司法制度改革って一体・・・・

 司法試験の合格者が増えすぎて、合格者全体の質が下がった問題、OJTができなくなっているという問題、新人弁護士の就職難等を指摘すると、決まってマスコミは、司法制度改革審議会で慎重な議論を重ねて導入した司法制度改革の理念を没却するな!と噛みついてくる傾向にあるように思う。

 しかし、その司法制度改革審議会及びその後の検討会が、いい加減な議論しかしていなかったとしたら、そのいい加減な議論に基づいて出来上がった司法制度改革路線もいい加減である可能性が高いはずだ。

 まともな議論もせずに、まともな結論が出るはずがないからである。

 福井康太、大阪大学大学院法学研究科教授の10月28日のブログによると、ある大学教授の方が、詳細に資料を検討した結果、

司法制度改革審議会とその後の検討会においては、

「(司法制度改革)審議会の主要な委員が、法曹の数が増えれば社会が変わるという程度の認識で法科大学院設置の議論をしていた」

 との研究報告があったそうだ。

 http://ktfukui.cocolog-nifty.com/rechtstheorie/2011/10/201110272-4a55.html

 もしも、その報告が正しいとすれば、司法制度改革を行う者の認識として、極めて大雑把、且ついい加減としか言いようがない。

 こんな認識で、多数の法科大学院を乱立させ、多くの法曹志望者からのお金と国民からの多額の税金を投入させ、結果的に、とても実務に耐えられない卒業生を濫造した責任は一体誰がとるのだろうか。

 マスコミも、有識者が委員に入っているというだけで、安心せずに、きちんとその内容まで把握して報道してもらいたい。

 司法修習生の給費について貸与制をとりまとめた、法曹養成フォーラムでも、有識者といいながらかなり偏った意見を濫発している委員がいる。

 その偏りを分かりやすく伝えることもマスコミの役割だとは思うのだが。

※なお当ブログの記載は、当職の個人的意見であり、当事務所の他のいかなる弁護士にも関係はございません。

映画「雲のむこう、約束の場所」 新海 誠 監督作品

(ストーリー)

日本が南北に分断された、もう一つの戦後の世界。米軍統治下の青森の少年・藤沢ヒロキと白川タクヤは、同級生の沢渡サユリに憧れていた。彼らの瞳が見つめる先は彼女と、そしてもうひとつ。津軽海峡を走る国境線の向こう側、ユニオン占領下の北海道に建設された、謎の巨大な「塔」。いつか自分たちの力であの「塔」まで飛ぼうと、小型飛行機を組み立てる二人。

だが中学三年の夏、サユリは突然、東京に転校してしまう…。言いようのない虚脱感の中で、うやむやのうちに飛行機作りも投げ出され、ヒロキは東京の高校へ、タクヤは青森の高校へとそれぞれ別の道を歩き始める。

三年後、ヒロキは偶然、サユリがあの夏からずっと原因不明の病により、眠り続けたままなのだということを知る。サユリを永遠の眠りから救おうと決意し、タクヤに協力を求めるヒロキ。そして眠り姫の目を覚まそうとする二人の騎士は、思いもかけず「塔」とこの世界の秘密に近づいていくことになる。

「サユリを救うのか、それとも世界を救うのか」
はたして彼らは、いつかの放課後に交わした約束の場所に立つことができるのか…。
(公式HPより)

以下、ネタバレを含む私の感想である。私はDVDを見ただけであり、パンフレットなどの関連書籍等も一切読んでいないので、思い違いや不正確な部分があるかもしれないし、後で考えが変わるかもしれないが、映画を見た者としての現時点での感想として、お許し頂きたい。

最初に、この映画を見終わったときに、まず、ノスタルジックで美しいという印象を受けた。しかしその中で、いくつかの違和感を感じた部分があった。

違和感に関連するのは、

まず、主人公ヒロキの「あの遠い日に、僕たちはかなえられない約束をした。」というモノローグである。

つぎに、冒頭に大人になったヒロキがタクヤと一緒に飛行機(ヴェラシーラ)を作っていた思い出の地を訪れるのだが、そのときヒロキが一人であり、決して楽しそうな表情を浮かべているわけではない、ということ。

サユリが廃駅跡から落下しそうになったときにヒロキが手をさしのべるが、そのときサユリが「以前にも私たち・・・・」と語ること、

ユニオンの塔まで飛行する前日の眠りで、夢の中の教室で再会したサユリに対して、ヒロキが帰ろうとする際に、「おやすみ」と声をかけること、

そして、ユニオンの塔まで飛行し、長い眠りから覚めたサユリが、夢の中でヒロキ君と呼んでいたにも関わらず、目覚めたときにヒロキに対して藤沢君と呼びかけること。

彼女はいつも何かをなくす予感があるといっていた、というモノローグ、

等である。

「雲のむこう、約束の場所」という映画の題名から考える限り、ヒロキのモノローグで言うところの「約束」とは、タクヤと一緒に作った飛行機ヴェラシーラで、サユリをユニオンの塔まで連れて行くことと解釈するのは素直かもしれない。しかし、ヒロキは実際にはタクヤの協力を得てヴェラシーラを飛ばし、ユニオンの塔までサユリを連れて行きサユリの長い眠りを覚まさせているのである。

つまり、上記の意味での約束であるならば、約束はかなえられているのだ。

だが、ヒロキの「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というモノローグは、その経験の後において語られている。

