少年事件に思う

 少年事件は、通常の大人の刑事裁判より圧倒的に手間がかかることが多い。

 大人の刑事事件では、基本的には犯した罪の大きさによって、処罰が決まる。しかし、少年事件の場合は、その少年が立ち直るためにもっとも良い手段はなんなのかという点からの考察が欠かせない。

 したがって、大人の刑事事件では、事件を認めるか否認するか、否認する場合はどのような証拠があるのか、認める場合どのように反省している情状を立証をするか等の点に注意する必要があるが、少年事件だとそれに加えて、この少年が立ち直るためにはどのような手段が適切か、(少年を取り巻く環境を含めて)少年のどこに問題があるのかという考察が必要不可欠になる。

 そのためには、何度も少年に面会して問題点を探っていく必要がある。場合によっては、家庭訪問して少年の問題点につながるヒントを捜すことも珍しくないし、間違った考え方に気付いてもらうため何時間も鑑別所で少年と議論する場合もある。もちろん、家庭裁判所調査官と少年の問題点について意見交換させてもらうこともあれば、示談に赴いて被害者から、(私が罪を犯したわけではないにもかかわらず)何時間も罵倒され続けることだってある。

 だから、きちんとやろうとすれば、TVCMされている債務整理(過払金回収を含む)のように定型化された仕事ではなく、少年事件は完全なオーダーメイドの仕事になる。

 このように、非常に時間と手間がかかるのが少年事件だけに、扱わない弁護士も多い。仮に私選であっても時間と手間がかかる割りに、ペイしないからだ。

 特に法律扶助制度を使って付添人をお願いする場合、(その付添人が手をを抜かないとすれば)かける時間と手間に対して法律扶助から支給される額はあまりにも低いので、その弁護士に対して相当な経済的・時間的負担をさせている(自腹を切ってもらっている)ことを、依頼する側は知っておくべきだと思う。

 私も給料を頂けていたイソ弁時代は法律扶助での少年事件をやっていたが、いざ自分が経営する側になると、絶対にペイしない法律扶助での少年事件を担当することは困難になりつつある。現在のように弁護士過当競争時代において、私の周囲を見れば、例え私選であっても儲けにつながらない少年事件から離れていく弁護士はそこそこいるように思う。

 しかし、私は未だに少年事件を扱う。

 私が少年事件を担当して、なんとか保護観察になっても、再度事件を起こす子供もいるが、何人かに一人は、少年院送致になっても、その後に大学に合格するなど本当に立ち直ってくれる子供もいるからだ。その子や親たちからの感謝や喜びの声が、ときおり折れそうになる心をなんとか支えてくれるからだ。

 しかし、残念なことに、少年事件を起こした少年の親の方が常識を守らないことが最近目立ち始めたようにも思う。

 うちの事務所にも、子供が逮捕されたのでなんとかして欲しい、という電話依頼が時々ある。今後どうなるのかの説明と取り敢えず必要な対処法を指示して、その上で依頼するかどうか聞くと、相談の上、あとで電話をするといってそれっきり、という親が少なからずいるのだ。

 その親としては、一応の対処方法を聞いたので、弁護士は用済みと思っているのかもしれないし、人に話を聞いただけだから無料で良いだろうと勝手に思っているのかもしれないが、道路上で道を聞くのとは訳が違う。

 こちらは、本を買っての勉強や経験を積んでその知識を得て、その知識を使って生計を立てているのだし、電話で対応している時間は他の仕事をする時間を削って対応しているのだから、当然費用が発生してもおかしくないことは、常識のある大人なら誰だって分かるはずだ。

 無論、聞くだけ聞いて連絡を絶つような常識のない親に関わり合うのは、こっちも疲労するので願い下げだが、そのような親に育てられた少年に、少しだけ同情してしまうこともないではない。

