TPPって未だによく分からない・・・。

 「第三の開国!」、「バスに乗り遅れるな!」などと、既にTPP参加を前提に政府は前進しているようだが、未だにTPPの内容がよく分からない。きちんとした内容を報道している新聞も残念ながらまだ見たことがない。

 私の調査不足かもしれないが、TPPの日本語訳も公表されていないように思われる。TPPが国民生活に何らの影響を及ぼさないのであればいいのかもしれないが、もし、多大な影響を及ぼすものであれば、その内容を国民に示して、賛否を問うべきだ。

 私も新書などで、TPPに関して知識を取り入れている最中だ。TPP反対側と思われる書籍はいくつか出ているようだが、TPP賛成側の書籍が見当たらないのはどうしてだろうか。

 まだ、ほんのさわりしか読んでおらず、その範囲で分かったことに過ぎないのだが、かなり大まかに言えば、TPPはFTA(2国間自由貿易協定)の拡大版であるらしい。しかも、TPPの方が縛りが強烈であるらしい。つまり、FTAは、お互いの国情に合わせて譲れない分野を例外とし、残りの分野で関税撤廃などの連携を広げるのに対し、TPPはその例外を一切認めないものらしい。

 誤解を恐れずに簡単に例えて言えば、

 のび太としずかちゃんが、「おやつ」の交換協定(FTA)を結んだとすると、のび太としては、どら焼きは大親友のドラえもんの大好物なんだから、「おやつがどら焼きのときは交換しない」という例外を認めた約束を結べる。

 しかし、のび太としずかちゃんだけではなく、スネ夫とジャイアンも加わっておやつの交換協定(TPP)を結んだ場合は、どんなにのび太やドラえもんにどら焼きが大事でも、ジャイアンが全てのおやつ交換を主張すれば、例外なく、のび太は応じなければならなくなる可能性があるようなのだ。

 しかも、TPPの適用範囲は農業だけに限定されず、労働条件・医療・知的財産権関連・司法、等様々な分野に及ぶ可能性があるようであり、その中心(ジャイアン)には、アメリカが控えているようだ。

 もう少し、勉強してみないと分からないが、TPPにはかなり危険な匂いがする。韓国は参加しないようだし、中国も参加しない方向らしい。一説によると、日本と中国がFTAを締結すべく話を進めていたところ、尖閣諸島事件が発生し、その対応の拙さから日中間FTAがお流れになり焦った菅内閣がTPPに参加することで成果を上げようと目論んでいるとの話もあるようだ。また、輸出企業・グローバル企業からは賛成の声も上がっているらしい。

 もしTPPが本当に危険なものなら、内閣の成績アップのために、一部の企業の利益のために、国民生活を犠牲にされてはたまったものではない。

 経済界の(一部?の)声に流されて失敗したのは、司法改革もおんなじだった。あれだけ弁護士が必要だとわめいていた経済界だったのに、いざ増員してみると弁護士を採用した企業はほんのわずか。今後も採用する気はないという。

 企業は飽くまで営利団体だから、営利性に応じて立場を変えることはやむを得ない。しかし、だからこそ、その営利性に則った発言をあまりに重視しすぎると、引き返せない船に乗せられてしまう危険性がある。

 本当に必要なTPPなら、きちんと情報を開示したうえで、どの範囲の国民生活にどのような影響が及びうるかを示し、そのメリットとデメリットを公正にピックアップした上で、なおメリットの方が多いはずだということを十分な根拠とともに、国民に説明すれば納得してもらえるはずだ。

 まず、菅内閣とTPP参加を希望する企業はその情報開示義務と説明義務を国民に果たす必要があるように思う。

岩合光昭さんの「いぬ」

 岩合光昭さんが飼っている犬という意味ではなく、岩合光昭さんの写真集「いぬ」のお話です。

 先日、日弁連の法曹人口問題政策会議が東京丸の内であったので、日本橋三越で開催されていた、岩合光昭さんの写真展「いぬ」に行く機会がありました。

 犬好きの私としては、もう、犬の写真展というだけでメロメロなのですが、さらに、岩合さんの写真ということで(当然、岩合さんの撮影された犬の写真集「ニッポンの犬」も買っています)、これはラッキーという思いで、日弁連会議終了後、大急ぎで日本橋三越へと向かいました。

