これでいいのか?日弁連法曹人口検証本部。

ずいぶん昔にブログに書いた記憶があるのだが、次の簡単な問題を考えて頂きたい。

 ある船に4万人が乗っていた。
 今年1500人乗船し、500人が下船した。
 船に乗っている人の数は増えただろうか、減っただろうか?

 さらにその翌年、同じ船に1000人乗船し、500人が下船した。
 船に乗っている人の数は増えただろうか、減っただろうか?

 答えはいうまでもなく、今年も、その翌年も、その船に乗っている人の数は増えている。
 こんな簡単な問題、馬鹿にするのもいい加減にしろ、と仰る方も多いだろう。

 ところが、同じ問題を司法試験合格者として考えて見ると、この簡単な問題の答えを誤る人が続出するのだ。

 よく司法試験合格者を減らせば、弁護士数(法曹人口)も減少してしまうから、合格者を減らすべきではないという議論を、マスコミや学者から聞いたことがある人も多いと思う。

 しかし、その議論は完全な間違いだ。間違いと知って、敢えて上記のように主張しているのなら、誤導であってさらに罪深い。

 つまり、長年司法試験合格者数は年間500人程度だった(少なくとも平成3年度あたりまで)。そのうち裁判官・検察官になる人を除き、弁護士に300人ほどがなっていたと仮定すると、平成3年に合格し平成5年頃に法曹になった人でも、まだ30年弱程度しか働いていないから、毎年弁護士をやめていく人の数は、おおよそ300人程度と考えることができる。

 仮に今年の司法試験で1500人が合格し、1300人が弁護士になるとすると、弁護士数の増加は1300人。
 今年1年で換算すると、1300人増加し、300人やめるから、年間1000人の弁護士の増加だ。

 では、来年の司法試験合格者を1500人から1000人に減らすと弁護士数は減るのだろうか。

 つまり、司法試験に1000人合格し、そのうち裁判官と検察官になる人を除き800人が弁護士になるとすると、弁護士数は減るのだろうかという問題だ。
 前述したとおり、毎年弁護士をやめていく人の数はおおよそ300人程度と考えることができるから、来年1年で換算すると、800人の弁護士が増加し、300人やめる。

つまり、500人の弁護士が増加するということだ。

 確かに、司法試験の合格者を500人未満にすれば、ほぼ弁護士数は横ばいから減少に転じるだろうが、現在1500人程度の司法試験合格者を1000人に減らしたところで、弁護士数は増え続けるのである。

 ところが、弁護士業をやめる弁護士数を隠したまま、司法試験合格者を1000人に減らせば弁護士数が減ってしまうと主張されると、何となくそうかな~と思えてしまうところが、マスコミや学者の狡いところだ。

 現在、日弁連で法曹人口検証本部が、法曹人口の検証を行っているが、その第6回全体会議取りまとめにおいて、某K副本部長が、上記と同じ誤導を含んだ所見を述べている。

 ご紹介したいが、会員限りの資料なので公表ができないのが残念だ。

 とはいえ、弁護士の方なら、アクセス可能な情報なので、一度確認された方が良いだろうと私は思う。

 K副本部長が冒頭の簡単な問題を誤答するレベルの思考力しかないとは考えにくいから、おそらくK副本部長、そして日弁連執行部は、誤導をしてまで司法試験合格者の減少を阻止しようと考えているのだと思われる。

 合格者増加により、弁護士資格の価値は相当下落している。今の現状を踏まえて、優秀な法曹志願者を増やそうとするなら、資格の価値を上げるほかないだろう。

 優秀な人材を得るには、富か権力か、名誉(地位)を与えるくらいしかない。ヘッドハンティング等でも分かるように、優秀な人材を得るために、やりがいだけでは限界があり、相応のリターンが必要であるのは当然である。人は、自らの仕事で家族を養い、生活していかなければならないからだ。

 日弁連執行部は、さらに弁護士資格の濫発に手を貸して資格の価値を下げ、何をしようと考えているのだろうか。

 一つ考えられるとすれば、法科大学院制度の維持だ。法科大学院制度維持のために予備試験制度をさらに制限する提言までやりかねないだろう。
 

 私に言わせれば、一度法科大学院制度導入に賛成してしまった日弁連執行部が、自らの過ちを認めることができずに、理念という名の竹槍を振りかざしたまま自爆に向かって暴走しているようなものである。

 しかし、そもそも法科大学院制度は、優秀な法曹を輩出するための制度(手段)であって、目的ではない。極論すれば、優秀な法曹が輩出できるのであれば、法科大学院制度など不要なのだ。目的を達成できるなら、手段はどうだっていいのである。

 現実には、司法試験合格率は圧倒的に予備試験組が法科大学院卒業生を上回っているし、大手法律事務所や、裁判所・検察庁でも、予備試験ルートの法曹が多く採用されている。そして、予備試験ルートの法曹に何らかの問題があるなどという話は聞いたことがないばかりか、年々予備試験ルート合格者を囲い込もうとする動きは強まっているように見える。

 つまり、法科大学院やマスコミが「プロセスによる教育」などと、実態のない理念をいくら振り回そうが、実務では法科大学院教育なんてものに価値など置いていないのだ。大手法律事務所が、予備試験ルートの合格者を囲い込もうとしていることからも明らかなように、法科大学院など出ていなくても、しっかり勉強していれば法曹実務家として十分使いものになるのである。

 前述したK副本部長の所見からすれば、日弁連の法曹人口検証本部が、日弁連執行部の意向により、法科大学院維持のために暴走する可能性は相当程度高いと私は見ている。

 いったい何時になったら、日弁連は目が覚めるのだろうか。

 いくら理念を振り回し、万歩譲って仮にその理念に何らかの意味があったとしても、弁護士業界を焼け野原にしてしまえば、意味などないではないか。

弁護士増員で司法過疎は解消できるのか~2

 ところが、日弁連は弁護士は社会生活上の医師であるから、全国津々浦々に弁護士がいた方が社会にとって良いと考えているようだ。だからこそ司法過疎解消をしきりに唱えたがるのだろう。確かに司法制度改革審議会意見書にも、法曹は「国民の社会生活上の医師」の役割を果たすべき存在であるとの指摘もある。

 この点について、私は残念ながら、弁護士像を理想化しすぎた日弁連・司法制度改革審議会の誇大妄想ではないかと思っている。弁護士が過疎地を含めて常に身近にいるだけで社会が良くなるなんて思い上がりも甚だしい。

 確かに医師であれば戦う相手は病気であり全人類の敵である。病気をやっつければやっつけるだけ人類の幸福は増加する。この意味で、明らかに医師は正義の味方といえるのである。

