BBC TV番組「TOP GEAR」

 夜間飛行中の、飛行機の中では、乗客は大抵静かなものだ。照明も落とされ、多くの乗客は、毛布にくるまって、仮眠を取っている。

 ところが、通路を挟んで向こう側の若い外国人は違った。必死で笑いをかみ殺しながら、押さえきれずに笑いが漏れ聞こえてくる。あまりに笑いすぎて、呼吸困難に陥りそうなくらいヒーヒー言っている。

 頭にはヘッドフォンをして、どうやら、モニターでTV番組を見ているようだ。

 横目で確認してみると、その番組がBBC制作の自動車番組、「TOP GEAR」だった。

 日本で自動車番組と言えば、自動車評論家という人が出てきて、この車はサスがどうとか、エンジンがどうとか、どうでも良いようなことをひとしきりしゃべるつまらない番組というイメージが強いかもしれない。特に自動車に興味のない人にはそのイメージは強いだろう。

 しかし、「TOP GEAR」は違う。出演者のジェレミー・クラークソン、リチャード・ハモンド、ジェームズ・メイがそれぞれ個性的で、そのやりとりを見ているだけでも(英語があまり分からなくても)面白い。また、普通の自動車番組と異なり、馬鹿馬鹿しい企画や、対決が組み込まれ、これも言葉が分からなくても十分に楽しい。自動車を道具に使って遊び倒そうとするユーモア(それはときに過激すぎるユーモアになる)が感じられる。

 日産GT-Rが発売された際には、日産GT-Rvs公共交通機関の対決が番組で実行された。

 ルートはそれぞれ、日産GT-Rを駆るジェレミーが北陸自動車道 – 上信越自動車道 – 関越自動車道 – 首都高速 – 東京湾アクアライン経由、公共交通機関組のジェームズらが概ね羽咋駅 – (特急サンダーバード) – 京都駅 -(東海道新幹線)- 新横浜駅 -(横浜市営地下鉄ブルーライン)- 横浜駅 – (京浜急行)- 京急久里浜駅 – 久里浜港 – (東京湾フェリー) – 金谷港 – 鋸山ロープウェイ。

 どちらが早く、目的地に到着できるかの競争だ。

 音楽の選曲も素晴らしいが、その映像の美しさは、特筆すべきだ。さすがBBCというべき映像が、惜しげもなく流される。GT-Rvs新幹線のエピソードを見て、日本の美しさを改めて教えてもらったような気になる人も多いはずだ。

 この勝負の結果だが、途中、様々な障害や笑えるトラブルを乗り越え、最後は数分という僅差の接戦になった。

 日本では、BSフジで放送があるとの情報があるが、インターネットの公式動画サイトでも見ることができるそうだ。

 私を含め、英語があまり得意でない人のために、できれば字幕つきのDVDを発売してもらいたいと強く願う。

「フェルマーの最終定理」 サイモン・シン著

 フェルマーの最終定理(フェルマーのさいしゅうていり)とは、3 以上の自然数nについて、xn+yn=znとなる 0 でない自然数 (x,y,z) の組み合わせがない、という定理のことである。

 17世紀の数学者、フェルマーが残したこの難題に挑んだ、多くの数学者達のドラマを描いたのが、サイモン・シン著「フェルマーの最終定理」である。

 フェルマー自身がこの問題について、「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここでは記すことはできない」と記述しており、幾多の数学者がこの難題に挑んでは跳ね返されてきた。~ウィキペディアによると、フェルマー自身の証明は不完全だった可能性が高く、勘違いだったのではないかとの指摘もあるそうだ。

 この難題は、ついに、360年経って、イギリスの数学者アンドリュー・ワイルズによって証明されるが、その証明に日本人数学者の功績が大きく影響していたことは、この本で初めて知った。