弁護士の大量増員と裁判官の官僚化

 弁護士が大量増員されると、裁判官が勇気を持って判決を下すことができなくなり、外圧や上の意見ばかり気にするなど官僚化する、という意見がある。

 一見、弁護士の数と裁判官の執務姿勢が関係するなどとは思われないので、「風が吹けば桶屋が儲かる」というような荒唐無稽のお話かと思われるかもしれない。

 しかし、実際には、起こりうる話なのである。

 最高裁ではない下級裁判所裁判官にも(簡裁判事)・判事補・判事・高裁長官とあるが、司法試験合格後司法修習を終了して、判事補に採用され(裁判所法43条)、その後判事に任命される人が圧倒的に多い(裁判所法42条)。

 つまり裁判官の殆どが、司法試験合格後司法修習を終了しているので、裁判官を辞めたあとは、弁護士になる資格があるし(弁護士法4条)、実際に弁護士になる人も多い。これまでも、裁判官を自ら辞めた方が弁護士登録されたり、定年まで勤めた裁判官がご自身で開業されたり、客員弁護士として法律事務所に迎えられたりする例も多くある。

  ところが、弁護士が大量増員されると、いざ弁護士になっても食べていけるかどうか分からない状況になっていく。もともと、弁護士として開業すれば、少なくとも毎月100万円以上は事務所経費がかかるため、一月に100万円を売り上げても生活費すら出てこない。裁判官として長年おつとめされた方に、仕事の人脈がどれだけあるか分からないし、弁護士としての営業活動をしろといっても、困難な面もある。

 ただでさえ老後の不安がある日本である。また、裁判官といえども人間であり、生活がある。一度裁判官になった人が、安定した裁判官の身分で、可能な限り長く勤めたいと考えることを、誰も責めることはできないだろう。

 裁判官として可能な限り長く勤めるためには、10年に一度の再任の際に裁判官不適格とされるわけにはいかない。最高裁判所判事を除く裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣が任命することになっているから(裁判所法40条)、最高裁の意向に反したり、内閣の意向に反したりすると、やばいのではないかという感情が裁判官に働いてもやむを得ないだろう。

 かくして、最高裁の先例に反したり、内閣(国)の意向に反する判決を書きづらくなる=裁判官の官僚化が進行する。本心では、最高裁の先例は時代遅れだと思っても、最高裁の先例に反する思い切った判決が書きにくいだろうし、内閣に睨まれたくないから事なかれ主義で内閣の意向に真っ向から反する判決も書きにくくなる。

 こういう可能性があるのだ。

 実際、最近では、弁護士の大量増員により、司法修習生の裁判官・検察官志望者が激増しているという話も聞いたことがある。高額の法科大学院の費用を負担してようやく手にした資格なのだから、誰だって、食えないかもしれない職業より、少なくとも安定した職業を希望するからだろう。

 裁判官が退職後弁護士になることができる韓国でも、ニーズもないのに弁護士を大量増員した結果、既に数年前から裁判官の官僚化が問題化しているのだそうだ。東亜日報2008.8.19には、ある若手判事の言としてとして、次のような言葉が掲載されている。

 「かつてならば、判事が外圧に立ち向かって所信をもって辞表を出したりしたが、最近は、裁判所で生き残るため、機嫌を伺う傾向が強まっている。弁護士業界の不況が裁判官の官僚化にまで影響を及ぼしている。」

 弁護士業のビジネス化をもたらすだけでなく、裁判官を官僚化させてしまう危険すら伴うニーズなき弁護士増員(法曹人口増員)は、長い目で見れば、結局国民の損につながるように私は思うのだが・・・・・。

「お弁当」と俊寛僧都

 先週土曜日に、日弁連で法曹人口問題検討会議が開催された。S弁護士も、近畿弁護士連合会の枠で推薦して頂いて、その末席に参加させて頂いていた。東京霞ヶ関、朝10時開催の会議に遅れないように7時過ぎの新幹線に乗らなくてはならず、慌てて家を出たので、S弁護士は、朝食としては小さなパンを一口かじったくらいだった。

 新幹線の中でS弁護士は、事前に渡されていた延べ五〇〇ページ以上の資料の重要部分に目を通し、会議に備えていたため、のんびり朝食を取ることなどできる余裕もなかった(ただし、資料を読みながら若干意識を失っていた時間はあったようだ)。

