今年1年

 今年1年、本当にいろんなことがあった。

 一番大きな出来事は、やはり、東北の大震災だろう。大阪まで揺れたときに、たまたま私は事務所のエレベーターに乗っていたが、エレベーターが壁にゴンゴンとぶつかりながら上昇していたので、ひやひやしたことを覚えている。

 その後インターネットや、依頼者の方のお話、テレビ等で、被害の大きさを知った。福島第一原発はその後もずっと報道され続けている。

 大きな自然の力の中では、人間の力は無力に等しい。

 しかし、それでも人は助け合って生きていく。被災された方々は、大きな痛手を負いながらも、無政府状態にも陥らず、略奪行為等の治安の悪化もさほど見られず、一生懸命助け合いつつ、日本人の優れた特性を世界に示された。

 復興は、まだまだこれからだ。震災の時にみんなの心に宿った、助け合いの気持ちが次第に薄れていってからが、本当に大変な復興の過程なのだろう。

 他にも様々な事があった。それでも新年は誰にでも平等にやってくる。

 来年は、きっと皆様にとって良き年になるよう、お祈り申しあげます。

 当職の今年のブログ執筆は、これで終了させて頂きます。

 身内に不幸があったため、新年のご挨拶は遠慮させて頂き、来年また、ぼちぼち、ブログを更新していこうと思っております。

司法制度改革が目指した法曹像

制度を活かすもの、それは疑いもなく人である。上記のような21世紀の我が国社会における司法の役割の増大に応じ、その担い手たる法曹(弁護士、検察官、裁判官)の果たすべき役割も、より多様で広くかつ重いものにならざるをえない。司法部門が政治部門とともに「公共性の空間」を支え、法の支配の貫徹する潤いのある自己責任社会を築いていくには、司法の運営に直接携わるプロフェッションとしての法曹の役割が格段と大きくなることは必定である。(司法制度改革審議会意見書より)

 プロフェッションとは、必ずしも明確な定義はないようだが、ある学者さんの定義によると次のような者らしい。

 「プロフェッションとは,学識(科学または高度の知識)に裏づけられ,それ自身一定の基礎理論をもった特殊な技能を,特殊な教育または訓練によって習得し,それに基づいて,不特定多数の市民の中から任意に呈示された個々の依頼者の具体的要求に応じて,具体的奉仕活動をおこない,よって社会全体の利益のために尽す職業である」(石村善助「現代のプロフェッション」(1969))

 社会全体の利益のために尽くす職業、という点が通常の職業や単なる専門職とは異なるように私には思われる。

 そこには、個々の依頼者の具体的要求に応じながらも、社会全体の利益という視点が必ず背後にはあるということだ。

 だからプロフェッションとしての弁護士は、依頼者のどんな要求にも応じる存在ではなく、依頼者の不当な要求の実現要求に対しては、明確にノーといえなければならないはずだ。

 ところが、マスコミ論調を見てみると、弁護士も自由競争を促進すべきだというものが未だに見られる。自由競争は儲けた者勝ちの競争だ。そこで、依頼者の不当な要求にはお答えできないとしてプロフェッションとしての矜持を守ろうとすれば、自由競争には敗れる可能性が高い。

 弁護士のプロフェッション性と、自由競争の激化は、どう考えても矛盾するように思う。しかし、法科大学院擁護派のエライ先生方は、この両方の要請が何故か両立すると考えているようだ。

 かつて、ニューズウイークで、アメリカの弁護士がプロフェッション性を失ったことが嘆かれていたブログを書いたことがあるとおり、現実には、弁護士のプロフェッション性と自由競争が両立しないことが明らかだ。

 果たして国民の皆様は、依頼者の利益のために盲目的にしたがう弁護士と、依頼者の不当な要求に威厳を持ってノーと言える弁護士と、どちらを求めているのだろうか。

映画 「聯合艦隊司令長官山本五十六」

 二〇三高地、八甲田山など、父親に連れられてみたせいか、私は、このような映画も好きな部類にいれている。

 「太平洋戦争70年目の真実」

 というのが、この映画の副題である。

 とはいっても、特にびっくりするような真実があるわけではなかったように思う。普通に戦艦・戦闘機好きだった私でもよく知っているようなお話が続くのだ。マニアの方には、かなり物足りない内容かもしれない。