 日本人数学者による、谷山・志村予想(モジュラーでない楕円曲線は存在しないという予想)が、フェルマーの最終定理を証明する大きな鍵となっていたのである。

 しかし、研究中の谷山は挙式を数ヶ月後に控えながら自ら死を選んでしまう。 そして、二つ目の悲劇が起こる。谷山の婚約者だった女性が、谷山の後を追ったのである。

 その女性は、こう書き記していたという。

 「私たちは、何があっても決して離れないと約束しました。彼が逝ってしまったのだから、私もいっしょに逝かねばなりません。」

 盟友を失いながらも志村は、更に研究を続け、多くの証拠を積み上げる。そして、証明こそ叶わなかったものの、単なる観測ではなく、「予想」の名に値する理論であることが受け入れられていき、最後には、フェルマーの最終定理の証明の鍵となっていく。

 私は、大学入試の頃以来、数学からは遠ざかっていたが、難しい数学のことなど分からなくても、数学者達のすさまじい程のドラマは読むものの胸を打つ。

 数学なんて・・・・、と毛嫌いされず、人間ドラマとして是非一読されることをお勧めしたい本である。

新潮文庫 税抜781円

マスコミの良心

 週刊東洋経済先週号の「編集部から」という、編集後記の欄に、記者の方が次のように書かれている。

今回紙面を割いたロースクールについて、小誌では一度大特集を組んだことがあります。

開校直前の2003年、「本当に強いロースクール」と銘打ち、「あなたも弁護士になれる」がキャッチでした。

実は当時から、現在の「惨状」を見通したかのような冷静な見方も一部にはありました。

ですが、大勢は「改革を止めるな」「バスに乗り遅れるな」の大合唱の中、熱に浮かれるように開設に走ったのが実相でした。

結果、多くのロースクールの経営が火の車なのは自業自得ですが、犠牲者はそれを信じて多額の借金を背負った学生です。

熱に浮かれた特集にかかわった1人として、自戒を込めて記します。

(引用ここまで)

 おそらく私のところまで取材に来られた、記者の方だろうと思う。非常に真面目かつ真剣に取材をされていたように記憶している。だから、本当に大変なことが起きていることを実感されているし、書かれた内容もおそらく本心に近いのだろう。

 自ら携わり、一度記事にした自紙の特集について、「熱に浮かれた特集」であったと認めることは、極めて勇気の要る行動だと思う。しかし、その反面、過ちは過ちとして認めようとする、報道に携わるプロとしての良心・矜持も見出せる行動であるはずだ。

 翻って、大新聞と呼ばれる日刊紙の論説委員はどうだろうか。現実を冷静に見ず、熱に浮かされ、法科大学院さえできれば全てうまく行くかのような論調だったはずだ。

 その論説委員の方々は、今の現実を見て、どう思っておられるのだろうか。現実には目を背けつつ、自紙の社説などについて、未だに熱に浮かされつつ誤りはない、と言い張るのだろうか。それとも法科大学院や文科省に責任をなすりつつ次第に論調をすり替えていくのだろうか。ひょっとしたら、東洋経済の記者の方のように、自らの報道が熱に浮かされたものだったと冷静に見つめ直し、明言するのだろうか。

 東洋経済の記者の方のこの記事を見て、マスコミの良心というべき心が、少なくともまだ現場の記者の方々からは失われていないのではないか、という、かすかな期待を、私は感じた。

NZの街はずれのB&Bで

 NZ(ニュージーランド)では、観光地や割と大きめの街にはホテルもありますが、B&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)の方が、断然リーズナブルだと思います。

 B&Bは、広い自宅の一部を民宿のように使って、宿と朝食を提供してくれるもので、オーナーはホストと呼ばれているようです。ホストにもいろいろあって、こちらのプライバシーを尊重してほとんどほったらかしのホストもいれば、親切にいろいろ見所を教えてくれたり、夜に一杯飲みながら話そうと言ってくれるホストもいます。もちろん、朝食もホスト次第で、とても美味しい朝食を作ってくれる所もあれば、シリアルと、スーパーで買ってきたのが見え見えのパンに、切り刻んだフルーツだけ、というところもあります。

