アメリカの弁護士は多いけれど・・・

 司法制度改革では、「日本の弁護士数は、欧米に比べて圧倒的に少ない。弁護士数を増やして、国民の司法アクセスが可能になるようにすべきである。」という主張がなされたことがあったように思う。

 もともと、弁護士数の比較において、多くの隣接士業(税理士・弁理士・司法書士・社会保険労務士など)制度を持つ日本と、そのような制度がない国を一律に比較すること自体がそもそも間違っていたのだが、それをさておくとしても、弁護士数を増やせば(弁護士費用が安くなったり、弁護士過疎の問題が解消して)国民の司法アクセスが容易となるという前提自体が実は誤っていたのだ。

 アメリカは、世界的に見ても弁護士が極めて多い国であることは、よく知られているとおりである。

 弁護士数が増加すれば弁護士費用が安くなったり、弁護士過疎の問題が解消して、司法アクセスが容易になるという命題が正しければ、アメリカでは極めてリーズナブルに弁護士が利用できていないとおかしいし、司法過疎も解消され、国民の司法アクセス問題は解決されているはずだと思われる。

 ところが、アメリカに留学された裁判官の報告によると、アメリカの司法界にとって最も重要な問題の一つは、貧困層の司法へのアクセス不足、具体的には貧困層にとって弁護士費用が高すぎるというものである(ジュリスト1169号p89~前澤達朗判事補による、「米国のロースクールにおける法曹養成の現状と問題点」参照)。

 その問題点を解消するため、官民あげて、公的法律サービスの普及のための努力が続けられているが、あれだけ大量の弁護士がいるアメリカでさえ、その公的法律サービスを担う弁護士が大いに不足しているのだそうだ。

 ロースクールの学費が高すぎ、多額の借金を抱えた学生は公益に奉仕するという理想を追うよりも、借金を返済するという現実を優先せざるを得ず、多くの学生がなるべく高収入が期待できる都市圏の大都市事務所に殺到しているのだそうだ。そのためか、弁護士過疎の問題は依然アメリカでも解消されていないとの指摘を耳にしたこともある。

 前澤裁判官によると、アメリカの学生は、法学教育を受けるために負担したコストを卒業後の収入によるなるべく早期に回収し、さらに投資に見合う利益を得ようとするから、法学教育のコストが高ければ高いほど、このコストは、より高い弁護士費用に形を変え、最後は社会が負担することになると考えなければならない、とのことである。

 前澤裁判官はそこまで述べてはいないが、アメリカではリーガルコストが高騰し、そのコストが社会のお荷物になっているとの指摘もあるようだ。確かに、リーガルコストはそれ自体、コストをかけても現実には何も生み出さないことも多く、多額のリーガルコストがかかる社会は、健全な社会とは言えないようにも思われる。

 ただ、前澤裁判官の指摘は、ごく自然で当たり前の指摘であるし、また、このような行動を取るアメリカの学生を非難することは誰にもできないだろう。

 さて、日本はどうだろうか。これまでは、なんの資格も学歴も不要で、司法試験で示される実力だけで競争するという、完全に公平な旧司法試験があった。

 しかし、法科大学院制度を導入したことにより、新司法試験は法科大学院を卒業しなければ原則として受験すらできなくなった。会社に通いながら独学で弁護士を目指すことは、事実上できなくなっている。そして、これまでは不要だった、法科大学院の学費が弁護士を目指す人達に重くのしかかるようになった。

 いったい、司法改革を進めた人達は、諸外国の現実を見ながら改革を進めてきたのだろうか。司法制度改革を中心になって進め、ロースクール導入に大きな影響を与えててきたとされる、佐藤幸治教授ですら、ロースクールを見学したのは僅か1校だけだったという記事を目にしたこともある。本当に、アメリカ型ロースクールのメリット・デメリットをきちんと把握した上で、デメリットを克服する方策を施した上で導入したのだろうか。

