映画 「ゲーム」

 投資家のニコラス(マイケル・ダグラス)は、誕生日に弟(ショーン・ペン)からプレゼントをもらう。そのプレゼントとは、CRS社の提供するゲームなのだと弟はいう。CRS社に出向いたニコラスだが、結局ゲームには不適合であると宣告される。しかし、ニコラスの身辺には奇妙な出来事が頻発し、そこにはCRS社の影がちらつく。今、会っているこの人物は、敵なのか、味方なのか。今、経験していることは、罠なのか、そうでないのか。ニコラスは、次第に追いつめられていく。

 ネタばれしないように、内容を紹介すると大したことない映画のように思われるかも知れませんが、なかなか面白い映画です。一気に観客を引き込んで、最後まで引っ張り続ける力がある映画だと思います。お盆休みにはお勧めでしょう。ちょっと値段が高いのが残念です。

 監督はデビット・フィンチャー。「セブン」、「ファイトクラブ」、「パニックルーム」などを撮っています。最近では「ゾディアック」が公開されたので、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

 私はこの映画を映画館で最初に観たとき、O・ヘンリーの短編小説の翻案ではないかと思いました。久しくその記憶を忘れていたのですが、最近久しぶりにO・ヘンリーの短編集を読んだ際に、「黄金の神と恋の射手」という作品があり、これが「ゲーム」の元ネタではないかと改めて感じた次第です。

 もしまだご覧になっておられない方は、O・ヘンリーの短編集を読む前に、必ず先に「ゲーム」をご覧下さい。映画に入り込めれば相当面白い時間を過ごせると思います。

DVD 6300円(税込)

少年鑑別所と少年院

 少年事件を起こした方はよく知っているのですが、一般の方々があまり知らないのが、「少年鑑別所」と「少年院」の区別です。どちらも悪いことをした少年が入れられるという点では同じであるため、区別がついていない方も多いと思われます。

「少年鑑別所」とは、 

 本人或いは環境に問題の多い少年の身柄を収容して、調査・審判の円滑な遂行を確保し、その間の非行性の進化等を防止するとともに、社会調査・行動観察・心身鑑別を行って適正な審判の実施を図るための施設です。大阪では、堺市にあります。大阪刑務所に隣接する土地にあって、最近新築されて非常にきれいになっています。

「少年院」とは、

  初等・中等・特別・医療の4種類があり、少年を収容して矯正教育を行う施設です。(大阪府には阪南市の和泉学園、茨木市の浪速少年院、交野市の交野女子学院がある。)
  法律上収容は20歳までとされているが、現実には(簡単に言うと)長期処遇と短期処遇に分かれており、長期処遇は約1年程度、短期処遇は約半年程度の収容期間であることが多いとされています。

 非常に簡単に言えば、「少年鑑別所」は、少年審判を行う際に、事前に少年を入所させて調査を行う施設であり、「少年院」とは、少年審判により「少年院送致」の処分を受けた少年が、矯正教育を受ける場です。

 このように、審判を受ける前に入るのか、審判の結果により入れられるのかが違いますし、審判のための調査のための施設なのか、直接少年を矯正するための施設なのかでも違いがあります。

 私は、少年事件で担当した少年が、少年院送致になった場合に、機会があれば、面会に行って励ますこともあり、金沢、伊勢、加古川、和泉、宇治などの少年院に行ったことがあります。どこも相当厳しい教育がなされているようでしたが、少年たちはみんな面会を喜んでくれたようです。ただし、どの少年院も結構不便な場所にあるので大変でした。

被告と被告人

 民事裁判で訴えを起こされ、相談に来られた方がたまに仰るのが、「悪いことをしていないのに、罪人扱いまでされて!」という怒りのお言葉です。

 お怒りの理由の多くは、裁判所からの書面に「被告」として自分の名前が記載されている点にあります。確かに、テレビや新聞等のマスコミでは、逮捕された容疑者が起訴され、裁判になった際に「○○被告」と呼ぶことが多いため、「被告=罪人扱い」と思われるのもやむを得ない面もあります。