 S弁護士は確かに、お医者さんに指摘され、若干ダイエットをしなくてはならない身だが、午前6時過ぎに起床して殆ど食べていない状況では、いささか空腹も困った状況になりつつあった。

 午前10時過ぎに、宇都宮日弁連会長の挨拶を、皮切りに会議が開始された。会議の内容は後日、議事録的なものが公開される可能性があるそうなので、あまり詳しく述べることはできないが、S弁護士も何度か発言させて頂いた。発言途中に、空腹に耐えかねたお腹の虫が鳴くこともあり、お腹の音をマイクが拾ってしまうのではないかという心配をもS弁護士は、しなければならなかった。

 議論が相当出ている中、お昼の12:30すぎになった。議長が、これから30分の昼食休憩を取ると宣言して、日弁連執行部側の先生方は席を立って議場を出て行った。

 「ちょっ、ちょっと待ってよ。30分後に再開って、みんなお昼食べられるの?」

 確かに、日弁連会館の地下には飲食店がいくつかある。定食を食べられるお店もあったはずだ。しかし、今日は土曜日である。店は、やっているのだろうか。またわずか30分の休憩で、食事に行って帰ってこれるのだろうか。会議の委員は140人もいるのである。

 不安になったS弁護士は、隣のT先生に、「T先生、地下のお店、開いてるんですかね」と尋ねてみた。

 T先生は、「いや~、日弁連の会議ですから、弁当が出るでしょう」と当然のように仰る。何を言ってるんだい?という感じである。ほぼそれと同時に、執行部側の先生だと思うが、お弁当は後ろに用意してありますとのアナウンスがあった。

 なんだ、弁当が出るのか。要らん心配して損した。

 そう思って、S弁護士は、会議室の後部へ弁当を取りに行った。果たして弁当は、紙のお弁当箱に入って積まれていた。

 お弁当箱をもらって、S弁護士は自分の席(席順が決まっていたのである)へと戻る。空腹のせいか、お弁当箱から伝わってくる、ほのかな暖かみと、何となく感じる重みが心地よい。「出来立てだよ、いっぱい入っているよ」弁当が語りかけてくるようにすら感じられる。

 自分の席について、改めて弁当箱を見ると、「とんかつの○○」とお店の名前が書かれている。

 自慢じゃないがS弁護士は、とんかつが、結構、好物である。学生時代に京大生協で食べず、ちょっと贅沢するときの夕食の定番は、京都市左京区にある一乗寺商店街にあった「とん八」の定食480円だったし、未だに一乗寺商店街のオリジナルとんかつの店「とん吉」をこよなく愛しているので、むしろ、とんかつは相当、好物といって良いかもしれない。しかも、東京のとんかつは結構値段は張るが、美味しいものが多いと聞いたことがある。

 「いや~日弁連は、分かっていらっしゃる。グレイト!」

 S弁護士は、他人に聞かれたら恥ずかしいような快哉を心の中で叫びながら、机上の弁当箱を眺めやる。上蓋がシールで止められていて中は見えないが、それすらも、とんかつ弁当でありながら控えめな雰囲気を醸し出しているようで心憎い。

 「多分とんかつソースもオリジナルなんだろうな。楽しみだぜ。なんてったって、とんかつの○○なんだからな。」一度も行ったこともないくせにS弁護士の頭の中では、昔から「とんかつの○○」のファンだったかのような期待がふくれあがっている。

 「だが、まて。そう焦るな。ここで一気に開けてしまっては楽しみがない。ここはとんかつに敬意を表して、綺麗に手を洗ってから頂こうではないか。」

 S弁護士は、手洗いに立った。S弁護士は、結構、楽しみを先に延ばしておきたいタチでもあるのだ。

 手洗いの途中に、「もし誰かに取られたらどうしよう」などとあり得ない心配も心のほんの片隅で感じながら、S弁護士は綺麗に手を洗ってから会議室に戻ってきた。

 いよいよ、とんかつとご対面だ。ふたを閉じているシールをはがそうとするが、上手くはがれない。「ちくしょう、憎いぜ。ここまで来てじらしやがって。」等と訳の分からぬことを頭の中でほざきつつ、鼻歌交じりでシールの隙間に爪を入れシールを破る。