 しかし弁護士はどうか。戦う相手は、依頼者以外の個人であり企業等である。例えば、ある訴訟で依頼者の為に弁護士が全力を尽くして戦い、勝訴した場合を考えて見よう。
 その弁護士に依頼した者にとって、自分の言い分を裁判所に認めさせてくれた弁護士は救いの神である。しかし、相手側にとってみれば、自分の言い分を否定し尽くされ、裁判所の判断を誤らせた、魂を悪魔に売り渡した悪徳弁護士以外の何物でもない場合もあるだろう。

 弁護士が裁判で勝てば勝つだけ、その勝利の数に応じて、裁判での争いに負ける相手方があふれるのだ。

 日弁連は、勝つべき事件だけ勝ち、負けるべき事件は負けるという、客観的正義を実現するような、ある意味理想の弁護士像を描いているのかもしれないが、負けるべき事件だから負けましょうという弁護士に、誰が依頼をするだろうか。

 弁護士全てが、金のなる木をもっていて、未来永劫生活に絶対困らないのならともかく、職業が生活の糧を得るための手段であるという厳然たる事実を直視すれば、自営業者にそのような態度をとるように求めることは、不可能を強いるものだ。

 弁護士資格でさえ取得するために、多くの時間と費用がかかっているのである。

 このように、(冤罪事件など一部は除かれるが)弁護士が実現出来るのはせいぜい相対的正義なのである。

 確か、「こんな日弁連に誰がした?」(平凡社新書)の著者である小林正啓先生が述べておられたと思うが、弁護士は社会生活上の医師などではなく、あくまで依頼者の為にだけ働く傭兵のような存在なのだ。弁護士が傭兵として活躍すれば依頼者の為にはプラスになる場合が多いが、攻撃の標的とされた相手としては、たまったものではないはずだ。

 実際の弁護士像と日弁連の想定する理想の弁護士像がずれたままで弁護士増員だけが進行しても、実際には飢えた傭兵が社会の中に増えるだけで、社会正義の実現はもちろんのこと、司法過疎の解消には全くつながらないと私には思われる。

 ここで歴史を遡ると、司法制度改革の支柱となった司法制度改革審議会意見書では、今後の法曹需要が飛躍的に伸びると予想されていた。そのことは、同意見書の「今後の社会・経済の進展に伴い、法曹に対する需要は、量的に増大するとともに、質的にも一層多様化・高度化していくことが予想される。(中略)その直接の担い手となる法曹の質・量を大幅に拡充することは不可欠である。」との記載からも明白である。

 しかし実際はどうか。

 2019年裁判所データブック(法曹会)によれば、全裁判所の新受全事件数(民事・行政事件は件数、刑事事件は人数、家事事件は件数、少年事件は人数で計算)は、司法制度改革審議会意見書が出された
 平成13年度で、5,537,154件であった。
 最新のデータとして記載されている
 平成30年度は 3,622,502件である。

 実は1,914,652件という減少なのだ。年間200万件近くも裁判所に持ち込まれる事件が減っているということなのだ。

 この点、裁判手続きは紛争解決の一部にすぎず、裁判手続以外での解決が進展しているはずだという反論があるにはあるが、そのような解決が多くなされているという具体的証拠は一切示されておらず、何らデータのない感覚的な反論にすぎない。現実に裁判の新受件数が減少しているというデータがあるということは、素直に見れば法曹需要は減少しているということだ。

 現実を見れば分かるとおり、司法制度改革審議会意見書の想定していた法曹需要の飛躍的増大は全くの的外れであり、したがって、法曹需要の飛躍的増大を想定して法曹人口(といっても中心は弁護士人口)の拡大を図った政策は、その出発点においてとんでもない見当違いの方向を向いていたということになる。
 率直に言えば、司法制度改革審議会はそもそもの方向性からして誤っていた阿呆でした、ということになろう。(さらにいえば、既に出発点が間違っていることが明らかになっている同意見書を、なんとかの一つ覚えのように繰り返し主張して、法科大学院制度維持のためになりふり構わぬ論陣を張る学者さん達もなんだかな~と思うがここでは論じない。)

 一方、実際には誤っていた法曹需要の飛躍的増大を前提に、法科大学院制度を発足させ司法試験合格者を増加させたことから、この間に弁護士人口は、18,246名から40,098名と2倍以上に増えたのだ。

 このように、裁判所に持ち込まれる事件数が17年前と比較して年間で200万件近くも減少し、その一方で、弁護士が倍以上に増加しているにも関わらず、弁護士過疎が解消していないということは、もはや弁護士増と弁護士過疎の解消は関連性がないとみるべきだと私は思う。

(続く)

弁護士増員で司法過疎は解消できるのか~1

 現在、日弁連で法曹人口検証本部が立ち上げられ、法曹人口(といってもメインは弁護士人口)が過大かどうか検証するということをやっている。

 私を委員に選んで頂ければ、いいたいことは山ほどあったのだが、残念ながらお声かけ頂けなかった。

 さて、伝聞であり間違っていたら申し訳ないのだが、その検証本部で、いわゆるゼロワン地域(地方裁判所の支部が管轄する地域区分内に、法律事務所などを置く弁護士の数が、全くいない又は1人しかいない地域。ちなみに 日本国内には地方裁判所およびその支部が203ある。)が未だ解消されていないとして、弁護士人口をもっと増やすべきだとの主張が執行部側からあるようだとの噂を耳にした。

 実際には、0地区はもはや解消されており、ワン地区も一度は解消され、2020年4月時点で僅か2カ所かのワン地区があるだけのようだが、未だ執行部側はワン地区の存在を理由に弁護士人口は過大ではないと主張したいのかもしれない。

 上記の推測が仮に当たっているとしての話だが、弁護士過疎は弁護士増員で解消できるものではないと私は考えている。

 理由は簡単だ。

 弁護士は、公務員でも会社員でもなく、自営業者だからだ。

 当たり前だが、自営業者は自らの商売で稼いだお金で生活をしなくてはならず、ある日、たまたま自分が担当している仕事がなくても他の日にしっかりやっていれば月給をくれることもないし、体調を崩して休業しても誰かが休業手当をくれるわけではない。

 したがって、きちんと仕事があって収入が上げられる可能性がある場所でしか開業できないのである。

 司法過疎地と呼ばれる地域は、過疎化が進行し産業も低調で、法的紛争も多くはないところが多い。そのようなところで開業しろと言われても、生計が成り立たないからそもそも不可能なのだ。

 そもそも、あれだけ訴訟大国であり、100万人以上の弁護士がいるとされるアメリカでも司法過疎は解消されていないとの報告もなされている。

 また、国民の皆様がどれだけ真剣に弁護士を必要としているのかもはっきりしない。

 マスコミやら日弁連は、やたら地方の弁護士不足を大声で喧伝するが、本当に弁護士過疎地域の方が心の底から弁護士が来ることを切望しているのだろうか。死活問題として弁護士を求めているというのではなく、「近くにいたら便利」程度の希望なのではないだろうか。

 例えば、無医村が高給を出してでも医師を募集している事例はよく耳にするところだが、弁護士ゼロワン地区の住民や自治体が高給を出して弁護士を誘致する活動をしているとの情報は、少なくとも私は一度も聞いたことがない。

 住民の皆様が本当に弁護士が必要だと真剣に思うのなら、無医村における医師のように高給を出してでも弁護士を誘致しても不思議ではないのだが、残念ながらそこまで真剣に弁護士を必要としてくれる過疎地は見たことがないのである。

                                                       (続く)

現実を見た方が良いのでは?

