判

 先日(5月20日)の私のブログ記事に関して、花水木法律事務所の弁護士小林正啓先生がご自身のブログで、批判を書いておられます。

http://hanamizukilaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_d270.html

 小林先生のブログは、綿密な検討に支えられた文章が素晴らしく、非常に読み応えと説得力のある文章が特徴です。実は私も増員問題に関する小林先生の記事は非常に参考にさせていただいています。
 

 小林先生も、私が述べたように「法律家を目指す方が減少し、優秀な方を法曹界に導くことが難しくなってきた傾向が顕著に表れ始めた」という結論には、(あくまで結論的にはという限定ですが)「『直感的』には正しいと思う」と、賛成して下さっているようです。ただ、私の主張は論理的ではないというのが小林先生の御主張です。
 小林先生は、私が新旧司法試験の合格率を引き合いに出したことを指摘し、その点に関し緻密に御主張を組み立てて批判しておられます。さすがに小林先生というべきで、非常に論理的且つ明快な反論をされておられます。

 ざっと見たところ私の方から、敢えて小林先生に反論できるとすれば、重箱の隅をつつくような反論しかできないように思います。それは、(入学時に新司法試験合格率5割の法科大学院に入れば、卒業時にも新司法試験合格率が5割であるという仮定等や、おおざっぱな計算は別として)、合格率の比較のために御主張された、(無理矢理新旧司法試験の合格率を比較するなら)旧司法試験の志願者に「遊び受験」と「滞留」の要素を加味して修正を加えようというお考えくらいです。

 小林先生のおっしゃる「遊び受験」要素の修正とは、そもそも競争に値しない者を含んだ合格率の算定は不正確であるので排除すべきだという意味だと思います。そうだとすれば、「遊び受験」とほぼ同様の実力しかない者が相当数法科大学院の学生に含まれていることは、私がブログで引用した司法試験委員会のヒアリング(「学生のうち、3分の1は箸にも棒にもかからない」)でも明らかですから、その情報が正しいのであれば、特に「遊び受験」の要素を過度に重視する必要はないように私には思われます。

 次に、小林先生の御主張される「滞留」要素の修正とは、新旧で司法試験の制度が違うので、旧司法試験では滞留の要素がなかったとして合格率を算定すべきとの御主張のようです。しかし、仮に考慮するのであれば、旧司法試験で滞留者がなければこれだけ合格していたはずだと、旧司法試験の合格率を計算上で高めるためだけに用いるのはフェアでないと思います。実際の受験回数3回以内の者の合格率は相当低かったわけですし、仮に滞留者を排除して、ずいぶん合格しやすくしていれば志願者も更に増大した可能性が高いからです。志願者が増えれば合格率は下がっていくはずです。

 (実際、旧司法試験時代には、合格の順番待ちとまでいわれる実力者が多数滞留していましたが、それでも受験生は年々増加傾向にありました。この現象はやはり、法律家の職業の魅力によるところが大きかったのではないかと、私には思えます。)

 ・・・・でも、あまりこのような子供みたいな反論ばかりしていると小林先生に笑われてしまうでしょうね。確かに、小林先生のおっしゃるとおり、制度が違う場合の比較は困難であることは事実です。

 ただ、法曹の魅力という数字では計れないものを主張する際に、100%論理的に主張ができるのかどうか、100%論理的にでないと他の方を本当に説得できないのか、については、私にはまだわかりません。

 私の主張は大抵、未熟なものではありますが、小林先生に今後ともご指導・ご鞭撻頂ければと思っていることを、この場を借りて、申しあげたいと思います。

月光

 時々帰宅する際に、鴨川に架かる橋から空を見上げます。時々、いい月が出ているときなどは、つい上を見ながら歩いてしまうことがあります。

 しかし、いくら京都といっても都会です。高原で見る夜空の月には、かないません。

 私は一度、秋の奥志賀高原の真夜中に、物凄い月夜に出会ってしまったことがあります。

 ほぼ満月だったのですが、標高1500mの澄み切った空気の中、雲一つない夜空に輝く月は、こういう表現が正しいのかわかりませんが、壮絶な明るさで、高原を照らしていました。

 誰もいない高原が、辺り一面見渡せ、木々の影さえ見えました。

 まるで、ひんやりと冷たい高原の空気、それ自体が、蒼い光を帯びているかのような明るさで、見渡す限りの高原を包んでいたのです。

 この空間を水晶の形に切り取って真っ暗な部屋に浮かべることができたら、どんなに美しいだろうか、柄にもなくそんなことを考えながら、しばし呆然と見とれてしまった私なのでした。

