第198回国会 文部科学委員会(平成31年4月23日開催)

 司法試験法の一部を改正する等の法案に関して、開かれた文部科学委員会だが、相当面白い議論がなされている。

 参考人として
 山本和彦 一橋大学法学研究科教授
 三澤英嗣 弁護士
 伊藤 真 弁護士・伊藤塾塾長
 須網隆夫 早稲田大学大学院法務研究科教授

 が呼ばれている。

 今回の法案は、かいつまんで言えば、法科大学院在学中に司法試験を受験を認めるというものである。

 これまで、何の裏付けもないままプロセスによる教育が優れていると標榜し、法科大学院でのプロセスによる教育が重視されるべきであり、司法試験受験資格は原則としてプロセスによる教育を経た法科大学院卒業生に限定すべきと主張していた法科大学院や学者達が、その理念をあっさりなげうって、法科大学院でのプロセスによる教育が終了していない時点での司法試験受験を認めようとする法案だ。

 平たく言えば、自分達の提供するプロセスによる教育は、最後まで続けても大して意味がないからその途中で司法試験を受験させてやってくれということになるのだから、法科大学院におけるプロセスによる教育という理念の自殺行為に等しい法案だった。

 私から端的に言わせてもらえば、予備試験に法曹志願者を奪われた法科大学院が影響力を駆使して力ずくで、学生を法科大学院に呼び戻そうとする弥縫策である。

 もちろん山本参考人は、法科大学院特別委員会委員であり、現役の法科大学院院長だから、法科大学院維持のために法案賛成、予備試験制限すべきの意見を述べる。のっけから、法科大学院礼賛・自画自賛の意見で、ここまで来ると笑えてくる。破産事件において同時廃止事件比率が減少したことまで法科大学院の手柄だと言っているようだ。確かに、破産事件が今でも大量に発生しているため管財人の引き受け手が足りなくて同時廃止事件比率が上がっていたのであれば一理あるかもしれない。しかし、実際には管財人希望者はたくさんいるし、それでも希望者に管財事件が割り当てられないこともあるのだ。現実には破産事件が激減していることもあり、同時廃止率の低下は、裁判所の破産部の仕事維持の面もあるのではないかとの見解もあるくらいだ。仮にそのような事実を知っていてこのような意見を述べているのであれば誤導も甚だしいから、おそらく、自分に都合の良い数字だけに目が行って、現実は何も知らない部分もあるのだろう。
 このように、肩書きは立派な大学の教授先生であっても、現実をご存じないことは良くあることなのだ。しかしこのような先生が、中教審の法科大学院特別委員会の代表として法曹養成制度にあれこれ口を差し挟んでいるようだから、始末が悪い。

 三澤参考人は、リーガルクリニックを実施してきた体験から、法案が通れば法科大学院が受験予備校化する可能性を指摘する。そして、法案の目的は予備試験受験者を法科大学院に呼び戻そうとするものであると看破した上で、優秀な学生は予備試験と法曹コースと2本立てで受験するようになるだけで、結局法案通りの制度を作っても、その目的すら達せられないと予測する。このような改正を国民の意見を反映して議論することもせずに、(法科大学院主導で)行うことに反対する。

 そして今回の参考人質疑の白眉は、伊藤真参考人だ。
 今回ばかりは本年で議論しなければならないと前置きした上で、法科大学院制度は大学の生き残り策であり、司法試験予備校から学生を取り戻す目的の制度であった。そしてその目論見は失敗した。今回の法案も予備試験から法科大学院に学生を取り戻す目的であるが、先の失敗から何も学んでいないので、再度失敗するであろうと断言する。その上で、法曹養成は、多様性、開放性、公平性が重要であること、制度改変という権力の力で学生を動かそうとしても無理であり、上から目線でコントロールしようとして受験生を振り回すことは個人の尊重に反するものであると述べる。
 次いで、現在の法曹養成制度の最大の問題は志願者の激減であり、その原因は法科大学院制度であること、法科大学院を卒業しなければ司法試験を受験できない制度を撤廃することこそが根本的解決であることを提示する。
 法科大学院維持派が主張するプロセスによる教育というお題目についても、司法試験合格後に行えば足りるし、むしろ司法試験合格前は司法試験合格が最優先になるため、現実には実現不可能であると気持ちよく切り捨てる。
 一発勝負の弊害という主張に対しては、試験制度を採る以上仕方がないことであり、勉強して合格するというプロセスがあってこそ合格が可能となるのであって、その厳しい勉強のプロセスを一発勝負と評価するなど、受験生に対して失礼千万であり、試験の現場を知らないものの戯れ言にすぎないと批判する。
 予備試験制限論に対しても、かろうじてつなぎ止めている優秀な学生もますます法曹から離れていくことは必定であり、愚の骨頂、法曹養成制度自体が壊滅的打撃を受けるだろうと指摘する。