 少子高齢化による学生減少への危機感から、大学経営の健全化を目指して、ロースクールの導入を急いだのであれば、それこそ本末転倒である。ロースクール学生の将来と、実務法曹の質と量をを滅茶苦茶にして、ロースクール制度だけ生き残っても意味がないではないか。ロースクール制度は、国民が求める質と量の法曹を要請するための手段にすぎないのであり、ロースクールが生み出す法曹が国民が求める質に及ばず、若しくは、国民が法曹の量を求めていない場合は、縮小ないし廃止されてもやむを得ない存在であるはずだ。

 そのロースクールが、社会や経済界に対して、卒業生や新規法曹を積極採用するように呼びかけることは、厚かましいにも程がある。

 俺の作ったパンは美味いはずだから食え、そう言ってパンを押しつけ、金を取ろうとするパン屋と変わらないではないか。

 もし本当に、法科大学院の教育が実務にも役立つ素晴らしいものであれば、その卒業生は新司法試験の合格の有無にかかわらず、経済界から引っ張りだこであるはずだ。そうでないのは、法的なニーズがないか、法科大学院の教育に経済界・社会が価値を見出せていないということに他ならない。

 さらに翻って、司法制度改革審議会やマスコミがお題目のように言っていた、「国民が弁護士の大量増員を望んでいる」というデータは、確かどこにもなかったはずだ。「2割司法」という人もいたが、本当に2割司法だったのか、誰か検証したのだろうか。少なくとも私は、紛争解決のうち司法が2割しか関与できていないというような客観的データを見たことがない。

 平成12年の司法制度改革審議会が行ったアンケートでは、むしろその逆で、その時点の弁護士数で十分国民のニーズを満たしていると判断できる結果が出ていたそうだ。

  なんだか、ここまでちぐはぐだと、他国の制度の悪いところばかり捜して、それを真似しているように思えてならなくなってくるよね・・・・・・・。

 ちょっと疲れているせいか、まとまりのない文章になってしまい、スミマセン。

 私のつたないブログを読んで下さる皆様、暑中お見舞い申しあげます。(下記の写真で少しだけでも涼を感じて下されば幸いです。)

本当の怖さ

 「馬鹿野郎、なんで寄ってくるんやっ!冗談じゃねーぞ!!」

 クラクションを鳴らしまくりながら、S弁護士は心の中で叫んでいた。

 決して相手を威嚇するためではない。自分の身を守るための行動だった。

 場所は、未明の中央自動車道上り線。恵那峡SAを出た後、しばらく走った緩やかな左カーブ。長野市で行われる全国証券問題研究会の第42回大会に参加するために、先週金曜日の未明、京都から長野に向かって高速道路を走っていたときの出来事だった。

 ご存じの通り、法律の規定により大型トラックには90㎞のスピードリミッターが装着されている。当然だが、自家用車のスピードは大型トラックより速いため、通行量の少ない深夜の高速道路では、現実的には大型トラックを何台も追い抜くことになる。
 ただし、大型トラックが何台も連なっているときは追い抜くときに注意が必要だ。こちらが追い越しをかけるのと同時に、先行するトラックを後続のトラックが追い越そうとして高速道路の車線がふさがれてしまう場合もあるからだ。

 だが今回は、単独走行のトラックだ。別のトラックを追い越そうとして追い越し車線に入ってくる心配はない。
 そこまで確認して、追い越しをかけたときだった。トラックがウインカーも出さずに追い越し車線にゆっくりとはみ出してきた。危ないな、と思いつつS弁護士はパッシングをし、クラクションを一度鳴らした。
 しかし、トラックのはみ出しは止まらない。そのままどんどん追い越し車線にはみ出してくる。

 いかん、こいつは、何も見ていない。

 スピードを落とそうにも、既にトラックの車体の真ん中くらいまでこっちの車は進んでいる。
 さらに、トラックは、はみ出してくる。S弁護士にもようやく(といっても僅かな時間の出来事だが)事態が理解できた。はみ出して来ているのではない。トラックは直進しているのだ。緩い左カーブを直進しているのだ。その結果、追い越し車線にはみ出してきているのだ。

 間違いない、こいつは居眠り運転だ!!

 頼む!気付いてくれ!!、気付かんか、このボケ!!