 しかし、これは、マスコミが法律用語を誤用しているためなのです。逮捕された容疑者が、起訴され刑事裁判になった際に、起訴された者は法律上「被告人」となります。民事裁判の場合は、訴えた人が原告、訴えられた人が「被告」となります。

 簡単に言えば

刑事裁判で裁かれる人→被告人、

民事裁判で相手方とされた人→被告、

となります。

 ですから、裁判所からの書類に「被告」と記載されていても、「あなたは民事裁判で相手方にされましたよ」という意味しかなく、何ら罪人扱いでも何でもないのです。 テレビ報道でも良く聞いてみると、アナウンサーが刑事裁判で起訴された人を「○○被告」と呼んでも、コメンテーターの弁護士は大体きちんと「○○被告人」と区別してしゃべっていると思います(時折、間違うことはあるかもしれませんが)。

 個人的には、マスコミが早く誤りを正してくれることが大切だと思っています。

映画 「夢見るように眠りたい」

 私立探偵の魚塚甚(佐野史郎)と助手の小林のもとに、桔梗(佳村萌)という娘を誘拐されたので、誘拐犯からの謎かけを解いて、連れ戻して欲しいとの依頼が来る。その謎掛けとは「将軍塔の見える、花の中、星が舞う」というMパテー商会からの奇妙な暗号だった。桔梗を探すために活動を開始した、魚塚と小林だが、逆に身代金として渡されていた100万円を奪われてしまう。追跡を続ける魚塚は、次第に大きな流れにのまれていくように「永遠の謎」に巻き込まれていく。

 林海象監督が、第1回監督作品として制作したこの映画は、わずか83分の作品ですが、映画に対するとてつもない愛と想いが込められている作品のように思われます。この映画が制作された1986年当時は、私の出身地の田舎の方では、小さな街の映画館が次々とつぶれ、その後、ようやく少しずつ復興し始めた頃でもあり、映画界が(特に邦画に関して)元気を失っていた時代であったのかもしれません。その頃に、「忘れないで欲しい。映画はこんなにも素晴らしいものなんだよ。」と、映画を使って夢を紡いで見せたのが、この作品だったのではないかと思います。

 ラストシーン近くで、魚塚が「桔梗」と叫ぶシーン、桜の花びらが舞い散る庭のシーン、まるで穏やかな誰もいない海で、仰向きに泳ぎながら、水面下数メートルから空を見上げているように流れる音楽、 出来れば小さなオフシアターで、もう一度見てみたい映画です。

DVD 4700円(税抜)

第34回司法試験委員会会議議事要旨掲載場所

 私が、7月20日にブログにアップした、法科大学院卒の司法修習生に関する印象を記載した、法務省HPの記事の場所が分かりにくいという話を聞きましたので、ご紹介しておきます。

 法務省HP→審議会情報→司法試験委員会(かなり下の方にあります。)→司法試験委員会会議→第34回会議→関係者に対するヒアリング、です。

 なお、先日のブログでは「的を得る」と記載しました(正しくは的を射る)が、これは関係者に関するヒアリングに記載されたとおりに引用しただけですので、念のため。

 他にも、新司法試験委員に対するヒアリングなども過去の議事録には残されており、司法試験委員がどのような答案を求めているかについても触れている部分があります。なかなか面白いので、受験生は一読されてもよろしいかと思います。

法科大学院卒の司法修習生

 司法試験に合格しただけでは、裁判官や弁護士、検察官になることはできません。司法試験に合格後は、最高裁判所に管轄される司法研修所と各地の裁判所などで、司法修習(分かりやすくいえば、医師の昔のインターンのような制度)を行います。そして、最終的に2回試験と呼ばれる卒業試験(司法修習生考試)に合格して、初めて弁護士などになる資格を得ることができるのです。

