弁護士資格(ブラック資格)の記事

 月間プレジデントを発行している、(株)プレジデント社が、4月1日にインターネットで、息子と娘に勧めたい「10年後のバラ色職種」という記事を公表していることを知った。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150401-00014892-president-bus_all.view-001#contents-body

弁護士資格は取得難易度ナンバーワンだが、収入が医師のほぼ半分程度ということなどから、おいしくない資格に分類されている。

まあ当然かもしれない。

事件は減少しているが、しかし、資格保持者は激増の一途をたどり、収まる様子も見られない。司法制度改革顧問会議も、食うことに困ることのない方々ばかりが、理念・理想だけを好き勝手に語るだけで、現状を全く見ていないようだ。

弁護士の年収は平均値・中央値ともここ8年で半減している。そのような資格を、誰が莫大な時間と費用をかけて取得しようというのだろうか。

プレジデントの記事で、なるほどと思えたのは、一覧表の中で弁護士(ブラック資格)と明記してくれた点である。

 法科大学院関係者である学者や、法科大学院に利権を持つ弁護士、受験生が減少すれば困る予備校などが、未だに声高に弁護士資格の魅力を語っているが、バイアスのかかったポジショントークに過ぎない。どうして、仕事も減少し、収入がここ8年で半減している職業に魅力があると言えるのだろう。納得のいく説明ができるはずがないことは、小学生にだって分かるはずだ。

どんなにやり甲斐のある仕事を可能とする資格でも、リターンが今後見込めず、しかしその取得に莫大な時間と費用の投資を必要とする資格を、賢い人間が目指すはずがない。先を見通すことのできる人が弁護士に向いているであろうにも関わらず、先を見通すことのできる人ほど弁護士を目指さなくなっているはずだ。

未だに、客観的事情に目をつむり弁護士資格の魅力を語り続ける偏った方々は、月間プレジデントを買って100回読んで、さらに記事を煎じて飲むくらいしないと、偏りが直らないんじゃないのかなぁ。

こんなこと言うのも何だけど・・・

仕事柄、男女間の揉め事をいくつも見てきた。

その経験から、やはり揉め事に関しても男と女は違う傾向があるように感じる。

あくまで、私から見た一般論で個々の事例にそのままあてはまるとは決して言えないが、離婚等の案件について女性には次のような傾向があるように感じることがある。

つまり、女性は、まず我慢する。私から見ても凄いなぁと感じるくらい、我慢できるまで我慢する方が多い。しかし、我慢が限界を超えると、手のひらを返したように冷たくなれる傾向があるように思える。凄い人になると、「あの人と一緒になったのは一生の汚点」、「あの人が吐いた息がこの地球にあると思うだけで嫌だ。」というところまで言えたりする。

一方、男性はそこまで鮮やかに変身できない傾向にあるように思う。すでに女性が男性に愛想を尽かし、できるだけダメージを与えてやりたいと考えているように見える場合でも、「ちょっとそこまでは・・・」等と煮え切らない方が多いように思う。また女性の不満に対して気が回っていないことも多い。根源的に空気が読めない傾向があるのかもしれない。

どんなにつらそうでも幸せに暮らしているカップルはいるし、美男・美女で経済的に恵まれていても争う夫婦もいる。

結婚式の際に、神父さんが、神様が巡り合わせた2人であると祝福することは多いが、今の世の中、神様がついお間違いになった場面も多そうだ。

もちろんうまくいっている夫婦が弁護士に相談に来るわけがなく、修羅場寸前のご相談が多いわけだが、大恋愛で結婚しながら些細なことが許せなくなってとことん争う状況まで至っているご夫婦を見ると、男女関係には男女が一緒になれた時点で、それだけで正解になる状況なんてないんだな、と感じざるをえない。

結果的にうまくいった男女関係が正解だったんだ、という、男女関係~結果論(?)が、本当かもしれないと少し感じたりもするときがある。

法科大学院雑感2

(前回の続き)

 さて、現在、法科大学院の統廃合がなされつつあるが、思いだして欲しい。
法科大学院には「法の支配を隅々まで」を標榜して、法科大学院の全国適正配置という理念もあったのではなかったか。
 現実には、撤退する法科大学院が相次ぎ、さらに補助金カットなどで更に増えると見込まれる。
 しかし私は言いたい。
 かつて、いみじくも、法科大学院維持論者の某大学教授が、成仏理論なるものを唱えていたではないか。

(成仏理論~要旨)
 問題の捉え方がそもそも間違っている。食べていけるかどうかを法律家が考えるというのが間違っているのである。何のために法律家を志したのか。私の知り合いの医師が言ったことがある。世の中の人々のお役に立つ仕事をしている限り、世の中の人々の方が自分達を飢えさせることをしない、と。人々のお役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう。飢え死にさえしなければ、人間、まずはそれでよいのではないか。その上に、人々から感謝されることがあるのであれば、人間、喜んで成仏できるというものであろう。
(ここまで)

 そもそも、法科大学院だって世の中にお役に立つために始めたものではないのか。まさか少子高齢化の中、大学経営のみを見据えて法曹志願者から金銭を、国民から税金を、それぞれ巻き上げるために法科大学院制度を設計したわけではあるまい。
 だとすれば、法科大学院が撤退を考えることも、成仏理論からすれば問題の捉え方がそもそも間違っていると言えはしないか。
 成仏理論によれば、世の中のお役に立つ仕事を法科大学院がしてさえいれば、法科大学院だって世の中の人々が飢えさせることはないんじゃないのか。飢え死にさえしなければ、法科大学院だってまずはそれでよいのではないか。その上、人々から感謝されることがあるのであれば、法科大学院だって喜んで成仏できるはずだろう。

