思い違いをしていたこと

 つい最近まで、何となくだが、思い違いしていたことがある。

 それは進化についてのことだ。

 例えば、どうしてキリンの首は長くなったのか?と聞かれたときに、私は、「キリンは、高い木に茂った葉を食べるために長い首に進化した」、とつい考えてしまっていた。確か、テレビの動物番組でも、「○○という動物はこのような苛酷な環境に適応するよう進化してきました」等とナレーションが入ったりするので、つい、生き物が環境に適応するよう進化してきたと思い込んでいたのだ。

 実は違うようだ。

 考えてみれば当たり前のことだが、キリンが「首が長くなればいいなぁ、首さえ長くなれば高いところにある葉っぱが食えるのになぁ」、などと思って、何世代にもわたって進化の方向性を決定づけ、自らの子孫について次第に首を長くしていくことができたはずがない。
 「この苛酷な環境に耐えられれば天敵がいないのに」と、ある動物が考えて、その苛酷な環境に耐えられるよう進化していったはずもない。

 つまり、キリンの例で言えば、遺伝子がコピーミスすることによって生じる突然変異の結果、首が長くない両親からたまたま首が長いタイプのキリンが生まれ、その環境で首が長い個体がたまたま生き残りやすかったため、生存競争のなかで首の長いタイプが多く生き残り、何世代も子孫を残していく過程で、首の短いタイプは消えていっただけなのだ。

 言ってしまえば実も蓋もないのだが、全ては偶然の遺伝子のコピーミスから生じ、結果的にその突然変異の特徴を持つ個体が、その突然変異が生存に有利に働く環境下にいたため、たまたま生き残り、その特徴を維持・発展する結果になった動物を、後から見て「進化してきた」と呼んでいるだけなのだ。

 つまり、進化とは、徹頭徹尾偶然の産物であり、徹頭徹尾結果論ということになるのだろう。

 確かに遺伝子のミスコピーが生じないのであれば、生命も産まれなかったかもしれないし、仮に生まれたとしても、遺伝子のミスコピーが生じない以上、ずっと同じ原始的生命体のままだっただろう。

 そう考えると気の遠くなるくらいの遺伝子のコピーミスによる、生命の試行錯誤?の上に、今の生物たちがいるということになる。

 例えば犬などは、人間がある特徴が顕著な犬を人為的に交配させるなど、少し手を加えたりしたため、もともとオオカミだったはずの犬が、今や、オオカミとは似ても似つかぬ姿になっていたりする犬種も存在する。このように少し手を入れるだけで随分と違った形質を有する生物が生じるのだから、遺伝子のコピーミスによる生命の試行錯誤は、単なるコピーミスで片付けられないほどダイナミックなものなのかもしれない。

 命というものの、不思議を感じずにはいられない。

 このように、理屈の上ではおそらく、進化はあくまで結果論ということになるのだろうが、人間に関しては、私は、少し違うような気もしないではない。

 日本人の体型は、大きく変化し欧米化していると聞いたことがある。私の見る限りだが、顔立ちも(整形や化粧といった要素もあるだろうが)かなり欧米化する傾向にあるようにも思われる。

 仮に顔立ちの欧米化が認められるとしての話になるのだが、確かに体型変化には、栄養状態の変化や食べ物の欧米化で説明もつくだろう。しかし、それだけでは顔立ちの欧米化は説明できないように思われる。

 女性の美しさに対する強い思いなどを見ていると、結果論だけの進化ではなく、生物の強い思いによる変化も(進化かどうかは別にして)あったりするのではないか、と想像してみたりするのだが、想像が過ぎるだろうか?

