G20

現在開催中のG20のために、完全閉鎖された阪神高速道路。

何かの理由で、人類が滅んだ直後にも、こういう光景が見られるのだろうか・・・。

宮島のこと(昔話)~その3

 その後、高速道路を淡々と走行し、宮島行きのフェリー乗り場にバイクを置いて、私は宮島に渡った。

 桜を見に行くのが動機だったはずなのに、何故だか桜が美しかったかどうかについては、あまり覚えていないのである。

 記憶に残っているのは、やたら鹿がたくさんいたことと、厳島神社が素晴らしいということ、あと一つはそこで知り合ったおばあさんのことである。

 確か、干潮で厳島神社の周辺が干上がっていたため、先に紅葉谷公園を散策していたときに、そのおばあさんと知り合ったように思う。どういうきっかけで知り合ったのか忘れてしまったが、私が京都から来たことを話すと、自分も京都に住んでいたことがあるということで、かなり、親近感を持ってくれたようだった。
 だんだん潮が満ちてきたので、海に浮かぶ厳島神社を参拝しようとすると、そのおばあさんは一緒についてきて、厳島神社について、いろいろ教えてくれた。

 問われるままに気楽にいろいろ話していたところ、そのうち、おばあさんは、宿は決まっているのか、食事はとったのか、等と言い始めただけでなく、私の手を握り始めた。

 辺りはだんだん暗くなってきた。
 人通りも減ってきている。

 それとなく手をほどいても、気が付くとまた、おばあさんの手が私の腕にかかっている。

 そして、私の手を握ったまま、予約している宿をキャンセルして、どうしても家に泊まって行けというのである。

 「いろいろ話もあることだし、食事でもしながら話した方が良い」と、おばあさんは仰る。もちろん私の方から初対面のおばあさんに対して、お話ししたいことがあるわけではない。
 しかし、何故だか、おばあさんの頭の中では私がおばあさんの家に泊めてもらうことが早くも既定路線になりかかっている。

 
 辺りはさらに暗くなってきた。

 
 大変失礼なことだが、私の頭をよぎったのは、小さい頃に親から読んでもらった「牛方と山姥」の絵本のストーリーであった。

 山の中で干鱈を積んだ牛を追っていた牛方が山姥に追いかけられ、干鱈をよこせ、牛よこせと要求されてそれらを食われた後に、「今度は、お前をとって食う」といって追いかけられるという、子供にとってはいささかショッキングなお話しだったと記憶する。

 大学生がそんな昔話を思い出して怯えることも可笑しなものだが、確かに、私は怯えていた。私は、大事なバイクを駐車場に置いてきており、ハンドルロックをしたか記憶が定かではないので盗まれる恐れがありとても心配である、などとありもしない心配事をでっち上げて、フェリー乗り場へ逃げ帰ったはずだ。

 今となっては、好意に甘えて京都に住んでいたことのあるおばあちゃんの茶飲み話にお付き合いしておけば面白い体験ができて良かっただろうに、とも思うのだが、当時はそこまで腹が据わっていたわけでもなく、フェリーが宮島の対岸に着いたときにはホッと大きなため息が出たことだけは、鮮明に覚えている。

 確かあまりお客のいないユースホステルに宿泊した翌日、私は、原爆ドームを見学し、ひろしま美術館で鴨居玲の「教会」を見つめた後、お土産も買わずに京都への長い帰路についたのだった。

 よくよくチェックしてみた結果、バイク後輪のスプロケットの留め具が緩んでいることを発見し、冷や汗をかいたのは、京都に戻り、しばらく経ってからのことであった。

宮島のこと(昔話)~その2

(続き)

 前後を再度良く見て、自動車がいないことを目視確認した後、一旦スピードを落とし、「よし、行くぞ。」と小さく自分に声をかけて、アホな私は右手のスロットルを一気に開けた。
 タコメーターがレッドゾーンギリギリになるまで引っ張ってギアを上げ、一気に加速する。

 当時の軽自動車のエンジンが550ccだったから、私のバイクはその倍の排気量を持つエンジンだった。しかも、バイクだから車重は僅か200キロちょい。
 加速が悪いはずがない。

 誰かが「脳みそが片寄るような」と表現したこともある、猛牛のような加速がはじまり、私はニーグリップでしっかりと車体をはさみ、小さなフロントスクリーンに隠れるように身を伏せる。

 120キロ、まだまだ大丈夫。スピードメーターのちょうど半分しか来ていない。
 150キロ、まだ余裕がある。バイクは真っ直ぐ走っていて安定している。
 180キロ、普通の乗用車ならリミッターが効くところだが、まだ怖くはない。
 