どこか引っかかる。

確かに、ヒロキとタクヤとサユリは3人で、一緒にユニオンの塔まで飛ぼうと中学生の時に約束をしている。そして、その約束はかなえられた(3人一緒という意味では約束は叶っていないが、元もとヴェラシーラは2人乗りなのでこの点は考えない。)。しかも「かなえられない約束」というモノローグは、あくまでヒロキ一人の発言でしかない。もし3人で交わした約束がかなえられていないのなら、タクヤもサユリも同じ言葉を述べていてもおかしくはない。だがそのような場面は見あたらない。

おそらく別の約束があったのではないか、そういう視点で、この映画を見てみると、ヒロキがサユリともう一カ所約束をかわしていると思われる場面がある。

サユリのいた病室で、夢を通じて惹かれあい、求め合っていたヒロキとサユリが、夢の中で再会するシーン(お互いが「ずっと・ずっと探していた・・・」と話すシーン)の続きに、ヒロキが「(正確ではないかもしれないが)これからは、ずっと一緒にいてサユリを守るよ、約束する。」という言葉を交わす場面があるのだ。その場面のあと、ユニオンの塔の活動が活発化して沈静化するシーンが描かれるが、その直後にもう一度「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というヒロキのモノローグが入る。

ユニオンの塔まで飛んだ後でも、なお、残った「かなえられない約束」という点から考えると、ヒロキのいう「かなえられない約束」とは、「これからずっと(一緒にいて)サユリを守る」という約束と考えるほうがよさそうだ。

ヒロキとサユリの約束であれば、なぜ、サユリがその約束を語らないのか。それは、夢から覚め、現実に戻ることと引き替えに、サユリは夢の中での記憶を全て失ってしまったからだ。サユリが夢の中で、その存在を感じ、求め続けていた、ヒロキへの思慕の感情、サユリはそれを目覚めるとなくしてしまうことに気づき、目覚めの直前、必死で祈る。「この気持ちをヒロキ君に伝えられたら他には、もう、何もいりません。」とまで祈るのだ。

しかし、現実に目覚めたときに、夢の中で育み続けてきたヒロキへの想いは、無残にも消え去ってしまう。だからこそ、目覚めたときに真っ先にヒロキ君と呼びかけておかしくないサユリが、藤沢君、と若干遠慮がちな呼びかけになってしまっているのではないだろうか。

確かに、サユリは目覚めた後、ヒロキに取りすがって泣く。しかしそれは、決して夢から覚めたうれしさや、夢の中で求めていたヒロキに再会できたうれしさの涙ではないだろう。夢の中で育み続けてきたヒロキとサユリの想いについて、サユリにはその想いがかつてあったことすら全く記憶から失われてしまったのだ。サユリは、もうヒロキとの夢の中であるが故に純粋に結晶化した想い自体の存在すら、忘れてしまったのだ。このときのサユリの涙は、なにか分からないが、極めて大事な何かをなくしてしまった、というサユリの漠然とした巨大な喪失感を感じているからこその涙だったのではなかろうか。

一方ヒロキにとっての現実は極めて残酷だ。サユリとの夢の中での邂逅、惹かれあい、求め合った時間、その感覚は、夢の中でのものであるというその純粋さ故に、全てヒロキの記憶に鮮明に残っている。しかし、現実に戻ったサユリの中では既にその記憶は跡形もないのだ。ヒロキはサユリが目覚めた直後、「何か大事なことを伝えなきゃいけないのに、忘れちゃった・・・・」と泣くサユリに対して、「大丈夫だよ、もう目が覚めたんだから」となぐさめる。

しかし、現実はそうではなかった。もしサユリが、夢の中でヒロキと2人で育んだ純粋な思いを覚えていてその想いが実現したのなら、ヒロキが約束通りサユリをずっと守っていられたのなら、冒頭のシーンでヒロキとサユリは二人で思い出の場所にやって来ていてしかるべきだ。

だからこそ、冒頭にヒロキは「現実は何度でも僕の期待を裏切る」と語っているのではないか。

「かなえられない約束」をした日が「あの遠い日」であるというのも、こう考えれば頷ける。一緒に約束を交わしたサユリが、そのときの記憶を失った以上、もはや、サユリと約束を交わした日は、ヒロキだけに残された遠い遠い記憶の中にしかないのだから。

このままの時間がずっと続いていくように、なんの疑いもなく感じられた思春期。この痛いほど純粋で壊れやすい思春期の記憶を新海誠監督は、ついにかなえられることのなかった、ヒロキとサユリとの第2の約束になぞらえたように思えてならない。サユリは、夢の中のあまりにも純粋であったヒロキとの心の交流(思春期の記憶)を失い、巨大な喪失感と引き替えに現実に目覚め、大人へと成長していく。

現実に目覚めることによって、大人として現実に適合していかなければならないときに、無残に失われ、封じ込められていく、あまりにも儚い思春期の記憶。

どこか切なく、ノスタルジックな、(過剰ともいえる)映像の美しさも、この人生の宝物のような思春期の記憶を表現するためだと考えれば納得がいく。

ここまで考えたとき、私は、サユリが、目覚めてからヒロキが思い出の場所を訪れるまでの間に、死んでいてくれればいいのにとさえ、思ってしまった。

仮に、サユリが死んでしまったのであれば、ヒロキも納得がいくかもしれない。あの美しい思春期の(夢の)記憶を一人でヒロキが胸に抱えたまま、しかしサユリが別の人と生き続けていたとしたら、あまりにもヒロキにとって、つらいかもしれないと思ったからだ。

