司法制度改革が目指した法曹像

制度を活かすもの、それは疑いもなく人である。上記のような21世紀の我が国社会における司法の役割の増大に応じ、その担い手たる法曹(弁護士、検察官、裁判官)の果たすべき役割も、より多様で広くかつ重いものにならざるをえない。司法部門が政治部門とともに「公共性の空間」を支え、法の支配の貫徹する潤いのある自己責任社会を築いていくには、司法の運営に直接携わるプロフェッションとしての法曹の役割が格段と大きくなることは必定である。(司法制度改革審議会意見書より)

 プロフェッションとは、必ずしも明確な定義はないようだが、ある学者さんの定義によると次のような者らしい。

 「プロフェッションとは,学識(科学または高度の知識)に裏づけられ,それ自身一定の基礎理論をもった特殊な技能を,特殊な教育または訓練によって習得し,それに基づいて,不特定多数の市民の中から任意に呈示された個々の依頼者の具体的要求に応じて,具体的奉仕活動をおこない,よって社会全体の利益のために尽す職業である」(石村善助「現代のプロフェッション」(1969))

 社会全体の利益のために尽くす職業、という点が通常の職業や単なる専門職とは異なるように私には思われる。

 そこには、個々の依頼者の具体的要求に応じながらも、社会全体の利益という視点が必ず背後にはあるということだ。

 だからプロフェッションとしての弁護士は、依頼者のどんな要求にも応じる存在ではなく、依頼者の不当な要求の実現要求に対しては、明確にノーといえなければならないはずだ。

 ところが、マスコミ論調を見てみると、弁護士も自由競争を促進すべきだというものが未だに見られる。自由競争は儲けた者勝ちの競争だ。そこで、依頼者の不当な要求にはお答えできないとしてプロフェッションとしての矜持を守ろうとすれば、自由競争には敗れる可能性が高い。

 弁護士のプロフェッション性と、自由競争の激化は、どう考えても矛盾するように思う。しかし、法科大学院擁護派のエライ先生方は、この両方の要請が何故か両立すると考えているようだ。

 かつて、ニューズウイークで、アメリカの弁護士がプロフェッション性を失ったことが嘆かれていたブログを書いたことがあるとおり、現実には、弁護士のプロフェッション性と自由競争が両立しないことが明らかだ。

 果たして国民の皆様は、依頼者の利益のために盲目的にしたがう弁護士と、依頼者の不当な要求に威厳を持ってノーと言える弁護士と、どちらを求めているのだろうか。

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