J・Sバッハ「管弦楽組曲第3番よりair」

 先だって、受験時代のH君との話とカヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲のことを書きましたが、その際に私が候補にあげた曲の一つがJ・Sバッハ「管弦楽組曲第3番の「air」楽章」です。いわゆるG線上のアリアとして有名な曲ですから、ご存じの方も多いでしょう。いろいろな楽器で演奏されますが、やはりオーケストラによるものが一番しっくりきます。

 私がこの曲からうける印象は次のようなものでした。

 既に私はこの世での生を終えています。天上に向かう途中のようです。冥界の使者なのか天使なのかは分かりませんが、ある存在が、ゆるやかに、私に立ち止まって振り返るように身振りで伝えます。

 私は何の疑問もなく、そうするのが当たり前であるかのように、振り返ります。私の動きは水中であるかのように、ゆっくりです。人々が生活し、暮らしている、しかし、私のいなくなった地球を眺めながら、自分の人生を静かに想い起していきます。楽しかったこと、悲しかったこと、どうしようもなく切ない思いに暮れたことなど、自分が人生で体験した光景が、既に記憶の底にしまい込み思い出すことさえなかったことまで含めて、ゆっくりと目の前を流れていきます。しかし不思議と話声や音は聞こえません。

 心はもはや何物にも乱されることはありません。感情から解き放たれ、ひたすらに静かに穏やかなだけです。ただ、私が体験してきた全てのことに、やはり意味があったのだという想いだけは間違いなく感じられるようです。

 ここまでで、私がこの曲から受ける印象のおよそ半分くらいです。これ以上は私の言葉で表現することはできません。あとは、実際に曲を聴いて感じて頂くしかないようです。私の個人的な印象ですが、この曲は、もはや、人の領域を超えて神の領域までをも表現した曲であり、神の領域を人間の言葉で表現することは不可能であるからです。

 おそらく、この曲を作曲したときのバッハの魂は、完全に浄化され、あらゆる色を拒絶して純白に輝きながら結晶化しており、既にこの世ではなく、天上に存在していたにちがいありません。

 わずか5分程度の小曲ですが、その曲に含まれた世界は広大です。忙しい師走ではありますが、少しだけその広い世界を覗いてみられてはいかがでしょうか。

 今年のブログは、これで終わります。今年6月からはじめた、読みにくいブログを読んで下さった方々、有り難うございました。皆様が、良き年をお迎えになることを願っております。

 なお、当事務所は新年は1月7日より始業いたします。ブログも更新していく予定です。

 今後ともイデア綜合法律事務所をよろしくお願いいたします。

何時も紳士ではいられない?

 仕事柄、電話の応対が多いのですが、時折けんか腰の方や、非常に失礼な方からの電話もあります。中にはイチャモンをつけているとしか思えない電話もかかってくる場合もあります。

 その際には、こちらも、通常の応対よりもきつい電話応対をすることもあります。つまり、こちらも相手に敬意を払わない態度で応対することもあるということです。

 私の場合も、相手方から何らかの失礼な物言いを重ねてされたとか、ケンカを売られるような態度で話された場合に限りますが、きつい対応を行うことはあります。何時も紳士ではいられない場合もあるということですね。

 ただ、電話応対で本気で怒ったことは弁護士になってからは、まだないように思います。

 できれば本気で怒るような事態がおきることなく、仕事をしていきたいものです。

クリスマスと新年

 私の数少ない趣味の一つが、旅行です。特に年末はまとまった休みが取りやすいので、海外旅行に出かけるチャンスがある時期です。国内旅行だと何時、携帯電話で仕事関係の連絡があるかも分かりませんので、完全に仕事を忘れることができるのは、海外旅行くらいなのです。

 何度か、年末に海外に出かけたことがあるのですが、何時もクリスマスの飾り付けがされていて、驚きます。大体早くても12月28日に出発するので、日本ではもう、お正月向けてクリスマスの飾り付けは取り払われています。門松の準備がされているところすらあっても良い時期です。

 ところが12月28日にこちらを出発しても、向こうでは、結構クリスマスの飾り付けが残っていて、クリスマスが続いているようなのです。オレンジのナトリウム燈がともされた街灯に浮かび上がる、街角の小さな窓にクリスマスを祝う飾りが控えめにぶら下がっているのを見るのは、なぜだか、大通りの派手な電飾を見るよりはるかに風情があります。

