肉体的に男性のトランスジェンダーの女性トイレ使用制限は違法、との最高裁判決に対する漠然とした感想~2

(前ブログの続きです)

 ちょっと脱線してしまったが、本判決の認定では、説明会で明確に異を唱えた女性職員はいなかったとし、その点についてかなり重視しているように読めた。しかし、仮に女性職員らが明確に異を唱えれば何らかの不利益を被る危険性も高く、明確に異を唱えにくい状況にあったと考えるのが自然ではないかと考える。

 「同性婚について見るのも嫌だ」とマスコミに述べた首相秘書官が、オフレコ発言であったにも関わらず、その事実を公にされ、世間にバッシングされ、更迭された事件も記憶に新しい。オフレコでもこの対応なのだから、説明会のように半公的な会合でトランスジェンダーに対する違和感を明確に表明したりすると、マスコミの餌食にされたりするなど、意思表明の危険性の高さは容易に想像できるはずである。特に国家の中枢で勤務する経産省の優秀な職員であれば、なおさらマスコミは喜んで記事にするだろう。
 この点最高裁は、明確に異を唱えた女性職員はいなかったのだから、特段の配慮をすべき職員の存在も認められないと形式的に判断しているようである。

 さらに最高裁は、上告人が職場と同じ階とその上の階の女性トイレを使用できない処遇を受けてから4年10ヶ月、上告人は使用している女性トイレで特に問題が生じさせていないこと、当該処遇の見直しが検討されなかったことも理由にしているようである。

 上告人が使用している女性トイレで問題を起こさないことは、問題を起こせば女性トイレを使えなくなるのだから当然である。
 そして、処遇の見直しがなされなかったことは、上告人以外の職員、周囲の女性職員も女子トイレ使用制限処遇が適切であると判断していたから、見直しの必要性を認めなかったということではないのだろうか。

 仮に同じ職場の女性職員が、上告人と一緒に女子トイレを使用することについて、違和感も羞恥心も刺激されず、何の違和感も羞恥心も感じずに受け入れられる状況になっていたのであれば、説明会で上告人が女子トイレを使用したいという要望を聞いていたのであるから、「私たちは大丈夫なので上告人に是非とも使わせてあげて欲しい」と、女性職員から上層部に申し入れることもできたはずである。
 そのような申し入れがなかったということは、周囲の女性職員としては上記の処遇について必要且つ適切と判断していたことになるだろうし、職場環境として必要且つ適切なら見直しの必要性は認められなかったのではないか。

この点、宇賀克也裁判官補足意見によれば
「上告人が戸籍上は男性であることを認識している同僚の女性職員が上告人と同じ女性トイレを使用することに対して抱く可能性があり得る違和感・羞恥心等は、トランスジェンダーに対する理解が必ずしも十分でないことによるところが少なくないと思われるので、研修により、相当程度払拭できると考えられる。」

と説示するが、果たして本当にそうなのか。

 何の根拠もないが、上記の違和感・羞恥心は、極めて本能的な感覚に近いものであり、教育・研修を受けた程度では簡単に払拭できるものではないように思う。そしてその違和感・羞恥心は、抱いてはいけないものなのか、払拭しなければならないものなのか。

 第三小法廷の最高裁裁判官は、全員一致で判決を下しているが、「人は理性的であり、キチンと教育を受ければ理解できるはずだ」という理想論を振り回し、実際に周囲が感じると思われる直感的な違和感・羞恥心について、配慮が少ないように私は、感じる。また、トランスジェンダーの方の生き方を認めるのが先進的であるという強迫的観念にも囚われているのではないかとも感じる。

 もちろん、トランスジェンダーの方をトランスジェンダーだという理由で差別することは許されるべきではない。
 しかし、周囲の人間に求めることができるのはそこまでであって、トランスジェンダーの方に対して直感的に抱く違和感まで持つなというのでは、行きすぎであり、思想良心の自由を制限しかねない発想につながりかねないのではないか。

肉体的に男性のトランスジェンダーの女性トイレ使用制限は違法、との最高裁判決に対する漠然とした感想~1

 トランスジェンダーの方に関する、最高裁第3小法廷令和5年7月11日判決を斜め読みしただけなので、特にまとまった内容ともいえず、ボヤッとした感想である。
 第1審から控訴審、そして本判決まで全部精査すれば感想は変わるかもしれないが、あくまで現時点の感想として記載しておく。

 上告人のトランスジェンダーの方は、性転換手術は受けておらず身体は男性であるが心は女性とのことであり(MtF)、自分の勤務部署のある階と、その上の階の女性トイレについては、勤務部署の女性職員が実際に使用していること等から、使用を制限される処遇を受けていた。
もちろん、それ以外の階の女性トイレなら使用できたようである。

 最高裁第三小法廷は、上記の使用制限処遇を違法と判断した。

 おそらく論点としては、経産省が、他の女性職員が上告人と同じ女性トイレを使用することに対する違和感・羞恥心等を重視してとった対応が、上告人の自らの性自認に基づいて社会生活を送る利益に対する制約として正当化できるかという点なのだろう。
 古いと思われるだろうが、私は、女性トイレ使用制限を違法としなかった高裁判決の結論に説得力を感じる。

 確かにトランスジェンダーの方が自らの認識する性にしたがって生きていく利益は重要である。しかし、トランスジェンダーの方の生き方に対して、周囲の人間が違和感・羞恥心を刺激されることがあるのも、また自然である。そのような違和感・羞恥心を感じることも、自らの性自認に基づいて社会生活を送っているからこそ感じるものなのではないのだろうか。