 須網参考人は、法科大学院で教鞭をとってきているが、本法案は多くの教員には寝耳に水の内容であり大変びっくりしている。多くの現場の教員は法科大学院の理念の法規ではないか、法科大学院の終わりの始まりではないか、と話している。この法案が通過すれば法科大学院の予備校化は進展するだろう。この法案の目的は予備試験との競争において法科大学院の競争条件を緩和することにあると思われるが、予備試験をそのままにしておいて法科大学院の方だけいじるのは順番が違う、等と述べる。まずは予備試験を制限しろという御主張のようだ。

 詳しくは、国会の文部科学委員会の議事録、録画映像で確認できるが、とても面白いので、是非御覧頂きたい。

 中には、須網参考人からの「もし伊藤参考人の塾が市場を支配していなければ、もしかしたら法科大学院制度は生まれなかったのかなとか思っていた」との皮肉に対して、伊藤参考人が「・・・私たちのところでは、いきなり難しい、先生方が書いた本を読んで法律が嫌いになるぐらいならば、分かりやすい、そういうテキストを読んで、しっかり基礎、基本を自分のものにして、場合によってはその過程でしっかりと教科書を読む、または合格してからしっかり専門書を読んで勉強する。学ぶにはプロセスがあるでしょう、学び方の手順や順序があるはずだ、それを徹底して形にしてきたつもりであります。」と見事に切り返す場面もある。

 この参考人質疑を読んでみての私の雑駁な感想は、次の通りだ。

 おそらく伊藤真参考人の分析が最も現実に即しており、おそらく伊藤真参考人の予測通りに事態は進むことになるだろうと予測する。そして、法科大学院維持のために現実から目を背け弥縫策である本法案を推進させた山本参考人は何の責任もとらず、司法制度改革が国民のためのものであることを無視し、法科大学院救済のための新たな弥縫策を推進するか、予備試験受験制限という最悪のシナリオを推進しようとするだろう。

 加えて、未だに20年近く前の司法制度改革審議会意見書を金科玉条のように振り回す学者がいるが、そもそも上記意見書の、法曹需要の飛躍的増大という想定がまず間違っていたことについて、誰も何も言わないということが不思議だ。

 例えて言えば、敵が戦車で攻めてくると予想して防衛作戦を立てていたところ、実際には敵から航空機で攻撃を受けてしまっている状況下で、対戦車防衛作戦を墨守するのは、思考停止というほかないだろう。それにも関わらず、現実を無視して、対戦車防衛作戦は正しいと主張し続けるのは、根本を見失った議論にしかならないのではないか。

 それに豊かな人間性やら幅広い教養やらが大学院教育だけで身につくはずがないし、それが可能だと考えることは大学教員の傲慢でしかないだろう。

 成仏理論の高橋宏志東大名誉教授もそれ以前の法学教室の巻頭言で、「私はお金が大好きなのであるが」と書かれていた(法学教室2001年3月号№246)。これを学者としての韜晦であると読むことが素直だろうが、実際に退官後に四大法律事務所の一つに就職したことから考えると、あながち韜晦ばかりともいえず、本音が混じっていたのかもしれないという穿った見方も可能である。
 失礼ながら仮に私の穿った見方が正しく、高橋氏の「お金大好き」発言が本音だと仮定した場合、そのような教員に学んだ学生が豊かな人間性を身に付けることが果たして可能なのか。親子ほど年の離れた女子受験生に懸想して試験問題を漏らした教授もいたと記憶するが、それも豊かな人間性なのか。