 中教審の法科大学院等特別委員会の議事録をときどき読んでみるのだが、何時も法科大学院制度は素晴らしいはずだという現実離れした前提を当然としたお話しがほとんどなので、どうしてなのか疑問に思っていた。

 ふと気になって、議事録の他に委員に配布される配付資料の項目を見てみたところ、ある点に気付いた。

 私が項目だけを見た限りではあるが、司法試験の結果(合格率・法科大学院別合格率など)に関する資料は多数配布されているようだが、司法試験受験生がこんなに問題のある答案を書いているという事実を摘示する唯一の資料ともいえる、採点実感等については、どうやら法科大学院等特別委員会では配布されていないようなのだ(配布されているかもしれないが、きちんと検討して法科大学院教育を反省するような議論は見たことがない。)。

 採点実感を見れば、最近の司法試験受験生(しかも短答式に合格したはずの受験生)の答案が如何にひどいものかが幾つも指摘されている。ほとんど全ての科目で論証パターンの暗記ではないかとの指摘がなされているし、基本的知識がない、基本的理解ができていない、という採点者の悲痛な嘆きを窺わせる指摘のオンパレードだ。

 良好な答案・一定水準の答案はこんな答案という例示もあるが、かなり問題のある答案であっても良好な答案のレベルと評価していたり、相当まずい答案でも一定水準の答案として評価している事実も示されている。

 令和元年の公法系第1問では、仮想の法案の立法措置についての合憲違憲が問われたが、そもそも問題文に記載されている仮想の法案の内容を誤って理解して論じた答案が多数あったと指摘されている。
→簡単に言えば問題文が理解できずに答案を書いた人間が多数いるということだ。

 同年公法系第2問でも、問題文や資料をきちんと読まずに回答しているのではないかと思われる答案が少なくなかったと指摘されている。「問題文を精読することができないのは,法律実務家としての基礎的な素養を欠くと評価されてもやむを得ないという認識を持つ必要がある」とまで指摘されているのだ。
 ちなみに、少なくないという表現は極めて控えめな表現であり、実際には多いということだ。

 民事系科目においても状況は同じである。

 第1問「不動産賃貸借の目的物の所有権移転による賃貸人の地位の移転について当然に承継が生ずるのは,賃借人が対抗要件を備えている場合に限るという基本的な理解が不十分な答案が多く見られた。」
 →こんな知識は、私が受験生の頃であれば、予備校の入門講座で押さえるべき知識である。

 「(不動産の)設置又は保存の瑕疵と材料の瑕疵とを混同する答案が少なからずあった。また,所有者の責任は占有者が免責された場合の二次的なものであることを理解していなかったものも相当数見られた。」
 →条文を確認すればすぐに分かるレベルのものである。

「・多くの受験生が,短時間で自己の見解を適切に文章化するために必要な基本的知識・理解を身に着けていない」
 →短時間と留保をつけてはいるが、要するに(短答式試験に合格している受験生であっても)その多くが基本的知識も、基本的理解もできていないということである。

 第2問においても、

 「基本的事項について、条文に沿った正しい理解を示していない答案が少なくなかった」

 「問いに的確に答えることができることが必要であろう」

 「問題となる条文及びその文言に言及しないで,論述をする例が見られ,条文の適用又は条文の文言の解釈を行っているという意識が低い」

 等と、もはや問題文で提示されているのが、どの条文の問題かすら明確にできないし、問いに答えることすらできていないという指摘まであるのだ。

 もっと書いてやりたいが、あまりに指摘すべき点が多いので、詳しくは法務省のHPにある司法試験の採点実感を御覧頂きたい。
 いまの司法試験論文式が、如何に選別能力を失っているかが良く分かる。

 このような指摘が現場からなされているにも関わらず、法科大学院教育の成果を見るために最も適した資料であるはずの採点実感を、何故法科大学院等特別委員会で検討しないのか。

 何ら実証されていない、プロセスによる教育の理念とやらを振りかざし、予備試験を敵視して気炎を上げるのも良いかもしれないが、まず自分達の教育結果を素直に見てみたらどうだ。

 かつてあれだけ、大学側が敵視していた論証パターンの暗記も一向になくならないどころか、ますます隆盛のご様子だ。

 何やってんだ法科大学院のお偉い先生方は。

 どんな教育をしてるんだ。
 

不都合な真実に目をつぶるのも結構だが、少しは現実を御覧になったらいかがか。

まだ続く、法科大学院の予備試験敵視

 最新の法科大学院等特別委員会で配布された資料には、「法科大学院改革の取り組み状況」というものがあるので見てみた。

 そもそも法科大学院制度が2004年に創設されてから、すでに16年経過しているにも関わらず、発足当時から現在に至るまでずっ~~~と改革が必要と言われ続けているという、極めてお粗末な状態だが、今回はそれを措くとして、上記資料の中に、なぜか予備試験の項目があり、予備試験を敵視するかのような次のような指摘が記載されている。

 ご丁寧にも、下記のような引用もなされているので紹介する。

(引用開始)
参考:法曹養成制度改革推進会議決定 第4 司法試験 1 予備試験(抄)) 予備試験受験者の半数近くを法科大学院生や大学生が占める上、予備試験合格者の多くが法科大学院在学中の者や大学在学中の者であり、しかも、その人数が予備試験合格者の約8割を占めるまでに年々増加し、法科大学院教育に重大な影響を及ぼして いることが指摘されている。このことから、予備試験制度創設の趣旨と現在の利用状況がかい離している点に鑑み、本来の趣旨を踏まえて予備試験制度の在り方を早急に検討し、その結果に基づき所要の方策を講ずるべきとの指摘がされている。
(引用ここまで)