 いくらMtFトランスジェンダーの人だと頭で理解していても、女性の姿で勤務していたとしても、肉体的に男性である方が、同じ女子トイレを使うとしたら、直感的に違和感・羞恥心を覚える女性の方が多いのではないか。
 私の感覚では、その感情は、肉体的特徴から性を判断してきた生物学的な見地からは、極めて自然であり多数派が有する感情なのではないかと思われる。

 このようにトランスジェンダーの方が自らの生き方を貫こうとし、今までと違う配慮を周囲に求める場合、周囲の人の性自認に基づく違和感・羞恥心とぶつかることは当然考えられる。

 その場合、トランスジェンダーの方の自らの性自認に基づいた生き方と、トランスジェンダーに対して周囲の人間の抱く違和感等について、その価値に差があるのだろうか。


 私は双方に価値の差はないような気がするが、現実的には、トランスジェンダーの方の自らの性自認に基づいた行動の方を特別に優先・保護すべきような風潮が強いように(あくまで感覚としてだが)、私は感じている。

(続く)

珈琲 折り鶴 (岡山市)

 お店は、岡山駅から歩いて5分ほどのところにある。
 喫茶店らしい看板もなく、小さな入口なので、何のお店か一見しただけでは分からない。

 店主の藤原さんは、「まだまだ納得がいかなくて、ずっと勉強中です」と仰っていたが、深煎りネルドリップ珈琲の名店といって良いと思う。

 外の黒板には「店内は三席で営業。静かに珈琲を飲むお店です。」との記載がある。
 店内に入ると、磨かれた大きな天然木のカウンターに、間隔を空けて3席の客席があるだけ。
 メニューは「珈琲」のみである。
 一般の喫茶店にあるようなメニュー表はない。

 客席に座ると、薄い硝子でできたコップに透明な氷を入れたお水を、二つ折りにしたキッチンペーパーをコースター代わりに出してくれ、

「どのような珈琲にしますか?」

 と聞いてくれる。

 つまり、客が飲みたい珈琲を伝えると、それを実現してくれるというわけだ。

 私は、酸味のある珈琲が得意ではないので、「深煎りで苦みが美味しい、珈琲をお願いします。」と注文した。

 注文後、珈琲豆を選択し、計量。ミルで挽いていく。同時に、カップをお湯につけて温めていく。
 ミルの速度も豆に不要な熱を与えないように、あまり速い速度ではないように感じた。
 挽かれた豆を丁寧に、ネルに移し均していく。

 そして、暖めていたカップを取り出し、時間をかけてじっくりとネルの中にお湯を注いで、珈琲を淹れていく。

 おそらく何千回、何万回と繰り返されてきた動作なのだろうが、不思議と、「慣れ」を感じさせない。
 仕事として珈琲を淹れている感じがしないのである。
 おそらく、毎回が真剣勝負なのだろう。

 藤原さんは、ネルの中の珈琲豆の様子をじっと見ながら、お湯を注ぎ抽出している。

 藤原さんのネルドリップを見ていると、不意に、ごく小さな音で、ピアノのBGMが流されていることに気付いた。
 普段気にすることもないが、ふと、夜空を見上げたときに、「あぁ、星空の下にいたんだな・・・」という感じを受けるようなささやかさで、気付く人だけ気付いて聞けば良いというレベルのBGMだった。
 また、エアコンの稼働音次第では聞き取れない場合もあるが、ゼンマイで稼働している柱時計の振り子も、実直に、規則正しく、時を刻んでいる音を立てており、今この瞬間にも、時が流れているのだ、と気付かされる。

 BGMと振り子の音が聞こえやすいように頬杖をついて、目を閉じると、見えないのに藤原さんが珈琲を淹れている気配が、強く感じられる。

 満点の星空の下、悠久の時を感じながら、私の好みの味の珈琲を淹れてもらう。
こんな贅沢なことがあろうか・・・・。
 静かなお店でなければ、この感覚は味わえない。

 先に来ているお客がしゃべっているだけで、多分BGMも振り子の音も聞こえなくなるように思う。

 だから「静かに珈琲を飲むお店です」と、入口の黒板に書いてあったのだ、と納得する。

 出来上がって、出された珈琲の脇に、小さなカップが置かれた。
 「チェイサーとして、この珈琲をお湯で割ったものです。これで口を慣らしたり、珈琲が重い場合に口に含んで下さい。」
 との説明だった。

 藤原さんが私に淹れてくれたのは、ブラジル産の樹上完熟トミオ・フクダという銘柄だった。

 珈琲の味については、言葉では表現し尽くせないので、実際にお店に行って味わって頂くしかない。

 あれだけ手間をかけてネルドリップ珈琲を淹れ、僅か3席の客席で、静かな雰囲気を楽しませてくれて、お代は一杯550円なのだ。

 満席の場合は入口のドアに、現在満席のふだが出るようだ。

 かつて東京の大坊珈琲店で、ネルドリップの珈琲を何度か頂いていたが、閉店してしまい残念に思っていた。
 岡山に行く機会があれば、是非とも再訪したい珈琲店である。

折り鶴の入口 三席で営業、静かに珈琲を飲むお店です。などの記載がある。

折り鶴の店内 真ん中の席から入口に一番近い席の方向を撮影。コーヒーカップ、チェイサーのカップなどが見える。

メニューはこのとおり、「珈琲」しかない。