 会場は相当な混雑でしたが、大きく引き伸ばされた犬の写真は、どれも素晴らしく、一瞬を捉える岩合さんのプロとしての確かな力を存分に感じさせてくれる写真展でした。どうやら、発売されてすぐの、岩合さんの写真集「いぬ」(クレビス・税別1600円)とコラボレーションしているらしく、写真集に載っている写真が展示されています。

 さらに、写真集を買うと先着100名に岩合さんのサインがもらえるうえに、その写真集の表紙が私が最も愛する紀州犬の子犬の写真なのですから、気分的に、私は、これはもう、買うしかないという状況に追い込まれていきました。

 (あ~、悪徳商法の一つに催眠商法ってのがあったなぁ・・・それにしても知識と感情は一致しないモンだ、と頭の中で思いつつも)私は、まんまと出版社の罠に、自ら喜んでひっかかって、気付けば写真集とポストカードを買ってしまっていました。

 ギャラリートークもあり、岩合さんが、この写真は道路脇で撮影したもので上の方に小さく白く見えるのは実はガードレールなのです、とか、子犬を抱き上げてもらって撮影しているうちにだんだん子犬の機嫌が悪くなりかけているときの顔ですとか、撮影中の思い出話も楽しいものでした。その後に無事、岩合さんの直筆サイン(犬のイラストつき!)も頂戴し、ず~っと突っ立っていた疲れも忘れるくらい、満足して帰途につきました。

 自宅に帰ってからも岩合さんの「いぬ」の写真集をながめていると、写真展で感じたのと同じく、なんだか春の日に昔飼っていた犬をなでてやりながら、その頭に顔を埋めて、愛犬の、日向のような匂いをかいでいるような、そんな幸せな気分が湧いてくるのでした。

 サインして頂いている間に、そのような日向の匂いを感じさせてくれる写真ですねと、岩合さんに、お伝えすれば良かったと、今になって後悔している私でした。

ちょっと心配なんだけど・・・。

 今日は、司法特別演習Aの第2回だった。

 隔週で2コマ連続という変則形態なので、今日が実は3・4回目に当たる。

 ペットが、法律上、どう扱われるかについて、民法の基礎からお話ししているうちに、権利の客体の話になった。権利の客体として、人体の一部はそこから離脱しない限り「物」として権利の客体にならないという話をし、「ベニスの商人」でもそうだったでしょ、と問いかけてみた。

 ところが、学生諸君の反応が、どうも変だ。

 まさかと思って、「ベニスの商人」の話を知っている人、と聞いてみると、10人中2人しか知らないとのこと。その2人も、名前は聞いたことがあるくらいで、話の内容はあまり分からない様子だった。

 少なくとも、大学生なら読書が趣味でなくても、「ベニスの商人」くらいは読んでいて欲しい。読んでなくても、あらすじくらい知っていて当たり前だ。それが、わざわざ大学まで学問を学びにやってきた大学生の教養というべきものではないだろうか。

 「ベニスの商人」だけで判断するわけにいかないことは十分承知している。しかし、私が教鞭を執っているのが、関西私大の雄とされる大学だけに、他に全国に多く存在する大学生達の教養が、かなり貧弱になっているのではないかと、ちょっと心配になった。  

不合格になっちゃう夢

 私がツイッターでフォローしている、chokudai2002先生が、未だに司法試験に落ちる夢を見るとつぶやいておられました。

 私もリツイートしました。弁護士になって10年以上経過し、かなり頻度は少なくなりましたが、未だに司法試験に落ちる夢をまれに見ることがあります。

 必死で答案用紙埋めて、何度も見直ししているうちに終了の鐘(当時はハンドベルのでっかいような奴でから~んから~んと合図を鳴らしていました。)がなって、答案回収されるときに、はじめて裏にも解答欄があることに気付きます。

 当然のことながら、裏は真っ白です。だってそんなところに回答欄があるなんて誰も教えてくれてない!