 予告編・特報で見た戦艦長門の格好良さから、おそらくCGで再現される連合艦隊の艦船・飛行機群は素晴らしいだろうと思っていたし、その期待に添う内容だったように思う。

 しかし、私が思うに、山本五十六という人物を描くにはあまりにも時間が短すぎたのではないか。開戦前からブーゲンビル上空での戦死までを一本の映画に詰め込もうとしたため、山本五十六の人物像がどうしても希薄になってしまった感が否めない。

 開戦慎重論から、鬼気迫る黒島参謀による真珠湾作戦の立案、作戦決行か否かで相当揉めたはずの真珠湾攻撃、そして最も劇的な勝利となるはずが、外務省の宣戦布告通告の遅れで卑怯な奇襲とされてしまった過程に絞って、映画化すれば、もっと深みのある描写等が出来たのではないだろうか。

 役者揃いの上に、CGによる連合艦隊の素晴らしい復活がなされていただけに、個人的には、惜しい映画だと思う。

友新会のパンフレット

 大阪弁護士会では、現在、中本和洋先生が会長だが、次期会長は、立候補すると噂されていたF先生が降りられたようなので、おそらく、Y先生ではないかといわれている。

 そのY先生の所属する会派が、友新会という会派だ。

 その友新会が、先日「今こそ社会の信頼に応えるとき~弁護士・弁護士会の課題~」と題した、豪華パンフレットを大阪弁護士会全員に配布した。

 そのパンフレットの司法改革関連の部分を読んだのだが、とても現状の問題点を把握しているとはおもえない、暢気な内容と私には読めた。

 パンフレットには、市民の司法、大きな司法を実現するのが、目的であるかのように書かれている。しかし、果たして本当に国民の皆様は、ちょっとした揉め事ですぐ弁護士が交渉に出てきたり、すぐに裁判になるような社会を望んでいるのだろうか。こっちが嫌でも相手が弁護士を立ててくるなら不利にならないように、こちらも弁護士に依頼せざるを得ない。それはつまり、法的な用心棒を雇うことだから当然費用は自分持ちである。

 しかも、アメリカのリーガルコストはおそらく極めて高額にのぼるが、そのようなリーガルコストを負担してまで、国民の皆様は訴訟社会を望んでいるのだろうか。

「 次に、アメリカにおけるリーガル・コストのことを考えてみたい。まず、アメリカには80万人の弁護士がいるといったが、彼らは米国の全GNPのおよそ3%程度の稼ぎを生み出している。GNPの3%というのはとてつもなく巨大な数字で、日本の防衛費がGNPの1%であることと思うと、その額の大きさがわかるだろう。たとえていうなら、自衛隊の3倍の規模の稼ぎというか、経済規模を持っているということある。裏を返せば、これは「アメリカではそれだけのリーガル・コストがかかる」ということなのである。つまりアメリカで企業活動をするには、売上高の3%程度の弁護士費用を当初から見込んでおかないと安心できないというわけだ。 」

(出典:石角莞爾著「国際ビジネス契約入門」1987 220頁~但しインターネットからの孫引き)

(上記を前提にした超大雑把な日米比較)

2010年度 日本の実質GDP約539兆円

弁護士の総売上 

弁護士1人あたりの平均売上約3300万円(弁護士白書)

        ×30524人

           =1兆0072億9200万円 

対GDP比 約0.02%

 GDPとGNPの違いを無視して、25年前と同じくアメリカのリーガルコスト総額がGDP比3%を維持しているとし、現在のアメリカのロイヤーを100万人と仮定すると、

0.02:3=1:150

 アメリカでは、対GDP(GNP)比率にして日本の約150倍のリーガルフィーを、日本の約30倍の数のロイヤーで売り上げている(弁護士1人:ロイヤー1人=1:5の売上)ことになる。

 実質的にはアメリカのGDPは世界一なので、米国社会の負担するリーガルコストの総額は、さらにかさんでいると考えることも不可能ではないはずだ。

 事件数を無視して相当乱暴な比較をするとして、アメリカのロイヤー並のリーガルコストがグローバルスタンダードであると仮定するならば、日本の弁護士のフィーとしては、今の弁護士費用の5倍が適正な値段と言えなくもないのだ。