 回りくどい言い方をしているので、私なりに簡単に言ってやると、予備試験ルートの受験生は圧倒的に法科大学院ルートの受験生よりも司法試験合格率が高い。だから、優秀な学生は予備試験を目指しがちであり、法科大学院制度に来てくれない。優秀な学生が来てくれないと司法試験合格率を上げられない、つまり法科大学院にとって予備試験制度は敵である。だから法科大学院が生き残るために、予備試験を何とかしてください、はっきり言えば制限してくれ、できれば廃止してください、ってことだ。

 ケチをつけるなら、もともと法科大学院だって入試を行って、法曹になれる可能性のある学生を選抜しているはずだ。だから、仮に優秀な学生が予備試験に合格して中退していっても、残された学生だって、もともと法曹になれる可能性のある学生として入試で選抜されているはずだから、きちんと教育してやれば司法試験に合格させるだけの力を身につけさせることができなければおかしい。優秀な学生が来なければ合格者を増やせないというのは、自らの教育能力のなさを自認するに等しいとても恥ずかしい主張のはずだ。

 それはさておき、司法制度改革の目的は、質・量とも豊かな法曹を生み出すのが目的であり、法科大学院制度はその手段として想定された。これは、いくら法科大学院万歳の学者先生であっても認めてざるを得まい。

 そうだとすれば、手段は重要ではない。要は、目的さえ達成できていればいいのである。

 予備試験が現状通りであっても、質・量とも豊かな法曹が生み出されているのであれば、何の問題もない。再度述べるが、目的が達成されているのであれば、手段はどうだっていいのである。

 法科大学院が何とかの一つ覚えのように振り回す、「プロセスによる教育の理念」だって、プロセスによる教育が優れている、優れた結果を出せるという証明は何一つなされておらず、実際には法科大学院側の学者が、そのように言いつのっているだけなのだ。

 私の知る限り、プロセスによる教育が法曹に必須であるなどという主張に、何の根拠もないのである。

 何の根拠もないプロセスによる教育理念に縋り付き、それを振り回して現実を見ようせず、さらには法科大学院制度維持のために意固地に予備試験の制限すら求める学者先生から、プロセスによる(ある程度の長期間かかる)教育を施された法科大学院生に、他人に共感する力や豊かな人間性が身につくのだろうか。

 私は、むしろ疑問に思う。

 いつも言っているように思うが、学者の先生方には、本当にプロセスによる教育が法曹養成にとって必須なのかについて、はっきり示してから、「法曹教育にはプロセスによる教育が必須であり、だから予備試験ではその点で問題がある」と、堂々と主張していただきたいものだ。

 単に(正しいかどうか証明されてもいない)理念に反する、というのでは理由にならないはずだ。

 理念に反していても、目的を達成に役立つならそれは有用なのである。理念に沿っていても目的達成に役立たない制度ならそれは無用の長物なのだ。

 今では、プロセスによる教育課程を経ていない予備試験ルートの法曹実務家はすでにたくさん世に出ている。

 もし本当にプロセスを経ていない予備試験経由の法曹に、なんらかの問題が生じているのなら、その事実を簡単に証明できるはずだ。

 但し、現実には、ずいぶん前から大手事務所が競って予備試験ルートの合格者を採用しようとする態度を続けているし、予備試験ルートの司法修習生が裁判官、検察官に多く採用されている事実からみても、私には、予備試験ルートの法曹に特に問題があるとは思えない。

 それどころか実務界では高く評価されているといってもいいだろう。

 この私の評価が正しければ、結局プロセスによる教育は法曹養成に必須ではなく、したがって、法科大学院制度自体が不要、ということになると思う。

 上記のような現実を知っていて、なお、法曹養成には法科大学院におけるプロセスによる教育が必須であると主張しているのであれば、法科大学院を維持することだけが目的となった、学者先生(もしくは利害関係者)による身勝手なド厚かましい主張といわざるを得ないだろう。また、知らないのであれば、法科大学院等特別委員会の委員たる資格はないだろう。

 国民の皆様も、必要も効用もない制度に多額の税金を投入されるのは、もうごめんだとお考えになると思うんだけどなぁ・・・。

法科大学院等特別委員会での意見

文科省中教審の法科大学院等特別委員会は、私の見る限り、司法制度改革の目的よりも、手段であったはずの法科大学院制度の維持存続に汲々としている印象がある。

 プロセスによる教育のどこが優れているのかも明らかにせず、司法試験合格率で彼らからすればプロセスによる教育を経ていない予備試験組に惨敗し続けながらも、学者の先生方は何の根拠も示すことなく、「プロセスによる教育」というマジックワードを振り回し続けている。

 議事録についても、学者の現実を見ない、偏った法科大学院ありきの意見ばかりが多く、腹が立つので最近読んでいなかった。

 しかしふと思い立って少し近時の議事録を見てみると、多くの学者委員が、本来の目的を見失い、法科大学院維持存続ばかり考えた発言を繰り返す中、弁護士の酒井圭委員は問題の本質に迫る、なかなか鋭い提案をなさっているときがあることに気づいた。
 しかし、残念ながら、結局多くの学者委員に、はいはいそんな意見もございますな・・・という感じでスルーされている印象が強い。

 また、最近、専門委員に加わった、弁護士菊間千乃委員も令和元年9月10日の第94回特別委員会で、「(法科大学院における)法学未修者教育の充実」の議題について、未修者を切り離す意見もあるとの報告に対し、面白いことを述べているので一部引用する(着色は坂野による)。

(引用ここから)
【菊間委員】 菊間です。私は未修者で社会人で4年コースの夜間のロースクールに行った経験からお話しさせていただきますけれども,未修者といっても社会人と,あと仕事をしないで未修の人とでは全く違うので,そこをまず分けて考えなければいけないかと思っています。私も社会人から弁護士になったので,弁護士になってから本当にたくさんの社会人の方から法律家になりたいのだという御相談は受けています。ただ,皆さんロースクールには行っていません。私がいた頃よりも夜間が減っているということがあるのと,今こういう現状だと,仕事を辞めてロースクールに,私が行った2期生の頃は仕事を辞めてロースクールに入る人が多かったのですが,今は非常にそれは危険だということで,働きながらとなるとロースクールは難しいので予備試験を私も勧めていますし,予備試験の方に社会人の方は今受かっている。その社会人の方もロースクールの中に取り込んでいきたいということであれば,大きく考え直さないといけないのではないかと。今の状況で社会人がロースクールにはまず来ないのではないのかという気がしています。
学習の未修者のことを考えた場合もですけれども,例えば私も加賀先生と同じ御意見で,既修者との切離しというのは違うのではないかと思います。自分の経験からいっても,先生方は未修者からするとできない人の気持ちが分かっていないというか,何が分からないのかが分かってくれないのですね,先生方が。私も法学部出身ですけれども,ここで先生方にこんなことを言うのも何ですが,大学には全く行っていなかったので,本当に何も分からないままロースクールに入ってしまったので,一からだったのですね。その時に何が一番役に立ったかというと,既修者の人に勉強の仕方を教わったことですよ。既修者の方はどう勉強したら物事が分かるかとか,どういうノートの取り方を取ったらいいかとか,どう論文を書いたらいいかとか,今まで自分達がいっぱい悩んで考えてきたことを未修者の人に教えてくださった。