 その真っ白な答案用紙の裏を見つめ、真っ青な顔しながら、「うあ~~~!!今年もダメかぁぁあああああああああ!」・・・・・→「ムンクの叫びっ!!」てなります。

 大体その辺りで目が覚めて、ああ、もう合格したんや、今、弁護士やってるんや、と寝床の上で自分に言い聞かせて正気に戻ります。

 夢って、見ている間は本当にリアルだから、そこでの焦り具合も半端じゃない。

 結構当時はそんな話、あちこちで聞いたんですが、今の受験生の方はどうなんでしょうねぇ。

司法修習生就職難状況~2011

 前のエントリーで、修習生の方に朗報をお伝えしておきながら矛盾したようなことを言うようだが、昨日の常議員会で頂いた資料に、年々厳しくなる就職状況のアンケート結果が入っていた。

 大阪弁護士会執行部に対し、その資料の公表を可否を尋ねたが、会員限りとのお返事だったので、以下の記述は、「私が仄聞するところによると、どうも、こういう状況らしい」というものに過ぎないことをお断りしておく。

 紛れもなく、司法修習生の法律事務所への就職難は厳しさを増している。

 昨年11月実施のアンケート(毎年この時期に法律事務所に対して実施。回答率は29~20%程度。)に回答した事務所のうち、司法修習生の採用を希望する事務所の割合がここ3年次のように低下している。

2008年11月  30.41% (小数点3桁以下四捨五入、以下同じ)

2009年11月  21.52%

2010年11月  16.67%

 このアンケートには、どんな条件なら採用可能かという項目もあげられている。2010年のアンケートには、その問いに関して、はじめて、「条件に関わらず採用予定なし」という選択肢が組み込まれたようだが、アンケート結果(複数回答あり)の上位3項目は、概ね次のような内容になっている(らしい)。

 条件に関わらず採用予定なし  65.6%

 スペースがあれば         17.3%

 低年俸なら              9.8%

 また、「条件にかかわらず採用予定なし」と回答した方で、記載された理由の上位5つは次の通り(らしい)。

1位  事件・収入が減少した又は、ないため。あるいは増加する見通しが立たないため。

2位  高齢のため・健康上の理由のため・廃業予定のため

3位  現状で業務には十分足りている。これ以上雇用する余裕がないため。

4位  自分が独立して間がないため。

5位  採用の必要性を感じない。あるいは採用の意思がないため。

 これでは、修習生としては、早く釧路・長崎へ就職活動に行くか、「弁護士のさらなる増員は必要、潜在的弁護士ニーズがまだまだある」と仰る方々(江田法相含む)に雇用してもらうしかないではないか。

 日弁連は、早急に、まだまだ潜在的ニーズはあると言い張る弁護士、または、司法試験合格者減員に積極的に賛成しない弁護士(現状の激増路線を是とする弁護士)が所属する法律事務所のリストを作成して、司法修習生に教示するべきだ。

 責任ある発言をしているのなら、きっと雇用してくれるはずだ。無責任かつ根拠なしに潜在的ニーズの存在や弁護士激増の必要性を論じているわけではないだろう。

 本来なら、司法修習生の窮状を分かっているはずだから、ご自分から名乗り出るべきだと思うが、どうも潜在的ニーズ論者や弁護士激増論者の方は、シャイな方が多いらしいので、日弁連が後押ししてやるしかないではないか。

 誰が潜在的ニーズ論者か、弁護士激増論者か、分からないって?

 そんなのアンケートとればすぐわかる。アンケート未回答の人を含めて、法律事務所の連絡先を公開すればいいのだから、やり方も簡単だ。そもそも弁護士名簿には、事務所名も名前もみんな掲載されている。

 司法修習生としても、それくらい日弁連に求めても、おかしくないだろう。就活で、公に募集をしていない会社に対して、採用予定があるかどうか問い合わせるのとおんなじことだ。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

修習生の方へ朗報??