 日本ではクリスマスは25日で終わり、改めてお正月がやってくる感じですが、(私の出かけたことのある)海外では、クリスマスの延長としてニューイヤーがあるように思われます。

 クリスマスはクリスマスで終わらせて新たな気持ちで新年を迎える日本と、クリスマスの延長として新年がやってくる(と私には思われる)海外と、微妙な感覚のズレがあるようで、面白いところです。

「カチカチ山」 太宰治著

 「カチカチ山」って、あの狸とウサギの物語でしょ。日本昔話じゃないの?

・・・・と思われる方がほとんどだと思いますが、私が紹介するのは太宰治が自分流の解釈を加えて再構成した「カチカチ山」です。

 太宰は、「カチカチ山」に登場する狸を愚鈍大食の醜男37歳、うさぎをアルテミス型美少女16歳になぞらえ、「狸はウサギに惚れていた」として話を進めます。その発想自体が常人では不可能なものであり、太宰の天才たるゆえんでもあると思うのです。

 非常に面白い話なので、詳しくは実際に読んで頂くとして、太宰の結論は、「女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでいるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかってあがいている。」というものです。

 この太宰の結論には、女性は賛同されないかもしれませんが、おそらく大多数の男性は苦笑しながらも頷かざるを得ないのではないでしょうか。

 この作品は、手に入りやすい所では、新潮文庫の「お伽草紙」に所収されています。「お伽草紙」には、他にも「吉野山」・「女賊」(特に女賊の前半の面白さは秀逸です!)など、読んでいてとても面白い作品が含まれており、お薦めの一冊です。

カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲

 一番美しいと思うクラシック音楽は何だろうと、司法試験受験時代に受験仲間だったH君と話し合ったとき、H君が推したのが、このカヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲です。

 映画ゴッドファーザーパート3でも効果的に使われていましたし、TVCMにも何度も登場しているので、耳にすれば「ああ、この曲なのか」と思われる方も多いでしょう。

 静かな、霧に包まれた牧場の夜明けを思わせるような導入部から、この曲は始まります。

 そして、次第に朝の光が増していきます。誰にも汚されていない清澄な空気が立ちこめ、あたりは霧でボーっと明るいようです。その中で一人、しっとりと湿った大きな樹に背中を預けながら、甘美であったが決して結実することのなかった、かつて過ごした夢のような時間へと、自分一人で戻っていきます。
 しかし、そこはあくまでかつて過ごした夢の時間であって、取り戻すことも、今後もう一度経験することも、もはやできません。

 そして、過ぎ去った美しい時間(とき)の記憶に後ろ髪を引かれつつも、人は、今の現実へと帰ってこなければならないのです。どうしても・・・・・。

 わずか3~4分程度の曲ですが、そのような情景を、初めて聞いたときに思い浮かべてしまいました。

 昔の時間の中に何か忘れ物をしてきてしまったような気がするときには、この曲が良いかもしれませんね。

反対の理由

 去る12月6日、日弁連臨時総会にて、新人弁護士の弁護士会費(一般会費)を半額にする議案が、可決されました。

 一見、新人弁護士に優しい議案であり、賛成すべきと思われるかもしれませんが、私は反対しました。

 詳しくは10月5日の私のブログに書いてありますが、もう一度繰り返して説明します。

 まず私たちの登録時には、このような議案は全ての弁護士にとって全く考えもつかない議案だったと思います。新人弁護士が登録したてであれ、弁護士会費を支払うことが困難なほど経済的に悪条件にさらされること自体が考えられなかったからです。

 ところが、現在の新人弁護士はこれまでの新人弁護士よりも悪い条件でしか雇用してもらえず、最悪の場合は就職先すら見つからず、いきなり自宅で独立しなければならない弁護士も出現しています。だからこそ、異様に高い弁護士会費を負担させると酷であるという話が出てきたはずです。単に、新人であまり仕事がないだろうからという理由だけなら、私たちの登録時も全く同じ状況であり、私たちの登録時に弁護士会費軽減の議題がでてもおかしくなかったはずです。