 S弁護士は、半分神に祈りつつ、半分はトラックのドライバーを罵りながら、クラクションを鳴らし続ける。と同時に、僅かに隙間のある前方に向かってアクセルをさらに踏み込む。V6、3.7Lエンジンがフル加速を開始する。しかしギアはトップだ。加速は歯がゆいほどゆっくりに感じられる。どうした、333馬力!もっと加速してくれ!必死に何かに祈る。確かにブレーキを踏んで減速する手段も考えられた。しかし、それだと、仮にトラックとの衝突が避けられても、トラックがこのまま中央分離帯に激突し、横転でもした際のこちらのダメージが怖すぎる。迷っている暇はなかったのだ。

 しかし、トラックのはみ出しは止まらない。

 中央分離帯には、あまりに接近しすぎたドライバーに注意を促すために、その上を走ると車体に振動が伝わってくる白線が引かれている。既にその白線の上を走っている振動が、S弁護士の握るハンドルに伝わっている。しかし、トラックとの衝突を避けるためには、致し方ない。その危険な白線を超えて、S弁護士は自分の自動車を中央分離帯にさらに寄せる。
 中央分離帯のガードレールが大きく迫り、その付近の荒れた路面のため、ハンドルが取られそうになる。
 左側からは大きなトラックの車体が迫る。

 あかんか・・・・

 S弁護士は本気でそう思った。

 そこで、トラックの接近が止まってくれた。トラックが不安定に揺れながら、走行車線に戻っていく。
 おそらく、鳴らし続けたクラクションにより居眠りから目覚めたトラックのドライバーが、慌てて走行車線に戻ったのだろう。
 間一髪とは、よく用いられる言葉だが、なかなか身を持って体験できることではない。

 助かった・・・・・。

 おそらく5秒も経たないくらいの短時間の出来事だったはずだ。
 安堵の思いと同時に、ぞくっと寒気が背筋を走った。時速100キロ以上での事故がただですむはずがないではないか。

 多分、S弁護士が追い抜きをかけていなかったら、そしてクラクションを鳴らし続けなかったら、このトラックの運転手は居眠り運転のまま中央分離帯に激突していただろう。言い換えれば、えらい怖い思いをしたが、全くの偶然により、ヒト1人を結果的に救ったことにもなるだろう。

 S弁護士は、そのように考えてトラック運転手への怒りを、誤魔化しながら、本当の怖さは後から来るものなんだな、と考えていた。
 

見栄のはり方

 最近マスコミで弁護士の就職難がようやく、報道されるようになった。

 そのような状況にならないよう、警鐘を鳴らしてきたつもりだったが、現実に問題が生じないとなかなか実感できないのもまた事実なのだろう。遅すぎるかもしれないが、迅速に問題点を見極めて対応する必要があると思う。

 先だって、大阪弁護士会は就職説明会を開催したのだが、募集事務所としてブースを設けた法律事務所はわずか、10事務所あまりだったそうだ。

 私は、大阪弁護士会の常議員会で、募集事務所が少ない、もっと積極的に応募して欲しいと執行部副会長から聞いたので、「潜在的ニーズがあると言い張っている先生や、弁護士人口増員論者の先生が経営している事務所の連絡先を、修習生に教えるべきだ、当然その先生方は修習生を雇うはずでしょう。」と意見したのだが、単なる意見ということで、あっさりと流されてしまった。

 真剣に弁護士の増員が必要と考えるならば、潜在的でもニーズがあると真剣に信じているのならば、その事務所では新人弁護士の雇用が必要なはずではないのか。

 新人弁護士の就職が困難であるということは、「増員が必要・潜在的ニーズがある」という主張が真っ赤な嘘なのか、増員必要・潜在的ニーズがあっても、雇用するだけの質が見込めないのか、いずれかしかないだろう。そしてそのいずれでも由々しき事態ということには変わりがないはずだ。

