報道によると弁護士法人東京ミネルヴァ法律事務所(以下「東京ミネルヴァ」という。)が、東京地裁から破産開始の決定を受けたそうだ。弁護士法人としては過去最大の負債総額らしい。第一東京弁護士会が債権者破産の申し立てを行ったようだ。
弁護士法人の破産と聞くと、意外に思われる方もおられるかもしれない。また、不幸にして東京ミネルヴァに事件を依頼して処理途中だった方は、その後の手続きが心配だろう。
私は良く知らないが、東京ミネルヴァは、大々的に広告を行って過払い請求、B型肝炎給付金などの顧客を集めていたようだ。金儲け目当ての業務に特化しているとしてネット上では、本業をやっておけばよかったのに、、、との批判的な指摘もあるようだ。
東京ミネルヴァの破産報道に接して、ぼんやりと考えたので以下、とりとめのない雑駁な感想だが記しておく。
司法改革が話題になってきたころから、マスコミは何と言ってきたか。
弁護士も自由競争せよ。そのためにも法曹(司法試験合格者)の増員が必要である。
こう言い続けてきたのだ。
私は、弁護士の仕事の良し悪しは、顧客の方にはなかなか理解しがたいから、自由競争の前提が成り立たない(判断者である国民の皆様が弁護士の仕事の優劣を判断できない以上、自由に競争させれば良い弁護士が生き残るはずだという競争の前提が成り立たない)などとして反対してきたが、残念ながら結局国民の皆様から反対のご意見が出ることもなく、司法改革は推進され、法曹の大幅増員(といっても実際には弁護士の大幅増員)は実施され、今もその流れは止まっていない。
マスコミは、弁護士をターゲットに、自由競争するように言い続け、その一方で「弁護士は社会的インフラである」などと矛盾したことを平然と述べていたこともあった。
さてこのように、マスコミは弁護士も自由競争すべきだとの大合唱をしていたのだが、翻ってみるに、自由競争下では、収益を上げられない者、事業に失敗した者は、退場するしかない。したがって自由競争下では、何とかして収益を上げることが最優先課題になる。
そうだとすれば、収益を上げることを最大の目的とし、大規模広告を行って大量の相談者を集め、その中から手間がかからず儲かりそうな案件だけを選別して受任し、相談者が非常に困っていてもペイしない事件は受任しない、というやり方は、弁護士が社会から期待されている役目に合致するかどうかはともかく、自由競争の中で生き残るための営業方針・ビジネスモデルとしては決して間違った方向ではないということになるだろう。
そうだとすれば、金儲け目的に特化した弁護士という批判は、当たらないということになるのかもしれない。
では、弁護士が社会から期待されている役割とは、何だったのか。
かつて司法改革において、司法制度改革審議会意見書は弁護士について次のように述べた。
『弁護士は、「信頼しうる正義の担い手」として、通常の職務活動を超え、「公共性の空間」において正義の実現に責任を負うという社会的責任(公益性)をも自覚すべきである。その具体的内容や実践の態様には様々なものがありうるが、例えば、いわゆる「プロ・ボノ」活動(無償奉仕活動の意であり、例えば、社会的弱者の権利擁護活動などが含まれる。)、国民の法的サービスへのアクセスの保障、公務への就任、後継者養成への関与等により社会に貢献することが期待されている。』
かいつまんで言えば、弁護士は社会的責任を自覚して、無償奉仕活動等で社会に貢献するよう期待されているってことだ。
賢明な皆様には、もうお分かりだと思うが、上記のような弁護士像が、経済的利得を得られなければ退場せざるを得ないという自由競争社会の本質になじむものだったのかについては大きな疑問が残るだろう。
収益を上げなければ退場しなくてはならない市場に放り込んでおいて、無償奉仕活動にいそしめと言われても、その要請が無茶であることは子供でも分かる話だ。
弁護士だって人間だ。
弁護士だって職業のひとつだ。
人間だから弁護士だって霞を食って生きるわけにはいかない。また、弁護士だって弁護士業で働いて得たお金で、ご飯を食べなくてはならないし、家族を養わなくてはならない。自由競争下におかれたら、無償奉仕にいそしんでいる余裕などないのである。
仮に司法制度改革審議会意見書の弁護士像を弁護士の理想像だと仮定するなら、将来の法曹需要を完全に見誤って弁護士の大量増員を支持した司法制度改革審議会、司法制度改革を通じて弁護士の増員を支持した人、弁護士も自由競争すべきと安易なマスコミの論調に流された人たちは、弁護士の大量増員を実現させたことにより、弁護士の理想像の実現をかえって遠ざけたという皮肉な結果をもたらしたともいえるだろう。
マスコミも、これまで「弁護士にも自由競争をさせるべきだ」と散々述べてきたのだから、東京ミネルヴァの破産についても、社説や解説で、「東京ミネルヴァに依頼していた方は気の毒だが自己責任だ、これが自由競争社会のあるべき姿なのだ」と、堂々と主張してみたらどうだろう。
その方が主張として、首尾一貫すると思うのだが。