(後略・引用ここまで)

 つまり菊間委員は、大宮法科大学院の卒業生でありながら、自らの体験を踏まえても、後進の社会人法曹志願者には、法科大学院ではなく予備試験を勧めているのだ。法科大学院の先生方は、未修者にとって、何が分からないのかという根本問題すら理解してくれなかった、勉強の仕方、ノートの取り方、論文の書き方など大事なことは法科大学院教員ではなく、既修者に教わったとも述べている。

 このような現実が指摘されていることについて、文科省・中教審・法科大学院の教員は、恥ずかしいと思うべきだ。

 確かに、未修者の教育には教員の多大な労力と、未修者自身の多大な努力が必要である。法科大学院制度導入の当初、えらい学者の先生達が、1年もあれば既修者に追いつくだけの力を身につけさせてやれると自らの教育能力を過信したため、法科大学院では1年間で既修者に追いつくという無茶苦茶な制度設計がなされた。
 未修者を切り離す制度を考えるのであれば、自分たちが自らの教育能力を過信して制度設計をしてしまったことへの反省がまず最初に必要だと思われる。しかし、残念ながら、私が読む限り議事録から学者委員にはそのような反省の動向はうかがえない。

 今回の未修者を切り離すという問題提起の中には、おそらく、既修者とは別の未修者向けの教育が必要だからという建前があるのだろうが、その裏には、既修者のみの法科大学院にして司法試験合格率を上げたいという、自分たちの教育能力の欠如を棚に上げた野望が潜んでいるように感じられてならない。

 話は少しずれてしまうが、法科大学院側(学者委員)は、現実を見ていないだけでなく、菊間委員が現状に即して、社会人法曹志願者に対して勧めている予備試験を敵視し、プロセスを経ていないとか、本来の趣旨と異なるなどと批判することにより制限しようと躍起になっている。

 そもそも、予備試験を通じてでも、多様なバックグラウンドを持つ優秀な法曹が生み出されるのであれば、何ら問題はないはずだ。

 仮に学者委員が言うように、プロセスを経ない予備試験ルートに問題があるというのなら、すでに予備試験ルートでの法曹も相当数存在するのだから、彼らを調査し予備試験ルートの法曹に何らかの問題があることを立証する必要があるし、それは容易に可能なはずだ。

 ところが現実には、大手法律事務所が予備試験ルートの司法試験合格者を就職において長年にわたって優遇し続けているし、予備試験ルートの司法試験合格者も多数、裁判官や検察官に任命されていることから、予備試験ルートの司法試験合格者は問題があるどころか、むしろ見どころがあると実務界では思われているとみて間違いあるまい。

 だとすれば、予備試験ルートを制限する理由は存在しないということになるはずだ。

 結局、未修者を切り離し、予備試験を制限しようとする法科大学院等特別委員会は、多様なバックグラウンドを持つ優秀な法曹を生み出すという司法制度改革の目的を達成することを目標にしているのではなく、ひとえに法科大学院制度という手段を維持することが最優先事項にしているといわざるをえないだろう。

 さて、菊間委員の発言を聞いた学者先生方は、どう反応していくのか。

 今まで通り、現実から目を背け、プロセスによる教育というマジックワードにすがって、それを振り回し続けるのだろうか。もしそうなら、そのような人間を有識者として専門委員に任命した文科省の見識も疑わざるを得なくなるだろう。

 酒井委員や菊間委員が現実に即した発言を今後も続けた場合、次回の委員編成で再任されるのかも要注目だ。

第198回国会 文部科学委員会(平成31年4月23日開催)

 司法試験法の一部を改正する等の法案に関して、開かれた文部科学委員会だが、相当面白い議論がなされている。

 参考人として
 山本和彦 一橋大学法学研究科教授
 三澤英嗣 弁護士
 伊藤 真 弁護士・伊藤塾塾長
 須網隆夫 早稲田大学大学院法務研究科教授

 が呼ばれている。

 今回の法案は、かいつまんで言えば、法科大学院在学中に司法試験を受験を認めるというものである。

 これまで、何の裏付けもないままプロセスによる教育が優れていると標榜し、法科大学院でのプロセスによる教育が重視されるべきであり、司法試験受験資格は原則としてプロセスによる教育を経た法科大学院卒業生に限定すべきと主張していた法科大学院や学者達が、その理念をあっさりなげうって、法科大学院でのプロセスによる教育が終了していない時点での司法試験受験を認めようとする法案だ。

 平たく言えば、自分達の提供するプロセスによる教育は、最後まで続けても大して意味がないからその途中で司法試験を受験させてやってくれということになるのだから、法科大学院におけるプロセスによる教育という理念の自殺行為に等しい法案だった。

 私から端的に言わせてもらえば、予備試験に法曹志願者を奪われた法科大学院が影響力を駆使して力ずくで、学生を法科大学院に呼び戻そうとする弥縫策である。

 もちろん山本参考人は、法科大学院特別委員会委員であり、現役の法科大学院院長だから、法科大学院維持のために法案賛成、予備試験制限すべきの意見を述べる。のっけから、法科大学院礼賛・自画自賛の意見で、ここまで来ると笑えてくる。破産事件において同時廃止事件比率が減少したことまで法科大学院の手柄だと言っているようだ。確かに、破産事件が今でも大量に発生しているため管財人の引き受け手が足りなくて同時廃止事件比率が上がっていたのであれば一理あるかもしれない。しかし、実際には管財人希望者はたくさんいるし、それでも希望者に管財事件が割り当てられないこともあるのだ。現実には破産事件が激減していることもあり、同時廃止率の低下は、裁判所の破産部の仕事維持の面もあるのではないかとの見解もあるくらいだ。仮にそのような事実を知っていてこのような意見を述べているのであれば誤導も甚だしいから、おそらく、自分に都合の良い数字だけに目が行って、現実は何も知らない部分もあるのだろう。
 このように、肩書きは立派な大学の教授先生であっても、現実をご存じないことは良くあることなのだ。しかしこのような先生が、中教審の法科大学院特別委員会の代表として法曹養成制度にあれこれ口を差し挟んでいるようだから、始末が悪い。

 三澤参考人は、リーガルクリニックを実施してきた体験から、法案が通れば法科大学院が受験予備校化する可能性を指摘する。そして、法案の目的は予備試験受験者を法科大学院に呼び戻そうとするものであると看破した上で、優秀な学生は予備試験と法曹コースと2本立てで受験するようになるだけで、結局法案通りの制度を作っても、その目的すら達せられないと予測する。このような改正を国民の意見を反映して議論することもせずに、(法科大学院主導で)行うことに反対する。