増員賛成論者、潜在的ニーズ論者は、直ちに自らの収入を新人弁護士並みにしてでも新人弁護士を雇用してあげるべき義務があるだろう。

 それが言行一致というものだ。

 「私は司法改革を推進してますよ、増員?もちろん賛成です。」、とええカッコだけして、そのツケを新人弁護士に負わせようとする態度は、あまりにも無責任と言わざるを得ない。

 話を戻すが、大阪弁護士会の就職説明会に集まった修習生は、正確な数は忘れたが100名はいたと思う。

 圧倒的に募集事務所は少ないと思うのだけれど、実態はもっと悲惨だったという噂がある。

 つまり、大阪弁護士会で就職説明会のために法律事務所にブースを設けるよう募集したのだが、実際の募集を考えていた事務所は、6~7事務所しかなく、あまりの少なさに本来募集する予定のない事務所にもブース設置を要請して、形だけは募集があるように見せかけたというのだ。

もしこの噂が本当なのであれば、交通費をかけ、必死に就職を願ってやって来た修習生に対してあまりにも失礼な対応ではないのか。

 そんなところに、見栄をはってどうする。

 弁護士会の舵取りをされている方々に、もっと現実を直視して頂きたい気持ちでいっぱいだ。

やはり少ない接見施設

 前にも何度か書いたが、被疑者国選制度が採用されてから、警察での接見(面会)の待ち時間が、異常なくらい伸びている。

 今日も、某警察で接見申入れをしたのが、17:05、接見室に入れたのが、18:35と、1時間半も待たされた。接見室が一つしかなく、弁護人接見は時間無制限であるため、ゆっくり接見する弁護士がいると、うんざりするくらい待たされることになる。多分同じような思いをされている弁護士の方が、相当多数おられるのではないだろうか。

 弁護士との接見は被疑者・被告人の権利である。接見禁止が付されている場合、被疑者・被告人の外部交通は弁護人に限られるため、接見は極めて重要な意味を持つことになる。しかし、その権利を守るため弁護士だけに長時間の待機を強いるのは間違っているように思う。弁護士だって生活がある。長時間待たされたとしてもその待機時間の給料を誰かが支払ってくれるわけでもない。

 長時間待たされるのが常態となれば、接見を少し控えようかと考える弁護士が現れても責めることはできないのではないだろうか。

 被疑者国選制度の導入とともに、被疑者段階での接見が激増することは分かっていたのだから、各警察署で接見室の増設を行うべきだったのだ。しかし予算の都合か、接見室が増設されている様子は殆ど見られない。

 司法改革といえば聞こえは良いが、あまりにも場当たり的で不備の多い改革のように思えてならないときもある。

祇園祭宵山

 今日は祇園祭の宵山だ。明日に山鉾巡行を控えて、おそらく京都は凄い人出だろう。

 私は浪人時代から今まで20年以上京都に住んでいるが、祇園祭の宵山を見物に行ったことは、数回しかない。あまりの人出のため、人すら一方通行で歩かされ、人混みが嫌いな私には、ダメージが大きすぎたのだ。

 それでも、若者たちは浴衣で楽しそうにしており、その様子を京阪電車の駅で見かけることもある。

 モードが似ているからだろう、最近、浪人時代のことをよく思い出すよ。どういうわけか楽しい思い出ばかりだな。

 そういえば今日は祇園祭の宵山ではないか?予備校の同じクラスの彼女と行きました。でもそのときのことはよく覚えていないなあ。翌年の大学1年生のときには二人そろって浴衣で出かけたんだっけな。夜店を覗き込む彼女の横顔と髪を結い上げた襟足が夜店の灯かりに照らされて幻想的にきれいだったのをよく覚えている。

 昨年のこの時期、こういうメールを闘病中にくれた、大学時代の友人も、今は、この世には、いない。

 祇園祭に関しては、俺はグライダー部で割り当てられた船鉾のバイトしていたので、あまり宵山といってもデートの記憶はないが、信國の言う「幻想的な美しさ」ということは理解できるつもりだ。女性も気付かない、女性の本当の美しさを理解できるのはやはり男じゃないかと思うぞ。

