「いろはにほへと」~鎌倉円覚寺横田南嶺管長ある日の法話より

先日、私が郷里の和歌山県に帰省した際に、母親が「この人同級生とかじゃないの」と新聞記事の切り抜きを見せてくれた。

記事には、私の母校である新宮高等学校出身の横田南嶺老師が、鎌倉円覚寺の管長になられたとの内容が書かれていた。

「横田さんってのは、同級生では知らないなぁ・・・、しかもこんなエライ人なんて・・・・・いたかなぁ・・・・。」と、せんべいをかじりつつ記事の写真を見てみると、そこに写された人影に見覚えがあった。

生徒会で一緒に活動させていただいた、あの横田さんじゃないか。確か、私の1年上の学年だった。ずいぶん穏やかになった感じはうけるが、眼鏡の奥の優しそうなまなざしは変わらない。

当時生徒会は、文化祭・体育祭の企画などもしており、雑用係的なところもあった。そのせいか、生徒会の事務などのように面倒なことを引き受ける人がいなくて大変だった。また定かな記憶とは言い難いが、横田さんが中心になって長らく廃刊になっていた生徒の文芸作品を載せる文芸誌の復刊を果たした記憶もある。

そのような生徒会を横田さんとお友達が支えておられて、どういうわけか私もお手伝いさせていただいていた。(私は片道1時間くらいの汽車通学をしていたが、23時発の夜行で自宅に帰り、翌日の始発で学校に出向き学校の窓から入りこんで作業をしたことも今では良い思い出だ。)

横田さんのお友達から、横田さんがずっと瞑想し、気が充実するや一気に書を書くことがあるとか、武士のように切れ味が鋭いところがあるなど、いろいろ聞かされて結構びびっていたのだが、実際にお話ししてみると怖い方ではなく、一言で言えば真っ直ぐな方だったように思う。

私は、生徒会のかなり下っ端の方だったので、おそらく横田さんの記憶にはもう残っていないだろうが、確かに当時から高校生離れしたなにかを持っていた方だった。当時の私の記憶からしても、横田さんの今のお立場は納得である。

その横田南嶺管長の法話をまとめた本が、「いろはにほへと」だ。

法話と言うからには堅苦しいのかと思えばそうではない。美しい写真とともに分かりやすい言葉で、迷いがちな私達へのヒントが優しく綴られている。

好評らしく、この6月に第2弾も出版されたようだ。

せわしない現代社会で、疲れたなぁ、と思ったときにどの頁でも良いので開いて見て欲しい。

忙しさのあまり、自分は大事なことを見失っていた、そればかりか、自分が大事なことを見失っていたことすら忘れていたようだ、と気付かせていただけるのではないだろうか。

一度お読みになることをお勧め致します。

発行 円覚寺

発売 インターブックス

定価 700円(税別)

面白いぞ経済同友会の意見~その3

経済同友会の意見書は、企業側の採用を拡大させるための方策についても提言している。

経済同友会は、法曹有資格者の組織内弁護士への出願意向が低いとし、その解決策として、①組織内弁護士の働き方やニーズの理解が十分ではないから法科大学院で認知させるべき、②ビジネススクールと連携して共通科目を導入してビジネス感覚を養うべき、と提言する。

組織内弁護士の活躍は最近かなり報道されているし、昨今の、弁護士の法律事務所への就職難からすれば、組織内弁護士の求人があれば相当数の応募が殺到していると思われるので、①の提言は、現段階では、かなり的外れになっている可能性は高いと思う。

それでも敢えて①の提言をしているということになれば、経済同友会が求める優秀な法曹有資格者が組織内弁護士の応募者に少ないということなのだろうか?

いやいや、経済同友会は、「司法試験はあくまで入り口・通過点に過ぎず、法曹としての能力は合格後の実務経験で磨けばいい」と言っているのだし、(入学要件と卒業要件を厳格にすることを前提とする主張ではあるが、)法科大学院のプロセスによる教育を高く評価して、「司法試験は明らかに能力や資質の劣る者だけを不合格にして、原則として合格させればいい」とも言っている(同意見書p3)。つまり、経済同友会の意見は、法曹有資格者の実力(能力)は合格後に実際の社会で身に付ければいいし、法科大学院でプロセスによる教育を受けて卒業している以上、よっぽどの不適格者以外は、そのまま司法試験に合格させても良いだけの実力は持っていると判断して良いという主張のようだ。