 ところで、ご存じのとおり法科大学院制度が実施されておりますので、第1期の法科大学院を卒業して新司法試験に合格し、司法修習を行っている司法修習生になっている方々がいます。これまでの司法試験とは全く異なる法科大学院~新司法試験制度を突破されてきた方々なので、どのような方々なのかという点には興味がありました。

 この点に関して、法務省のHPに公開されている「第34回司法試験委員会ヒアリングの概要」に、法科大学院を卒業されて新司法試験に合格された新60期修習生の印象が、記載されていましたので紹介します。おそらく司法研修所教官の方の印象だと思われますが、主に、次のような点を指摘されていました。

・熱意の点は概ねまじめで熱心である。

・ビジネスロイヤー志向が強く、刑事系科目を軽視している修習生が多いという声もある。

・口頭表現能力は高いと言えそうであるが、発言内容が的を得ているかというと必ずしもそうではない。

・予備校のテキストを使用している者が意外に多い。

・教官の中で最も意見が一致したのが、全般的に実体法の理解が不足しているということである。単なる知識不足であればその後の勉強で補えると思うが、そういう知識不足にとどまらない理解不足、実体法を事案に当てはめて法的な思考をする能力が足りない、そういう意味での実体法の理解不足が目立つというのが、非常に多くの教官に共通の意見である。

・全般的に言えば優秀な修習生がいることに変わりはないが、能力不足の修習生も増えている。

法科大学院卒の司法修習生に限らず、最近の修習生の傾向として、

・就職活動に熱心であり、修習よりも就職活動を一生懸命にやっている。

・年々まじめになってきているが、それが必ずしも成果に結びついていない。立場を変えて思考することが上手くできない修習生が増えている。

 私の個人的意見を言えば、合格者を増やせば、当然全体のレベルは下がります。どんな試験においても優秀な方から普通の方まで並べるとピラミッド型になりますから、合格者を増やせば増やすだけ、ピラミッドの下の部分が増えるからです。だから、能力不足の修習生の絶対数は従来よりは間違いなく増えていると思います。ただし、このことは修習生全体が能力不足という意味ではありません。おそらく修習生の上位の方は、今までの司法試験の上位合格者と同レベルの能力をお持ちだと思います。

 しかし、あまりに性急に司法試験合格者を増やしすぎており、能力不足の法律家を粗製濫造してしまう危険が今まで以上に高まっているのは事実でしょう。これは法曹を目指す方のせいではなく、このような制度設計をした側の責任だと思います。

 これまでマスコミは、法律家不足を宣伝し続けてきました。しかし、企業が企業内弁護士としてどれだけの法律家を雇用しているでしょうか。一般の方に、法律家の需要がどれだけ増えた実感があるでしょうか。ほんとうに法律家が不足しているのであれば、なぜ、司法修習生が就職に困難を来しているのでしょうか。 法律家の急増が社会の真の要請でないとすれば、従前に比べて能力不足の可能性を指摘されている法律家を濫造すべきではありません。また、仮に、社会に法律家急増という要請がある場合であっても、それは従前以上か、少なくとも従前並の質を保持した法律家を社会は求めているはずです。

 先日、ある法科大学院の教授もされている学者の方とお話しする機会があったのですが、最近の法科大学院の学生の質の低下も顕著であり、こんなことなら、以前の司法試験制度の方がまだ良かったと仰っておられました。

 日本では、ある制度が誤りであったと明らかになっても、直ぐに是正されることは少ないように思われます。しかし、能力不足の法律家を多数輩出してしまうかもしれない懸念が非常に強くなっている現在の制度は早急に見直されるべきだと考えます。

そして僕は天使になった  池谷剛一 文・絵

 ある日僕はあたりまえのように死んでしまった

 この絵本は、いきなり衝撃的な文章で始まります。
 表紙の挿絵と題名からは、想像もつかない始まりです。
 主人公は、飼い主より先に死んでしまった犬ですが、犬本来の姿で描かれるのは、最初の2ページ目までと、飼い主との日々を回想するページだけです。