 現れたのは、次のようなお弁当だった。

 右側に梅干しののったご飯、まだ暖かい。うんうん、うまそうだ。

 左側上部にきんぴらと、漬け物・ひじき。本当はとんかつには千切りキャベツが定番だと思うが、まあ、これは弁当だ。メインディッシュの引き立て役としてはちょっと異質だが、まあギリギリ想定の範囲内だ。

 そして左側下部のメインディッシュコーナーに収まっていたのは・・・・・・・・・・・・・・・。

 焼き魚だった。

 そんな馬鹿な!

 もう一度良く、メインディッシュを見る。ド近眼のS弁護士は、見間違いを期待した。しかし、どう見ても、魚の照り焼きが、素知らぬ顔して座っている。右から左に見ても、上から下に見ても、魚の照り焼きがこの弁当のメインなのだ。とんかつの姿はどこにもない。

 何かの間違いか。それともこの弁当だけ、とんかつの代わりに焼き魚になったのか?

 S弁護士は慌てて、弁当に張られている原材料などのシールを眺めやる。そこには、豚肉の文字はなく、「銀だら」の文字がきざまれている。

 あきらめきれないS弁護士は、隣のT先生の弁当箱を盗み見る。もしかして、S弁護士の弁当だけ、とんかつが足りなくなって焼き魚になったのかもしれない。そうならまだ手段はあるかもしれない。とんかつをお嫌いな先生もいらっしゃるかもしれないじゃないか。

 しかし、T先生のお弁当も、やはりメインは、焼き魚だ。

 馬鹿だった・・・・・・。 

 日弁連に期待した自分がおろかだった・・・・・・。

 思いっきり身体から力が抜けてゆく。それと同時に、あれだけ期待して舞い上がっていた自分が情けなく、また、かわいそうにも思えてくる。

 かの昔、平家物語によると、鬼界ヶ島に流された俊寛僧都は、全く同じ罪で流された3人のうち、赦免状に自分の名前だけが載っていないことを知り、赦免状を上から下へ、下から上へ改め直し、さらに懐紙も改めたという。そして、許された者の中に自分の名前が載っていないことを知ると、へたり込んでしまったという。

 俊寛僧都の気持ちが、ほ~んの少しだけわかったような気がしたS弁護士だった。

プラネットアース~コウテイペンギン

 NHKの深夜に、約5分ほど、動物たちの番組が流れることがある。最近HDで録画できるようになったこともあり、気をつけて録画しているのだが、お気に入りは最近録画したプラネットアースという番組のコウテイペンギン編だ。

 メスは卵を産むと、オスに卵を預け海へと向かう。オスは、一日中太陽が出ない南極の冬をマイナス60度という寒さに耐えつつ、卵を温め続ける。ペンギンたちは、寒さに耐えるため身体を密着させ熱を奪われないよう行動する(ハドルを組む、というらしい。)。しかも、ハドルの外側と内側のオスは交代しながら行動するらしく、一部のペンギンだけが得をしたり、損をしたりしないように行動しているのだそうだ。

  オスが寒さに耐えつつ、卵を温め続けている間、夜空には極光が乱舞する。さすがはBBC、ともいうべき映像美だ。

 卵がかえり、可愛い赤ちゃんペンギンが小さなくちばしを振り立てて、空腹を訴える。オスはほぼ4ヶ月何も食べていないにもかかわらず、ノドから出る粘液を子供に与えるのだそうだ。

 しばらくして、長い南極の夜が明け、メスがお腹いっぱい食べ物を詰め込んで海から帰ってくる。オスはようやく赤ちゃんペンギンをメスに預け、海に向かうことができる。

 わずか、それだけの、約5分の番組を二つだけ録画しただけだが、南極という実に厳しく、あまりにも美しい自然と、その中で、子育てをするコウテイペンギンの姿は、寝る前に見ると心を穏やかにしてくれるような気がする。