 つまり、日本社会は幸運にも訴訟社会ではなく、また弁護士数がそう多くはないこともあって、リーガルコストが極めて低く抑えられた社会とも言えるのだ。しかし、このまま弁護士を激増させて事後的救済社会、米国型社会を目指すのであれば、当然、相当のリーガルコストの増加は避けられない。

 それだけのコストを社会や国民が負担するだけの合意があるのかについて、なんの検証もされていない。

GNPの3%ものリーガルコストとはあまりにも異常である。

 本来、リーガルコストは、それにより価値を守ることはあっても、価値を生み出すコストとは言い難い。

 一部の弁護士は、弁護士が増えれば社会が良くなると考えているようだが、果たして弁護士が有り余って、すぐ訴訟になるような社会が健全なのか。

 例えば米国の社会は、弁護士が100万人近くいるということであるから、極めて大きな司法といえるかもしれないが、そのアメリカで、自分で買ったマクドナルドのコーヒーをこぼして火傷を負った女性が、当時のレートで4億円もの損害賠償が認められてしまう社会が本当に健全なのか。

 弁護士が増えれば社会が良くなるというのは、一部弁護士の独りよがりではないのだろうか。

 司法改革を進めた人達は、もう少し冷静になって、現実を見て欲しい。

 友新会のパンフレットが、必ずしもY先生の政策とは限らないが、会派に雁字搦めとなる会長さんが多いようなので、ちょっと来期の大阪弁護士会は、司法制度改革に関しては大ハズレの予測しかできず、しかも予測が外れたにもかかわらず軌道修正しようともしなかった旧主流派と同じ態度をとりがちではないかと予測される。

 Y先生がその旧弊を打破して下さればよいのだが・・・・・。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

毎日新聞の記事の謎

(新聞記事の引用開始)

 司法試験:「合格者1500人に減員を」 日弁連、初の具体案提言へ

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20111219ddm041040073000c.html

 日本弁護士連合会の「法曹人口政策会議」が17日の会合で、司法試験の年間合格者数について、現状の約2000人を1500人に減員するよう求める提言案をまとめたことが関係者の話で分かった。3000人への増員を目指す政府方針に反する初の具体的な削減案。
 日弁連は今後、地方 の各弁護士会からの意見を踏まえ、来年3月の提言を目指す。
 提言案は「法曹人口増員のペースが急激すぎ、司法の現場に深刻な問題を引き起こしている」と指摘。その上で「合格者をまず1500人程度に まで減員し、さらなる減員は法曹養成制度の成熟度などを検証しつつ対処すべきだ」とした。
 新しい司法制度のあり方を議論した政府の司法制度改革審議会は01年、「国民の期待に応える司法制度」のためとして人的整備の必要性を掲げ、「10年ごろには、司法試験の合格者を年間3000人とすることを目指すべきだ」とする意見書を作成した。政府は02年、意見書に沿った 増員計画を閣議決定した。
 以後合格者数は増加し、10年には政府方針には届いていないものの、約2000人に到達。今年も同じ規模を維持した。しかし、それに応じた 法的需要の拡大が進まず、新人弁護士の就職難が深刻化している。日弁連は今年3月、「司法試験の年間合格者数を現状より相当数減員すべきだ」とする緊急提言を発表していた。
【伊藤一郎】

(記事引用ここまで)

 このような素っ破抜き記事が出ているので、もう隠しても仕方がないだろうが、日弁連法曹人口政策会議では、日弁連執行部に対して提出する、司法試験合格者を減少させるべきであるという内容の提言案をまとめた。

 問題は、法曹人口政策会議の提言案は、日弁連執行部に対して提言するものであり、その後各単位会や、関係委員会への意見照会を経たうえで、日弁連理事会の承認を得て日弁連の提言として公表されるのが筋だ。私もツイッターで審議状況はある程度お伝えしたが、結論としてどのような内容になったのか、まとまったのか否かについては、明示していない。正式な提言案が提出されたわけではない状況だからだ。
 