だがおそらく、サユリは他の人と別の道を歩み、ヒロキは、この痛みを抱えつつ生き続けているはずだ。

映画の最後に流れる、エンディングソング「きみのこえ」の歌詞はこのようになっているのだから。

「きみのこえ」    作詞新海誠     作・編曲 天門

色あせた青ににじむ 白い雲 遠いあの日のいろ
心の奥の誰にも 隠してる痛み
僕のすべてかけた 言葉もう遠く
なくす日々の中で今も きみは 僕をあたためてる
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 僕のこえ どこかのきみ とどくように
僕は生きてく
日差しに灼けたレールから 響くおと遠く あの日のこえ
あの雲のむこう今でも 約束の場所ある
いつからか孤独 僕を囲み きしむ心
過ぎる時の中できっと 僕はきみをなくしていく
きみの髪 空と雲 とかした世界 秘密に満ちて
きみのこえ やさしい指 風うける肌
こころ強くする
いつまでも こころ震わす きみの背中
願いいただ 僕の歌 どこかのきみ とどきますよう
僕は生きてく
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 生きる場所 違うけれど 優しく強く
僕は生きたい

映像だけではなく、音楽も実に素晴らしい映画である。いろいろ考えていると美しい夕陽がどうしても見たくなる、そんな映画だ。

一度ごらんになることを、強くお勧めする。

DVDサービスプライス版、2400円(税込)

新司法試験と予備試験の合格者~その2

(続き)

 昨日書いたように、新司法試験の合格者数を決定する基準は、おそらく、司法試験法に記載された「裁判官、検察官、弁護士となろうとする者に必要な学識およびその応用能力を有するかどうかを判定する」という基準ではなく、閣議決定と質の維持の双方をなんとかバランスを取れる範囲で、政策的に決定されていると考えられる。平たくいえば、本来、法曹になれるだけの必要な学識と応用能力を判定するはずの新司法試験が、合格者の数あわせのために合格基準をゆるめていると、いうことだ。

 一方予備試験の合格者はどうか。伝聞情報によると、予備試験合格者決定会議では合格者数の案が幾つか配布され、その中で、今回の合格者数が決定されたそうだ。

 予備試験の合格者の点数を見てみると、、500点満点で、全国最高点が301点である。

 法務省が発表した予備試験の論文式試験での採点に関する文書によると、

 優秀:50~38点(5%)、

 良好:37~29点(25%)

 一応の水準:28~21点(40%)

 不良:20~0点(30%)

となっている。

 全国最高点取得者の得点率は約60%なので、平均すると「良好ぎりぎり」の点数しかとれていないことになる。

 もともと司法試験予備試験は、新司法試験を受験させて良いかどうか、つまり、法科大学院修了者と同程度の学識と応用能力並びに法律に関する実務の基礎的素養を有するかどうかを判定する試験である。

 予備試験の結果からすれば、予備試験全国最高点合格者の成績は、法科大学院修了者として良好ぎりぎりの成績ということにならざるをえないだろう。逆に言えば、この予備試験最高点合格者よりもはるか多くのに優れた法科大学院修了者がいるということにならないとおかしい。

 本当に、法科大学院が優れた教育を実施し、厳格な修了認定をしていると豪語するなら、予備試験問題を全国の法科大学修了生に受験させてみたら、いいだろう。おそらく、予備試験の合格点をとれる法科大学院生はごくわずかなはずだ。

 つまるところ、予備試験は、本来法科大学院卒業生レベルの学識・応用能力、法律実務の基礎的素養があるかを判定するといいながら、基準を厳格に設定しているはずだ。平たくいえば、法科大学院制度を守るために合格者を政策的にごくわずかに絞っていると考えられる。

 法務省に言いたいことは、次の新司法試験では、予備試験合格者で司法試験を受験した人の合格率、合格点分布を必ず出してほしいということだ。わずか120名あまりだから簡単にできるはずだ。

 万一、比較をしないというのであれば、それは、法科大学院を守るために現実を隠蔽しているということだ。

 法務省の良心に期待する。

新司法試験の合格者と予備試験の合格者~その1

 これは、伝聞情報も混じっているので、正確性は担保できない話だ。

まず新司法試験の合格者決定に関しては、新司法試験委員会としては、かなり無理をして合格者2000名を維持しているそうだ。かなり無理をしているとは、本来合格するだけの実力がなくても、合格させているということだ。

確かに平成14年3月19日の閣議決定には「司法試験合格者3000人を目指す」 という文言が入っている。しかしその内容は従前このブログでも記載したとおり、あくまで「目指す」という努力目標にすぎないし、その前に、「後記の法科大学院を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、」という前提が付いている。法科大学院がきちんと教育することができており、法曹の質が維持できることが大前提だった。

ところが、司法試験採点委員の意見・2回試験不合格者の増加等から明らかなように、法科大学院を卒業して司法試験を受け、合格される方のレベルは、全体として低下する一方だ(私とて、法科大学院卒業者の方の中に優秀な方がおられることは否定しない。あくまで全体としてのレベルダウンだ)。つまり、法科大学院が法曹にふさわしいだけの実力を身につけさせることができていないということなので、閣議決定は、明らかにその前提が失われている。

しかし、その閣議決定が存在する限り、法務省・司法試験委員会はこれを尊重する運用をしているらしい。そこで、3000名なんて到底合格させられないが、ぎりぎりの選択として、本来合格させるべきでないレベルの方も含めて合格させて、2000人の合格者を維持し、閣議決定と司法試験の質のバランスを取っているそうなのだ。