 そういえば、昔読んだヘミングウェイの「老人と海」は、主人公の老漁師サンチャゴは、長い不漁のあと、ついにサンチャゴの釣り糸に食いついた巨大カジキとの死闘に勝利したものの、あまりのカジキの巨大さに船に引き上げることができず、帰り道にサメに襲われ、大カジキは骨だけにされてしまった。というお話だった。サンチャゴは、港に帰り、漁具を片付け、疲れ果てた身体で簡素な家に戻って、眠る。

 そして、その本の最後には、「老人は、ライオンの夢を見ていた。」

 と書かれていたような記憶がある。

 動物の映像には、何かしら不思議な力があるのかもしれない。

五山の送り火

 今日は、京都では五山の送り火が行われた。

 いつもの通勤で通る橋は、歩行者天国となり、大文字の送り火を見る人で通れないため、帰宅するには遠回りするしかなかった。

 お盆の頃よく、仏壇に供えられていたキュウリの馬となすびの牛も、こちらに来る際には急いでこれるよう馬を作り、あの世に帰る際にはゆっくり帰るよう牛を形作っていると聞いたことがある。

 五山の送り火も、あの世に帰る祖先の霊を、送るためのものだ。8時に大文字が 、10分後には妙・法の文字が、更に5分後に舟形と左大文字、更に5分後には鳥居形が点灯する。

 花火が上がるわけでもなく、火がついてしばらく文字が浮かび上がり消えるという、実際見てみると結構地味な風物詩だ。

 しかし、手を合わせたくなる何かがある。

 祖先への思いなのか、近年なくなった知人への想いなのか、それとも、いずれ自分も彼岸にゆかねばならぬ運命を無意識のうちに感じるせいなのか、それは、まだ分からない。

 ただ、京都に住んでいる以上、やはり見ておかなければ、と思ってしまう行事ではある。 

今回は安倍元総理の言い分の方が納得できる

 日韓併合100年についての、菅総理の談話が、物議を醸している。TVの報道で、安倍元総理も批判的発言をしていた。

 おぼろげな記憶で申し訳ないが、3年ほど前、フランスのサルコジ大統領が、植民地支配は過ちであったと認めつつ、謝罪を拒否したという報道を見た記憶がある。

 サルコジ大統領の態度の是非はさておき、過去の世代の過ちについて、今の世代が未来永劫その罪を負わなければらないのだろうか。そうだとすれば、むしろその方がお互いの将来の国益にとって不幸ではないのだろうか。お互いが対等の立場に立って、未来に向けて協力していくのが本来の2国間協力というべきはずだ。しかし、一方が恨みを忘れず、また、一方が謝罪を続けながら協力しようというのでは対等な協力関係は困難だろう。

 日韓基本条約(1965)で国交が正常化した後、日本は韓国に対して多額の経済援助(無形の技術援助も含む)を行ってきたはずだ。それについて韓国は、どう考えているのだろう。多額の経済援助といってもお金の出所は結局、日本の国民の血税しかなかったはずだ。

 韓国では日韓基本条約自体に不満をもつ方もいるそうだが、この条約は日本・韓国いずれもが対等の立場で締結した条約であり、その内容に不満があるのであれば、日本を非難するより先に、条約を締結した当時の自国の政府を糾弾するのが先だろう。

 日韓基本条約で棚上げされた、竹島についても、一方的に軍事力により支配を開始し、実効支配を継続しているうえ、日本側が提案する、国際司法裁判所での決着も拒否している状況もあるのに、どうして、日本が謝罪を延々繰り返さなければならないのだろうか。逆にいえば、いつまで謝罪すれば韓国側は納得するのだろうか。

 歴史上、国家が過ちを犯すことは不可避だ。しかし、その過ちを克服して進んでいくのが人類の知恵であり勇気であるように思う。条約を締結し国家間で既に解決した問題を、蒸し返し続けることは、当座の外交関係では有利に働く可能性があるとしても、将来的にはお互いにとって得策ではないのではなかろうか。