 新聞記事によると、ある関係者からの情報ということなので、意図的なリークが考えられる。

 司法試験合格者を1500人にしようが、1000人にしようが、弁護士が毎年3~400人しか辞めていかない現状では、弁護士数は増え続ける計算だ。増える率を急にするか、緩やかにするかの違いなのだ。
 

1500人という数字が強調されている記事の内容からすれば、「日弁連の司法試験合格者減員提言は1000人ではなく、1500人である」と印象づけるために、敢えて弁護士の増加ペースを出来るだけ落としたくないと考える、これまでの司法制度改革万歳論者が意図的なリークした可能性が考えられる。

 リークする意図は他にも考えられる。

 日弁連会長選挙が迫っていることだ。

 現在立候補をすると目されているのは、

 宇都宮健児氏(現)

 山岸憲司氏(新)

 尾崎純理氏(新)

 森川文人氏(新)

 前回の日弁連会長選挙で宇都宮候補は、司法試験合格者に関して、「司法試験合格者数1500人をめざし、さらに1000人決議をしている単位会の意向を尊重して対処する。」との公約で、再選挙によって当選を果たし、合格者削減目標数を明示できなかった山本候補は落選した。

 これまで山岸氏や尾崎氏が、どれだけ法曹人口激増に対抗して活動してこられたのか私は全く知らないが、少なくとも、山本候補の轍を踏まないように司法試験合格者数1500名を公約に掲げる様子である。

 そこで、法曹人口政策会議から出た日弁連への提言案が、1500人よりも更に削減する内容であったなら、法曹人口政策会議の議長は宇都宮会長なので、宇都宮会長は公約実現のために少なくとも日弁連内では全力を尽くしたことになり、反面、山岸氏、尾﨑氏の提言が時代遅れのものになってしまう危険があった(現に、今月に入って、山岸陣営・尾崎陣営からは司法試験合格者数を1500名にするという内容を含んだ豪華なパンフレットが全会員に配布されている)。

 対外的にはともかく、宇都宮会長は公約を死守しようと努力し、少なくとも日弁連の姿勢を変えたことで再選への道が大きく開ける可能性もあったかもしれない。

 そう考えると、詳細は言えないが、議長代行、事務局長の説明もよく分からない部分があった。

(12月21日追記:法曹人口政策会議のMLで、修正案につながる臨時正副会長会議の討議過程について、事務局長から詳細な説明がなされ、私としては、修正案に至った過程については、納得がいくものであったことをご報告致します。) 

 私は、議長代行や事務局長が、結果的に、どの候補者を支持されるおつもりなのかは分からないが、今回のリークは、私には、分からないことだらけだ。

日弁連会長選挙の状況分析については、猪野亨先生のブログが非常に興味深いのでご紹介しておきます。

http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-435.html

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

新人弁護士2割が就職出来ず?

 聞くところによると、司法修習を終了して2回試験に合格し、弁護士志望でありながら一括登録時点で就職出来なかった方の数が、約400名に上ると推測されているそうだ。

 司法試験に合格し、司法修習を終了して、卒業試験である2回試験を受験した人が2047名、2回試験合格者が1991名、裁判官・検察官の採用が昨年と同じくそれぞれ98名・66名であったと仮定すると、

 1991名-(98+66)=1827名が弁護士になる資格を得ることになる。

 そのうち、本日一括登録時点で弁護士となった人は1423名。

 つまり、1827-1423=404名が、2回試験に合格しながら弁護士登録できていない(いきなりの独立開業も出来ず、就職も出来ていない)ことになる。就職率8割以下だ。大学を出たあと、高いお金を出して法科大学院に通い、司法修習を経て、大学生の企業への就職率よりも悪いんだからあきれるほかない。

 理由は簡単。ニーズがないからだ。

 司法制度改革が叫ばれた2001年時点と2010年を比較しても、

 労働事件は約1300件増加、家事事件は22万件増加しているものの、民事・行政事件は約92万件の減少、刑事事件も49万件減少、少年事件も12万件の減少(差し引き130万件以上も減少)だ。

 間違いなく増えるといわれた専門訴訟である、医療過誤事件は797件から776件へ21件の減少、知財関連(金銭目的)は305件から329件に24件増、知財関連(金銭以外)は、266件から277件へ10件増、と完全な横ばい状態。