 静かで、でも何故かほっとする絵が、次第に読み手の心を温めてくれるような気がします。
 この絵本の犬のように、真っ白い月の光の中、親しい人との素晴らしい想い出だけを抱いて、天に帰れるのなら、天使になるのも悪くない・・・・・と素直に思えます。
 

 大事な人を失った人、何らかの別れにより傷ついた大人の方向けの絵本ではないかと思います。
 「素晴らしい想い出だけを静かに、大事に抱いて、待っていて下さい。」そんな気にさせてもらえる絵本かもしれません。

光琳社出版1800円
(現在ではパロル舎より1500円(税別)で出されているようです。)

少年法改正のポイント

 平成19年6月1日に、改正少年法が公布され、遅くとも平成19年11月中に施行されることになりました。

 法務省のホームページによりますと、今回の少年法改正のポイントは次の5つということです。

 ① いわゆる触法少年及び、ぐ犯少年に係る事件についての警察官の調査手続を整備すること。

 ② 警察官の調査に関し、付添人の選任権など、少年の権利保護のための規定をおくこと。

 ③ 少年院に送致可能な年齢の下限を設け、おおむね12歳とすること。

 ④ 保護観察中の者に対する措置につき、遵守事項違反が新たな審判事由であることを明らかにすること。

 ⑤ 一定の重大事件につき、国選付添人制度を新設すること。

 ここでは、③・④がマスコミで大きく報道されましたので、簡単に説明します。

③については、「小学生も少年院に送致できるようになる」と報道されたので、ご存じの方も多いと思います。法務省の説明では、14歳未満の子供でも凶悪・重大な事件を起こすなど、内面に大きな問題を抱えている少年の存在は否定できず、その子供たちの処遇のためにふさわしいのであれば、少年院で教育すべきではないかという趣旨だそうです。

 確かに年齢だけで、画一的に閉鎖された少年院か開放的な児童自立支援施設かとの分類をすべきではなく、少年の個性に応じて対処するという方針自体は正しいと考えられますが、少年の社会復帰はできるだけ、社会に近い状況の下で行われるのが望ましいことから考えれば、疑問がないわけではありません。ただし、14歳未満の少年による悪質な事件の存在も否定できないようなので、難しいところだと思います。

④についてですが、これまでは、少年審判で保護観察に付された場合には、保護観察処分が終局処分であったため、保護観察中に遵守事項の違反を少年が繰り返しても、それを理由に少年を少年院に入れることができない状態にありました。その結果、少年が保護観察を軽く見てしまい、保護観察が機能しない場合もあったようです。そこで、今回の法改正においては、「少年が遵守事項を守らず、保護観察を続けても本人の改善・更生が見込めない場合には、家庭裁判所が審判を行い、少年院等に送致することがある」ことを定めました。この点に関し、少年は事件を一度しか起こしていないのに、その事件で保護観察と少年院送致と2重に処罰するのではないかという指摘がありましたが、法務省は、「保護観察中の遵守事項を守らなかったという新たな事情を理由として、新たな保護処分を行うものであり、少年を2重に処罰するものではない」としています。保護観察が機能しない場合の問題は、かなり以前から指摘されていましたので、この制度の新設により、保護観察の実効性が高まることが期待されているようです。

司法試験論文式試験受験者の方へ

 とにかくお疲れ様でした。よく頑張られましたね。私も論文試験を何度も受験して、不眠症や円形脱毛症になったりもしましたので、その精神的・肉体的な苦しさは分かるつもりです。

 まずは、試験で疲れた心身をいたわって上げて下さい。論文式試験は想像以上に体力と精神力を使います。栄養のあるものを食べて、睡眠を十分にとって、たまっている疲労をとるよう心がけて下さい。

 予備校の模範解答も出回っていることと思いますが、必ずしもその解答が正しいとは限りません。模範解答を見てしまっても、自信を失わない方だけごらんになればいいと思います。もう、合否は試験委員に委ねられているのですから、論文試験の失敗した点を悔やむ必要はありません(失敗の分析と反省は必要です。悔やむだけなら意味がないということです。)。