 今回の件は、安倍元総理の言い分の方が、私には納得できる。

氷河の源

 ニュージーランドの、フォックス氷河とフランツヨゼフ氷河は、双子の氷河といわれているそうだ。

 氷河の上部は氷柱が多数あり、さらにその上部には、ニーヴェと呼ばれる万年雪が積もった部分がある。この万年雪がどんどん降り積もり、次第に押し出されて氷柱に、そして氷河へと変わっていくと聞いた。

 雪がさらに新しく降り積もる雪に押しつぶされて氷河になり、大地を削りながらゆっくりと下ってゆく。とはいえ、この双子の氷河は、氷河にしては、かなりスピードが速いらしく、一日で5~6メートル進むとも聞いた。

 今年のGWの旅行で、幸い素晴らしい晴天に恵まれた私は、フォックス氷河の町から、ヘリハイクを体験することができた。 コースは、フランツ・ヨゼフ氷河上空を遡り、山岳上部のニーヴェに着陸して、15分くらい散策し、フォックス氷河上空を下って、ヘリポートに戻るというものだ。

 ここ数日、ブログに掲載している氷河の写真は、そのヘリハイクの際に撮影したものだ。

 氷河は、不思議な青さを持った美しい自然の芸術だ。ニーヴェの散策も素晴らしい体験だったので、機会があればまた書こうと思う。

 あまりに暑いので、少しでも涼しさをお届けできないかと考えて、氷河関連の写真をブログにアップしている。

日本経済新聞~安岡崇志論説委員の書いた中外時評 その2

 上記の中外時評は8月1日の日経新聞に掲載されていたものであるので、既に、相当時期遅れになってしまったが、批判を続ける。

 安岡委員は、改革審意見書は「10年ころには新司法試験合格者を3,000人に増加させる」としていた。と述べておられる。

 はっきり言って「嘘」である。嘘という表現がいけないのであれば、誤導である。

 改革審意見書にはこう書いてある。

 法科大学院を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、平成22(2010)年ころには新司法試験の合格者数の年間3,000 人達成を目指すべきである。(司法制度改革審議会意見書p53参照)

 つまり、法科大学院を含む法曹養成制度がきちんと整備され、実際に新しい法曹養成制度が十全に機能していることを前提に、新しい法曹の質が低下しない状況下で(これは上記意見書が、「質の低下を来さないよう留意しつつ」とする、臨時司法制度調査会の意見を引用していることから明らかである)、新司法試験の年間合格者を3000名にすることを「目指す」、いわば努力目標である。

 法科大学院を含む法曹養成制度がきちんと整備され、十全に機能しているかということについては、この中外時評の最初に、「制度自体が悪循環に陥りつつある」と自認した率直さに驚いた、と安岡委員自身が書いているのだから、安岡委員自身も、否定的なのだろう。

 つまり、安岡委員の改革審意見書の引用は、実現されなければならない前提事実が全く実現されていないという現実を故意に無視し、さらに努力目標を既定の事実のように記載する点で、2重に誤導を行う、念の入ったやりかたなのだ。

 それに、努力目標が年間3,000人合格者であったとしても、法曹としての必要な学識及びその応用能力を有しない者を合格させるわけにいかない(司法試験法1条1項参照)。これは、法律で決まっていることであるし、司法試験の役割からして当然なのだ。

 おそらく、司法試験委員会になぜ合格者を2000名程度にしたのか聞けば、必ずや、合格レベルに達していた受験生がそれだけしかいなかったからだと答えるにきまっている。そして、法曹の資格を与えるレベルに達していない者を不合格にすることは、新司法試験の目的であるはずだ(大学入試だって、新聞社の入社試験だってそうだろう)。

 ところが、安岡委員は、司法試験委員会に取材を行うこともせず、次のように続ける。

 この目標を今年達成するのは,まず無理だ。合格者数を昨年、一昨年の実績から1,000人増やさなければならないのだから。しかもこれまでの人数でさえ「多すぎて、必要な知識、資質を備えない人まで入っている」と日本弁護士連合会は主張し、増員のペースを落とすよう求める。各地の弁護士会の警戒感、反発は、もっと強い。

 理由もなく目標達成は無理だと断じ、まるで、日弁連・弁護士会の判断で、新司法試験合格者数を限定した(若しくは、日弁連・弁護士会が批判するせいで合格者が限定された)かのような書きぶりが続く。ここでも、安岡委員お得意の誤導モード炸裂である。