 結局、現在の新人弁護士の雇用待遇の悪化が最大の原因ということになります。

 では、なぜ、新人弁護士の雇用待遇が悪化したのかというと、それだけの弁護士需要がないからです。弁護士が不足してたまらない状況であれば、どこの事務所でも高い給与を払ってでも新人弁護士を確保しようとするでしょう。しかし現実は、そこまでの弁護士需要はないから、新人弁護士の雇用待遇は悪化しているのです。知人に聞いた話によれば、東京の町弁事務所では、新人弁護士は特に不要だけど年俸300~400万円程度であれば、雇ってもかまわないというところも相当数あるそうです。

 弁護士需要がないのに、弁護士数の増加を全く止めようとしない日弁連執行部は、もはや自分で考える力を失った状態にあるとしか思えません。確かに現執行部は、年間3000人の構想を否定すると自分たちが導入した構想が過ちであったと認めることになります。しかし、新人弁護士・若手弁護士の待遇悪化から明らかなように、年間3000人構想自体が誤っていたのです。過ちがあれば素直に認め、直ちに正しい道を探すことこそが、執行部に求められる力量のはずです。

 確かに、仮にそのままごり押ししても、日弁連執行部の弁護士連中は問題ないでしょう。なぜなら、彼らはそれまで十分稼いできたうえ、あと10年も弁護士を継続する人間はわずかだと思われるからです。つまり、弁護士数が激増して大問題となったときには既に楽隠居して、関係がない立場にいるからです。

 しかし、私たち若手(少なくとも私)からみれば、これまで十分儲けてきた年寄り弁護士たちが、自分たちの失敗を認めたくないという理由だけで、早期に手術すれば助かるかもしれない癌患者に胃腸薬を与え続けているとしか思えません。

 早く手を打たないと、弁護士の待遇が異常に悪化する→優秀な人が弁護士を目指さなくなる→弁護士の全体の質が下がる→弁護士を社会の人が信用しなくなる→国民が司法による解決を望まなくなり司法を信頼しなくなる→仕事がなくなる弁護士が更に増え、益々弁護士の待遇が悪化する→(最初に戻る)、というスパイラルが形成されてしまうでしょう。

 そのとき、日弁連執行部は責任を取ってくれるのでしょうか?

 私達の質問にすらまともな回答をよこさない日弁連会長を含む日弁連執行部が、責任を取ってくれるとは到底思えません。

「さようなら」の意味(続き)

 前回のブログで、 「さようなら」の語源について、二つの説を紹介し、より美しく感じられる説の方を支持したいと書きました。

 しかし、なぜ「そうならねばならぬなら」という説の方が、私にとってより美しく感じられるのか、少し考えてみました。

 おそらく、「左様ならず」という説では、相手よりも自分を中心に言葉を用いていますが、「そうならねばならぬなら」という説では、自分よりも相手を中心に考える、自己犠牲的な意味合いが込められているからではないかと思います。

 自分の幸せを中心に考えるなら相手と別れたくはない。しかし、相手が自分との別れを望み、相手の望み通りにすることが相手にとって幸せなのであれば、自分の幸せよりも相手の幸せを望み、自ら身を引こうと考える、そのような意味を、後者の説では感じ取ることができるのです。

 人間誰しも自分の幸せをつかみたいはずです。でも、本当に相手の幸せを考え、自ら身を引くことが相手の本当の幸せにつながるのであれば、悲しいけれども自らの幸せをあきらめ、相手の幸せを実現しようと考える。そう考えることは、人間だからこそできることなのかもしれません。

 相手のために自らの幸せをあきらめる際の、やるせない気持ちを、自分に納得させるために、「(本当は)そうなりたくはないが、そうならねばならない運命なら、運命にそって時の流れを下っていくしかない」 というある種の諦観を含んだ言葉として、「さようなら」と表現するから、後者の説の方が、痛みを伴いつつも美しく感じることができる理由なのかもしれません。

 最近は、そのように、本当の意味で相手の幸せを考えてあげられる人が少なくなってきているような気がします。ストーカー事件等は、その最たるものでしょう。みんなが自分中心の幸せしか考えられなくなってしまった世界はどんなに住みにくい世界でしょうか。