 日弁連新聞4頁に、小規模弁護士会協議会の記事が載っている。

 そこで、小規模弁護士会協議会の永井議長と原副議長が、小規模弁護士会(地方)に是非来て欲しいと語っておられる。 永井議長の所属する釧路弁護士会は現在60名の会員、原副議長の所属する長崎県弁護士会は現在137名の弁護士が所属している。

 来てくれと言っているのだから、就職させてくれるはずだ。就職難に悩む修習生の方には朗報だ。

 若干気がかりなのは、日弁連法曹人口政策会議が「中間とりまとめ(司法試験合格者の減少を提言する内容)」に対する意見を求めた際に、長崎県弁護士会の意見はまとまらなかったものの、その中に、「法曹需要が現れていないことをもっと強調すべき」という趣旨の意見が見られることだ。これに比べて、釧路弁護士会の方は「弁護士数激増による歪みといえる状況を未だ具体的に体感するには至らない状況」らしいので、長崎よりは期待が持てる。

 ちなみに、長崎県(総人口約143万人、弁護士数137名)と、ほぼ同規模の愛媛県(総人口約142万人、弁護士数141名)が、日弁連の「中間とりまとめ」に関して、合格者を1000名まで減少すべき、大幅減員とするべきという意見が多数を占めたとの報告もあるが、まさか原副議長が、長崎の現状も知らずに長崎に来て欲しいとは言わないだろうから、長崎はきっと、愛媛に比べて弁護士の需要が凄く多いのだろう。

 これは、チャンスだ。

 就職に悩む修習生の方々は、こぞって、釧路・長崎で事務所訪問をするべきだ。それでも就職させてもらえない場合は、永井議長や原副議長所属する事務所に雇用してくれるよう直訴してみよう。

 まさか永井議長や原副議長が、日弁連新聞紙上で無責任な発言をされるとは思えないから、ご自分の事務所で無理してでも雇用して下さるだろう。万一、新卒予定の修習生の内定者を5名もかかえているなどの特殊事情で今年がダメでも、きっと就職口を見つけて下さるはずだ。だって、ご自分が釧路や長崎に来て欲しいと言っているんだから。

 「来て欲しい」と言っておいて、「就職は知らん」とは言わないだろう。だって、積極的に「来て欲しい」とまで言ってるんだから。

 OJTの重要性も分かっておられるようなので、就職先がなければ即独しろ、などと無茶なことも言わないだろう。

 就職に悩む修習生の方は、まず、釧路・長崎が狙い目だ。

本当の敵とは?

 私は大阪弁護士会の常議員を務めさせて頂いている。60名のうち無所属は私だけで、他の方は全てどこかの会派に所属しておられる。

 常議員だからといって完全無給のボランティアだし、2週間に1回、平日の午後がつぶれるので結構痛いのだが、日弁連や弁護士会内部の情報に接することが出来るので、ここ数年は常議員として参加させて頂いている。

 そういう、常議員の負担に気を遣って下さるのか、毎年、年度末に常議員全員を対象に、簡単な立食形式の慰労会的なものが催される(若干の会費あり、だったと思う)。

 私はその席で、(実際、会長職は端から見ているだけでも非常な激務であるから)現会長にお疲れ様でした、とねぎらいの言葉を申しあげたり、次期会長の方にもっと法曹人口問題を真剣に考えて下さい、とお願いしたりするが、毎年のように、年輩の方から、「人口問題、もっと頑張って、言ってやってよ。」と応援のお言葉を頂く。

 私は、その際に、いつも「私のようなぺーぺーがいくら叫んでも、ごまめの歯ぎしりですわ。先生のような立派な方にこそ、はっきりいって頂ければずいぶん違うと思うんですが・・・・・。」と逆にお願いをする。

 私に声をかけて下さる先生は、少なくとも、なんにも考えずに増員賛成の旗にしがみついている先生よりは、ずいぶんマシだと思うが、いつも不思議なのは、それならどうしてご自身で執行部にきちんとものを言わないのかだ。

 いろんな立場はあるだろうが、是は是、非は非で議論するのが常議員会だし、弁護士だと私は思う。

 この点に関し、日弁連総会に出席された弁護士さんの、面白いブログを見かけた。私も、一昨年度の日弁連総会で執行部の問題点を追及する発言をしたことがあるが、そもそもの悪(問題点)は、本当はどこにあるかについて、鋭く指摘したブログだ。

http://red.ap.teacup.com/redcat/704.html

 無駄かもしれないけれど黙っている自分を許せない。

 このように仰るRed-ips (ブログ主)さんのような方が、少しでも増えて下さると、日弁連も変われるかもしれない。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