 いったい、いつから日弁連や各地の弁護士会が、新司法試験合格者を決定する権限を与えられたのだろう。日弁連に新司法試験合格者数を決定する権限があるのなら、安岡委員の主張はあながち間違ってはいないだろう。しかし、現在の日弁連・弁護士会にそのような権限があるはずがない。司法試験委員会が合格者を決めるのだ(司法試験法8条参照)。

※このあたりの事情については、小林正啓先生の「こんな日弁連に誰がした?」が詳しい。第2版がでるらしいので、売り切れで入手できなかった方には朗報だろう。

 どうやら、安岡委員は日弁連・弁護士会が新司法試験合格者を決めていると六法も見ずに決めつけ完全に誤解しているか(六法を見れば中学生でも分かるので、論説委員ともあろうお方がそこまであからさまな誤解をするとは思えないが)、新司法試験合格者数が増えないことをなんとか日弁連・弁護士会のせいにしたくてしょうがないらしい。

 上手い例えが見つからなくて恐縮だが、例えば、東大・京大が、合格者をこれまでより年間3000人ずつ増やすよう努力すると言っていたとする。ところが入試を実施した際に、合格者判定会議で東大・京大で勉強についていけるレベルに達した人が少なかったということで結局2000人ずつしか合格者を増加させなかった場合、誰が非難できよう。

 また、その時点で、「これまでの合格者増員で学生の質が下がり、勉学について行けない学生が多すぎる」と、東大・京大の在学生が大学側を批判していたと仮定した場合、学生たちには合格者を決定するなんの権限もないにもかかわらず、合格者が3000人ずつ増えないのは学生が入試や合格者(質も含めて)の数を批判するせいだと、日経新聞(あるいは安岡委員)は批判するのだろうか。

この中外時評では、安岡委員は堂々と上記の例でいうところの、学生に対する批判と同様の批判を日弁連・弁護士会に対して行っている。

 確かに一読すれば、説得力がありそうな安岡委員の中外時評だが、そこには誤導の罠が幾重にも仕掛けられている。

 論説委員たる者、誰からも批判されないのだろうか?

 もっと現場の記者さんの御意見を聞いてみたら?とご注進申しあげたくなる。

(元気があれば、もう少し続けます。)

「ハゲタカ」再放送!

 昨晩遅く、何気なくTVのスイッチを入れてみたら、NHK総合でドラマ「ハゲタカ」の再放送をやっていました。

 今回は、ドラマ全6回の再放送(月曜深夜~金曜深夜※金曜深夜のみ2話放送)だけではなく、映画「ハゲタカ」も土曜の21:00から放送するというサービスぶりです。

 私のブログでも一度、映画化された「ハゲタカ」について紹介しておりますので、ご一読下さい。

 http://www.idea-law.jp/sakano/blog/archives/2009/06/08.html

 毎回山場があるドラマなので、途中から見てもなんとかついて行けます。NHKのホームページであらすじを読むことも可能です。

 出演者も実力者揃いで、非常に見応えがあります。多くの賞を獲得したことも頷けます。

 昨晩見逃してしまったという方も、今晩からご覧になることを是非オススメします。もちろん映画だけ見ることも可能ですが、ドラマの配役そのままなので、ドラマの基礎知識がある方が映画もさらに楽しめるからです。

 なお、昨晩の第1回では、宇崎竜童さん演じる老舗旅館の主人が秀逸でした。

日本経済新聞~安岡崇志論説委員の書いた中外時評 

 2010年8月10日の日経新聞「中外時評」に、安岡論説委員が書いている。

 題して「悪循環に陥った法曹養成~抜け出すために意識改革を」。

 現場の記者の方はともかく、論説委員の方はなかなか自説を譲らず、自説と異なる現実があればその現実のとらえ方を歪めて自説を維持しようとする傾向があるように常々思っていたが、今回の安岡論説委員もやはり同じだった。