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(10)~試験全般について3

※気合いだってバカにはできない

 試験が近づくと誰だって、焦るものだ。
 しかし、焦る必要はない。短答式試験に満点を取る人間が、まずいないことからも明らかなように、完璧に準備ができている受験生などいないのだ。
 焦って浮足立ち、空回りした挙句に、本番で実力を発揮できないほうが、実は問題が大きい。

 試験前に気合いの入る音楽を聴くこともよく使われる手だ。それだけでなく私は、試験前日には、夕食はまんが定食屋(漫画がたくさん置いてある定食屋さん)に出かけ、気合いの入るスポコン漫画等の一番クライマックスのところを読み、気合いを入れたこともある。一歩ずつ「合格、合格・・・」と念じながらジョギングしていたこともある。

 気持ちの面で言うなら、気合いだってバカにはできない。気合いが入っていれば集中力が増すこともあるし、なにより途中でくじけそうになった時に、支えてくれることもあるのだ。その支えによって、あきらめずに1点、2点を拾うことができれば、それが積もれば大きな差になりうる。

 もちろん勉強不足を補うことはできないが、気合いが入っているほうが何かと前向きになれることは事実だ。だとすれば、びくびくして試験に臨むよりも最初っから気合いを入れて臨んだほうがいいに決まっているではないか。
 特に複数回受験をしている方は、経験からくる慣れから、気合いが入っているようでも入りきれていない場合があるので、要注意だ。

※睡眠不足でも大して影響しないこともある

 どうしても緊張して眠れない人もいるだろう。しかし、意外にも睡眠不足は極度の緊張を強いられる司法試験において、あまり影響しないことが多いように思われる。その証拠に、試験中に睡眠不足で寝てしまった人の話を、私は伝聞でも聞いたことがない。逆に、私の受験時代でも試験前日の夜から、試験終了まで全く眠れずに合格した人の話はいくつも聞いたことがある。

 だから、睡眠不足を試験失敗の言い訳にしないことだ。特に試験期間中は、絶対に、「自分は睡眠不足で頭が冴えていないから駄目だ・・・」などとマイナスの自己暗示をかけてはならない。

 とはいえ、体も頭脳も疲弊する試験なので、試験期間中に休ませることは必要だ。

 私の経験から言えば、眠れなくとも、ベッド(布団)に入って、目を閉じているだけで随分と回復できるものなのである。自分が好きな、落ち着く音楽を聴くことも効果的だろう。
 もちろん眠れるに越したことはないが、たとえ眠れなくても、十分戦えることが多いものなのだ。

※試験期間中は一人のほうがいい

 試験会場などで、友人などに会うこともあるだろうが、私の経験から言えば、あいさつ程度にとどめ、話はしないほうがいい。話をすれば、どうしても試験内容の話になってしまうが、試験の結果も出ていないのに、終わってしまった試験科目の話をすることほど意味のない行動はない。仮に話してみて、書いた論点が一致していても書き方によって評価はまるで変わるし、もし書いた論点が違っていたならその後の試験に大きく影響しかねない。

 百害あって一利なしと思ったほうが良いくらいだ。

 また、昼食の待ち合わせなどもしないほうが良い。もし相手が遅れたら自分の予定が狂うし、自分が遅れたら相手に迷惑をかけるのではないかといらぬ心配をしなくてはならなくなる。

 受験の友達であれば、お互いにとってとても大事な試験であることはわかっているはずだから、試験期間中に話をしなくても、試験が終わってから嫌になるほど話しせばよいし、それくらいは理解してもらえるはずだ。
 

※おわりに

 私は、かつて何度も総合A判定(1000番以内)で、さらには前述したように0.03点差で論文試験を落とされるなど、旧司法試験には相当苦労させられました。円形脱毛症にも3~4回なったり、健康を害したことさえありました。

 長かった受験生時代に、気づいた点のうち、ひょっとしたら試験直前に気づいていれば、ずいぶん答案が変えられたかもしれないと思ういくつかの点について、雑駁ながら書かせていただきました。

 もちろん勉強不足をカバーするような特効薬ではありません。しかし、勉強しているはずなのに成績に反映されず行き詰っている人へのヒント、飲まないよりましのサプリメント程度の効果はあるかもしれません。

 読んでくださった方の、司法試験での健闘をお祈りしております。

(この項終わり)

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(9)~試験全般について2

※逃げるな

 妥当な解決を目指す箇所で触れたことにも関連するが、解答しているときに、通説・判例の理屈で突き詰めていけば、結果的に、あまりに当事者の衡平を害する等、不都合が生じてくるような場面に出くわすことがある。