公認会計士試験と司法試験

 インターネットの情報によると、アメリカの公認会計士(CPA)の数は、30万人を超えると言われているそうだ。日本の公認会計士の数は、約21500人、準会員9500人くらいだ。

 平成18年より実施された新しい公認会計士試験制度により、合格者を増やしすぎたとして、減員の方向の検討に入ったのは、1年半ほど前の話だ。

 欧米と比較して圧倒的に少ない公認会計士数であるが、金融庁は、次のような理由から、既に合格者を減らす方向での調整に入っている。

(以下、金融庁の資料より抜粋)

平成21年12月8日
金融庁政務三役
「公認会計士制度に関する懇談会」の開催について
1.趣旨
(1)公認会計士については、監査業界のみならず経済社会の幅広い分野で活躍することが期待されているとの考え方に基づき、社会人を含めた多様な人材にとっても受験しやすい試験制度となるよう、平成15年に公認会計士法が改正され、平成18年より新しい試験制度のもとで公認会計士試験が実施されてきた。
(参考)現行制度での合格者の推移
平成18年 1372人
平成19年 2695人
平成20年 3024人 
平成21年 1916人

(2)しかし、現状においては、合格者の経済界等への就職は進んでおらず、社会人の受験者・合格者についても十分増加していないなど、現行制度の狙いは道半ばの状況にある。また、現状のまま推移した場合、公認会計士になるために必要な実務経験を満たすことができないことも懸念され、試験に合格しても公認会計士の資格を取得できないというおそれが高まることとなる。これは、試験制度の魅力を低下させる可能性もある。
(3)こうした状況を踏まえ、公認会計士試験・資格制度等についての検討を開始するため、「公認会計士制度に関する懇談会」を開催する。

(抜粋ここまで)

 公認会計士試験に合格しても実務経験を積めなければ公認会計士の資格は得られない。それは、公認会計士としての実力を認めるところまでの教育として試験合格だけでは足りないと考えられているからだ。

 医師だって、弁護士だって、じつは、おんなじだ。医師国家試験に合格しただけでは手術は無理なのと同じで、2回試験を合格しただけでは、適切な弁護活動は(絶対無理とは言わないが)相当難しい。

 つまり、金融庁の見解は、「会計士試験に合格しただけで、オンザ・ジョブ・トレーニングが出来ないのでは有能な公認会計士となりがたい。 試験に合格しても、実務経験が積めずに公認会計士になれないのであれば、資格の魅力が薄れ、有能な人材が公認会計士を目指さなくなる。しかも、経済界のニーズがなく、公認会計士の就職難の状況にある。だから、合格者をへらそう。」というところにあるということだ。 しかも制度改正実施後わずか3年での方向転換だ。

  そもそも公認会計士試験制度を改正したのは、金融庁によると、

 「公認会計士の質を確保しつつ、多様な人材が監査証明業務やその他の監査と会計に係る業務の担い手となることを目的として、平成18年度より実施されたものである。 その他、金商法の監査義務づけや公認会計士による法定監査の拡大、内部統制の構築、M&A関連業務やコンサルティング業務において公認会計士の果たす役割の一層の拡大が見られる。さらに自治体などの公開計の分野でも役割が増大しているし、国際競争力を強化することは喫緊の過大となり公認会計士の役割は重要である。経済社会による公認会計士の質の確保と量的拡大の要請の一層増大している・・・・」ということが理由らしい。

 上記の理由をどこかで見たことはないだろうか。

「ニーズが増えると予測される、資格者の役割はより一層社会で重要となる、経済界でも自治体でも必要だし、国際競争力の観点からも増員は必要。質を維持しつつ多様な人材を招き入れる必要がある・・・・・」