 法科大学院制度と新司法試験が僅か5~6年で悪循環とはどういうことか、関係者が危機感を抱いているのが法曹志望者の激減(僅か6年くらいで三分の一以下に激減)という安岡委員の指摘自体は、まあ、もっともな指摘だ。

 法曹志望者が少なければ、当然法曹の質は落ちていく。当たり前だ。志望者が少なければ当然そこに含まれる優秀な人材も減少していくし、何より競争が働かないからだ。オリンピックの選手と町内大会の選手を比べると、全体的にいずれが優秀かはいうまでもないだろう。

 しかし、法曹志望者減少の理由の分析で、論説委員お得意の、自説固持のための現実無視、ねじ曲げが炸裂する。

 安岡委員の分析によれば、新司法試験の合格率が低いのが法曹志願者減少の要因だそうだ。

 安岡委員は「高い授業料を払って2年か3年勉強に専念した末に法曹資格を得られる可能性がこの低さでは志願者がガタ減りするのも仕方がない。職を捨てて法科大学院に入る社会人の目にはリスクは、とりわけ高く映る。」と書いている。

 この理屈は、法科大学院も使っている理屈だし、エラ~イ論説委員が書いているのだから、一見もっともらしく思えるかもしれない。

 この理屈が正しいとすれば、合格率が低ければ低いだけ、志願者は減少していくことになる。果たしてそうか。最も簡単な例だが、旧司法試験の合格率が僅か数%であったにもかかわらず、志願者が年々増加していた(丙案導入時の受け控えを除く)。今の新司法試験と比べて、合格率で10倍も合格が困難な試験であったときには志願者が増加していた、この現実を、安岡委員はどう説明するのだろうか。どんな屁理屈を振り回しても、「合格率向上=志願者数増加につながる」という安岡委員の持論では説明ができまい。

 旧司法試験が合格率が極めて低いにもかかわらず、志願者が年々増加していった理由は、法曹資格が人生の一発逆転を可能にするプラチナチケットと目されていたからだ。つまり、それだけの魅力が法曹という職業にあったのである。だからこそ、人生を賭けて僅かな合格率に挑戦する若者が多くいたのだ。当然そこでは熾烈な競争が行われていたので、100%とはいわないが、他の資格試験と比べれば比較的優秀な人材を確保できていたのだ。

 最近では、需要を無視した法曹激増策(その実態は弁護士激増)により、弁護士資格を取得しても就職先が見つからないなど、法曹資格が職業としての魅力を失ってしまっている。

 安岡委員が考える以上に、世間の人は現実を見ているものである。高い法科大学院の費用をかけ(しかも通学するには会社を辞めなければならない場合が殆どである)、しかも法曹資格を取得しても就職先すら覚束ないのでは、人生を賭けて競争に挑み、法曹資格取得を目指す意味がないではないか。そんな魅力のない職業を目指すよりは、一流企業や公務員を目指した方が、多くの人の人生においてプラスになることは子供でも理解できよう。

 また、旧司法試験では、法科大学院を卒業しなくても司法試験を受験できた。さらにいえば、今の新司法試験のように3回不合格でアウトという、理不尽な制約もなかった。わざわざ会社を辞めて法科大学院に高い学費を支払わなくても、会社に通いながら受験勉強をして合格された方も何人もいる。つまり法科大学院+新司法試験という新しい法曹養成制度自体も、優秀な人材を引き付けるには妥当でないものなのだ。

  需要を無視した法曹資格乱発により、法曹の職業としての魅力が急速に低下したこと、高額な費用を法科大学院に支払わなければ受験すらできない法科大学院+新司法試験制度が、法曹志願者減少の最大の原因であると私には思われる。

 安岡委員も、おそらく本音は分かっておられるはずだ。ただ、日経新聞論説委員という看板を背負っている以上、広告をしてくれる法科大学院への配慮や、これまで法科大学院制度は素晴らしいとさんざん報道してきた手前、経営上の問題などもあって、本音を言えない部分もあるのだろう。

 しかし、安岡委員の中外時評にはさらに突っ込み処があるが、○○警察に接見に行かなければならないので、今日はこの辺で。

(元気があれば続けます。)