これは私の意見ではなく、伝聞ではあるが、司法試験委員会に近い人からの情報だ。かなり信用して良いと思う。

私自身旧司法試験で2000番台の成績を取ったことはあるが、合格してから考えると、そんな成績で合格して修習を受けたとしても到底弁護士業ができるレベルではなかった。3000番台の成績なんて、合格を考えるだけでもおこがましいレベルだった。

私の実感からすると、2000人合格だって相当やばいレベルの人が多く混じっているはずだ。

 確かに、新司法試験では法科大学院で教育を受けた人だけの争いなのでレベルが高い受験者の争いのはずだという主張もあるだろうが、旧司法試験では毎年500人しか合格しなかったので、実力者が順番待ちをしている状況にあった。どうしてあの実力者が合格できないのかという例がごろごろしていた。新司法試験では5年以内に3回受験してダメなら退場だ。実力があるのに運悪く合格できなかった人がどんどん溜まっていったりしない(できない)制度になっている。

 どちらが厳しいとかは分からないが、少なくとも新司法試験で実力者が長蛇の順番待ち状況であるとは聞いたことがないので、私の感覚ではやはり合格者を増やす前の旧司法試験の方が厳しかったのではないかと思う。

(続く)

「今日の猫村さん」 ほしよりこ作 

 猫か犬かと問われれば、私は断然犬派であるが、この漫画は、許せてしまう。

 「猫村ねこ」というネコが主人公。拾ってくれた大好きな坊ちゃんと別れ、主人とそりが合わなくなって家を出た、テレビドラマが大好きな猫村さんは、その家事の腕前を見込まれ、村田家政婦紹介所に住み込む。猫村さんの得意料理はネコムライス。

 そして、村田の奥さんからかつては財閥であった犬神家に家政婦として派遣される。いろんな意味で崩壊しつつある犬神家。近所の嫌みな奥さんとの買い物バトル。大好きなテレビドラマ、熱血刑事も最終回間近だ。

 どうする猫村さん!

 あとは、実際に、漫画を読んで頂く方がいいだろう。

 ゆる~~~い、べた~~~~~な展開が続くが、なぜかそれが心地よい。

 もともとは、インターネット上で、一日一コマずつ連載されていた漫画を集めたものであり、独特のゆる~い展開は、そのせいかもしれないが、この独特の猫村ワールドにどっぷりはまれば、不思議にも猫村さんに親近感がどんどん湧いてきてしまう。

 何かに追われているように感じるとき、ちょっと立ち止まってみたいような気がするときに、手に取ると、ハマルかもしれない。

 一度お試しを。

マガジンハウス社刊

TPPの議論

未だにTPPの全貌が国民に明確になっていないのに、野田首相は前向きに検討するとの報道が流れている。菅前首相は、第三の開国といっていたが、果たして本当に日本は開国していないのか。

 JETROの統計によると、日米の平均関税率は次の通りらしい。

 農産物                日本21.0% アメリカ4.7%

 鉱工業品(非農産品)         日本2.5%  アメリカ3.3%

 電気機器               日本0.2%  アメリカ1.7%

 (そのうちテレビ)          日本0%     アメリカ0~5%

 輸送機器               日本0%    アメリカ3.0%

 (そのうち乗用車)          日本0%    アメリカ2.5%

 化学品                日本2.2%   アメリカ2.8%

 繊維製品               日本5.5%  アメリカ8.0%

 非電気製品              日本0%     アメリカ1.2%

 この数値から見れば、確かに農産物については関税の高さは否定できないが、関税に関して、アメリカより、よほど日本は開国している。

 しかし農産物の関税による保護は、特に食料自給率が低い日本では、国民の生命線だ。

 仮に世界的な不作に見舞われた場合にどれだけお金を積んでも、農産物輸出国は、自国民への供給を優先するだろう。国家が国民を保護することは、当該国家において絶対の正義だからだ。自国で食料を賄えることと、外国から食料を買える可能性は、全く別物と考えるべきだ。

 また、仮にTPPに参加して、数パーセントの関税を撤廃したとしても、円高がすこし進めばその恩恵は一気に吹き飛ぶ。5年前1ドル120円ほどだったレートは、いまや、1ドル77円前後だ。円高対策の方がよほど輸出企業の収益にプラスになるように思うのだが。

 韓国が輸出国として成功しているのは、国家をあげてのウォン安政策が功を奏し、価格競争で日本に勝っているから、という面が大きいはずだ。決して韓国と米国がFTAを締結したからではない。

  マスコミはこぞってTPPは参加に邁進すべきという論陣を張っているように見える。しかし、マスコミが一致して一つの方向を目指すときこそ、きちんと立ち止まって、自分の頭で考える必要があるときだ。

 マスコミは、一致して戦争へと国民をあおったこともある存在なのだから。

韓国の弁護士増対策

 先だっての大阪弁護士会常議員会で、中本会長から、韓国の弁護士会との情報交換についてお話があった。

 韓国では、弁護士激増をさせる司法改革が日本と同じく進行中だが、弁護士会としても手を拱いて(こまねいて)いるわけではないそうだ。

 まずロビー活動を活発に行い、経済界の反対を押し切って、商法を改正し、コンプライアンスオフィサー制度を一定以上の規模の会社に義務づけし、弁護士を会社の内部に組み込むよう強制した。

 次に、既に実現している法曹一元制度を下敷きに、ロークラーク制度として、裁判所・検察庁・国会などに配置する制度を創設しているそうだ。

 さらに、地方自治体や大きな警察署などに、護民館を設置して、弁護士を常駐させる制度も構想中だとのこと。それでも、激増する弁護士を、今後も吸収し続けることができるものではないようだ。

 確かに韓国のような制度を作れば、大きな司法は機能するかもしれない。しかしそのコストは企業や国民が負担することになる。

 このように、法化社会は公正かも知れないが高コストの社会なのだ。

 司法改革を行う前に、まずそのコストを負担する国民の合意があったのか、どうやって合意があると判断したのか、司法制度改革を実行した人達は説明する義務があるはずだ。 そして今後、その高コストを負担する合意が国民の中にあるのか、明確に説明する必要がある。

 大きな司法のコスト負担を全く無視し、弁護士だけを増やし続けている日本の司法改革は、極めて歪んだものとなっていることを認識すべきだろう。

※なお当ブログの記載は、当職の個人的意見であり、当事務所の他のいかなる弁護士にも関係はございません。

法曹養成フォーラムの目的は???

