法科大学院雑感

「法科大学院によるプロセスによる教育という理念は正しいので、法科大学院制度を維持すべきだ」と未だに主張される人がいる。

 プロセスによる教育とは、そもそも何のことか、どうしてプロセスによる教育でなければならないのか、少なくとも私は、何度か法科大学院維持論者に問うたけれども、誰かに明らかにしてもらえたことは一度もない。皆さん、口を揃えて「プロセスによる教育が大事」と繰り返されるだけで、その中身を分かりやすく説明してくれない(できない?)ようなのだ。

 仮にプロセスによる教育が、「実務家と一緒に実際の事件に触れつつ教わる、手間暇かけた教育を受けること」と仮定するなら、そんなの司法研修所での司法修習と変わりはしない。むしろ、司法修習の方が密度が濃い教育を受けられるはずだ。なぜなら、教育を受ける側のレベルが一定レベル以上であることが保証されているからだ。

 つまり旧司法試験制度は、司法試験に合格するだけの実力をつけてきたものを選抜して、その上で一定レベル以上の知識と能力を有する修習生に、手間暇かけたプロセスによる教育によって、法律実務を教えてきたのだ。
 一方、法科大学院制度は、司法試験に合格する前の、どれだけ実力がつけられるかさえ未知数の多くの法科大学院生に対して、まず手間暇かけた教育を施してみようというものである。

 いずれの教育にも、国民の皆様の貴重な税金が投入されている。効率性から見れば、法科大学院制度は完全な税金の無駄使いの制度である。手間暇かけた教育を施しても、法曹になれるだけの実力を身に付けられない場合は、その教育に投入した税金は無駄金になりかねないからだ。

 一方、旧司法試験に対しては、金太郎飴答案、暗記重視のテクニック優先で合格できた、などと非難する人もいる。しかし、ある法律問題について、法律家が解決策を検討した際に、妥当な結論はおのずとある範囲に絞られてくる。答案の内容が似てくることは必然とも言えるのだ。またそうでないと困るだろう。同じ内容の事件の判決が裁判官によって結論がまちまちだとしたら、とても恐ろしくて裁判などやってられない。
 また、旧司法試験は暗記だけで合格できたものではない。もちろん重要条文・重要論点・重要判例を、それぞれ内容を十分理解した上で暗記することは、必須だった。しかしそれは、物理や数学を解くのに公式を理解して暗記するのとなんら変わらない。そして、論文試験に関して言えば、暗記だけで合格できる問題は、旧司法試験では出題されていなかった。重要論点のように見えて少しひねっていたり、重要判例に見えて少し事案を変えていたり、暗記だけで対応できないようかなりの工夫がなされていたからである。
 大学入試ですら、暗記だけで合格することは不可能である。東大・京大など定評のある大学の入試問題には、暗記力ではなく、思考力を試す問題が出されていると評価されているはずだ。
 万一、旧司法試験が暗記だけで合格できる問題であったと評価するのであれば、それは、大学入試でもできる思考力を試す問題を作成していないことになるから、出題者の怠慢以外、なにものでもないだろう。

(続く)

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