「さようなら」の意味(続き)

 前回のブログで、 「さようなら」の語源について、二つの説を紹介し、より美しく感じられる説の方を支持したいと書きました。

 しかし、なぜ「そうならねばならぬなら」という説の方が、私にとってより美しく感じられるのか、少し考えてみました。

 おそらく、「左様ならず」という説では、相手よりも自分を中心に言葉を用いていますが、「そうならねばならぬなら」という説では、自分よりも相手を中心に考える、自己犠牲的な意味合いが込められているからではないかと思います。

 自分の幸せを中心に考えるなら相手と別れたくはない。しかし、相手が自分との別れを望み、相手の望み通りにすることが相手にとって幸せなのであれば、自分の幸せよりも相手の幸せを望み、自ら身を引こうと考える、そのような意味を、後者の説では感じ取ることができるのです。

 人間誰しも自分の幸せをつかみたいはずです。でも、本当に相手の幸せを考え、自ら身を引くことが相手の本当の幸せにつながるのであれば、悲しいけれども自らの幸せをあきらめ、相手の幸せを実現しようと考える。そう考えることは、人間だからこそできることなのかもしれません。

 相手のために自らの幸せをあきらめる際の、やるせない気持ちを、自分に納得させるために、「(本当は)そうなりたくはないが、そうならねばならない運命なら、運命にそって時の流れを下っていくしかない」 というある種の諦観を含んだ言葉として、「さようなら」と表現するから、後者の説の方が、痛みを伴いつつも美しく感じることができる理由なのかもしれません。

 最近は、そのように、本当の意味で相手の幸せを考えてあげられる人が少なくなってきているような気がします。ストーカー事件等は、その最たるものでしょう。みんなが自分中心の幸せしか考えられなくなってしまった世界はどんなに住みにくい世界でしょうか。

 私はやはり、「さようなら」は、後者の説が語源であって欲しいと思います。

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