 先日、日弁連の会議で、法曹養成フォーラムに関する報告があった。

 私の記憶なので、確実な情報ではないかもしれないが、現在の法曹養成フォーラムは、8月31日にとりまとめをした後、次回開催期日がまだ決まっていないようだ(10/11時点)。

 法曹養成フォーラムの8月31日の第1次とりまとめは、

 ①司法修習は、法曹養成に必須の過程であり、司法修習生が修習に専念できるよう、修習生活中の生活の基盤を確保する必要があり、経済的支援を行う必要がある。

 ②貸与制を基本として、十分な資力を持たない者に対する負担軽減措置を講ずる。

 ③奨学金制度を参考に猶予期間を設ける。

 等を報告し、今後は、司法制度改革当時の想定ほど法曹の社会進出が進んでいない点や養成制度のあり方についての様々な問題点が指摘されているので、法曹の活動領域のあり方、法曹養成制度のあり方、法曹人口のあり方について意見交換をする予定とのことだ。

 しかし、8月31日にとりまとめをした後、まだ日程が決まっていないとはどういうことだ。

 そもそも、司法修習生への給費制の問題は、法曹養成制度のあり方に大きく関係する。例えば、司法修習期間に必要とされる費用と、法科大学院に必要な費用とでは明らかに、後者の額が大きいだろう。

 そして法科大学院制度の下で、きちんと教育を受けたはずの新司法試験受験生が、どうして基礎的知識不足、日本語文章作成能力の不足を痛いほど指摘されているのだ。いっちゃ悪いが、無駄な教育機関に多額の税金を投入するくらいなら、その教育機関の廃止を検討し、そこに投じられている税金を、フォーラムも必須と認めている司法修習生の給費に充てた方がよほど有効な税金の使い方ではないのだろうか。

 このように、司法修習生の給費制問題は、法曹養成制度の問題と密接に関わっている。

 ところが、フォーラムでは、その問題を切り離し、給費制問題だけのとりまとめを行ったのだ。しかも、次回期日も決まっていないと聞く。

 そもそも以前にもブログに書いたが、有識者委員の人選にしても、司法修習生の給費制より法科大学院の予算の方が遥かに大事な、法科大学院関係者が多く選出されている。この顛末を見る限り、法曹養成フォーラムは、給費制問題にケリをつけるだけの目的で、開催された出来レースと評価されても仕方がないように思う。

 今後の議論においても、法曹養成フォーラムにおいては、法科大学院制度維持を最大の目的とした議論が展開される危険が多分にある。私にいわせりゃ、制度が大事なのではない。国民の皆様にとって必要な優秀な法曹が生み出されることの方が大事なのだ。

 法科大学院関係者の自己満足的な、現状肯定的なフォーラムになっていないか、今後の議論をよく見ていく必要があるように思う。

※なお当ブログの記載は、当職の個人的意見であり、当事務所の他のいかなる弁護士にも関係はございません。

「神の道化師」 トミー・デ・パオラ作

 ジョバンニは、孤児だった。それでも、一つだけ得意なことがあった。それは、たくさんのモノをお手玉のようにぐるぐると回すこと。

 ジョバンニは、その芸を磨き、やがて独立して生きていけるようになる。

 しかし、ジョバンニは次第に年をとり、かつて喝采を勝ち得たその芸も飽きられていく・・・。

 友人に勧められてこの絵本を読んだ。

  主人公であるジョバンニは、本当に一筋に自分の能力を磨き、人を楽しませることに喜びを見出していたのだ。

 高い身分の人間に対しても、自分の信じる芸を臆することなく表現し、ジョバンニはお金や地位に、媚びることがない。自らの芸を信じていたからこそ、できたことだ。

 一つの芸を磨き、それを表現することに喜びを見出す。この点では、ジョバンニは、まさにプロフェッショナルであって、見事と言うほかはない。

 しかし、時代は移ろう。

 あれほど喝采を受けた芸も、見飽きた人には陳腐な芸としか写らなくなっていく。ジョバンニの芸自体は、変わらず一流であっても、時代がそれを一流と認めなくなっていくのだ。自らの芸を信じその芸を磨くことによりプロフェッショナルとなったジョバンニにとって、この状況は極めて苛酷だ。

 ジョバンニが次第に年を重ね、ついに芸を披露する際に失敗をしてしまう。

 観衆は、ジョバンニに対して石を投げつけることによって、その失敗したという結果に報いる。その観衆達には、これまでジョバンニの芸によって感動させてもらったり、癒されたり、希望をもらったことなどを思い出す者は、もう誰1人いないのだ。

 ジョバンニは、道化の仕事を辞めて故郷に帰ることを決意する。絵本の中では淡々と書かれているが、自ら磨いてきた唯一の芸、長年一緒に人生を歩んできた芸を止めると決意し、川で道化のメイクを落とすジョバンニの心境は如何なるものだったのか。