 私は、NZ南島の、ある小さな町のB&Bに泊まったのですが、街はずれであったこともあり、ものすごい数の星を見ることが出来ました。 南半球なので、自分の星座の知識が通用するのかもよく分からなかったのですが、余りの星の多さに、星座の知識があっても星座を見つけ出すことが出来ないような思いをしました。

 季節は、NZの晩秋の頃ですので、おそらく気温は5度くらいだったと思います。明かりを落としたB&Bの芝生の庭で、椅子に腰掛けて星空を見ていると、遠くのどこかの家でカントリーミュージックを流しているのが、ほんのかすかに聞こえてきます。

  どこかの家から、暖炉に使っているらしい、薪を焼く匂いが漂ってきます。ひんやりしすぎるくらいの温度です。道路が近くにありますが、数分に一台しか車は通りません。

 うわ~すごい、という思いしか浮かばずに、余りに多くの星たちを、ため息をつきながら眺めていると、なぜだか、高2~高3の秋頃に感じたことがある、寂しいような、どうしようもないような、けれども確かにその頃自分が感じていた感覚がよみがえってきました。おそらく、星空だけではそのような思いは出来なかったでしょう。かすかに聞こえる音楽、暖かみを感じる匂い、ひんやりと張りつめながらなおやさしい空気などが、たまたま、ぴったり私の中の条件に合致して、初めてそう感じられたように思うのです。

 当時の記憶が蘇ったというのではありません。当時の記憶や感情と関連せず、純然たる感覚だけが蘇ったような気がしました。

 上手く表現できないのが残念です。

 何とか言葉にするとすれば、その頃に感じたことがある感覚が、私の中で時の破壊力に負けぬよう心の奥底に封じ込めていたその感覚が、このものすごい星空や澄んだ空気などによって、不覚にも解き放たれてしまったかのように、不意に蘇ってきた、と表現した方がより正確かもしれません。

 素晴らしい星空の他、忘れていた感覚を思いがけず体験することが出来、なんだか得したような気になった夜でした。

電信柱

 私が小さい頃、私の育った町では、電信柱はまだ木製が多かった。

 黄緑色に塗られた木製の電信柱、腐食防止のためかコールタールで真っ黒に塗られた木製の電信柱などが、小学校への通学路の脇に、いつも静かに佇んでいたように思う。電信柱に登るための小さな取って?もちゃんと付いていて、小学生でも少しばかりは登れた記憶がある。当時はむしろコンクリート製の電信柱が目新しく、登るための小さな取ってのようなものが収納式であったりして、それを引っ張ったり、戻したりして遊んだこともあった。缶蹴りのときは、その影に隠れて鬼に近寄ろうとして、手に汚れがついたりしたものだ。

 そのうち、木製の電信柱は見なくなったし、いつの頃からか、電信柱が何でできているのかについても全く注意を払わなくなった。

 しかし、 ときおり、ずっと等間隔に、どこまでも並んでいる電信柱を見たときや、誰もいないような広い平原に電信柱だけが立っている風景などを目にすると、何故だか気持ちが少しゆらめくことがある。

 むろん、電信柱がない方が風景としては良いのに、と思うことも多くあるが、気持ちが少し揺らめくときに限って言えば、電信柱が、たとえ誰にも注目されていなくても、黙って、自分の仕事をただ一心に、頑張っているように見えるのだ。

 そう思うのは、ひょっとしたら小さな頃に読んだ童話が原因かもしれない。

 そのうち、その童話についてもお話しさせて頂くときが来るかもしれないね。 

週間東洋経済「弁護士超活用法」~その2

 週間東洋経済5月22日号に、法科大学院協会の青山善充理事長のインタビューが載っている。

 題名は「名誉ある撤退を真剣に考えるべきだ」ということで、法科大学院の問題点を下記の通り、3つほど取り上げている。

 ①ロースクールの数が多すぎる。

 ②ロースクール修了生の職域開拓が不十分である 。

 ③ロースクール志願者の急減。

 これまで、法科大学院協会や中教審は、法科大学院は素晴らしいと繰り返すばかりで、ちっとも現実を見ていなかったが、ようやく薄目を開けて見たくないものを見始めたという感じがする。また、マスコミも法科大学院導入時には、「法科大学院さえ導入すれば全てうまく行く」と言わんばかりの論調ばかりだったが、ようやく少しずつ変わりつつあるようだ。

