弁護士法人東京ミネルヴァ法律事務所の破産に思う

 報道によると弁護士法人東京ミネルヴァ法律事務所(以下「東京ミネルヴァ」という。)が、東京地裁から破産開始の決定を受けたそうだ。弁護士法人としては過去最大の負債総額らしい。第一東京弁護士会が債権者破産の申し立てを行ったようだ。

 弁護士法人の破産と聞くと、意外に思われる方もおられるかもしれない。また、不幸にして東京ミネルヴァに事件を依頼して処理途中だった方は、その後の手続きが心配だろう。

 私は良く知らないが、東京ミネルヴァは、大々的に広告を行って過払い請求、B型肝炎給付金などの顧客を集めていたようだ。金儲け目当ての業務に特化しているとしてネット上では、本業をやっておけばよかったのに、、、との批判的な指摘もあるようだ。

 東京ミネルヴァの破産報道に接して、ぼんやりと考えたので以下、とりとめのない雑駁な感想だが記しておく。

 司法改革が話題になってきたころから、マスコミは何と言ってきたか。

 弁護士も自由競争せよ。そのためにも法曹(司法試験合格者)の増員が必要である。

 こう言い続けてきたのだ。

 私は、弁護士の仕事の良し悪しは、顧客の方にはなかなか理解しがたいから、自由競争の前提が成り立たない(判断者である国民の皆様が弁護士の仕事の優劣を判断できない以上、自由に競争させれば良い弁護士が生き残るはずだという競争の前提が成り立たない)などとして反対してきたが、残念ながら結局国民の皆様から反対のご意見が出ることもなく、司法改革は推進され、法曹の大幅増員(といっても実際には弁護士の大幅増員)は実施され、今もその流れは止まっていない。

 マスコミは、弁護士をターゲットに、自由競争するように言い続け、その一方で「弁護士は社会的インフラである」などと矛盾したことを平然と述べていたこともあった。

 さてこのように、マスコミは弁護士も自由競争すべきだとの大合唱をしていたのだが、翻ってみるに、自由競争下では、収益を上げられない者、事業に失敗した者は、退場するしかない。したがって自由競争下では、何とかして収益を上げることが最優先課題になる。

 そうだとすれば、収益を上げることを最大の目的とし、大規模広告を行って大量の相談者を集め、その中から手間がかからず儲かりそうな案件だけを選別して受任し、相談者が非常に困っていてもペイしない事件は受任しない、というやり方は、弁護士が社会から期待されている役目に合致するかどうかはともかく、自由競争の中で生き残るための営業方針・ビジネスモデルとしては決して間違った方向ではないということになるだろう。

 そうだとすれば、金儲け目的に特化した弁護士という批判は、当たらないということになるのかもしれない。

 では、弁護士が社会から期待されている役割とは、何だったのか。

 かつて司法改革において、司法制度改革審議会意見書は弁護士について次のように述べた。

『弁護士は、「信頼しうる正義の担い手」として、通常の職務活動を超え、「公共性の空間」において正義の実現に責任を負うという社会的責任(公益性)をも自覚すべきである。その具体的内容や実践の態様には様々なものがありうるが、例えば、いわゆる「プロ・ボノ」活動(無償奉仕活動の意であり、例えば、社会的弱者の権利擁護活動などが含まれる。)、国民の法的サービスへのアクセスの保障、公務への就任、後継者養成への関与等により社会に貢献することが期待されている。』

 かいつまんで言えば、弁護士は社会的責任を自覚して、無償奉仕活動等で社会に貢献するよう期待されているってことだ。

 賢明な皆様には、もうお分かりだと思うが、上記のような弁護士像が、経済的利得を得られなければ退場せざるを得ないという自由競争社会の本質になじむものだったのかについては大きな疑問が残るだろう。