そして、法科大学院側に言わせれば、適正な入学試験倍率を維持しているし厳格な卒業認定をしているということだから、(法科大学院の言い分を鵜呑みにすれば、)すでに、経済同友会が求める厳格な入学要件と卒業要件はクリアーされていることになる。

そうだとすると、法科大学院を卒業して、司法試験にも合格した人達について、少なくとも経済同友会に所属する会社は、入社試験段階にいたって、突然、この入社希望者はリーガルマインドに欠けるとか、優秀でないとか、言わないだろうし、ましてや不合格になんかするはずがないだろう。

経済同友会の意見を敷衍していけば、経済同友会に所属している会社が法曹有資格者の求人を出し、仮にその求人に応じた法曹有資格者が1人だけの場合、その会社はほぼ確実にその1人の応募者を雇用してくれることにならなければおかしいことになりそうだ。

しかし、そんなことがあり得ないことは、誰にでも分かる。

②の意見に関しては、そもそも司法改革の理念にそぐわないおそれがある。

司法制度改革審議会意見書には、法曹の役割、法曹に求められる資質について次のように記載されている。

『国民が自律的存在として、多様な社会生活関係を積極的に形成・維持し発展させていくためには、司法の運営に直接携わるプロフェッションとしての法曹がいわば「国民の社会生活上の医師」として、各人の置かれた具体的な生活状況ないしニーズに即した法的サービスを提供することが必要である。』

『(法曹に求められる)質的側面については、21世紀の司法を担う法曹に必要な資質として、豊かな人間性や感受性、幅広い教養と専門的知識、柔軟な思考力、説得・交渉の能力等の基本的資質に加えて、社会や人間関係に対する洞察力、人権感覚、先端的法分野や外国法の知見、国際的視野と語学力等が一層求められる』

このように、司法制度改革では、あくまで国民各人のための「社会生活上の医師」としての法曹が想定されている。人権感覚や語学力等は必要と想定されているが、「法曹にビジネス感覚が必要だ」とは明記されていなかったように思う。

少し話はそれるが、誰でも分かるように、人権感覚とビジネス感覚はときにぶつかり合うものだ。言っちゃあ悪いが、(やっていることは今までの弁護士とほとんど変わらないにもかかわらず、○○専門と大々的に営業を行って)今までの通常の弁護士費用と比較すると法外と言えるほど高額な弁護士費用をふんだくろうとする法律事務所も実は存在する(私の経験でも、実際に高額の費用を求められてそんな費用を準備できないということで相談に来られた方がいた)。そして、そのような法律事務所の売り上げがどんどん上がっているのであれば、そのやり方はビジネス感覚としては正しいと言えなくもないのだ。実際にそのような噂を聞く事務所の所長弁護士が経済誌に取り上げられたり、弁護士マーケティング本で成功者として取り上げられている可能性すらある。

経済同友会の意見は、さらに、③法科大学院を卒業したとはいえ実力未知数の従業員に高額の給与を支払うことはためらわれるので、教育期間を短くして司法修習も廃止すべき、④弁護士会費は企業内弁護士に関して減免を求める、⑤組織内弁護士にとっては公益活動義務を全うすることは困難なので柔軟な対応を求める(結局は公益活動免除の意図と思われる)等の主張を含む。

③については法科大学院のプロセスによる教育を評価していたはずなのに、給与を払う場面になれば急にその教育効果への評価は怪しくなる有様だし、④・⑤については、弁護士自治や弁護士法1条1項に規定されている弁護士の使命「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」の内容に抵触しかねない、徹頭徹尾自分勝手な御意見である。

経済界が戦後の日本を引っ張ってきた面があることは私も否定しない。しかし、今の経済同友会は、長期的な国民生活への展望を欠いた、あまりにも近視眼的且つ場当たり的な意見に終始しているのではないか、との危惧を拭いきれない。

2013年3月25日に、経済同友会から発表されている「集団的消費者被害回復に係る訴訟制度に関する意見」と並べて読むとその危惧がより強く感じられる。

経済界のリーダー達の、懸命なご判断を期待するものである。

映画「風立ちぬ」~宮崎駿監督作品

以下の感想は、あくまで一度だけ映画を見た私の感想であり、パンフレットも買っていないので、宮崎駿監督の意図から完全に外れてしまった捉え方をしたうえでの感想となっている可能性があることをご理解の上、お読み頂下さい。