 一息ついたら、口述試験の準備を必ず行って下さい。そのまま夏休みモードに入ってしまうと、せっかく司法試験向けに研ぎ澄まされたあなたの頭脳を、鈍らせてしまいます。1人ではなかなか気が乗らないことが多いでしょうから、友達と何人かで口述ゼミを組んで、口述問題を試験形式で行うのも非常に有効です(私もやりました)。

 口述試験が3科目になってから、商法・会社法の細かい知識は口述試験では不要になりましたが、その分、1科目のウエイトが重くなっています。1科目の失敗でも大変な違いになってしまいます。そうだとすれば、口述試験対策を怠るわけにはいかないはずです。よく合格体験記で、口述対策はしていなかったなどと書かれる方がいますが、それはたまたま運良く口述プロパーの問題が出なかっただけに過ぎません。

 また、法律家にとって知識は、非常に大切です。すでに弁護士過剰状態に陥り始めていますから、知識はあるだけ有利になります。研修所での2回試験においても知識不足は致命傷になりかねません。「研修所に入ってから身につければいいや。」と思っていると、思いの外、修習生活が忙しくて、そのような余裕を持てずに2回試験に臨まなければならなくなります。

 辛いかもしれませんが、もう一頑張りです。論文試験を受験された全ての方に合格可能性があることを忘れないで下さい。

「ゆき」 斎藤隆介著 

 天上に暮らし、天と地を真っ白な雪で清める雪の「じんじい」と「ばんばあ」。しかしこの頃は、潔白な雪で下界を清めても、雪はたちまち真っ黒になってしまう。下界で悪いことが行われているからだ。「じんじい」は「ばんばあ」との間の娘である雪ん子を、下界におろし下界の掃除をさせると言いだした。もしも下界の汚れに負けてしまえば、雪ん子は消えてしまう。下克上時代でもあった室町時代末期、野盗や領主を名乗る地侍、あくどい地主、等がはびこる東北の農村を、雪ん子は、村の地面いっぱいに汚れないきれいな雪がつもる世界に変えていけるのか。そして、外の敵がいなくなったときに初めて分かる心の中の敵に打ち勝てるのか。

 斎藤隆介って誰?と思われる方がほとんどかもしれません。しかし、絵本の「モチモチの木」、「八郎」、「三コ」、「花さき山」に「ベロ出しチョンマ」の作者である事までお伝えすれば、誰でも一度は読んだことのある本の作者である事に気づかれるでしょう。

 近代は人の自我の確立の時代でもありますが、近代から現代に至るまで、自我の確立・主張を重んじるばかり、人は、優しさや、思いやりを次第に失っていきがちであり、人として大事なことを失いつつあることにすら気づいてこなかったのかもしれません。それは、自分の心の中にある敵に知らず知らずのうちに屈してしまっている状態とも言えると思います。作者は農民達の心の中にある敵を「神人」として表現し、「ゆき」と対決させます。そして、作者はあとがきで、「心の中の敵とたたかうことは、ほんとうににむずかしいものですね。でも、それとたたかって勝たなければほんとうに勝ったということはできません。ゆきは、勝ったのでしょうか、まけたのでしょうか。」と読者に問いかけます。今から40年ほど前に書かれた作品なのですが、競争社会化が著しい現在では、より重い問いかけのように思えます。

 他人の苦しみや痛みを思いやり、理解し、そしてその痛みや苦しみを黙って見逃すことが出来ない人物を描いた短編を数多く書いてきた斎藤隆介が、初めて書き下ろした長編童話がこの「ゆき」です。滝平二郎の切り絵による挿絵も素晴らしく、絶版となっているのが非常に残念です。図書館等にはあるかもしれませんのでもし見つけられたら、童話であるというだけで敬遠せずに、一読されることをお勧めします。

ps 個人的には宮崎駿さんに映画化して頂けたら、すごいのに・・・・と思ってしまいます。