 ①については設立当初から問題点は指摘されていたが、法科大学院側や文科省は問題ないとして押し切ったように記憶している。制度に問題ないならどうして、いまになって問題が出てきたんだ。そして、問題が出てきた今、誰が責任をとってくれるんだろうか。結局責任のなすりあいになるのだろうか。それとも、若干の定数削減と統廃合でお茶を濁すのか、見ものである。

 ②について、「法的需要はいくらでもある」と、法科大学院側はいつも言っていたことに矛盾しないのだろうか。法的需要があるなら、そして法科大学院で素晴らしい教育を受けて実力を身につけた修了生なら、いくらリーマンショックがあったとしても、企業でも地方公共団体でも引っ張りだこでなければおかしいだろう。

 法科大学院によれば、法科大学院修了認定を厳格に行って本当に実力を身につけた学生しか卒業させていないはずだから、本来、法科大学院修了は実力のお墨付きになっていなければおかしい。しかし現実には、そうなっていないということは、法科大学院教育(その結果)に社会が価値を見出せていないということになりはしないか。

 そもそも、法科大学院修了者の職域を「開拓」しなければならない、ということ自体、法科大学院協会の法的需要に関する見通しが根本的に誤っていた、少なくとも法的需要の見通しに関しては、文科省の役人と学者さんは、ずぶの素人だった(そしてずぶの素人に国民は舵取りを任せてしまった)ことの裏返しだろう。

 ③については、当たり前である。

 ロースクール進学と法曹が将来の進路として魅力を失いつつあるからだ。

 「ロースクールを出ても新司法試験に合格できない可能性も高い、教育にかかる費用が高い、弁護士になっても就職できないかもしれないというようにリスクが大きすぎるためだろう(青山氏のインタビュー記事から引用)」。

 ただし、青山理事長は、新司法試験の合格者を増やせば、この問題は解消すると、お考えのようだ。

 さて青山理事長の見通しは正しいだろうか?

 おそらく子供でも分かると思うが、青山氏の見通しは明らかに誤っていると思われる。まず第一に、新司法試験の合格者を増やしても、教育にかかる費用が高いことは解消されない。第二に、法的需要が爆発的に喚起されない限り、弁護士になっても就職できないかもしれないという状況は解消されない。更に言えば、新司法試験の合格者を増やして弁護士の数を今のペース(ここ10年間で弁護士数は約1.7倍になっている。)で増やせばなおさら、弁護士の就職難は加速すると思われるからだ。3つの原因のうちより重要な2つの問題を放置したまま、この問題が解決するはずがないだろう。

 更に付言すれば、合格者を増やすことで志願者が増えるというのが青山氏の考えであるが、その主張は裏を返せば、合格者が増えないこと(合格率が低いこと)が志願者が減る理由だ、という主張になるだろう。元東大法学部教授が言うのだから何となく正しいような気もしないではない。しかし権威に目を曇らせずに事実を見据えれば、おかしな点に気付くだろう。

 つまり、もし青山氏の主張が正しければ、合格率が低いと志願者が減るということになる。そうだとすれば、合格率2%前後だった、旧司法試験は、98%落ちる試験だから、志願者がどんどん減っていかなければおかしい。ところが、旧司法試験は受験生は年々増加の一途であり、逆に我こそはと実力を自負する強者が挑戦する試験だったのである(丙案導入時の受け控えを除く)。