 最後にジョバンニは、故郷の教会の中で、聖母マリアに抱かれた子供の頃のキリスト像を目にする。

 多くのクリスマスの捧げ物を受けていながら、子供のキリスト像は、ちっとも楽しそうではないとジョバンニは気付く。物質的な満足だけでは満たされない部分も世界にはあるのだ。ジョバンニは、物質的な捧げ物は出来ないものの、唯一自分ができること、つまり自らの芸を、心を込めて、キリスト像に捧げる。

 誰も他に見てくれる者がいない、冬の教会の中で、ジョバンニは年老いた身体でキリスト像に対して一世一代の芸を披露し、息絶える。

 誰も見てはいなかった。

 誰1人、彼を賞賛する「人間」はいなかった。

だが、息絶えたジョバンニの亡骸を見つけた修道士は、振り返って、キリスト像がにこやかに微笑んでいることに気付くのである・・・。

 現実に置き換えてみると、今の世界は、否応なく多くの人をジョバンニのようにしていく。熟練工は工作機械の発達で仕事を失い、優秀な大工も大量生産されるプレハブの家の前に仕事を失う。

 このような現代において、子供のキリスト像のように、一つのことを磨いてきた努力に報いてくれる存在はあるのだろうか。

 おそらく、ジョバンニは、天国では間違いなく高く評価されているだろう。不機嫌なキリストの機嫌を直したくらいの腕前なのだから。

 はたして、この物語の主人公であるジョバンニは幸せであったのか、そうではなかったのか、それは読み手の判断に任されているように思う。

 是非一度、お読み頂くことをオススメする絵本である。

ほるぷ出版 1,470円

またしても日経新聞社説の弁護士バッシング

 日経新聞本日の朝刊の社説に、下記の通りの記述がある。

「法務分野では、司法試験の合格者増をテコに、個人や企業に質の高いサービスを提供する弁護士をもっと増やすべきだ。日弁連は合格者を減らす入り口規制で質向上をめざすと主張しているが、これはおかしい。

 多くの弁護士が切磋琢磨(せっさたくま)を重ね、質の低いサービスしかできない弁護士は淘汰される仕組みが利用者本位につながる。」

 社説のほんの短い部分なのだが、相変わらずの弁護士バッシングだ。

 まず、現在の司法試験合格者の全体としてのレベルは相当ダウンしている。これは、法務省で公開されている司法試験採点雑感等を見れば一目瞭然だ。

 最新の司法試験採点委員の雑感から、以下長くなるが引用する。

「当該事案の問題点に踏み込む姿勢が乏しく,違憲審査基準(比例原則にしても同様)を持ち出して,表面的・抽象的・観念的な記述のもとで,あらかじめ用意してある目的手段審査のパターンの範囲内で答案を作成しようとする傾向が見られる。(憲法)」

「論理的な一貫性や整合性に難点があるにとどまらず,判読自体が困難なものや文意が不明であるものも見受けられた。自覚的な文章作成能力の涵養が望まれる。(憲法)」

「選挙権という重要な権利が問題になっているので「厳格審査の基準」でその合憲性を審査するなどとするのみで,具体的な検討なく安易に違憲としている答案も多く,逆に,「選挙権は権利であると同時に公的な義務」と位置付けるだけで,安易に制限を合憲とする答案も意外に多かった。(憲法)」

「総じて,一定の視点から事案を分析・整理した上で,法令の解釈・適用を行うという法実務家に求められる基本的素養が欠如していると言わざるを得ない答案が多かったのは,残念である。(行政法)」

「問題文をきちんと読まず,設問に答えていない答案が多い。問題文の設定に対応した解答の筋書を立てることが,多くの答案では,なおできていない。(行政法)」

「実体法の解釈・適用に弱いとの傾向は,今回も見られた。(行政法)」

「「見せ金」の概念及び問題の所在を示した上で,本件事案が見せ金に該当するか否かを論じている答案は,少なかった。(商法)」

「判例・学説等を踏まえて論じた答案はごく僅かであった。また,本件募集株式発行については,見せ金を除くごく一部につき実際の払込みがあることを,本件募集株式発行により発行された株式の効力を考える上で,いかに評価するかを論じる必要がある。しかし,これを論じている答案は更に少なかった。(商法)」

「(中略)後者の責任については,そもそも論じていない答案も多く,論じても,AのほかBも責任の主体になり得るか等の問題の検討や,見せ金による払込みの効力及び株式の効力と整合的に,貸借対照表及び履歴事項全部証明書の内容を分析することが,不十分であっただけでなく,同条第2項第1号の要件を満たすから同条第1項の責任が認められると議論する等,前者の責任と後者の責任の関係を理解していないものが圧倒的であった。(商法)」

「上述の会社法第52条や第429条の責任の問題のように,基本的な会社法上の責任の構造に関する理解に不十分な面が見られる。また,判例をきちんと身に付け,それを踏まえて議論するという,法曹に求められる基本的な思考方法が十分に身に付いていない感がある。(商法)」

「前記のように,手続保障や信義則など抽象的な規範のみから結論を導く答案,題意をきちんと把握せず,定義や制度趣旨など自分の知っていることを書き連ねている答案,問題を正面から受け止めることをあえて避け,自分の知っていることに無理やり当てはめようとする答案が目立った。このような傾向が見受けられるのは,題意をきちんと把握するだけの基礎学力の不足に起因するところが多いように思われる。特に,基本的な制度や判例について,自らその意味を掘り下げて考えるという作業を怠り,定義,要件,結論を覚えて,それを具体的な事案に当てはめるということだけを学習しているのではないかが懸念される。(民訴法)」