 私は、いろいろ考えたあげく、彼の祇園祭の想い出に対し、上記のようなありきたりのことしか書けなかった。

 そんなことを思い出しつつ、今年も見物することなく、宵山の夜を過ごしてしまいそうだ。

東京地裁

 つい先ほど、東京地裁での期日が終了したところだ。

 これから、別件で弁護士さんと介護する必要があるため、弁護士会館で待ち合わせになる。

 裁判所には当然、法廷があり、それぞれの法廷には番号がつけられている。

 ところが、東京地裁には、全く同じ法廷番号をもつ違う法廷がある。今回私が、弁論期日を行った、601号法廷もその一つだ。東京地裁601号法廷と、東京地裁601号法廷(商事部)が存在する。

 同じ東京地裁に601号が二つあるのだから、待ち合わせの際など、間違えやすく戸惑う。

一般の方ならなおさらだろう。

 できれば、使う人の目線に立って、番号を変えていただければと思うのだが。

将棋の観戦記

私が、将棋の谷川浩司九段のファンであることは以前書いた。

 谷川九段を含むプロ棋士たちが争うプロ将棋のタイトル戦は、現在7つである。

 最も伝統のある名人戦、

 賞金最高額の竜王戦

 その他、王位戦、王座戦、棋王戦、棋聖戦、王将戦である。

 それぞれ新聞社等が主催をしている。

 ちなみに、名人戦は毎日新聞・朝日新聞両者が主催、竜王戦は読売新聞の主催、王位戦は新聞三社連合(北海道新聞・東京新聞・中日新聞・神戸新聞・徳島新聞・西日本新聞)、王座戦は日経新聞、棋王戦は共同通信社、棋聖戦は産経新聞、王将戦はスポニチ・毎日新聞社がそれぞれ主催している。

 だから、読売新聞を読んでいる人は、将棋欄を見ると竜王戦が掲載されていることが殆どだろうし、日経新聞を読む人が目にするのは棋王戦が殆どということになる。

 私はなぜか、小さい頃から、プロ将棋の指し手の意味も分からぬまま、観戦記を読むのが好きだった。当時の観戦記には、対局者のやりとり、苦悩までが描かれていたような記憶があり、素晴らしい観戦記に巡り逢うと、天才中の天才たちの究極の頭脳勝負、その息づかいまでが聞こえるように思ったものだ。

 最近は、どうも、新聞の観戦記には、面白いものがないように感じられ、あまり読まなくなりつつある。

 今の観戦記は、総じてそつなくまとめているので、決してまずいものではない。しかし、棋士達の人間性まで、踏み込んだ描写が極めて少なくなっているように思う。何となく表面をなでるような描写に終始し、棋士の苦悩まで踏み込み、内面をえぐりだすような描写を含む観戦記は殆ど見当たらないように感じられる。

 もちろん観戦記者の方も、棋士の内面が見えるわけではないだろうから、棋士の内面を描こうとすれば想像で書くほかなく、その記事が棋士の機嫌を損ねる危険を孕むことは、十分想像できる。また、棋士達の機嫌を損ねることはできないだろうから、どうしても事なかれ主義になってしまうのかもしれない。

 現在、王位戦七番勝負では、広瀬章人六段が、深浦康市王位に挑戦している。広瀬六段はタイトル初挑戦だ。私が応援している谷川浩司九段が挑戦者になっていないのが残念だが、広瀬六段は若武者らしく元気いっぱい戦ってくれるだろう。

 いろいろな制約はあるだろうが、観戦記者の方には、切れば血がほとばしり出るような、熱い観戦記を期待したい。 

司法特別演習A~本日演習終了

 本日、関西学院大学法学部で春学期に私が担当した、司法特別演習Aが最終日を迎えた。

 14コマの演習を、登録者20名で無事終えることができた。

 残念だったのは、演習参加者が多すぎて例年のように懇親会などによる、演習生同士の交流を深めていくことができなかったことだ。演習の感想を聞いても、問題演習のレベルはよかったが、学生間の交流があまりできなかったことが残念だったと、指摘する学生もいた。それでも私の教え子であることは変わりがないので、法曹を目指していたり、私生活で困ったときには、これまでの教え子たちと同様、いつでも力になるつもりでいる。