 つまり司法制度審議会の法的需要の予測は、素人の競馬予想屋でもそこまで外さないくらいの、まるっきりの大外れ、予想したドアホな奴の顔が見てみたい、そんな状況だということだ。

 それにも関わらず、弁護士のニーズがあると叫んでいる、法科大学院協会のエライ教授さん、法社会学の教授さん、マスコミさんは、どうぞ新人弁護士を多数雇用してもらいたい。あなた方が、あるあると仰っている弁護士のニーズを開拓して、法の支配を隅々まで広げるチャンスだろう。

 今ならいくらでも新人弁護士を雇用できるはずだ。

 法科大学院や法社会学のエライ教授さんがいうとおり、本当にニーズがあるなら(まさか採算の取れない仕事をニーズと呼んでいるはずはないだろうから)、少子化で経営難がささやかれる大学や、合格率低迷や文科省からの補助金カットに怯えている法科大学院の財務状況にもプラスになるし、就職の面倒を見てくれる大学や法科大学院なら人気も高まるはずだ。

 良いこと尽くめじゃないか。

 すぐにでもやるべきだ。

 マスコミだって、弁護士のニーズがあるある、困っている人はたくさんいる、と言い張っているくらいなんだから、自ら新人弁護士を大量雇用して、困っている人を助けたらいいじゃないか。就職に困っている新人弁護士を救うばかりではなく、困っている人を救うのだから十二分な社会貢献活動にもなるし、うちの新聞を読んでくれたら法律相談は3回無料だなどと勧誘して、ネットに奪われている顧客を取り戻すことも出来るんじゃないか。もちろん、「ニーズがある」と主張する以上、経済的にペイするニーズがある(放置されている)という意味だろうから、わざわざ全国紙の紙面で広告するなどして、他の町弁を圧迫することもないだろうし、経営的にも十分な支えになるだろう(もし、経済的にペイしない要望を、ニーズがあるといって弁護士に押しつけているのなら、それは、「一部5円なら日経・朝日を読みたいという人がまだまだ世間にはいる。だから新聞のニーズはある。そのような人にも新聞を読ませるべきだ。」と言っているのと同じである)。

 しかもすぐ出来る状況になっているじゃないか。

 何故やらないんだ。

 マスコミや法科大学院擁護派による嘘と世論の誤導には、私はもう飽き飽きしている。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

かなり恐ろしいアメリカの司法~その3

 鈴木弁護士が留学された約10年ほど前においても、アメリカにおける弁護士広告は非常に激しいものがあるそうだ。

 アメリカにおける弁護士広告の多くが、「勝つまで無料」など、低料金を売りにしていながら、実際にはアメリカ市民のアメリカの弁護士に対する評価は「金の亡者」という状況にあるらしい。

鈴木弁護士の分析によれば、アメリカの大学には法学部がなくロースクール課程を修了した人の多くが弁護士資格を得るため(日本における法科大学院卒業者(法務博士)を弁護士と呼ぶのと大差がないと、鈴木弁護士は指摘している)、弁護士資格を有する者が極めて多く、過当競争が生じている。その競争の下で生き残るためには、なんでもしなければならず、(本来保証できないはずの)結果を保証したり、詐欺的・挑発的な内容の広告を掲載し顧客を集める必要がある。ひとたび受任すれば、虚構を用いてでも依頼者の利益に奴隷のように従う。

 特に報酬体系として、依頼者の心理的ハードルを下げて依頼を集める競争に勝つために、依頼時の着手金を取らず成功報酬制をとる弁護士も多い(その反面成功報酬は経済的利益の40%程度の高額に設定される)。

 そうなれば、アメリカの弁護士としては勝訴すれば、依頼者の得た利益の40%という莫大な利益を手中に出来るが、勝訴できなければ、一銭の得にもならないばかりか赤字ということになり、生活のためには、どんな手段を用いてでも勝たざるを得なくなる。

 弁護士といえども生活があり、倫理(理想)と生活(現実)を天秤にかければ生活(現実)の方が重くなる。したがって、そのような状況下では、弁護士の倫理は間違いなく低下していく。