 収益を上げなければ退場しなくてはならない市場に放り込んでおいて、無償奉仕活動にいそしめと言われても、その要請が無茶であることは子供でも分かる話だ。

弁護士だって人間だ。
弁護士だって職業のひとつだ。

 人間だから弁護士だって霞を食って生きるわけにはいかない。また、弁護士だって弁護士業で働いて得たお金で、ご飯を食べなくてはならないし、家族を養わなくてはならない。自由競争下におかれたら、無償奉仕にいそしんでいる余裕などないのである。

 仮に司法制度改革審議会意見書の弁護士像を弁護士の理想像だと仮定するなら、将来の法曹需要を完全に見誤って弁護士の大量増員を支持した司法制度改革審議会、司法制度改革を通じて弁護士の増員を支持した人、弁護士も自由競争すべきと安易なマスコミの論調に流された人たちは、弁護士の大量増員を実現させたことにより、弁護士の理想像の実現をかえって遠ざけたという皮肉な結果をもたらしたともいえるだろう。

 マスコミも、これまで「弁護士にも自由競争をさせるべきだ」と散々述べてきたのだから、東京ミネルヴァの破産についても、社説や解説で、「東京ミネルヴァに依頼していた方は気の毒だが自己責任だ、これが自由競争社会のあるべき姿なのだ」と、堂々と主張してみたらどうだろう。

 その方が主張として、首尾一貫すると思うのだが。

法科大学院等特別委員会議事録から

 中教審の法科大学院等特別委員会の最新議事録で、菊間委員がおもしろいことを述べている。

(前略)今年も複数の社会人から相談を受けましたけれども,その中でロースクールに行くメリットは何と聞かれたときに私が答えているのは,エクスターンですとか,クリニックですとか,模擬裁判とか実務につながるような経験ができるということと,ロースクールにいるときから,裁判官や,検事や,弁護士と触れ合う機会がものすごく多くて,その中で実務,働き方が具体的に明確になるというところとお話ししています。また,ロースクールで知り合った先生方と弁護士になった後も仕事をしていることもたくさんあるので,そういう人脈づくりみたいな,人脈という言い方がふさわしいかどうか分からないんですけれども,そういうこともロースクールのメリットかなと。(後略)

 以前ご紹介した、菊間委員の発言内容「社会人から相談を受けたときに予備試験を勧めている」が、かなり衝撃的発言であったことから、今回はかなりトーンを落としてロースクール擁護に回っておられるように読めなくもない。

 それはさておき、菊間委員のご主張通り、実務家との接点と働き方が明確になるという点がロースクールの魅力だとすると、それは、従前の司法修習で十二分に果たされていた点であり、敢えてロースクールを設ける必要はないことになると私は考える。

 私の経験した実務修習では、裁判所・検察庁・弁護士会、いずれでも素晴らしい実務家の先生と一緒に事件を検討し、討論し、一流の実務家のスゴ技を目の当たりにして自らの未熟さを痛感するなど、エクスターンやクリニックのようなまねごとではなく、修習担当の先生が実際の事件という真剣勝負の中で一緒になってハンドメイドで教えてくれる貴重な体験が可能だった。

 私の時代に比べて、現状の司法修習期間では短すぎて実務家との接点が少なすぎるのでダメだとの反論が考えられるが、それなら期間を延長して司法修習を充実させればよいのである。

 実がなるかどうかわからない(司法試験に合格できるかどうかわからない)種モミ全てに、税金を投じて法科大学院教育を施しても、実がならない種モミにかけた税金は相当程度無駄になる。

 この点、法曹にならなくても、ロースクールでリーガルマインドを身につければ社会のお役に立つはずだ(だから税金の無駄遣いではない)との苦しい反論も考えられるだろう。しかし、現在の社会ではロースクール卒業生に与えられる法務博士の肩書が就職に役立ったとか、法務博士に限って採用したいという話が聞こえてこない(少なくとも私は、聞いたことはない。むしろ一部の上場企業法務関連担当者から、大きな声では言えないがロースクール卒業生はプライドだけ高くて使いにくいから採りたくないという話を複数聞いたことがある。)。

 つまり法務博士の資格は社会的に評価を得られておらず、極論すれば何の意味も持たないことからみても、ロースクール教育それ自体に、実社会が何らの価値を見出していないことは明らかある。したがって、ロースクール制度が税金の無駄遣いであることは、少なくとも私から見れば火を見るより明らかなのである。