また、この感想をお読み頂くのであれば、その前に必ず、劇場で映画をご覧頂くことをお勧めします。

(以下感想)

一般に善きこととされているはずの「夢を追うこと」、「人を想うこと」、は残酷な面を孕むものである。夢を追ってもかなえられるとは限らないし、例え夢が叶ってもその代償として失われるものも決して少なくない。人を想ってもその想いが叶えられるとは限らないし、例え叶ってもいずれ別れの日がやってくることは避けられない。

しかし、それでも夢を追い続けること、人を想うこと、そして、それらを含めて懸命に生きることは美しいのだと、感じさせてくれる映画だったように思う。

映画の中では、違和感を感じる場面もある。例えば、主人公は、一度も会ったことのないイタリアの航空技師カプローニの夢を見ることになり、主人公の中で夢と現実が交錯するような場面が数カ所ある。どうしてこのような描写が必要なのか。また、自らの試作機が墜落し、ばらばらになって放置されたハンガーの描写があるのに、その後の社内でのやりとりなど、当然描かれておかしくない場面が大胆に省略されている部分もあるように思う。一方、二郎とその妻である菜穂子との美しい想い出は、これでもかというくらいに丁寧に描写されている。

しかも、それらの場面において、描写されている視点がいずれも、客観的なものではなく、主人公二郎の目線から描かれているように感じられる。

映画を見ているときには気づけなかったが、映画館を出た後、ひょっとしたら、この映画は、主人公である堀越二郎の回想と捉えることができるのではないか、と私は感じた。

上手く言葉で表現できないことがもどかしいが、おそらく老境にさしかかっているであろう主人公二郎が、自分の半生を自ら振り返った際に、美しい想い出はより美しく、苦い想い出は忘れはしないが緩和されて思い出されたのではないだろうか。そう考えれば、何度かあるカプローニとの夢の中での交流も理解できなくはない。

病床の妻を抱えながら必死に二郎は、(美しい飛行機が戦闘機であるという矛盾はあるものの)自らの夢をかなえるために生きた。妻の菜穂子も、最も二郎が大変な時期に少しでも近くにいたいと、自らの病状悪化を顧みず病院を抜け出して二郎に寄り添い自らの人生を輝かせた。

そして、最愛の妻は、この世を去る際に「生きて」と二郎に伝えた。

もちろん、最愛の妻との別れは、二郎にとって生きる気力を挫くに十分すぎるほどの打撃だったかもしれない。

しかし二郎は、最愛の妻の言葉に励まされ、自らの夢を賭けた仕事、妻への想いを抱えながら、「生きねば」と決意し、今日まで懸命に生きてきた。

そして、今振り返ってみて、おそらく、妻の言葉と二郎のその決意は正しかった。私の生き方もそしておそらくは妻の生き方も、やはりこれで良かったのだ、という想いが二郎にはあったのではないだろうか。

ここまで考えたときに、私は、宮崎駿監督が主人公の二郎に、自分を重ねているのではないかとも感じた。宮崎駿監督にしても、これまで仕事の途中に様々な出来事があっただろう。それでもおそらくは(自らの夢を賭けた)仕事に最善を尽くし、ご家族・関係者もそれを支えてきたはずだ。

その宮崎駿監督自身が二郎の姿を借りて、仕事を始めとして懸命に生きてきた自分自身を顧み、支えてくれた家族や関係者の方への語り尽くせない感謝と、この生き方がおそらく監督としては正しかったと思えること、を示したかったのかもしれない。

もしも、この私の邪推が正しかったとしたら、宮崎駿監督はこの映画を最後に、もうアニメ映画を作らないつもりなのかもしれない。ここまで、自らの想いを語ってしまった後には、次に語るべきものが容易に見つかることは考えにくいからだ。

私の勝手な感想が、全くの的外れであったとしても、この映画は美しい。飛行シーンで雲が質感を感じさせすぎる面はあるが、空の美しさなど、私が実際にグライダーで飛行していたときに見た空よりも美しく感じられた。

確かに、声優があまりにセリフ棒読みだとかの批判は当然あり得るだろうし、映画に入り込めるかどうかによって、評価は分かれるはずだ。

それに、内容としては、中高年の特に男性を結果的にターゲットにした状況になっていると思われ、決して子供向け・ファミリー向けとはいえない映画である。

しかし、そうであっても、この美しい映画を見て、損はない、と私は思う。