 そして今回の参考人質疑の白眉は、伊藤真参考人だ。
 今回ばかりは本年で議論しなければならないと前置きした上で、法科大学院制度は大学の生き残り策であり、司法試験予備校から学生を取り戻す目的の制度であった。そしてその目論見は失敗した。今回の法案も予備試験から法科大学院に学生を取り戻す目的であるが、先の失敗から何も学んでいないので、再度失敗するであろうと断言する。その上で、法曹養成は、多様性、開放性、公平性が重要であること、制度改変という権力の力で学生を動かそうとしても無理であり、上から目線でコントロールしようとして受験生を振り回すことは個人の尊重に反するものであると述べる。
 次いで、現在の法曹養成制度の最大の問題は志願者の激減であり、その原因は法科大学院制度であること、法科大学院を卒業しなければ司法試験を受験できない制度を撤廃することこそが根本的解決であることを提示する。
 法科大学院維持派が主張するプロセスによる教育というお題目についても、司法試験合格後に行えば足りるし、むしろ司法試験合格前は司法試験合格が最優先になるため、現実には実現不可能であると気持ちよく切り捨てる。
 一発勝負の弊害という主張に対しては、試験制度を採る以上仕方がないことであり、勉強して合格するというプロセスがあってこそ合格が可能となるのであって、その厳しい勉強のプロセスを一発勝負と評価するなど、受験生に対して失礼千万であり、試験の現場を知らないものの戯れ言にすぎないと批判する。
 予備試験制限論に対しても、かろうじてつなぎ止めている優秀な学生もますます法曹から離れていくことは必定であり、愚の骨頂、法曹養成制度自体が壊滅的打撃を受けるだろうと指摘する。

 須網参考人は、法科大学院で教鞭をとってきているが、本法案は多くの教員には寝耳に水の内容であり大変びっくりしている。多くの現場の教員は法科大学院の理念の法規ではないか、法科大学院の終わりの始まりではないか、と話している。この法案が通過すれば法科大学院の予備校化は進展するだろう。この法案の目的は予備試験との競争において法科大学院の競争条件を緩和することにあると思われるが、予備試験をそのままにしておいて法科大学院の方だけいじるのは順番が違う、等と述べる。まずは予備試験を制限しろという御主張のようだ。

 詳しくは、国会の文部科学委員会の議事録、録画映像で確認できるが、とても面白いので、是非御覧頂きたい。

 中には、須網参考人からの「もし伊藤参考人の塾が市場を支配していなければ、もしかしたら法科大学院制度は生まれなかったのかなとか思っていた」との皮肉に対して、伊藤参考人が「・・・私たちのところでは、いきなり難しい、先生方が書いた本を読んで法律が嫌いになるぐらいならば、分かりやすい、そういうテキストを読んで、しっかり基礎、基本を自分のものにして、場合によってはその過程でしっかりと教科書を読む、または合格してからしっかり専門書を読んで勉強する。学ぶにはプロセスがあるでしょう、学び方の手順や順序があるはずだ、それを徹底して形にしてきたつもりであります。」と見事に切り返す場面もある。

 この参考人質疑を読んでみての私の雑駁な感想は、次の通りだ。

 おそらく伊藤真参考人の分析が最も現実に即しており、おそらく伊藤真参考人の予測通りに事態は進むことになるだろうと予測する。そして、法科大学院維持のために現実から目を背け弥縫策である本法案を推進させた山本参考人は何の責任もとらず、司法制度改革が国民のためのものであることを無視し、法科大学院救済のための新たな弥縫策を推進するか、予備試験受験制限という最悪のシナリオを推進しようとするだろう。

 加えて、未だに20年近く前の司法制度改革審議会意見書を金科玉条のように振り回す学者がいるが、そもそも上記意見書の、法曹需要の飛躍的増大という想定がまず間違っていたことについて、誰も何も言わないということが不思議だ。

 例えて言えば、敵が戦車で攻めてくると予想して防衛作戦を立てていたところ、実際には敵から航空機で攻撃を受けてしまっている状況下で、対戦車防衛作戦を墨守するのは、思考停止というほかないだろう。それにも関わらず、現実を無視して、対戦車防衛作戦は正しいと主張し続けるのは、根本を見失った議論にしかならないのではないか。

 それに豊かな人間性やら幅広い教養やらが大学院教育だけで身につくはずがないし、それが可能だと考えることは大学教員の傲慢でしかないだろう。

 成仏理論の高橋宏志東大名誉教授もそれ以前の法学教室の巻頭言で、「私はお金が大好きなのであるが」と書かれていた(法学教室2001年3月号№246)。これを学者としての韜晦であると読むことが素直だろうが、実際に退官後に四大法律事務所の一つに就職したことから考えると、あながち韜晦ばかりともいえず、本音が混じっていたのかもしれないという穿った見方も可能である。
 失礼ながら仮に私の穿った見方が正しく、高橋氏の「お金大好き」発言が本音だと仮定した場合、そのような教員に学んだ学生が豊かな人間性を身に付けることが果たして可能なのか。親子ほど年の離れた女子受験生に懸想して試験問題を漏らした教授もいたと記憶するが、それも豊かな人間性なのか。

 やはり大学の教員、少なくとも法科大学院特別委員会の委員達は、上から目線で受験生を振り回し、自分の利益に沿ってコントロールしようとしている感が否めない。

 法科大学院特別委員会においても、文科省の意向に沿った委員ばかり選任していないで、一旦全ての委員を解任し、新たに多様な意見を持った委員を選任し直し、法科大学院制度の廃止まで含めて検討すべきだろう。

 なぜなら、法科大学院制度発足から15年経っても、法科大学院は未だその教育について改善が必要であると指摘され続けているのだ。15年経っても問題が解決できない制度など民間であればとうの昔に廃止、改善できない委員はクビ、成果を出せない委員会は解散、となるはずだ。

 今までの委員では、何も解決できないことは、もはや明らかというほかないのだから、とるべき手段は一つのように、私は思うのだが。

朝日新聞の社説と裸の王様

 3月14日の朝日新聞(社説~WEB版)「法科大学院 改革後も残る課題」には、今般閣議決定された法科大学院在学中に司法試験を受験できる制度について触れられている。それだけを解説しているのなら良いのだが、やはり法科大学院制度万歳と予備試験批判が論旨に出てきている。