 それに比べて、旧制度のように、司法試験を突破して生育可能性を示した早苗を選別し、その早苗にお金をかけて実務家に育てるほうが当然効率がいいし、仮に修習期間を延ばしたところで法科大学院に投じる税金より安く済むはずなので、税金の無駄も省かれるだろう。

 それでも、プロセスによる教育を受けなければ法曹としてダメだとロースクール擁護派が主張するのであれば、その証明をしてほしい。すでにロースクール開校から20年近くたっているのだから可能なはずだ。

 しかし、その証明はできまい。

 ロースクール擁護派の学者・実務家が言うように、もし本当にプロセスによる教育が法曹に必須なのであれば、予備試験合格ルートの司法修習生は、実務家になった後に、問題を起こしているか、実務界から忌避されていてしかるべきだ。

 ところが現実は違うのだ。

 むしろ大手ローファームが予備試験合格者を囲い込んでいたり、裁判官、検察官に予備試験ルートの修習生が相当程度採用されている事実からすれば、「プロセスによる教育」などという得体のしれないお題目に、実務界は何ら価値を置いていないことは明白である。ロースクール擁護派の弁護士がパートナーを務める法律事務所が、予備試験合格者を囲い込むような募集を行っているという、冗談のような話も散見されるのだ。

 そうだとすれば、いくら声高に必要性を叫んだところで、実務界では一顧だにされないプロセスによる教育を、なぜ多額の税金を投入して継続する必要があるのか、という素朴な疑問にたどり着くことになる。

 この素朴な疑問に対する、私の解答は極めて単純だ。

 法科大学院及び(文科省を含む)関連者の、既得権維持、これしかあるまい。

 こんなことで多額の税金を無駄に使い、法曹志願者を激減させて法曹の質を低下させた法科大学院制度は、根本的に間違っているとしか言いようがないだろう。

 ちょっと脱線が過ぎたので、本題に戻ろう。

 菊間委員によれば、ロースクールで人脈づくりができたとのお話だが、多くのロースクール卒業生が菊間委員のように、知り合った先生方と一緒に仕事がたくさんできるような人脈を構築できているとは思えないし、少なくとも私の知る限りでは、ごくまれな特異な現象だというほかない。
 おそらく、それは菊間委員の個人的属性に基づいて生じた結果ではないかと考えられるのであり、それを法科大学院のメリットとして一般化することは困難であろうと思う。

(続く、かも)

小さいツバメ~その後

 近所の喫茶店の軒先にあるテントに、一羽のツバメが止まっていることについては以前ブログで書いた。

 先日ジョギングの帰り道に、ふと気になって見に行ってみたところ、彼は相変わらずテントの内側を止まり木にして静かに寝ているようだった。

 しかし、以前とは違う点があった。

 彼の泊っている先にある、テントの内側の角には、泥や草で作られた新しい巣がかけられていたのである。

 背伸びして、巣の中をうかがうと、もう一羽のツバメのしっぽが見えた。
 おそらく、メスのツバメが抱卵しているのだろう。

 ベテランのツバメがかける巣に比べれば、少し不器用な形ではあったが、急ごしらえにしては、なかなかのものと見えた。

 ツバメは、1シーズンに数度、子育てをすることがあるそうで、どうやら最後の子育てチャンスにギリギリ間に合うように、パートナーと巡り会えたらしい。

 彼は、立派に、子育てに向けて頑張っているのだろう。

 一人で眠るその姿が小さく見えたという私の見立ては、どうやら間違っていたようだ。

 しかし、それが間違っていたことが、私には、うれしかった。

日弁連副会長~近弁連ブロックの持ち回り

 日弁連副会長については、東京三会、大阪の会長が兼務することはよく知られているところだが、他の副会長がどうやって選出されているのかは意外と知られていないかもしれない。