 鈴木弁護士が留学先で出会った、中南米諸国の弁護士達は、国家政策として弁護士が極めてありふれた資格として簡単に取得できるため、単なる「法律に詳しいビジネスマン」程度に過ぎず、依頼者の利益に奴隷のように従うことになんの抵抗も感じない状況にあるらしい。

 その他、鈴木弁護士は、アメリカは判例法国家であり、極論すれば無数に存在する判例を調査する法律調査能力が大きなウエイトを占め、日本のような成文法国家で必要とされる、制定された成文法の内容を理解・記憶して具体的に適用する法的思考能力の鍛錬までは法律実務家として求められていない点、アメリカの弁護士の専門分野が極めて狭い場合がある(その結果、法体系全体を見渡して様々な角度から有機的に紛争解決を図る能力が感じられない)点なども指摘した上で、あるべき弁護士の倫理面について、以下のように指摘する。

「もし問われている法曹の質というものが、『一企業の経営効率に資する能力』を意味するのであれば、確かに、米国の法曹の質が低いとは私も判断できません。しかし、市民に信頼される法曹としての質を問題にする以上、国民からの評価を抜きにしてアメリカ法曹の良質性を断定することには疑問があります。日本の弁護士は、実体的正義の観点から、依頼者の不当な要求には威厳を持ってノーと言えなければならないのであり、アメリカの弁護士のように企業の営利に隷従するビジネスマンになっては絶対にならないのです。」

 果たして、日本の国民の皆さんは、弁護士に対して、「依頼者の利益の奴隷として金の亡者的存在の弁護士」と「真実を重視し、依頼者の不当な要求にノーと言える弁護士」と、いずれを求めているのだろうか。

 ちなみに、アメリカのように100万人近い弁護士が存在しても、司法過疎は解消されていないそうだ。また、アメリカのリーガルサービスは、一部富裕層にとって極めて利用しやすいが、中流層以下には行き渡っておらず、弁護士人口の増大は大企業・富裕層の営利活動に無批判的に奉仕するビジネスマン弁護士を増大させているだけとの指摘もされている。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

かなり恐ろしいアメリカの司法~その2

 裁判を、お金儲けの道具と考える人を除けば、本当は誰だって、裁判で争いになる以上、真実にしたがって判断してもらいたいと思うだろう。少なくとも日本の裁判所は、可能な限り真実の発見に努めているように私は思う。

 しかしアメリカの裁判所では、真実が重要なのではなく、外観が整っているかが重要とされている、というのがアメリカの大御所弁護士(兼ロースクール教授)の説明である。

 では、何故アメリカの裁判は、真実であるかどうか別にして、外観が整っていれば、どれだけ不公正であってもその外観にしたがって判断して紛争を終わらせてしまって良いことになっているのか。

 鈴木弁護士による分析は以下のとおりである。

①アメリカの裁判所では事件数が余りにも多く、裁判所の処理能力を大幅に超えてしまっていること。
大量の事件が裁判所に持ち込まれる理由は、

ⅰアメリカが犯罪大国であること(銃を所持する権利の保障・好戦的性格?)、

ⅱ文化の多様性(人種のるつぼであり社会の共通認識の形成、異文化間での合意形成が困難であり、法律~裁判による解決しか基準が見出せない)、

ⅲ孤独感・帰属意識の希薄化

などから、犯罪や紛争が恒常的に多発し、ドライな訴訟的解決に委ねられていること。

②陪審制で真実主義を貫くことは無理があること。

ⅰ陪審員の多くは高齢者や主婦である場合が多く(忙しいビジネスマンが2週間近く裁判所に拘束されることは事実上不可能)、専門家でも困難である事実認定が、ぶっつけ本番で素人によりなされること。

ⅱそのため、弁護士としては勝訴するために、いかに素人である陪審員を丸め込むかという点に力点を置く傾向が強くなる。悪い言い方をすれば、アメリカの弁護士は依頼者の利益が全てなのだから、素人を上手く騙す演技力、相手方に対する執拗な人格攻撃によって、誤審的勝訴を勝ち取ることも弁護士の職務とも言いうる状況にあること(現実に多くの法廷弁護士が俳優学校に通っているとのこと)。