 やはり大学の教員、少なくとも法科大学院特別委員会の委員達は、上から目線で受験生を振り回し、自分の利益に沿ってコントロールしようとしている感が否めない。

 法科大学院特別委員会においても、文科省の意向に沿った委員ばかり選任していないで、一旦全ての委員を解任し、新たに多様な意見を持った委員を選任し直し、法科大学院制度の廃止まで含めて検討すべきだろう。

 なぜなら、法科大学院制度発足から15年経っても、法科大学院は未だその教育について改善が必要であると指摘され続けているのだ。15年経っても問題が解決できない制度など民間であればとうの昔に廃止、改善できない委員はクビ、成果を出せない委員会は解散、となるはずだ。

 今までの委員では、何も解決できないことは、もはや明らかというほかないのだから、とるべき手段は一つのように、私は思うのだが。

ジプシーのサーカス

ずいぶん前にも書いたように思うし、未だに子供のようだと良く言われるが、私はサーカスを見ることが結構好きだ。といってもシルクドソレイユのような曲芸を極めたものよりも、サーカス一座があちこち周りながら公演しているような昔ながらのサーカスが好みである。

海外に出かけた際にも、機会があればサーカスを見たりする。

今でも印象に残っているのは、もう20年以上も前に、パリで見た、ジプシーのサーカス。

Cirque Romanésと書いてあったので、ロマネ一座といえばいいのかな。

たぶんサーカス一家という感じで、家族・親族でやっているような感じだった。

哀愁あふれる音楽の生演奏と、派手ではないが暖かみのある出し物。

日本なら児童福祉法にひかっかる可能性もありそうな、少女の綱の演技があったし、団長らしき人の出し物は、はしごを登ったり降りたりして最後にヤギに自分の頭を咬ませたりするものだった。

公演終了後には、揚げパンの屋台のようなものが出てきて売っていた。

インターネットで検索してみると、まだ健在のようだ。

機会があれば、再訪してみたいサーカスの一つだ。

デジカメの功罪

 私は、海外に出かけたときなどにデジカメで写真を撮る。たいていは風景写真が多く、スナップ写真を撮ることはごく希だ。 

 といっても、高度な技が使える一眼レフなどはややこしくて到底使えないので、望遠の効くコンパクトデジカメといわれる部類のカメラを使っている。

 ずいぶん前から年賀状には自分の撮った写真を使っているので、嬉しいことに毎年楽しみにして下さっている方もいるようだ。賞めてくれる方も多く、あるときなど、小さな出版社の方から写真集を出しませんかとお世辞をいわれたこともある。

 とはいえ、私自身、海外旅行に初めて出かけたときに、固定焦点のコンパクトカメラでフィルムを入れて撮っていた時に撮影できた写真に、まだ並ぶ写真が撮れないでいるように感じている。

 まだ、海外にでかけてもおそるおそる街を歩いていた頃に、良いなと思う被写体を見つけても、あと何枚分しかフィルムがない・・・・ここで使って良いのか・・・などと悩みながら撮影した写真に敵わない気がするのだ。

 もちろん、海外旅行に慣れていなくて無心に新鮮な気持ちのまま撮影できていたということも多分にあるだろう。

 それと同時に、今のデジカメでは、取り敢えず撮っておいて後で見ればいいや。と気楽にシャッターを切りすぎることも理由ではないかとも感じている。

 確かにデジカメは、メモリーの範囲内でたくさん撮影可能であるし、失敗したらすぐ消去すれば足りるので、簡単だしお気楽だ。フィルムでの撮影のように、現像料がかかるわけでもなく、現像してみるまでどう写っているのか分からないということもない。

 しかし、お気楽であるが故に、心を震わせる風景に出会ったときに、とにかく撮っておこうと何枚も撮影してしまうのだが、そのようなときに私の心の中のどこかで、その風景と真剣に向き合いきれていない部分が残ってしまうようのだ。