 私自身、日弁連代議員として、日弁連副会長を選出する代議員会に出席している者であるが、代議員会の前に、選挙によらずに選出する場合の参考資料として副会長候補者の一覧表が送付され、代議員会では規程上選挙により副会長を選出するのが原則でありながら、必ず動議が出て選挙によらず、事前配布の候補者が当選するはこびとなっている。

 ところが、その事前配布の候補者をどうやって決定しているのかについては、代議員になっても知らされることはなかった。

 今日、常議員会で、近弁連で来年度(令和3年度)の日弁連副会長を推薦する単位会について、従前の申し合わせ・ローテーションを参考に討議したとの報告があったので、その申し合わせやローテーションを具体的に教えてほしいと質問してみた。

 担当副会長がちょっと明確に答えられなかったので、川下会長が直々に、答えてくださった。

 川下会長の説明で、近畿弁護士連合会に所属する大阪・兵庫・京都・滋賀・奈良・和歌山での、日弁連副会長の選出順序が私にもようやく理解できた。

 川下会長の説明はおおむね以下のとおりである。

 まず、近弁連管内に割り当てられている日弁連副会長の席は2つである。
 そして、2つのうち1つは、大規模会である大阪の会長が当確で日弁連副会長を兼務することになっている。

 残りの1つの席については、近弁連の単位会を、兵庫・京都・その他(滋賀・奈良・和歌山)の3つに分け、持ち回りで日弁連副会長を出す。

 つまり、ローテーション通りだと、大阪は毎年、兵庫・京都からは3年に一度日弁連副会長を出すことになり、滋賀・奈良・和歌山の弁護士会は9年に一度日弁連副会長を出すことになるそうだ。

 圧倒的大規模会である大阪に日弁連副会長を全て独占させるわけでもなく、かといって会員数が異なる小規模会と大規模会を完全に同じ扱いするわけでもないので、それなりに考えられた割り当てなのだろう。

 弁護士会執行部、日弁連執行部に色気がある方なら常識の範疇なのだろうが、私のように特に執行部参画に色気も持たずに生きてきた一会員としては、初めて知った知識であった。

 これでは、チコチャンに「ぼーっと、生きてんじゃねーよ!」と叱られてしまいそうである。

昔話~ホンダVT250F

 VT250Fは、私が大学生のころ、ホンダが出していた250CCバイクである。

 その名の通り、90度V型ツイン(2気筒)エンジンを積み、素直なエンジンの特性などから、多くのライダーが乗っていた、いわば定番バイクでもあった。

 私自身、グライダー部の後輩のO君に借りて、九州ツーリングをさせてもらったりした。O君のVTは、VT250Fインテグラと呼ばれるレーシングタイプのカウルがついた特別仕様車で、とても格好良かったことを覚えている。

 そのツーリングは、確かクラブの先輩と二人で行ったはずで、長崎や阿蘇のユースホステルを利用して九州北部を回った。

 かなり記憶が薄れているが、阿蘇では、ご来光を拝もうとユースホステルに来ていたライダー達10人ほどで大観峰まで走ったように思う。集団で走るのもなかなか面白いものであることを知ったのも、この時である。

 どこをどう走ったのかあまり記憶に残っていないのだが、ユースホステルで仲良くなった女の子と別の観光地で待ち合わせをすることになったとかで、一緒に来ていたクラブの先輩から突然、「一人で帰っていいよ」といわれ、帰り路が一人だったことは、なぜだか鮮明に覚えている。

 京都に戻り、その先輩に「○○さん、ひどいじゃないですか~。女の子とデートするために俺を見捨てるなんて・・・・」と苦情を言ったところ、「そんなこと、あったっけ?」ととぼけられ、諸行無常を感じたものである。

 「ボビーに首ったけ」という片岡義男の小説がアニメ映画化されたが、その中でも主人公はVTに乗っていたはずだ。エンジンパワーも、35馬力→40馬力→43馬力と、パワー競争に対応して上げられていた。