なんのことはない。司法制度改革で法曹増員のために掲げられていた内容とほとんど変わらないのだ。

 分野こそ、司法と会計・監査と異にするが、司法制度改革の目的と大して変わらないのが、公認会計士の試験制度改革の目的だったのだ。

 しかし、先ほど述べた金融庁の合格者減員が必要という見解に対して、マスコミは全く批判を行っていない。

 わたしから見れば非常に不思議に思う。

なぜマスコミは、

①もっと田舎の中小企業にも会計コンサルティングなどの潜在的ニーズがあるはずだ、とか、

②公認会計士のいない市町村がたくさんあるから、合格者減少なんてとんでもないとか、

③これまで割の良い仕事しかしていなかったのだろうから、もっと他の仕事をすればいいとか、

④公認会計士はこれまで恵まれてきただけで就職難はどこでも一緒だとか、

⑤国際競争力の観点から公認会計士をとにかく増加させるべきだとか、

⑥そもそも合格者増員(試験制度改革)の理念に反するだとか、

⑦欧米に比べれば圧倒的に少ないじゃないかとか、

 その他もろもろの、司法試験合格者減員論に対するのと同様の批判を行わないのだろうか。

 それは、専門資格の濫発が専門資格の魅力を失わせ、有能な人材がその資格を目指さなくなること、その結果却って専門家全体の力が落ちる危険があることを、マスコミがホントは知っているからに他ならない、と私は思っている。

 しかし司法試験に関してだけは、マスコミは、合格者減員論に対し、ヒステリックに反対する立場を維持し続けている。

 この事実だけからも、いかにマスコミが弁護士バッシングを、好き好んで行っているかが分かると思う。

 マスコミの方が、「それは違う」というのなら、なぜ公認会計士試験合格者減員に反対しないのか、論理的に明確に、司法試験との違いを明らかにしつつ説明して欲しい。司法試験合格者減員に対してあれだけ批判的に報道しているのだから、両者の違いの根拠くらい、すぐに、簡単に示せるだろう。なぜその違いについて説明しつつ報道しないんだ。それが偏向してるってことじゃないのか。

  しかし、こういうマスコミの偏向ぶりに気付く国民の方は、残念ながら、そう多くはない。

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません。

福島原発~事故レベル7へ

 ついにと言うべきか、やはりと言うべきか、福島第1原発の事故は、史上最悪と言われたチェルノブイリ原発事故に匹敵するレベル7の評価になったと報道されている。

 サンケイ新聞インターネット版によると、米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は11日、福島第1原発事故の深刻度が国際評価尺度で最悪の「レベル7」と変更されたことについて

「最も驚いたのは、このような大量の放射性物質が放出されたと公的に認めるまでに1カ月かかったことだ」

 と指摘する米原子力専門家の批判的な内容を紹介し、日本政府の対応の遅さを強調しているそうだ。

 全く同感だ。 

 チェルノブイリ原発事故とは違う、そんな大事故ではないと、原子力の専門家を自称する有名大学教授たちは何度もマスコミで述べていたように、私は記憶している。

 仮に私の記憶が定かならば、彼らは、東電のため(ひょっとしたら政府のため)故意に専門家としての知見を歪めてメディアに乗せた可能性がある。

 彼らは、どう言い訳するのだろうか。情報が不足していたというのなら、情報不足を前提に、最悪の事態はどこまで生じうる可能性があるのかを的確に指摘することが、専門家として意見を求められていた彼らの役割のはずだ。

 今こそ彼らは、メディアに出てきて、これまで行ってきた超楽観的な説明について、釈明すべきだ。

 それが専門家としての良心というものだろう。

 メディアも、そのような「専門家」のお気楽な意見を垂れ流してしまったのであれば、どうして今は違うのだと、出演させた専門家に聞いて、それを報道してもらいたい。

 それがメディアとしての良心というものだろう。

 何より政府の対応が遅れていることは、誰の目にも明らかだ。どうしてそうなったのか、仮に対応が遅れていないとすればどうして対応が遅れているように見えるのか、国民に分かるように説明してもらいたい。

 それは、政府の最低限度の義務である。

 かつて私が弁護団で扱った株主代表訴訟の尋問で、違法添加物が混入していると知りつつ食品を販売し続け、その事実を隠蔽した役員が、「隠蔽したつもりはない。公表するかについての判断は、メリットとデメリットを考えた上で決めたことだ。公表しないメリットは世間からの非難が避けられること、デメリットはないと判断した。だから積極的に公表しないという判断は経営上の判断なのだ。」という趣旨の発言をしたことがあった。

 その際、裁判長は「あなたの言うメリットとは(デメリットがないということは)、(不祥事を)ずっと隠しおおせられたらもたらされるものですね」と鋭く切り込み、その役員は返答に窮してしまった。