 もちろん便利なデジカメなので、もうフィルムを使ったカメラに戻ることは現実にはできない。しかし、どこかで被写体に真剣かつ無心に向き合うことができていない気がする自分に、少し残念な思いがすることもまた事実だったりするのである。

司法試験受験予定者がね・・・

 かつて司法試験は約3万人程度の受験者で、合格者約500~600人、合格率2%であり、現代の科挙と呼ばれたこともあった。短答式試験で5人~6人に1人(上位20%前後)に絞られ、短答式試験を合格した者の中から論文式試験でさらに7~8人に絞られ、口述試験もあった。

 近時司法試験の合格者は、1500人前後に落ち着いてきてはいるものの、問題は受験者数だ。

 平成31年(令和元年)の司法試験受験予定者数は、4899名(H31.4.19法務省発表)である。昨年の受験予定者数であった5284名から400人近く減少した。

 かつての司法試験に比べて、合格者数が3倍に増加した反面、受験者数は約85%もの大幅減少なのだ。

 仮に今年の合格者が1500名程度だとすると、単純計算した合格率は約30.6%となる。ほぼ3人に1人が合格するのだ。

 この点、受験者の大半が法科大学院卒業者だから、受験生のレベルが違うとの批判もあり得よう。しかし、受験生のレベルが多少違おうが、単純に合格率だけで計算すれば、15倍合格しやすくなっている状況で、かつてのレベルが維持できるはずがないと私は思う。

 私が見る限り、短答式試験は部分点も設けられるなど点数を取りやすくする工夫もなされているほか、単純な正誤の選択肢も多く、以前に比べると明らかに簡単になっているし、合格点も全然高く設定されてはいない。だから、短答式試験で不合格の点数しか取れない受験生は、そもそも箸にも棒にもかからない。

 例えば昨年の実績では予備試験ルートの受験生の短答式試験合格率は実受験者での合格率は99.5%なのだ。予備試験合格者は法科大学院卒業者と同レベルの学識を有すると予備試験で判断された者達だから、この合格率から見ても、近時の短答式試験の合格は極めて容易であることは理解できよう。

 こんなザルのような短答式試験では、足切りの選別機能を果たすことにもなっていないようにも思われるが、豈図らんや、法科大学院ルートの受験生の短答式試験合格率は実受験者での合格率で67.3%。つまり、法科大学院ルートの受験生のうち3人に1人が、どうしようもない点数しか取れていないのだ。

 これは、受験生が悪いのではない。法科大学院にきちんとした教育能力がないからである(一部の合格率の高い法科大学院の存在は否定しない。制度全体としての話である。)。

 さて、今年の受験予定者のうち4506名が法科大学院ルート、393名が予備試験ルートだから、仮に昨年度の実績と同様だ考えると、

 法科大学院ルートの昨年の受験予定者5284名→実受験者数4805名(約90.9%)なので、今年の実受験者数は4506×0.909=4096名程度と考えられる。そのうち、短答式試験合格率が昨年並みだとすると、論文試験を採点してもらえる法科大学院ルートの受験生は、4095×0.673=2757名と試算できる。

 予備試験ルートの昨年の受験予定者442名→433名(約98%)なので、今年の実受験者数は393×0.98=385名と考えられる。そのうち、短答式試験合格率が昨年並みだとすると、論文試験を採点してもらえる予備試験ルートの受験生は385×0.995=383名

 だとすると、2757名+383名=3140名で、約1500名程度の論文試験合格を目指すことになる。

 平たくいえば、およそ2人に1人が論文試験に合格だ。

 最高裁は公には認めてはいないが、裁判所から弁護士会に対し、若手弁護士のレベルダウンがひどいので、講師はいくらでも派遣するから若手向けの研修をやってくれと依頼されているという非公式のお話があることは、実は何度も聞いている。かつて法的知識がなければまともに書けなかった2段方式の起案も司法研修所では行われていないと聞くし、2回試験も部分点が取りやすいような構成に変更されたと聞いている。

 司法試験も2回試験もレベルは落としていませんなどと建前ばかり振りかざしていたら、司法全体が転ける。

 合格者数ありきの合格判定ではなく、現実をきちんと見据えて、厳格に司法試験と2回試験を実施すべき時期に来ているように私は思う。