 私が乗った経験があるのは35馬力と40馬力のものだ。43馬力のVTはデザインが少し私好みではなく、興味が持てなかった部分もある。

 私も事情があってカタナイレブン(スズキのバイク)を手放した後、司法試験に合格した先輩から安くVTを譲ってもらって少し乗っていたことがある。

 カタナ自体は、デザイン的にも乗っているときの優越感等も含めて、とてもいいバイクだったが、VTはVTで、パンチのきいたところこそなかったが、乗り手を選ぶことがない、角の取れた素直なバイクだった。楽に乗れてそこそこ走れるという点で、決して悪いバイクではなかったと思う。

 今の私にはおそらくビッグバイクは手に余る可能性が高いが、VTくらいの素直なバイクなら、まだ乗れそうな気がしたりもする。それだけ扱いやすかった記憶が残っているバイクである。

昔話~ヤマハPHAZER

 私が大学生だった頃、250ccのバイクでも4気筒のものが流行っていた。確か最初はスズキが、GSで250ccで初めて4気筒モデルを出したように思うが、特に一時期人気を集めていたのが、ヤマハのフェーザー(FZ250)だった。

 未来的なフォルムのハーフカウルを身をまとい、レッドゾーン16000回転(確かタコメーターは18000回転)まで回る高回転型エンジンを積み、その高回転時の排気音は、まるでジェット機を思わせるようなものだった。それでいて、小さくて扱いやすく、小柄なライダーや女性ライダーが乗っていることも多かった。

 私も、知人に借りて初期型に乗ったことがあるが、またがってみると、両足がぺたんとついて余裕があることにまず驚いた。エンジンに火を入れて、アクセルを回してみると、軽々と吹けあがり、タコメーターがビュンビュン動く感じだった。

 もちろん高回転まで回せば、ジェット機のような排気音を高らかに響かせ、エンジンのパワーバンドに入ったあたり(確か8000回転くらいだったと思うが)から、グンと加速する感じだったことを覚えている。

 自動車でいうなら、ホンダの、ハイカムに切り替わったVテックエンジンを尖らせたような感触といえばよいのだろうか。それまでの回転数とは違う加速を見せるエンジンだった。

 その後、ホンダ、カワサキも4気筒250ccのバイクを投入し、比較的旧式となったフェーザーは、FZRへとバトンを渡すことになったはずだ。

 私は、大型バイクに乗りたくて、当時免許試験場でしか実施していなかった限定解除試験に何度も挑戦していたので、限定解除を果たしてカタナに乗るまで、中型バイクを買ったことはなかったが、4気筒250ccのバイクも実は相当魅力的だった。

 季節が良くなると、バイクを楽しんでいる人も増えてきて、時折、昔のように乗ってみたいと思う気持ちもわいてくる。

 おそらく、昔のままの気持ちで安易に触ると、当然、体力も反射神経も衰えているので、たちまち、転倒→骨折→松葉づえのゴールデンパターンにはまることは火を見るより明らかだ。

 しかしそれであっても、機会があれば、バイクを乗り回してみたいと思ってしまう、少々厄介な自分がいることもまた、事実である。

将棋ファンとしてはたまらない

 すでに報道されている通り、藤井聡太七段が、将棋のタイトル戦である棋聖戦の挑戦者になった。

 新聞報道によると、正式には挑戦者として対局した時点で、タイトル挑戦最年少記録ということになるのだそうだ。確かに、挑戦者を決定するトーナメントで優勝していても、何らかの事情で挑戦者としての対局ができなかった場合は、タイトル挑戦の事実は生じないので、まあ納得はできる。

 藤井聡太七段が挑戦する棋聖タイトル保持者は、渡辺明三冠である。これまで中学生でプロになれた天才棋士は、加藤一二三・谷川浩司・羽生善治・渡辺明・藤井聡太の歴史上五人しかいない。藤井七段にとって、中学生棋士経験者で、一番新しい先輩が渡辺明ということになる。