 ただ、人数の問題で懇親会ができなかったとしても、集団でのディベートを取り入れる、複数人で班を作って報告させるなど、もう少し学生同士の接点を増やしてあげる工夫をしてあげればよかった、と思うが、これは次回への課題だろう。

 演習終了後に、数人の学生が私のブログに空から撮影した写真があるが、どうやって撮っているのかと質問を受けた。普通に海外旅行の際に飛行機の窓から撮影したものが殆どだが、遊覧飛行のセスナ・ヘリコプターからの写真も時々あるはずだ。

 ブログとは、不思議なもので、誰かに見てもらうつもりで書いているにもかかわらず、見てますよ、といわれると妙に嬉しく照れくさいものだ。

 あとは、学生から提出されたレポートを読んで成績をつける作業が残っている。多分、学生の面影を思い出しながらの作業となることだろう。

超映画批評~前田有一氏のサイト~と映画ザ・コーヴ

 私は平均すれば、大体、月に1~2本の映画を見る。

 当然面白い映画もあれば、「こりゃ、お金損したな」という映画もある。後者の場合、わざわざ、映画館まで行ってみているのだから、「なんでこんな映画選んじまったんだ」と自己嫌悪になることもある。

  できるだけそんな気分を味わいたくないので、映画を見る前に、超映画批評という前田有一さんのサイトで、「今週のダメダメ」に指定されていないかだけでもチェックすることがある。

 この映画ライター、前田有一さんの批評は結構辛口で面白く、そんな見方もあるんだと、頷かされたりすることも多い。

 しかし、映画を見る前にできるだけ予断を持ちたくないので、私は、批評本文は読まずに、映画を見るように心がけている。

 だが、話が「ザ・コーヴ」となると別だ。しっかり「今週のダメダメ」に指定されているし、まだ映画自体見ていないが、間接的関係者という立場上、映画評論家の方がどう考えているのか知っておきたいからだ。

 前田さんの批評については、直リンク・無断リンクも許されているので下記のリンクから読んで頂きたい。

 http://movie.maeda-y.com/

 いかに、「ザ・コーヴ」がとんでもない映画かよ~く分かるだろう。

 また、前田さん自身も、あまりの「ザ・コーヴ」の偏向映画ぶりにあきれたらしく、「これでも見たら、といいたくなる。」と、捨て台詞つきで、映画「いのちの食べ方」を紹介されている。

 私の意見も同様だ(6月22日の私のブログ参照)。

 ゆめゆめ、ドキュメンタリー映画と誤解なされないように。

ソフトバンクのCM

 私は断然犬派なので、ソフトバンクの携帯電話を使っていないにもかかわらず、北大路欣也さんがお父さん犬の声をあてている、ソフトバンクの連作CMは結構好きである。白い日本犬である「お父さん犬」は、どうやら北海道犬らしいが、私も昔、実家で「お父さん犬」によく似た真っ白な紀州犬を飼っていたため、非常に親近感を覚えてしまう。

 旅に出たり、いろいろあったものの、お父さん犬は、結局黒幕?の大滝秀治に目をつけられ、上手く乗せられた結果、選挙に出ることになったようだ。近々行われる参議院選をもCMの背景に取り込んでしまう広告会社のたくましい商魂には脱帽だが、悔しいことに、6月3日・7日・20日放送開始分のCMの選曲が良い。

 音楽:千住明 と表示されているだけで、曲名はCMでは分からない。

 しかし、一度聞いただけで、あっ、どこかで聞いたことあるな、格好いい曲だな、なんだっけな、という気にさせる曲だ。視聴者にそう思わせただけで、このCMに関しては、もう広告会社の勝ちだろう。大量に流されるCMの中で、視聴者の気を引き止め、興味を持たせたのだから。

 正解は、NHK大河ドラマの「風林火山」のテーマ曲だったようだ。

 誰もがみんな知っている曲を使うよりも、どこかで聞いたがすぐには思い出せない曲を使って、興味を持たせる制作会社の選曲センスに、私は素直に脱帽せざるを得ない。