ⅲ多くの市民が陪審制に疑問を持ちながらも、民主的手続であることから裁判官に裁かれるよりマシという国家不信の伝統的意識が強いこと。

③上記の理由などから、手続的に正義を守ること(適正手続)の実現が精一杯であり、到底、実体的正義(真実の発見)まで手が回らない、インスタント司法とならざるを得ない状況にある。

以上が、私なりに理解した鈴木弁護士の分析だ。

鈴木弁護士がアメリカにおいて、多くの市民の方や弁護士などから聞き取られた中で実感されたことであり、相当の説得力があるように私には思える。

次に、鈴木弁護士は、アメリカの弁護士の状況をみながら、あるべき法曹界への姿について論じている。

(続く)

かなり恐ろしいアメリカの司法~その1

 鈴木仁志弁護士の「外から見た日本司法の先進性~市民の視点から見たアメリカ司法の実像」という論考を読んだ。

 マクドナルドコーヒー火傷事件(ある女性が自動車を運転中にマクドナルドで買ったコーヒーを股間にこぼしてしまい女性器に火傷を負ったので生殖能力を失ったと主張して損害賠償を請求した事件。陪審はマクドナルドのコーヒーが他店のものより若干熱く、その苦情があったにもかかわらず改善を怠っていたとして、原告の女性に対し、マクドナルドは約4億円の損害賠償を支払うように命じた事件)が、現実にあり得るアメリカの司法は相当病んでいるのではないかと感じてはいたが、この論考を読むと、アメリカの司法が如何に恐ろしい司法であるのかがよく分かる。

 有名ロースクール教授の大御所弁護士が講義で、堂々と「アメリカにおける裁判の目的は、ただ一つ、紛争の終了にある。裁判は真実を解明する場ではなく、紛争を終わらせるための手続に過ぎないから、外観だけを問題にすれば足りる。それが真実に反していても、それはもはや裁判制度のあずかり知るところではない。」と説明したのだそうだ。

 つまり、上記教授の教えが正しいのであれば、アメリカの裁判では、真実であるかどうか別にして、外観が整っていれば、どれだけ不公正であってもその外観にしたがって判断して紛争を終わらせてしまって良い、ということになる。

 疑問に思った鈴木弁護士が、「裁判制度の目的から、真実主義を除去してしまった場合に、公正さや人権保障の観点から問題はないのか、外観が全てということになると、事後的な外観作出すなわち、偽造・証拠捏造を誘発しないのか」と質問したところ、上記教授は、

 「アメリカの弁護士にとっては、依頼者の利益が全てだ。それが社会にとって有害かどうかは問題ではない。」と答えたのだそうだ。

 日本の弁護士の使命は、いうまでもなく「社会正義の実現」であり、「依頼者の正当な利益」の保護とされている。

 しかし上記教授の講義を敷衍するならば、アメリカの弁護士にとっては、「真実であろうが虚偽であろうが、また正当であろうが不当であろうが、依頼者の利益だけ実現すればいいことになり、そのことが社会にとってどれだけマイナスになろうと関知しない」というのが基本的スタンスだということになる。
 そのように、アメリカの司法が真実発見・社会正義の実現という使命を放棄しているのであれば、その結果、依頼者の不当な利益を守ることも弁護士の職務として是認しているのであるならば、アメリカの弁護士が裁判で巧妙に嘘をついて有利な判決を得ようとすることが常態化していても無理はない。

 ちなみに、鈴木弁護士がアメリカで読んだ世論調査の文献によれば、アメリカの市民は

「裁判になっても正しい方が勝つとは限らない」

「巧妙に嘘をつくのがうまい、フィーの高い弁護士を雇える金持ちが裁判に勝つことになるのであって、裁判制度は庶民に不利に働いている」

との印象を持っているそうだ。

 そもそも、近代立憲主義が司法に求めた役割は、「どのような当事者であっても【理】を巡って対等に争える場であること、そしてそのことによって政治の持つ【非情】さや、【歪み】を正すことの期待」(佐藤幸治「憲法第3版」p292参照)であった。

 つまり、どんなにお金持ちであろうが、貧乏であろうが、裁判所では対等に理をつくして戦い、理に適っている方を公平公正に裁判所に判断して勝たせてもらうことを保障することだったのだ。