 まあ平たくいえば、法科大学院制度改革を口実に、法科大学院擁護と予備試験敵視を読者に刷り込もうとする目論見なのだろう。広告を打ってくれる法科大学院側を擁護するのは営利をも目的とするマスコミの立場上仕方がないが、予備試験敵視も繰り返しすぎると度が過ぎて見えてくる。

 まずいっておきたいが、法科大学院が売り物にする「プロセスによる教育」がかつての司法試験制度に比較して、どのような点で実際に優れているのか、誰も明確にしたことはないし、実証に成功したこともないのだ。

 単に法科大学院導入を目指す学者達が、プロセスによる教育が不可欠だ、優れているなどと言っていただけで、本当にそうかどうか誰も知らないのである。
 また、プロセスによる教育に価値があると仮定しても、そのプロセスによる教育により、実力が身につくかどうかが本当は問題だろう。

 以前から何度も言っているが、予備試験は法科大学院修了者と同等の学識、応用能力、法律に関する実務の素養を有するかどうかを判定するものと法律で規定されている(司法試験法5条1項)。つまり、予備試験合格者は司法試験委員から見て、法科大学院修了者と同等の力を身に付けたものだけが合格できるはずだ。

 裏を返せば予備試験合格者は、司法試験委員から見て「法科大学院で勉強したら、これくらい身に付けているよね」という力を持っているだけで合格できるはずであり、そうだとすれば、予備試験合格者と法科大学院修了者は同レベルの実力を持つはずである。したがって、その後の司法試験において予備試験ルートの受験者と法科大学院ルートの受験者との間に合格率に差が生じることはないはずなのだ。

 ところが実際には、予備試験ルートの司法試験合格率76.0%に比較して法科大学院ルートの司法試験合格率は22.1%にすぎない。

 
 この合格率の差は、司法試験委員が想定する法科大学院修了レベルまでの力を、法科大学院で学生に身に付けさせることが十分できていないことを意味すると考えるのが素直だ。

 法科大学院も法務省も、もちろんマスコミも明確に言う勇気がないのだろうから代わりに言ってやるが、要するに、プロセスによる教育が効果を上げていないことは、司法試験の合格率だけ見ても一目瞭然なのである。

 確かに、旧司法試験には受験技術優先ではないかという批判もあった。金太郎飴答案が多いとの批判もあった。では、法科大学院ができて10年以上経過した今はどうなんだ。
 法務省HPに掲載されている司法試験採点実感を見るとすぐ分かる。

 平成30年度の採点実感には次のような指摘がなされている。

(引用開始)

・表現の自由の一点張りで知る自由が出てこないもの,知る自由の憲法上の根拠として憲法第13条のみを援用するものもあった。
・キーワードは覚えていてもその意味内容や趣旨等を正確に理解していない
・憲法の条項の正確な摘示や法律上重要な語句の正確な表記などに心掛けてもらいたい。これらに誤りがあると,理解そのものがあやふやであると受け止められてもやむを得ない。
・基本的な概念の意味を理解していないのではないかとの疑念
・行政法学の基本概念に関する基礎理解が不十分である,又はその理解に問題があると思われる答案があった。
・論理的な構成が明らかでないもの,何のためにその論点を論じているのかを記載せず,論点をそのまま抜き出して,唐突に書き始めるもの,反論の前提となる主張を説明せずに,いきなり反論から書き始める答案など,答案の構成に問題があるものも見られた。
・設問3で親族法・相続法を主たる問題とする設例が出題されているが,上記のとおり,基礎的な知識が全く身に付いていないことがうかがわれる答案も多かった。
・財産法の分野においても,一定程度の基礎的な知識を有していることはうかがわれるとしても,複数の制度にまたがって論理的に論旨を展開することはもとより,自己の有する知識を適切に文章化するほどには当該分野の知識が定着しておらず,各種概念を使いこなして論述することができていない答案が多く見られた。
・条文の適用又は解釈を行っているという意識や代表的な判例の存在を前提にして論ずるという意識を身に付けさせることが重要であろう。
・そもそも訴訟物の理解ができていないなど,基礎的な部分の理解の不足をうかがわせる答案も少なくなかった。なお,条文を引用することが当然であるにもかかわらず,条文の引用をしない答案や,条番号の引用を誤る答案も一定数見られた。
・定型的な論証パターンを書き写しているだけではないかと思われる答案も少なくなかった。
・定型的な論証パターンや漠然とした理解をそのまま書き出したと思われる答案が多かった。
・依然としていわゆる論点主義に陥っており,個別論点に対する解答の効率的な取得を重視しているのではないか
・いわゆる論証パターンをそのまま書き写すことだけに終始しているのではないかと思われるものが多く,中には,本問を論じる上で必要のない論点についてまで論証パターンの一貫として記述されているのではないかと思われるものもあり,論述として,表面的にはそれらしい言葉を用いているものの,論点の正確な理解ができていないのではないかと不安を覚える答案が目に付いた。
・論証パターンを無自覚に書き出したものと思われる
・法原則・法概念の定義や関連する判例の表現を機械的に暗記して記述するのみで,なぜそのような定義や表現を用いるのかを当該法原則・法概念の趣旨に遡って論述することができていない答案
・条文に関する基本的な知識が不足

(引用ここまで)

 法律の基礎的な理解や条文の理解すらできていない受験生が目白押しだ。
 かつてあれだけ大学が批判していた論証パターンも未だ健在のようじゃないか。 法科大学院で2年以上勉強し、厳格な卒業認定を経て司法試験を受験しているはずの受験生達がこの体たらくである。

 これは受験生が悪いのではない。

 これがプロセスによる法科大学院教育の結果なのである。

 朝日新聞が予備試験を批判することも筋違いだ。
 大手事務所が予備試験ルートの合格者を優先して採用したり、検察庁が予備試験合格者の囲い込みを始めたり、裁判官任官者の最多数が予備試験合格者だったりすることからも明らかなように、プロセスによる教育なんざ実務ではな~んの価値も置かれていない。

 実務では、要はどれだけ、合格者に実力があるかだけなのである。

 いくらプロセスによる教育を経ていても、実力不足で弁護過誤を濫発しかねない弁護士と、プロセスによる教育を受けていなくても弁護過誤が極めて少ない弁護士を比較するなら、世間が前者を望むはずがない。また、弁護士の良し悪しは、一般の方には判断できない以上、最低限法曹としてやっていけるだけの実力を有する者にしか資格を与えないなどとして一般の方を保護する必要もある。
 

 私の記憶なので正確ではないかもしれないが、ある昔話では、現在の地位に相応しくない者や馬鹿者には見えない布地で織った着物を献上したという詐欺師の言にひっかかった王様が、裸で行進した際、1人の子供を除いて多くの者は詐欺師の言を信じて王様の着てもいない着物を褒めそやしたという。