「試験において,判例が扱っている問題について判例とは別の角度から検討を求めたり,判例に反する立場からの立論を試みることを求めたりすると,全く歯が立たない受験生が多く認められる。察するに,判例についての表面的な理解を前提に,その結論を覚えて事例に当てはめるということはできても,その判例がそのような結論に至る論拠はどこにあるか,反対説の根拠は何か,その違いはどこからくるのかといったより根本的なことが理解されていないように思われる。基本的な制度や判例の根拠をきちんと考えることを習慣づける教育が求められる。(民訴法)」

「刑法総論・各論等の基本的知識の習得や理解が不十分であること,あるいは,一応の知識・理解はあるものの,いまだ断片的なものにとどまり,それを応用して具体的事例に適用する能力が十分に身に付いていないことを示しているものと思われる。(刑法)」

「刑法の基本的事項の知識・理解が不十分な答案や,その応用としての事例の分析,当てはめを行う能力が十分でない答案も見られたところである。(刑法)」

「関連条文から解釈論を論述・展開することなく,問題文中の事実をただ書き写しているかのような解答もあり,法律試験答案の体をなしていないものも見受けられた。(刑訴法)」

「本件での具体的な事実関係を前提に,要証事実を的確にとらえ,伝聞法則の正確な理解を踏まえた論述ができている答案は少数にとどまった。(刑訴法)」

「司法警察員により作成された捜査報告書の証拠能力を問うているにもかかわらず,これを無視し,録音テープであるから知覚,記憶,叙述の過程に誤りが入り込む余地はなく,当然に非伝聞証拠であるなどと断じた答案まで見受けられた。このような答案については,厳しい評価をすれば,基本的知識,事実分析能力及び思考能力の欠如を露呈するものと言わざるを得ない。(刑訴法)」

「決定的に重要な事実を指摘して,証拠能力の有無を検討している答案は少数であった。(刑訴法)」

「今後の法科大学院教育においては,手続を構成する制度の趣旨・目的を基本から正確に理解し,これを具体的事例について適用できる能力,筋道立った論理的文章を書く能力,重要な判例法理を正確に理解し,具体的事実関係を前提としている判例の射程範囲を正確にとらえる能力を身に付けることが強く要請される。特に,確固たる理論教育を踏まえた実務教育という観点から,基本に立ち返り,刑事手続の正常な作動過程や刑事訴訟法上の基本原則の実務における機能を正確に理解しておくことが,当然の前提として求められよう。(刑訴法)」

「手形の不渡りという事実が現れているにもかかわらず,それが支払停止に該当するかどうかを検討せずに,破産手続開始決定や自己破産の申立てといった事実から直ちに支払不能を認定したり,代物弁済の時点で既に支払不能となっていると認定する答案が少なからずあった。条文や基本的な概念の正確な理解及び具体的事案を的確に把握する能力を養うことの重要性が感じられた。(倒産法)」

「総じて,実体法上の検討が十分に行われていないという印象を受けた。(倒産法)」

「争点について検討する能力のみならず,主張を法律的に構成する能力を養うことの必要性が感じられた。(倒産法)」

「具体的事案を的確に把握して,当事者にとって最適な解決方策を検討する能力が不十分と感じさせられた。(倒産法)」

「条文に則した勉強がされていないのではないかとの危惧を感じた(倒産法)」

「同法第56条が「ないものとみなす。」と規定している意味を理解しない答案も散見され,基本的知識を具体的事案に適用する訓練が不十分な受験生が一定程度存在することも実感された(租税法)」

「経済法の問題は,不必要に細かな知識や過度に高度な知識を要求するものではない。経済法の基本的な考え方を正確に理解し,これを多様な事例に応用できる力を身に付けているかどうかを見ようとするものである。法科大学院は,出題の意図したところを正確に理解し,引き続き,知識偏重ではなく,基本的知識を正確に習得し,それを的確に使いこなせる能力の育成に力を注いでいただくとともに,論述においては,論点主義的な記述ではなく,構成要件の意義を正確に示した上,当該行為が市場における競争へどのように影響するかを念頭に置いて,事実関係を丹念に検討し,要件に当てはめることを論理的・説得的に示すことができるように教育してほしい。(経済法)」

「残念ながら,期待していた水準に達している答案は多くはなかった。論点や出題の意図を理解していないと思われるもの,論点に関するキーワードが不完全な形で記載されており,理解不足が露呈しているものなどが多数見られた。(知財法)」

「従前から指摘していることであるが,まず基本的事項につき,単に記憶させるのではなく,十分に理解させるような教育をお願いしたい。(中略)今回の答案審査に当たり,基本的事項を十分理解することなく記述していると思われる答案が多かったので,特に強調して指摘する次第である。(知的財産法)」

「必要な論点の抽出が非常に不十分な答案が相当数あり,期待される水準に達していた答案が予想以上に少なかった。(労働法)」

「労働法の基本的理解に欠けると思われる答案も散見された。(労働法)」

「法令・判例・学説に関する基本的知識については,正しい理解に基づき,かつ,網羅的に習得することを更に目指していただきたい。(労働法)」

「環境法学習においては,基本的考え方や基本的仕組みを理解することは重要であるが,それは言わば「点」でしかない。それが具体的制度とどのように関係するか,どのような場面で適用することができるかを学習することによって,「点」を「面」に発展させることができるのである。法科大学院においては,単なる仕組みの解説にとどまるのではなく,このような視点に留意していただけると有り難い。(環境法)」