 (成仏理論が正しければ)全国適正配置を含めた法科大学院制度の理念が正しく、世の中のお役に立っているのなら、撤退なんかしなくたって、法科大学院は成仏できるはずである。

 先ず隗より始めよとは、古今の名言。
 他人に成仏を説く前に、成仏理論を提唱した方、その成仏理論を提唱した方が維持を叫んでいる法科大学院から先ず、成仏してみせてもらいたいものだ。

(この項終わり)

法科大学院雑感

「法科大学院によるプロセスによる教育という理念は正しいので、法科大学院制度を維持すべきだ」と未だに主張される人がいる。

 プロセスによる教育とは、そもそも何のことか、どうしてプロセスによる教育でなければならないのか、少なくとも私は、何度か法科大学院維持論者に問うたけれども、誰かに明らかにしてもらえたことは一度もない。皆さん、口を揃えて「プロセスによる教育が大事」と繰り返されるだけで、その中身を分かりやすく説明してくれない(できない?)ようなのだ。

 仮にプロセスによる教育が、「実務家と一緒に実際の事件に触れつつ教わる、手間暇かけた教育を受けること」と仮定するなら、そんなの司法研修所での司法修習と変わりはしない。むしろ、司法修習の方が密度が濃い教育を受けられるはずだ。なぜなら、教育を受ける側のレベルが一定レベル以上であることが保証されているからだ。

 つまり旧司法試験制度は、司法試験に合格するだけの実力をつけてきたものを選抜して、その上で一定レベル以上の知識と能力を有する修習生に、手間暇かけたプロセスによる教育によって、法律実務を教えてきたのだ。
 一方、法科大学院制度は、司法試験に合格する前の、どれだけ実力がつけられるかさえ未知数の多くの法科大学院生に対して、まず手間暇かけた教育を施してみようというものである。

 いずれの教育にも、国民の皆様の貴重な税金が投入されている。効率性から見れば、法科大学院制度は完全な税金の無駄使いの制度である。手間暇かけた教育を施しても、法曹になれるだけの実力を身に付けられない場合は、その教育に投入した税金は無駄金になりかねないからだ。

 一方、旧司法試験に対しては、金太郎飴答案、暗記重視のテクニック優先で合格できた、などと非難する人もいる。しかし、ある法律問題について、法律家が解決策を検討した際に、妥当な結論はおのずとある範囲に絞られてくる。答案の内容が似てくることは必然とも言えるのだ。またそうでないと困るだろう。同じ内容の事件の判決が裁判官によって結論がまちまちだとしたら、とても恐ろしくて裁判などやってられない。
 また、旧司法試験は暗記だけで合格できたものではない。もちろん重要条文・重要論点・重要判例を、それぞれ内容を十分理解した上で暗記することは、必須だった。しかしそれは、物理や数学を解くのに公式を理解して暗記するのとなんら変わらない。そして、論文試験に関して言えば、暗記だけで合格できる問題は、旧司法試験では出題されていなかった。重要論点のように見えて少しひねっていたり、重要判例に見えて少し事案を変えていたり、暗記だけで対応できないようかなりの工夫がなされていたからである。
 大学入試ですら、暗記だけで合格することは不可能である。東大・京大など定評のある大学の入試問題には、暗記力ではなく、思考力を試す問題が出されていると評価されているはずだ。
 万一、旧司法試験が暗記だけで合格できる問題であったと評価するのであれば、それは、大学入試でもできる思考力を試す問題を作成していないことになるから、出題者の怠慢以外、なにものでもないだろう。

(続く)

馬鹿馬鹿しいお話しを一つ・・・

 現在の日弁連会長の任期がほぼ1年残っている現状で、気が早い話と思われるかもしれないが、次期日弁連会長選挙を見据えた戦いが大阪で始まっている。

 なんでも、次期日弁連会長は大阪弁護士会選出の候補がなると目されている(次は大阪の番)こともあって、大阪弁護士会内ではその前哨戦が始まっているように見える。
 実質上、名乗りを上げている状況にあると目されているのは、いずれも大阪弁護士会で会長を勤めた経験を持つK先生とN先生だ。もし大阪で調整がつかず、日弁連会長選挙にK先生、N先生とも立候補などした日には、眠れる虎の髙山派に会長の椅子をさらわれるおそれもゼロではない。そこを牽制してか、大阪で日弁連会長候補を一本化できない場合は、東京からも候補を出すとの情報もあり、大阪で一本化できるかどうかはかなり大きな問題となりそうだ。

 とはいえ、まだ選挙期間中でもなく、事前の選挙活動は選挙規定の違反になるだろうから、面と向かっては選挙活動はできない。○○の会などを立ち上げて賛同者を募っていくのが、実質上の選挙活動となる。K先生・N先生両陣営とも、例にもれず、○○の会が出来上がっている様子だ。

 以前、日弁連会長選挙の際に山岸候補(後に会長当選)が、「弁護士未来セッション」なる団体を立ち上げ、豪華なパンフレットを全会員に配り、目立つホームページを掲げて、「活動する」と宣言していたが、結局、山岸氏当選後は、私の見る限り何にもしてくれなかった。餅を絵に描いただけで、終わってしまった。
http://www.idea-law.jp/sakano/blog/archives/2011/09/16.html

 本気で弁護士の未来を心配してくれていたのなら、弁護士を取り巻く環境がさらに悪化している現在では、弁護士未来セッションは、なおさら活動してくれていなければならないはずだが、今は、弁護士未来セッションのホームページすら見当たらない。

 あまり会員を馬鹿にしすぎていると、どっかでツケが回ってくると思うんだけどなァ。