 朝日新聞をはじめとするマスコミは、着物が見えないのは自分が馬鹿者であるかもしれず自分が馬鹿者であることを隠したいばかりに目の前の現実に背を向けて王様を褒めそやす行動に出た多くの群衆であるよりも、裸の王様の前で真実を述べた1人の子供であるべきだと、私は思うのだがな~。

平成30年度司法試験採点実感の抜粋

 前回、司法試験の合格レベルがた落ち疑惑のブログを書いたが、本当なのかという声も聞かれた。

 詳しくは法務省のHPから、採点実感そのものを読むことも可能であるが、それでは大部なので、私が抜粋(選択科目は除く)したpdfファイルを以下に添付する。

 太字は私がつけたものであるし、科目によっては引用しにくい書き方をしているものや、私の疲労などもあって、抜粋部分が少ない科目もある。

 もちろん、部分的に評価をしているような採点実感もないではなく、私がマイナス面ばかり強調しているのではないかという批判は当然あるだろう。

 しかし、問題は(法科大学院を卒業しているにもかかわらず)箸にも棒にもかからないレベルで司法試験を受けている受験生が多数いることであり、そのうち何割かは受験者が少ない事もあって合格してしまう、という現状だ。

 法科大学院ルートでの受験者が多くを占める司法試験において、未だにパターン化した論証を吐き出すだけの答案が相当数あること、基本的条文や基本的知識すら覚束ない答案が多数あること、要するに、法科大学院にはきちんとした教育能力がなく、法曹の粗製濫造化が進んでいることだけは、ご理解頂けるものと思う。

平成30年度採点実感抜粋.pdf

地方法科大学院で司法過疎は解消できるのか?

 かつて法科大学院が雨後の竹の子のように全国各地に設置された際に、良く言われたのは、司法過疎を解消するために役立つというお題目だった。

文科省の法科大学院特別委員会でも次のような意見が出されている。

•法科大学院の地域適性配置は,地方への法の支配の浸透や司法過疎の解消に資するという見地から重要な意味を持っており,当該地域における存在意義や改善努力の状況等を総合考慮した上で,必要があると認められる一定の地方法科大学院には,統廃合等の判断に当たって,時間的猶予を与えるなどの特例措置を認めるべき。また,夜間法科大学院についても,同様に,時間的猶予などの特例措置を認めるべき。(文科省法科大学院特別委員会第53回配付資料3-3)

 私は上記の意見には、全く賛成できない。

 法科大学院があるというだけの理由で、その近辺の法の支配が浸透したり、司法過疎が解消するわけではないから、地方の法科大学院が司法過疎に役立つというのなら、地方の法科大学院を出た人たちの多くが、弁護士になってその法科大学院の所在地近辺で開業しなければ意味がないだろう。
 しかし現実には、弁護士も個人事業者だから、仕事がない土地では生きていけない。どうしても仕事が多く生じる可能性が高い、都会に生活の拠点を求めることが多くなるだろうし、それを責めることはできまい。

 例えば私は京都大学出身だが、私の友人達の中には、京都大学に通学したから京都に就職したという人はほとんどいない。多くの友人は大企業に就職し、個人で事業を起こした人も多くは東京近辺に住んでいる。仕事が都会に集まる以上それは仕方のないことだ。

 地方の法科大学院が、公立医大のように、地域貢献枠などを設けているのであれば別だが、そのような配慮もない状況では、なおさら仕事のある地域に弁護士は進出することになる。裏を返せば、国民の皆様は地域貢献枠まで使って、司法過疎解消のために地元に弁護士を呼ぶ必要性を感じていないということだろう。

 それなのに、なぜ、文科省や法科大学院推進派は、地方の法科大学院が存在すれば、司法過疎が解消すると主張するのだろうか。

 最近、朝日新聞の「オピニオン&フォーラム」で、法社会学者がアメリカで司法過疎がないのは、地元のロースクールを出てロイヤーになった者が地元で働くのが一般的だからだ、という趣旨の主張をしていたという記事をみた。

 しかし、(既に100万人近いロイヤーがいる時代に米国に留学された)鈴木仁志弁護士の「外から見た日本司法の先進性~市民の視点から見たアメリカ司法の実像」によれば、そもそも司法過疎はアメリカでも解消されていないという報告もあったし、その後何らかの事情が変わってアメリカの司法過疎が解消されたという話も聞かない。実証的データも上記の法社会学者は提示せずに、アメリカには司法過疎がないと言い切っている。

 私は、実際にアメリカ現地をみてきた弁護士の方の報告は、書籍で得られた知識などよりも正しい確率が高いと思っているので、上記の法社会学者の、「アメリカには司法過疎はない」という主張は疑わしいと思う。

 それをさておいて、仮に万一、「アメリカで司法過疎がないのは、地元のロースクールを出てロイヤーになった者が地元で働くのが一般的だからだ」という主張に沿うように見える事実があったとしても、それは、ロースクールの地方配置によりもたらされる利点ではなく、アメリカの法制度上、不可避的に生じる問題というべきだと私は思う。

 つまり、アメリカのロイヤーは、州ごとに司法試験があり、州ごとに資格を与えられる。日本の弁護士で留学してアメリカのロイヤー資格を得た人も、肩書きはニューヨーク州弁護士、カリフォルニア州弁護士などとなっているように、ロイヤーの資格は原則としてその州限りである。
 だから、ニューヨーク州弁護士の資格しかもたない人は、仕事が見つかろうがどうだろうが、基本的にはニューヨーク州で弁護士として活動するしかないのだ。

 このようなアメリカのシステムは、地元ロースクールを出た人間が地元で開業せざるを得ないため、一見すれば、司法過疎解消に役立つような誤った印象を与える。

 しかし日本は違う。
 道州制を採っているわけでもないし、弁護士資格は日本全国共通だ。だから、和歌山県出身の私が和歌山でしか弁護士業務ができないというわけでもないし、京都の大学を出ているから京都でしか弁護士ができない、というわけでもない。

 結局、地方法科大学院の存在意義は、地方の法曹志願者が多少通学しやすくなるというだけのことであり(それでも私のように、県庁所在地まで特急で3時間以上かかる田舎出身者には全く意味がない。)、司法過疎の解消には直接関係がないというのが正しい物の見方であろうと私は思う。

 そう難しいことではないのだが、ずいぶんと長い間、地方の法科大学院と司法過疎はリンクして話をされ続けてきたように思う。
 アメリカの結論だけをみて、その結論が良いのだと思い込み、アメリカと日本の制度の違いを無視して、制度の一部だけ猿まねをしてみても、混乱をもたらすだけで良いことなどないと、私は思うんだけどな~。

 一部の学者先生方のアメリカ(国外の制度)礼賛は、度が過ぎているような気がしてならない。