 裁判所は、会社役員らの選択した「積極的に公表しない」という判断は、経営判断の名に値しないと、判決で厳しく断罪した。不祥事や都合の悪いことが生じた場合には、むしろその事実を公表し、被害者に謝罪し、再発防止策を明らかにして信頼回復を図ることこそ、経営者のとるべき道だったのだ。

 もちろん会社と政府は性質は異なるが、トップに立つものが、不祥事が生じた際にとるべき方向性は変わらないと思う。

 原子力政策をこれまで推し進めてきたのは自民党であり、自民党の責任も当然あるはずだが、現政権与党の民主党にも情報開示の点で、猛省すべき点があるように思う。

映画~私を離さないで

 ある治療法が確立されて、人間の平均寿命が100歳にも伸びたイギリス社会が舞台。外界から隔離された寄宿学校「ヘイルシャム」に、幼い頃からいつも一緒に過ごしてきたキャシー、ルース、トミーの3人がいた。彼らにはある目的のために生まれてきたという、知らされていない秘密があった・・・・・。

(ネタバレにつながる内容がありますので、以下を読まれる方はご注意!)

 (この映画は、一度だけしか見ていないので、次に見た際には違う感想を持つかもしれないことを予め、お断りしておきます。)

 私の記憶は、いつからはじまったのか。

 私自身の記憶は、1~2歳くらいまでが完全に抜け落ち、3歳くらいからおぼろげに記憶が残っているような気がする。記憶が次第にはっきりしてくるのは、4~5歳くらいの保育園の頃からかもしれない。その記憶は、アルバムに残された色あせた写真から私自身が再構成した記憶なのか、オリジナルの記憶なのかはっきりしない。しかし、その記憶がないことが真実を知るまでは却って良いこともあるのかもしれない。

 この映画の主人公の記憶も、寄宿舎で同年代の子供達と生活しているところからはじまる。

 異常に健康に気を使い、決して外界に出ないようにして生活させられる子供達、子供達に取り付けられているセンサーを見れば、その時点でまさかとは思うが、ある残酷な運命が思い浮かぶはずだ。子供達は、そのようなことを微塵も感じさせずに、生きていく。そしてある程度の年齢に達し、自らを待ち受ける運命に気付いていく。

 その子供達を、映画は、美しい風景と一緒に描いていく。不思議なことに、思い返すとこの映画の中では、どんなに風が吹いていても、そこには静かな風景があったように、私には感じるのだ。

 山も海も、いや夜空に輝く星ですらも、いずれ、自らの意思と無関係に滅びる運命にあるという点で全ては同じだ。

 しかし、滅びに至る過程で他の意図が働いているとしたらどうだろう。いや、滅びに至る過程で他の意図を働かせるために、故意に生まれさせられた存在ならどうだろうか。子供達と一緒に映される美しい自然や風景は、ときが来ればいずれ滅びる。しかしこの子供達は、運命が本来定めたときに滅びることは許されない宿命を背負わされている。そうであるがゆえ、出入り業者などは子供達に普通とは違う視線を投げかける。子供達は成長するにつれ宿命を知り、宿命から逃れることが出来そうな状況にありながら、わずかな希望(それとて宿命から逃れることを意味しない)に期待をかけつつ、従容として宿命に従っていく。

 この子供達は、映画の設定どおりの存在であるだけではなく、世代間搾取や解決できない問題の先送りで被害に遭うであろう未来の世代の描写であり、現に国家間搾取で被害に遭っている国の姿の描写でもあるのだろう。

 彼らは、ただ、好きな人と、愛せる人と、一緒に過ごしたいだけだった。人間として当たり前の時間を過ごしたかっただけなのだ。少なくとも私たちの日常の社会では、実現することはさして難しくない、ほんのささやかな、望みだったはずだ。

 しかし、それは、彼らには、許されなかった。

 彼らに、それを許さなかったのは、彼らの存在していた社会の仕組みのせいだけではなく、本当は、現代社会に生きている私たち、1人1人の心のせいではなかったのか。

 答えの出そうもない、そのような疑問を、美しく静かな映像とともに投げかけてくれた映画だった。

 ブレードランナーやスカイ・クロラがお好きな方には、お勧めできる映画だと思います。