 渡辺三冠は、長らく竜王位に君臨し、初めて永世竜王の称号を得たことでも知られる。

 そして渡辺三冠の前に、中学生で棋士になった3人(加藤・谷川・羽生)はいずれも、最も歴史のあるタイトルである名人を獲得している。

 渡辺三冠も、当然早々に名人位を取るだろうと私は思っていたが、どういうわけかこれまで名人位に挑戦すらできていなかった。しかし、昨年度A級順位戦では、順位戦最高のAクラスの猛者達を相手に、全勝して豊島名人への名人挑戦権を獲得した。つまり極めて充実した状態にあるといってもいいだろう。

 新型コロナウイルスの影響で、対局時期が例年より大幅に変わってしまったこともあり、渡辺三冠は、名人戦挑戦と藤井七段を迎えての防衛戦を、並行して戦わなければならなくなった。

 スケジュール的には大変だろうと思う。

 しかし報道によれば、渡辺三冠も、藤井七段とのタイトル戦は、歴史に残るタイトル戦になるだろうと述べているそうで、そのように注目度の高い棋戦で、天才が燃えないわけがない。

 一方、名人戦も最も歴史のあるタイトルであるし、これまで25期もタイトルを獲得していながら、名人位はまだ獲得したことのないタイトルなので、渡辺三冠としては、やはり獲得に燃えているだろう。
 

 これは、将棋ファンとしては楽しみな日々が続きそうである。

豊かな人間性を教えることができるのか?

 中教審法科大学院等特別委員会では、プロセスによる教育の理念等、未だにほぼ20年前に定められた司法制度改革審議会意見書に取りすがった議論がなされているように見える。

 今から見れば、そもそも法曹需要の飛躍的増大が見込まれる、という出発点が完全に誤っており、その誤った出発点を前提に構築された改革意見書ということになるので、その意見書に取りすがる姿は、私から見れば、もはや滑稽でもある。

 以前も言ったことがあるように思うが、豪華客船が航海している際に、今年の冬は特に寒く、現に氷山もいくつか見られるので、進路を変えるべきだと現場の航海士が進言しているのに、船長が「20年前に決まった航路なので、変更することは理念に反する。決められた通り、高速で運行せよ。」と言い張っているようなものである。そういう主張を、当代一流の学者が、法科大学院制度維持のために主張し続けているところが泣けてしまう。

 司法制度改革審議会の意見書内で、法科大学院の教育理念について触れた部分があり、そこには以下のような指摘がある。

「法曹に共通して必要とされる専門的資質・能力の習得と、かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養、向上を図る。」
 

 考えてみれば、ものすごい記載である。法科大学院では、「かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養」、ができるようにするってことである。

 私事になって恐縮だが、私は、関西学院大学の法学部で10年以上教えているし、大学院の法学研究科でも教えているが、いくら大学生・大学院生とはいえ、自分で勉強しようという気持ちにならないと、何にも身につかないと思っている。

 よく、馬を水飲み場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできないというが、勉強においても同じことだと感じている。

 したがって、私もそうだったが、学生さんに無理やり勉強しろと言っても、勉強するわけではないし、学生さんだって就職活動や、恋愛や、クラブ活動に忙しい。そんな中で、いやいや勉強させてもほぼ身につかないので、その点については残念ながらあきらめているといってもいい。

 あきらめているとはいえ、講師として、さじを投げているわけではない。ひょっとして法律って面白いかもしれないね、と思う気持ちの種だけは撒けないかなと思って演習を行っている。

 ひょっとしてこれは面白いかもしれないと思えば、自分で勉強する気になる可能性が出てくるし、勉強する気になって自ら勉強を進めていくうちに、「ん?こいつは面白いとこあるやん?」と思えれば、しめたものだ。
 ゲームにはまる人を見ればわかると思うが、人間って生き物は、面白いと思うことついては、睡眠を削ってでものめりこんでしまうものだし、面白いことであれば頭も働く。もちろん理解も早いし記憶もしやすくなる。

 私は、できるだけ面白いかも?と思えるような題材を提供できないかと思って演習をするよう心掛けている。学者(学説)の対立構造、裏話、法律それ自体ではなくても法律関連で面白いことがあれば、こいつは面白いかもと、興味をそそらせることができるかもしれないからだ。