「全く理解や知識がないためか,「他国に損害を与えてはならない」という「常識論」しか記載されていない答案も目立った。(国際公法)」

「第1問,第2問のいずれについても言えることだが,答案に問題を改めて記載する例が少なからず見られたが,問題を写したとしても加点されず,意味がないばかりか,答案用紙の紙幅が足りなくなって論ずるべき点の記載が不十分になるなど弊害にもなる。解答は長く書く必要はないが,結論だけでなく結論に至る各自の理解を記載してもらわないと加点されないので,その点は注意してほしい。(国際公法)」

「①国際私法・国際民事訴訟法・国際取引法上の基本的な知識と理解を基にして論理的に破たんのない推論により一定の結論が導けるか,②設例の事実からいかなる問題を析出できるか,③複数の法規の体系的な関連性を認識しながら,析出された問題の処理に適切な法規範を特定できるか,④法規範の趣旨を理解して,これを設例の事実に適切に適用できるか,である。
 本年度は特に上記②と③の基準から見て不十分と言わざるを得ない答案が目立った。逆に言えば,これらの基準を満たす答案であれば「優秀」答案となる可能性が高くなる。④の点についても法規範の趣旨が十分に理解されていないと見られる答案,換言すれば,文理にのみ着目して規定の単純な当てはめだけを行う答案が多かった。その結果,規定の立法趣旨などに言及する答案は,相対的に,少なくとも「良好」となる可能性が高いと見られる。そして,規定の単純な当てはめ作業に終始しつつも,少なくとも①の基準をおおむねクリアーしている答案が,多くの場合,「一応の水準」答案となるのではないかと見られる。(国際私法)」

 もちろん、私は新司法試験合格者でも上位の方が優秀であることは否定しない。しかし、採点雑感を見れば明らかなとおり、全体としてみれば相当やばいレベルの方でも合格できる試験になりつつあるのが現状だ。この事実は、日経新聞の社説を書くくらいの人なら当然知っていて然るべきだし、知らないで社説を書いているのであれば、多くの人に誤解を与える非常に罪な行為だろう。

 だから日経新聞の社説は、司法試験のレベル低下の問題を全く無視した点で、少なくとも的外れだ。合格者のレベルを上げるには、競争を強化するしかないだろう。一生に一回かもしれない事件を依頼する弁護士に、最低限度の知識・応用能力がないと困るのは、一般の方ではないか。

 日経新聞の社説は、言い換えれば、医学部卒業生全てに医師資格を与えて競争させれば、自由競争による淘汰によって、良い医師が生き残るから良いではないかという主張とほぼ同じだ。淘汰に至る過程で、藪医者にかかって殺される人がいてもそれは、情報もなくその藪医者を選んでしまった人が悪い、自由競争だからしょうがないという、強者の論理だ。

 確かに日経新聞は、情報網もお金もあるだろうから、優秀な弁護士を雇えるだろう。しかし、一般の人が弁護士に依頼する際に、その弁護士の仕事が素晴らしいかどうかは正直言って分かるだろうか。弁護士の作成した専門的な書面を読んでも良いかどうか分からないし、その弁護士の方針が正しいかすら分からないことが多いはずだ。

 現にあれだけ弁護士が氾濫しているアメリカでも、富裕層は弁護士選びに困らないが、中間層以下は情報もなく広告などを参考に選ばざるを得ないと報告されている。自由競争が成立していないのだ。

 日経新聞の社説を書こうかという人が、それくらいの知識もなく書いているとは思えないので、敢えて善解するならば、少なくとも社説のこの部分は弁護士バッシングを意識して書かれたものなのだろう。

 突っ込み処はまだある。

 果たして、個人や企業はそれほど弁護士を必要としているかという点だ。

 日経新聞は、個人や企業は弁護士を必要としていると主張しているようだが、それならどうして新人弁護士の就職難が蔓延しているのだ。

平成12年の司法制度改革審議会のアンケートですら、弁護士にアクセスするのに、「大いに苦労した人3.8%、やや苦労した人6.1%」でしかなかった。つまり、弁護士を探そうとして本当に苦労した人は25人に1人くらいだったのだ。平成12年から弁護士は、約178%に増員された。こういう現実を一切無視するのが日経新聞なのか。

 企業が弁護士を必要としていると主張するなら、まず日経新聞がどれだけの社内弁護士を雇用しているのか明示したらどうだ。企業内弁護士の統計を見ると、日経新聞は少なくとも企業内弁護士が所属する上位20社に入っていないから、仮にいたとしても、5名未満の企業内弁護士しかいないはずだ。日経新聞だって企業だから、本当に企業に弁護士が必要なら何十人と日経が雇用して見せればいいのではないか。

 日弁連が2009年11月に、上場企業に向けてアンケート調査した結果、回答1149社中97%が企業内弁護士採用に消極的との回答を寄せているが、日経はこれと違う根拠を持っているのか。仮に、なんの根拠もなく、企業に弁護士が必要などと勝手な社説を書いてお金を頂けるのならそんな楽な仕事はなかろう。

 いつまでも、根拠無しの社説を書くのではなく、いい加減きちんと根拠を持って記載して頂きたいものだ。

 私も一応日経をとっているが、こんないい加減な社説を掲載しているのでだんだん嫌になってきちゃった。早く善処して欲しいものだ。

※なお当ブログの記載は、当職の個人的意見であり、当事務所の他のいかなる弁護士にも関係はございません。