法科大学院志願者減少

 本日の主要新聞朝刊に、法科大学院の志願者が減少していることが報道されています。

 法律家を目指す方が減少し、優秀な方を法曹界に導くことが難しくなってきた傾向が顕著に表れ始めたのです。

 法科大学院制度の欠陥と合格者大量増員から、当然の結果というべきでしょう。

 この点、文科省は「新司法試験の合格率の低さが影響しているのではないか」と分析しているようですが、文科省が管轄する法科大学院をかばうためのまやかしに過ぎません。

 どんなに合格率が低くても、法律家が魅力的な仕事であれば志願者は増えます。昔の司法試験は合格率が2~3%でしたが、 試験制度をいじくった時を除いて原則として志願者の増加傾向は変わりませんでした。

 新司法試験は、合格率が旧司法試験から10倍以上に跳ね上がり、極めて合格しやすくなりました。それにもかかわらず新司法試験に挑戦し、法律家になろうとする人が減っているのです。

 これは、合格者の大量増員により職業としての魅力が失われてきたということが最も大きな原因です。つまり、無計画に合格者を増員した結果、新人弁護士の就職難が次第に報道され、合格者の大多数の進路となる弁護士の資格を手に入れても、食えない危険が高まったからです。

 そもそも、弁護士の仕事自体は、直接人の法的トラブルを解決するという点において、医師にも匹敵するくらい、人のお役に立てる場合がある職業です。仕事自体のやりがいは十分あります。

 しかし、その仕事が今後食えなくなっていく可能性が高い仕事であった場合、志願者は増えるでしょうか?どんな人であれ、仕事をして食べていかなければなりません。家族を養う必要もあります。それにも関わらず、いくらやりがいがあって、合格率が昔の10倍以上になったとはいえ、高いお金を出して法科大学院に進学しなければならず、既に就職できない者も存在しているのに、更に増員され、将来確実に過当競争になる仕事を目指す人が増えるでしょうか。

 答えは明白です。

 また、旧司法試験は学歴は一切不問でした。義務教育しか受けていない人であっても会社務めをしながら独学で勉強し、司法試験に合格しさえすれば法律家になることができました。しかし、今の法科大学院制度は、原則としてまず大学を卒業する必要があり、次に法科大学院に進学し卒業しなければならず、さらに合格後の司法修習も自費で行わねばならなくなります。お金のない人は非常に多額の借金をして法律家を目指さなければなりません。

 富裕層の子弟であれば、学費はそう心配いらないでしょうから、合格率が上がったというメリットだけを享受できる制度です。しかし、そうでない方にとっては非常に法律家になることを困難にする制度、それが法科大学院制度なのです。

 さらに、文科省の責任として、法科大学院自体をあまりに多数認可しすぎた事実があげられるでしょう。もともと法科大学院制度は、①多数の志願者から厳選された法科大学院生をきっちり教育し、②厳しく卒業認定をし、③その卒業できた者を合格率の高い新司法試験で最終的に選抜するという計画だったはずです。

 ところが、各大学が法科大学院を売り物にして学生を呼び寄せようと考え、文科省が無計画に認可をしたため、多数の法科大学院が乱立することになりました。そのため、たいした競争もなく法科大学院に進学できるようになり、①の多数の志願者から厳選されるという第1段階の競争が全く働かなくなりました。また、あまりに多数の法科大学院が乱立したため旧来の司法試験合格者レベルすら知らない学者教員が、学生を教育することになり、どのレベルまで教育すればいいのかわからない状態で見切り発車したのです。

 さらに、②の厳しく卒業認定をするという第2段階の競争も有名無実化しています。日弁連法務研究財団に対する司法試験委員会のヒアリングによっても次のような指摘があります。

 ・例えば、学生のうち、3分の1くらいは箸にも棒にもかからないという先生が多い。にもかかわらず不可の比率が多くないということはかなり問題なのではないかなという気がする。

 ・新司法試験の考査委員からヒアリングを実施したところ、基本的理解ができていなかったというような指摘があった。

 結局、これまで大学で多数落第させる文化がなかった日本では、本来出来の悪い学生を落第させなければならない法科大学院でもその文化的影響を受け、落第させることができなかったということです。つまり、②の厳しく卒業認定するという、第2段階の競争も実質上は無意味となっているということです。

 ③に関していえば、次のように言えます。本来、①の法科大学院の入口で、次に、②の法科大学院の出口で、競争で勝ち抜いたものだけが受験できるはずであったのが新司法試験でした。しかし、①・②の競争が実質上あまりに緩やかで殆ど競争させなかったため、受験者数が増加し、結果的に合格率が下がったということなのです。それは、文科省の無計画な法科大学院認可と相俟って、当然生じた結果なのです。

 つまりこの新司法試験の合格率の低下は、無計画な法科大学院を認可した文科省と、きちんと教育・卒業認定をしなかった法科大学院が自ら招いた失敗です。

 ところが、文科省も法科大学院も自らの失敗を認めようとせず、合格者を増やせば解決すると主張します。

 文科省や法科大学院のいうことは本当でしょうか?