 よく、法律なんて血も涙もないと、言う人もいるが、民法の条文をみれば、様々な利害対立を解決するために、ある時は動的安全に重きを置き、またある時は静的安全との調和を図るなど、その裏側にある立法趣旨は相当人間臭い価値判断から来ているものもあるのだ。

 私は自分自身の経験から言っても、教師にできることって、対象に興味を持たせ、学生が自分で勉強していく手助けを行う、その程度だと思うのだ。

 もちろん教える立場にある以上、できることはその程度といっても、私としては質問については、可能な限り誠実に答える。わからない質問にはわからないと答えて、調べて回答できるならそうするし、調べてもわからない場合はどこまで調べたかを伝えて、分からなかったことを正直に答える。誠実さは失ってはならないと思っている。

 私は、自分自身が大した人間ではないことは、わかっているつもりなので、豊かな人間性や幅広い教養などを学生に教えることは到底できない。
 また、少なくとも私が学んだ京都大学では、「私の持っている豊かな人間性を学べ!」などと恥ずかしすぎる態度をとる教授など皆無だったし、今でもそんな、オタンコナスの教授は、いるはずがないと信じている。

 もちろん、それぞれの先生には、それぞれの生き方があったわけで、その先生に魅力的な生き方や人間性があると思うのなら、それを取り入れることは学生さんの自由だ。
 しかしそれを、個々の学生に強要してはならないと私は思う。仮に、大学教授が「自分には豊かな人間性がある!」と、恥ずかしすぎる(ある意味傲慢な)信念を持っていたとしても、それは自分だけの思い込みで、周りが見えていないだけの完全な独善かもしれないじゃないか。

 そもそも豊かな人間性や教養など、学生が自らの努力・経験などから獲得したり作り上げていくものであり、誰かが教えたところで身につくようなものではないと思う。
 仮に万一、豊かな人間性を大学で身に付けさせることができるのであれば、高等教育機関を経た人間は全て素晴らしい人間性を持つということになるだろうが、そのような事実がないことは、誰だって分かる。

 偉そうに人間性など教えようとする人間こそ、人間性を欠いている場合が多いように私は思う。

 以上の私の経験からいえば、法科大学院に通わないと人間性が豊かにならないとか、予備試験を目指す学生の心が貧困であるなどという発言があるとしたら、それは、自分のできることを過大評価しすぎた思い上がりの発言だとしか思えない。

 そういう思い上がった発言をする教師の下で、長期の法科大学院生活を送らなければならないとするのなら、それはとても不幸なことではないだろうか?

今朝の出来事

 今朝、5時半頃だったと思うが、隣からハトの鳴き声と羽ばたきがひどく聞こえてきて目が覚めてしまった。

 何事かと思って、外を見ると、おぼつかない足取りと羽ばたきで塀にすがっている2羽のハトと、近くで鳴き声を上げている1羽のハトが原因だった。

 キジバトなどではなく、普通の土鳩である。羽ばたきはするものの、なかなか飛び立てず、うろうろしているところから見て、巣立ちをしようとしているのだろうとわかった。

 こちらが、窓から見つめていると、若鳥が慌てて塀の上で方向転換しようとして、危なく落ちそうになったので、巣立ちを見守ることはやめて、そっとカーテンを閉めた。

 数分のち、大きな羽ばたきと鳴き声が少し聞こえたのち、静かになった。

 カーテンの隙間から覗いてみると、もうどこにもハトはいない。
 周りを見ても、地面に降りているわけでもなさそうなので、どうやら無事に巣立ったようだ。

 ノアの箱舟の大洪水の際にも、確かハトがオリーブの枝を咥えて戻ってきたという話があったように記憶しているが、現実には繁殖しすぎてフン公害の原因となっていたりする。

 私が事務所から昼食を食べに外に出る際にも、ハトフンがたくさん落ちている近くに、土鳩が十数羽も寝そべっている(実際に、足で立たずに地べたに寝そべっているのである!)場所があるのをみると、環境的にはプラスじゃない生き物かもしれないなと、つい思ってしまう。また、人を怖がるどころか、人がよけて当然でしょと言わんばかりの態度が見えて、普段ならあまり好きな連中ではなかった。