 私はやはり、「さようなら」は、後者の説が語源であって欲しいと思います。

「さようなら」の意味

 「さようなら」の語源については、平安時代の「左様ならず」が語源ではないかとの説が有力らしいのですが、別の説として「そうならねばならぬなら」という説もあるようです。

 前者の説だと、「さようなら」は、「(あなたの)思ったようにはなりませんよ。」という強い意志を感じる言葉に思われます。そして、後者の説だと「さようなら」は、「(本当は)そうなりたくはないが、そうならねばならない運命なら、運命にそって時の流れを下っていくしかない」 というある種の諦観を含んだ言葉と考えることができます。

 いずれの説をとるかで、まるで違う意味の言葉になるようにも思われますが、私はどちらの説も同じことを別の表現で表したものではないかと思います。

 別れを告げたい人からの「さようなら」は、前者の説の意味でしょうし、別れたくはないけれど別れを受け入れざるを得ないと思う人にとって「さようなら」と告げられる場合の意味は、間違いなく後者の説の意味でしょう。

 ただ、「さようなら」という言葉が、後に思い返してみたときに、(ある種の心の痛みと一緒であれ)美しい言葉に感じられるのは、おそらく、後者の説の意味で用いられた場合であることは、間違いないように私には思われます。

 そうだとすれば、「さようなら」という言葉が美しく感じられる説で良いのではないかと思うのです。

カラスの色

 小さいころ、「ふくろうのそめものや」という題名の絵本を読んだ記憶があります。

 その昔カラスは、真っ白な色が自慢でしたが、フクロウがいろんな鳥にそれぞれ、様々な色を付けて美しくしてあげていたことから、自分も羽根を染めてもらおうとフクロウの店に出かけます。そして・・・・・。

 詳しいお話は絵本を読んで頂くとして、かいつまんで言えば、どうしてカラスが全身真っ黒な色をしているのかが明らかになるというお話でした。確か日本民話がもとになっていたお話だと思います。

 絵本の影響からか、何となく子供のころから、カラスの色は黒いんだと思っていたのですが、よくよく見ると違うのです。

 私は通勤の際に京都の鴨川を渡るのですが、その橋の上によくカラスが留まっています。人間が怖くないのか図太いのか、私がよほど近くに寄らないと逃げないのですが、ある雨上がりの朝、陽の光に照らされた一羽のカラスの羽根が実に美しい色に見えたのです。

 色の表現はとても難しいのですが、深い輝くような蒼色を内に秘めた限りなく黒に近い色としか表現のできないような美しい色でした。もちろん、陽の光の影にはいるとその輝きはほぼ見えません。陽が(ある角度で?)あたるときだけ、美しい色に見えるようなのです。

 カラスといえば、勝手につや消し黒とつや有り黒の中間くらいの黒だと思いこんでいた私には、カラスの色がこのように複雑な美しさを秘めていたことは驚きでした。黒色一色とはいえ、自然は手抜きをしないんだなぁ・・と妙に納得した記憶があります。

時には愚痴も・・・

 弁護士という仕事は、人々の紛争の解決に当たる仕事であり、裁判は、当たり前ですが人々の紛争の解決手段です。弁護士により上手く紛争が解決できる場合も良くあるのですが、裁判は紛争が前提になっているだけに、全てがハッピーエンドに終わることはそうたくさんありません。片方の主張が通れば、片方の主張は通らないものですし、主張が通って判決が出ても様々な理由で結果的に満足できない場合もあります。

 仕事である以上は、依頼者の正当な利益の保護を目指して一生懸命に取り組みますが、その依頼者に煮え湯を飲まされたり、面子をつぶされることもないではありません。仕事だからと割り切って、耐えられればよいのでしょうが、時には、「俺は悪くないのに・・・・」と、ため息をつきたくなることもあるのです。

 司法試験合格後、司法研修所で修習を受けていた折りに、弁護教官が「ストレスとの上手な付き合い方を身につけないと弁護士は大変だよ。」と仰っていたことは、やはり真実だったなぁと、身にしみて感じるときもあります。

 弁護士だって人間ですから時には愚痴も言いたくなります。

 でも、つらいことがあっても、「自分を頼って下さる方がいる以上、前を向いて歩いていこう。」と思えるのも、人間だからかもしれませんね。

 宇多田ヒカルさんの「誰かの願いが叶うころ」という曲を聴きたくなりました。