 仮に、更に合格者が増えると、競争が緩くなるので、これまで何度も指摘してきたように更に合格者のレベルはダウンします。それはつまり信用できない法律家がどんどん世の中に出ていくということです。これからは、富裕層や大企業のように資力や調査能力のある資産家はその力でよい弁護士を捜せるでしょう。しかし、そのような手段を持たない一般の方々は、今までのように資格があるから大丈夫だろうと、弁護士を信頼することはできなくなります。

 そうなれば、更に司法に対する信頼が失われ、人々は司法制度を利用しなくなります。そうなれば、更に法律家は食うに困り、職業としての魅力は失われていきます。そうなれば、更に法律家を目指す人が減り優秀な人材が法曹界に来なくなります。そうなれば、優秀な法律家が生まれなくなるので更に司法に対する信頼が失われます。

 そうなれば・・・・・・・・・結局、得する人と損する人は明らかだと思います。

平和劇場のこと

 私の出身地である、和歌山県太地町はわずか人口3~4000人の小さな漁師町ですが、その町にも、昔は映画館がありました。

 私のおぼろげな記憶ですが、名前は「平和劇場」であり、木造で外壁がコールタールでも塗ったかのように黒く、「平」「和」「劇」「場」と一文字ずつの四角い看板がその黒い外壁にかかっていた覚えがあります。館内は床がはがれて一部土間のようになっており、椅子は固いかスプリングが駄目になっていてへたっているかいずれかで、天井には大きなファンがいくつかゆっくりと回っていたはずです。

 映画が上映されはじめると、青白い光の束の中を、誰かのたばこの煙がゆっくりと立ち上っていくのがよくわかりました。売店もあり、そこでラムネを買って外に持ち出し、お店に返さなければならないビンを外で割って、中のビー玉を取り出して自分のものにした記憶があります。本当はいけないことなので、当時の私には、背徳の遊びであったのでしょう。ドキドキしたことだけは何故か鮮明に覚えています。

 私の両親などは、平和劇場をよく覚えており、西部劇などで悪漢が主人公を拳銃で狙っているシーンになると、「あっ、わるもんが狙ろとろで。気ぃつけやなほれ(悪人が狙いをつけているので、気をつけなさい)。」と主人公に大勢の人が一斉に大声で注意する、主人公のピンチに騎兵隊が助けに現れると割れんばかりの拍手が巻き起こる、というのが普通だったそうです。

 私はその映画館で、ゴジラやガメラのシリーズを見たと思うのですが、あまり映画の内容自体の記憶は、はっきりとしません。そして平和劇場は、私が幼稚園の頃に閉鎖になってしまいました。今では、跡地はスーパーマーケットになっています。

 今も、実家に帰った際に近くを通ると、「平和劇場」があったことを思い出します。しかし、私が大きくなったからなのか、私の記憶が間違っているからなのかわかりませんが、こんなに小さな敷地に映画館があったのかと思うほど狭い場所に感じられます。それと同時に、私達の両親の時代の人たちのように心から映画の世界に入り込んで楽しむことができていない自分が、少し損をしているような気がしてしまいます。

公的刑事弁護費用の比較

 弁護士の担う、公的な活動の一つとして最も知られているのは、国選弁護などの公的な刑事弁護です。

 この公的刑事弁護にかかる日本の予算は96億円です。これに対し、

 アメリカは5100億円、イギリスは2600億円、フランスは130億円、ドイツは145億円だそうです。

 国民の数が違うので、国民一人あたりの一年間の支出額に直してみると、

 アメリカは、1781円、イギリスは4353円、フランスは220円、ドイツは176円です。

 これに対し日本はわずか76円です。

 欧米並みに、法曹人口を増加させろとの主張は、欧米のような大きな司法制度を作っていくということですから、法曹人口は増やすが司法の予算も増やすということが大前提でした。しかし日本では司法予算は殆ど増大していません。国選弁護等の報酬を時給換算しても、参考数値ですが、日本の国選弁護の時給は欧米の半額以下であることが報告されています。

 このように公的弁護に関して日本の弁護士は、世界平均の半額以下の時給ですから、国選弁護をする弁護士はその仕事に関して、国際的水準から見れば半分以上自腹を切ることになります。つまり、国際的に見ても半分以上はボランティアと考えられる程、報酬の少ない国選弁護の仕事を、自らの使命に鑑みて耐えてこなしてきたと言うべきなのです。

 一方で「法曹人口を欧米並みにして競争させればいい、食えない弁護士がでても良いじゃないか」と言いながら、他方では「予算は出さないが(弁護士は食えるだろうから)、国選弁護をボランティア的に欧米の半額以下でやれ」と言うことは明らかに矛盾しています。