 マンションのベランダで野生のハトを餌付けした住民がいたため、大量のハトが押し寄せるようになり、部屋の使用差し止めなどの訴訟に発展した事例もあったはずだ。

 おそらく、今日巣立ったハトも野生の環境の中では、生き延びるのは、そう簡単ではないだろう。残念だが土鳩は、あまり好きな種類の鳥ではないし、鳥類全てを博愛主義的に大事にできるほど、私はできた大人ではない。

 だが、恐怖に打ち勝ち、思い切って飛び立った今日の巣立ちを、なぜだか祝ってやりたくなったのは、私が歳を取ったからなのかもしれない。

 巣立ちのハトに早朝に起こされ、ひどく寝不足を感じながらも、私はそう思っていた。

京都五条壬生川、お好み焼き店「ふくい」閉店

 もう30年近くも前、私が、大学生の頃、友人に初めて連れて行ってもらったのが五条壬生川にあるお好み焼き店「ふくい」だった。

 その当時でもかなり年代物の雰囲気はあり、くすんだ壁の色や、色褪せた「日日是好日」の色紙などに、懐かしさを感じるようなお店だった。

 お好み焼き、焼きそば、と緑色の看板に書いてあったように記憶するが、断然一押しは焼きそばだった。

 基本的には、おばちゃん(おばあちゃん?)が焼いてくれるので、客は手を出す必要はない。まず、ラードを使ってそばと具材を焼くのだが、焼きそばの文字通りで、そばが一部カリカリになるほど焼いてしまう。おそらくその方がソースのシミがいいのだと思うが、初めて見たときは焦がしてしまうのではないかと本気で心配になったことを覚えている。

 その次に大きなステンレスの皿に盛り上げた、キャベツが鉄板の上に大量に投入され、おそらく味の素ではないかと思われる調味料がさっと振りかけられた後、その上に具材とよい具合に焼けたそばが、乗せられる。

 おばちゃんが、無造作ながらも、一度でズバリそばの量に見合った適量をつかみ取った鰹節をかけ、辛めのソース、次に甘めのソースを適量加えて、両サイドからキャベツをうまい具合に焼いていけば、出来上がりだ。良く焼いてくれるおばちゃんは、確か「ヒイラギさん」というお名前だったと思う。お歳こそ召されていたが、とてもかわいらしい方だった。

 清潔感あふれるお店かというと失礼ながらそうではない。しかし、食べ始めればそんなことは、もうどうでもよくなってしまう。

 ソースの甘みとキャベツの生き生きとした歯ごたえがたまらない。味(量も)で勝負のお店なのだ。大盛にすればかなりの量にもなるので、腹ペコの男子大学生二人でもお好み焼き1人前、焼きそば大盛2人前にすると、やっつけるのは相当大変だった記憶がある。京都で学生生活を送った方で、「ふくい」の焼きそばにお世話になった方も相当数いるはずだ。

 大学卒業後はしばらく間が空いてしまっていたが、3~4年ほど前から、懐かしくなって何度も通うようになっていた。

 最近では、お好み焼きの他にも、タレが美味いことに気づいて鉄板焼き(キャベツと具材焼き)もお気に入りになり、特に、ここ1~2年はそこそこ通ったほうだと思う。

 確か昔は、深夜3時ころまで営業していたように思うが、いつの頃か夜11時閉店に変わり、週末の夜食には、少し不便にはなっていた。また焼きそばを焼いてくれるのもおばちゃんではなく、中国人留学生?と思われる人が増えていた時期もあった。おそらくインターネット等で紹介されたのだと思うが、外国人の客の姿もだんだん増えつつあった。

 インターネットでの京都新聞ニュースによると、コロナウイルスの影響もあって、昨日閉店したそうである。

 勝手なもので、もうあの焼きそばを食べられないのかと思うと、なぜだか無性に食べたくなる。

そんな食べたい気持ちでさえ、いまは、寂しいものである。