 この事実だけから見ても、青山氏の主張が誤っていることは明白だ。志願者の増減は、合格者の数の問題ではない。合格した後に就く職業に、魅力があるかどうかが志願者の数の増減に結びつくのだ。

 おそらく、元東大教授の青山理事長が、そこまで理屈の分からない方とは思いたくないので、おそらく立場上そう言わざるを得ないのだろうが、立場上建前論を振りかざして法科大学院擁護に終始し、この国の司法を支える人材登用する道を崩壊させたとすればそれは、本末転倒だろう。

 司法を優秀な人材が目指さなくなってしまう前に、早く本当の問題に目を向けて頂きたいと私は切に願っている。

週間東洋経済「弁護士超活用法」~その1

 2010.5.22号の週間東洋経済の特集は、「弁護士超活用法」だ。

 弁護士人口問題にも関連する内容であるし、若干取材に協力したこともあって、編集部から一部頂いた。現在まだ目を通している段階だが、その中で、「愛知大学法科大学院」が新司法試験合格率が私立大学中№1であるとの記事が目に留まった。

 そこでは、高合格率の理由について、決め手とは言いかねるが、1期生が「僕らは、新司法試験を個人戦ではなく、団体戦で戦った」と語ったように、学生が自主ゼミを開講し討論し合うこと、先輩後輩で気軽に質問し合って疑問を解消していることが、思考重視型の新司法試験にマッチしているのではないか、との研究科長のコメントがあった。

 しかし、旧司法試験合格者からみても、勉強会を組んでお互いに議論しながら悩み、考え、切磋琢磨することは、合格への近道だった。○○会という勉強会は、参加者のうち7割が合格したそうだ、などと半分伝説化している勉強会もあったように思う。暗記重視の旧司法試験と揶揄されるが、暗記だけでは絶対に合格しない試験であったことは、受験をしたことのある人なら誰しも知っているだろう。

 以前書いたが、私も勉強会「ニワ子でドン」に入れてもらって、極めて優秀な受験生仲間と議論したり、間違いを直してもらったりした。また、京大答練という自主的な答案練習会にも参加して、チューターに教えを請い、自らの過ちを是正したりしたものだ。ちなみに「ニワ子でドン」は、参加者の多くが最終合格したので、ひょっとしたら、京大の後輩の間では伝説化していたかもしれない。

 このように、ロースクールで新司法試験に対して効果があるかもしれない勉強法は、旧司法試験でも行っていた受験生が相当数いて、現実に有効であったという事実(少なくとも私の体験)がある。

 したがって、愛知大学法科大学院の学生がとっている戦い方は、新旧問わず司法試験には有効かもしれないと言うことだ。

 今年の新司法試験は終わってしまったが、来年受験する受験生には是非参考にしてもらいたい。ただし、チューター若しくは、参加者の半数以上に実力がないと、勉強会自体が迷走しかねないので、その点にはご注意を。

司法特別演習A

 ここ3年ほど、司法特別演習Bとして、関西学院大学法学部の秋学期にペットに関する法律問題についての演習を行ってきました。少人数ながらアットホームな雰囲気で、やれていたと思います。

 しかし、今年は、秋学期に関西学院大学大学院法学研究科での講義を担当することになりましたので、ペットに関する法律問題については、司法特別演習Aとして、春学期に行うことにしました。

 当初5名→7名→12名だった登録者も今年は一気に20名になり、アットホームな雰囲気でやることも、ちょっと難しい状況になりました。

 私は、学生時代の友人は宝物であると考えておりますので、せっかく少人数の演習に集まって頂いたのですから、この演習をきっかけに友人を作って下さいといつも学生さんにお願いしています。そのお手伝いとして、あおぞら演習、校外授業、懇親会などもやって来ましたが、さすがに20名となると困難ですね。

 残念ながら、今年の学生さんには、友達作りは、ご自身で頑張って頂くほかなさそうです。

 生徒さんが増えることは嬉しい反面、じっくりお付き合いできなくなる寂しさもあるようです。