 規制改革会議のお偉い大学教授の先生方は、すぐに欧米並みの法曹人口を連呼されますが、司法予算が増加しない現実を意図的に無視してお話をされているようで、片手落ちと言うしかない議論をされていることが殆どのように思われます。

法曹人口問題PTその5

法曹人口問題PT(プロジェクトチーム)の第3回会議が行われました。今後に向けて、様々な手続に関する時間的制約があることから、毎週会議が設定されています。今回は約300ページの参考資料が配付されました。次回までにある程度目を通さなくてはなりません。

 また、PTでは、会議の場だけではなく、Eメールでも情報のやりとりや、議論が交わされています。私は、増員反対の立場の中でも、かなりきつく意見している方に分類されているようです。

 多くの大先輩の方々がおられるので、もう少し穏やかに進行させるべきなのかもしれませんが、私の感覚では、もはやこの増員問題は非常に危機的な状況にまで来ていると思われるので、敢えて言いたいことを歯に衣着せず、主張させて頂いています。

 私の暴走気味の発言にも関わらず、決して軽視することなく対応して下さるPTの諸先生方には、本当に頭が下がる思いですし、錯綜する議論を上手にまとめて進行させていく、佐伯照道座長や、副会長の諸先生方はさすがだな、と感じることも度々です。

 しかし、どうしても感じてしまうのは、やはりこれまで経済的に成功してこられた大先生方は、若手の危機感について、(理解しようと努力しておられるのでしょうが)若手と同程度の危機感を持つのは難しいのだということです。

 人間はどうやっても、判断をする際に自らのこれまでの経験に基づいて判断をしてしまうことが殆どです。

 他人の様子から、その方の痛みを想像することは可能でしょう。しかし、他人の本当の痛みを知るには、実際には不可能でしょうが、その他人と同じ境遇に陥ってみるか、同じ傷を負ってみるしか手段はないのではないでしょうか。

 だからこそ、増員問題について、現に痛みや危機感を持つ方々のご意見が必要ですし、重要だと思うのです。

 法曹人口問題PTでは、5月13日に、法曹人口問題に関するアンケートを、大阪弁護士会の会員に配布しました。アンケートに対する回答という限られた手段ではありますが、痛みや危機感を感じておられる方のご意見を、少しでもリアルに伝えていけるチャンスではないかと思います。

 お忙しいとは存じますが、是非ともアンケートにご協力頂けると幸いです。

子スズメのこと

 小さい頃実家でチャボ(小型の鶏)を飼っていたためか、空への憧れがあったためか、鳥インフルエンザの恐怖にもかかわらず、私は結構、鳥類が好きな方です。
 これまで、巣から落ちた四十雀(シジュウカラ)のヒナや、台風の時に強風で琵琶湖の湖畔の道路に落ちていたユリカモメ等を、拾った経験があります。

 いずれも救助したつもりでした。

 ユリカモメの方は、手近な警察に届けたところ滋賀県の保護鳥でもあったらしく、回復後に滋賀県の森林公園に放されたとの連絡を頂きました。
 ところが、シジュウカラの方は、京都市動物園に届けたのですが、後日、「衰弱が激しく、手当のかいなく、死亡しました。」との悲しい連絡が来てしまいました。

 その後、日本野鳥の会などが、「巣から落ちたヒナを拾わないように」とのキャンペーンを行っていることを耳にしました。様々な理由から、生まれて間もない場合、ケガをしている場合を除いて、ヒナを拾うことは決して良いことではないようなのです。
 私は、猫やカラスに襲われると可哀相だと思って助けたつもりだったのですが、必ずしも、ヒナのためにはならない場合もあったようです。

 ところが、先日、足下でぴいーぴいーと、小さな鳴き声が聞こえました。おかしいと思ってあたりを見ると、歩道の脇にスズメのヒナが、落ちていました。まだ、誰にも気づかれていないようです。上を見上げると親鳥と思われるスズメが、落ち着かないように行ったり来たりしています。
 私が、どうしようかと思って、ヒナを見たところ、ヒナは慌てて歩道から人家の玄関脇までヨチヨチと歩いて逃げました。相当、人が怖いようです。ここで拾っても、ヒナにストレスを与えてしまい、ヒナのためにならないかもしれません。私は、日本野鳥の会などのキャンペーンを思い出し、その場所が自転車や人に踏みつけられる場所ではないことを確認した上で、かわいそうに思う気持ちをぐっと押さえつけ、その場を立ち去りました。振り返ると自分の気持ちに負けそうだったので、意識して振り返らないようにしました。

 しかし、果たしてそれで良かったのか今でもわかりません。ひょっとしたら保護して動物園に届けた方が良かったのではないか、と考えてしまうこともあります。

 無事に成鳥になってくれればいいのですが。