 しかし、少なくとも鈴木弁護士の論考を読む限り、アメリカの司法・裁判制度の下では、上記の意味での司法は、もはや機能していない。
 巧妙に嘘をついて有利な判決を得る可能性の高い弁護士に、高いお金を出して依頼できる金持ちが、裁判という最後の救済の場面でも相当有利な立場に立っている可能性が否定できないのだ。

 アメリカのように実体的真実を放棄する制度を国民が望んでいるかといえば決してそうではない。しかし、法制度と法曹は、実体的真実を追及することを実現できなくなっている。

 それは何故か。

 鈴木弁護士は更に分析を進めている。

(続く)

画家 諏訪敦~NHK衛星放送のエルムンドに出演

 8月くらいのブログで、諏訪敦さんの展覧会に長野まで出かけた経験を書いたのですが、その後、諏訪さんが発表された絵画集「どうせなにもみえない」が、美術書では異例の1万部を突破し、なおセールスを伸ばし続けているそうです。

http://www.kyuryudo.co.jp/shopdetail/006000000016

 諏訪さんの作品が何故多くの人を引き付けるのかについては、より専門的な方が本格的に書かれているでしょうから、素人の私は敢えて触れません。ただ、是非一度本物の諏訪さんの作品をご覧になって頂きたい、そうでなくても絵画集を手にとって頂きたい、と強く思っております。
 諏訪さんの作品に触れることによって、作品に触れた方々それぞれの生き方、生きる時間に、何らかの衝撃を与えてもらえることは確実だと思うからです。

 その諏訪敦さんが、先日NHK衛星放送の地球TVエル・ムンドに出演されていました。私は未だに衛星放送を契約していないので、NHKオンデマンドという有料ネット配信で見ることになりました。

 諏訪さんのトークの中で、リアリズム絵画は暴力的だ、という興味深い発言がありました。 例えば、ある人を写実的に描いたときに、表面的に似ていれば、評価はされてしまう場合もある。それは表面的な描写に過ぎず、決してその人の全てを描いたことにはならない場合であっても、表面的にさえ似ていれば、評価されてしまう暴力的部分がある。
 だから、せめて最低限取材を重ねようと(坂野注:本当のその人、個人の存在そのものに近づけようと、ということと思われます。)考えている。ということでした。

 おそらく、諏訪さんは、本当に対象の全てを写し取ってキャンパスに定着させてこそ初めて写実絵画(として完成する?)なのだというお考えなのではないでしょうか。また、この世の全ての存在が不変でいられない以上、対象の全てを写し取るためには、対象が死の状態にある場合はもとより、まだ健在である場合であっても対象にいずれ訪れる最期・死の状態まで含めて描かねばならないことも当然あり得るということ、なのではないでしょうか。

 死は、明治以降、隠蔽されたものとなってきたけれども、決して特別なことではない、(あらゆる存在にとって死は普通のことだという、当たり前のことを当たり前に表現しているだけなのだ、)というお話には強く同意できるように思いました。

 また、諏訪さんの、「絵を描くときには、見る時間の感覚が通常と異なる。描くために見ているときには昨日見えなかったことが見えてくることがある。」というお話も、描く対象に向かってどこまでも誠実に向き合うからこそ、新たな対象の一面を発見できることがあるのでしょうし、そのために非常な努力をされているからこそ出てきた実感ではないかと思います。

 お子さんが誕生されてから、時間の価値観や生きる目的が少し変わった点があるとのお話もありました。
 これまでは到達すべき自分があったが、子供を見ていると、そのとき、そのときが素晴らしいと感じることがある。今この時点がゴールなのかもしれないと思うこともある、とのことでした。

 しかし、諏訪さんはまだまだ到達すべき自分に向かって、自らを高めて行かれるはずです。11月30日の諏訪さんのブログには、描き直しという題名で、作品に手を入れられたことが報告されています。

http://atsushisuwa.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-f366.html

 番組の最後に、諏訪さんにとっての、エル・ムンド(世界)とは?と問われて、諏訪さんがどう答えたかは、番組をご覧になるか、ご覧になった方にお聞き下さい。

 ps 諏訪さんが尊敬する、アントニオ・ロペス・ガルシアの話になった際に、諏訪さんがぽつりと、「手が肉厚の人なんですよ」といったのが妙に印象に残りました。