 だが、ここから240キロまでの加速が怖かった。

 高速道路の幅が次第に狭く感じられてきて、走行車線だけを走ろうとしても感覚的に道路の幅が狭すぎるのだ。私は2車線の真ん中にバイクを寄せる。要するに高速道路2車線のうち、ほぼ、ど真ん中を走ることに切り替えた。
 しかしそれでも、高速道路の幅が狭く感じてくる。
 ほんの少しでもハンドルがぶれたら、左右どちらかの壁に吸い寄せられてしまいそうな感覚が恐怖を招く。
 気のせいかもしれないが、タイヤの接地感覚が薄れてくるような気がして、走行ラインが不安定になってきたようにも感じる。
 バイクにしっかりとしがみつき、ほとんど目だけしか動かせない状況で、早くアクセルを戻したい、安心したい、という気持ちがどんどん強くなる。

 だが、スピードメーターの針は、もう少しで240キロのフルスケールに届こうとし、振り切りそうなところまできている。
 早くスピードを落として、安全走行に戻りたいという気持ちと、あと少しなんだから、あとちょっとなんだからという気持ちが交錯する。

 スピードメーターの針の動きは、私の焦る気持ちをあざ笑うかのように、ゆっくりとしか上がっていかない。
 あと少し、ほんの少しの時間がとてつもなく長く感じられた。

 そして・・・・

 メーター読み240キロ達成!
 スピードメーターで240キロを振り切った。

 私は、スロットルを戻しながら、フロントスクリーンから少し頭を上げてみた。
 
 途端に猛烈な空気の抵抗がヘルメットを直撃し、風圧に押されたヘルメットによりヘルメットの中の私の顔がかなり歪み、同時に上体も後ろに持って行かれそうになった。ハンドルを握っていた手を慌ててきつく握りなおしたほどだった。

その風の抵抗で、どれだけの速度が出ていたのかを実感した。

 もう30年も前の話だから、時効だと思うが、我ながらアホなことをやったものだと思う。
 小さな落下物一つ踏んでも、チェーンが速度に耐えきれずに切れても、おそらく私は、今ここにはいなかっただろう。
 パラレルワールドというものがあるのなら、別の平行世界では、私はとうにこの世に存在していないのかもしれない。

 命の大切さがだんだん解ってきたいまでは、もう、絶対にこんな馬鹿なまねはしない。
 本当に当時の私はアホだった。

 自分のやらかした行動に冷や汗をかきながらも、私は次のエリアで休憩を取り、駆動系に異常がないか確認・点検した上で、さらに西へ向かったのだった。

(続く)

宮島のこと(昔話)~その1

 私は、大学時代に中型二輪免許を取得した後、免許試験場で限定解除をし、憧れのスズキGSX-1100S(通称カタナイレブン)を運良く手に入れ、気分良く乗り回していた頃があった。当時は国内向けのバイクは最大で750ccであり、それ以上の排気量のバイクは、輸入するしかなかった。国産バイクでも750ccを超えるバイクは逆輸入しなければならないという理不尽な時代でもあった。

 カタナは、ハンス・ムートによる先鋭的デザインで見た目は文句のつけようがないバイクだった。とはいえ、実際に乗ってみると、まるで猛牛のように加速するものの、ライディングポジションはきつく、曲がらない、止まらない、クラッチワイヤーが切れやすいという弱点もあった。

 私はそのバイクで、北海道から九州までツーリングしたものだが、逆輸入車でメーターが240キロまであると、やはり男の子は馬鹿である。どこまでスピードが出るか試してみたくなってしまうものなのだ。

 ある春の日、早朝に目を覚ました私は、あまりに良いお天気だったので、なぜか、広島県の宮島の桜は綺麗だろうな~と思った。ひろしま美術館には、好きだった鴨居玲の作品「教会」もある。それを見るのも良いだろう。幸い、家庭教師のバイト代が入って少しだけなら余裕がある。

 よし、今から宮島にいって、桜をみよう。そう思いたった私は、バイクに乗った。

 大学にまで行かせてもらいながらこんなことをやってたことを知れば、親は嘆くだろうが、当時の京大は、語学・体育以外は出席をとっておらず、試験にさえパスすれば単位がもらえた。

 履修登録制度もなかったので、同じ時間に行われている講義であっても、試験にパスすれば両方の単位がもらえたのだ。例えば木曜日第3限に民法総則と刑法総論があったとして、物理的には、いずれかの講義にしか出席できないから、どちらかしか単位はもらえないはずであるが、試験にパスしさえすれば、どちらの科目も単位がもらえるという実におおらかな時代だった。

 一応、ちゃんと卒業はしているので、今となっては、親には勘弁してもらうしかない。

 さて、広島を目指して出発した後、名神高速を経由して中国道を延々と走っていると一直線のトンネルが現れた。

 平日であったこともあり、前後に自動車はいない。
 トンネルの中では横風の影響も受けない。

 よしやってやろうと、不埒な私は思ってしまったのだ。

(続く)