 また、ある論点だけ少数説をとれば、面倒くさい論点をすっ飛ばせるような場面も生じることがある。

 あくまで私の経験からすればということになるが、結論的には、このような場合には、「逃げてはならない」。

 正々堂々と通説・判例でおしていき、生じてしまう不都合には、別途知恵を絞ってなんとか手当を考えるほうが評価が高いはずだ。不都合を無視したり、少数説に日和って面倒くさい論点を飛ばしたりする行動は、はっきり言ってしまえば、「逃げ」だ。

 前も述べたが、採点者は当代一流の学者であり実務家である。困ったときに、踏ん張って何とか妥当な結論を導こうと努力した形跡のある受験生と、その不都合から逃げてしまった受験生とを比較すれば、間違いなく前者が評価されるだろう。

 実務家は、場合によっては法廷においてたった一人で、相手の弁護士と論争しなければならない場合もある。そのような場合に、ちょっとした不都合にびびって、すぐに逃げたり日和ったりするような受験生を、同じ法曹の卵として法曹界に迎えたいと、採点者が思うはずがないだろう。

 とはいえ、論文試験を受験している際には、どうしても弱気になりそうな時が来る。その時は、自分がどういう法曹になりたいのかをもう一度思い出し、勇気を奮って逃げずに戦ってもらいたい。

※最後まであきらめるな

 試験である以上、完璧な解答を書ける受験生などいないと考えるべきだ。隣の受験生が試験開始後、すぐに答案を書き始めてもあせらないことだ。どうせきちんと答案構成できずに泡食って書いているだけだろうから、ろくな答案になりはしない、と考えておくほうが楽だ。

 今の司法試験は、短答に合格してさえいれば殆ど50%近くは合格できる試験になっているので、とにかく最後まであきらめないことである。

 あきらめるのは試験終了後だって、合格発表の後だって、できる。

 たとえあなたの出来が悪くても、みんなの出来も悪ければ、その中で少しでもあがいて法的思考力を示していた方が勝つ。

 でかいミス一つやらかせば、その年の受験が終わってしまった旧司法試験の時代と違って、今はでかいミスの一つや二つあったところで合格できてしまう時代なのだから、勝負は、なおさら下駄をはくまでわからないのだ。

 最後の科目で筆記用具を置くまで、絶対にあきらめてはならない。

 試験中のミス程度で、あきらめの気持ちを抱くような実務家に、だれが、自分の人生の重大事を任せてくれるというのだ。

 実務家を目指す以上、絶対にあきらめてはならない。

(続く)

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(8)~試験全般について1

※背伸びするな

 試験では、つい、自分を実力以上に見せたくなるものだが、背伸びはすぐにばれるものと思っておいたほうがよい。実力以上の背伸びは、必ずどこかに無理が出るものだからだ。特に解答に関係のない論点まで書きたくなる思いは、(本当に実力がない場合もあるだろうが)実力以上に自分を飾ろうとする気持ちが強い場合に生じやすいものだ。

 採点者は当代一流の学者であり実務家なのだ。たかが受験生の背伸びなど、どう隠してみても、先刻お見通しである。

 無理して背伸びするよりも、ありのままの自分で勝負したほうが、間違いなく冷静に戦いやすいし、その後のあなたにとっても意味があるように思う。

 万が一、背伸び作戦が功を奏して、勉強不足のまま合格して資格を取得できたとしても、勉強不足が原因で大きな弁護過誤を起こし、せっかく手に入れた資格を懲戒処分によって失うかもしれないのだ。その場合に傷つくのは、自分だけではすまない。あなたに依頼した依頼者も大きな被害を受けてしまうのだ。

 先だって、若い弁護士さんが、法定果実と天然果実の区別がついていない訴状を出してきたため、第一回口頭弁論期日に訂正したらどうかと条文まで示して指摘したのに、こちらの指摘した意味すら理解してもらえなかった、という悲しい経験をした。
 通常の依頼者は法律的にはど素人だから、正直言えば、書面の良し悪しなど分かりはしない。勉強不足の弁護士の書いた適当な書面でも、弁護士先生が書かれた書面だから優れたものに違いないと誤解しているだろう。
 依頼者の誤解に乗じて勉強不足の書面を提出して平気な顔をしている弁護士になるくらいなら、もう一年しっかり勉強してもらったほうが、よっぽど世のため、人のため、自分のためだ。

 どうやら愚痴っぽくなってしまったが、結論的には、

 「私の持てる知識と能力を総動員して妥当な解決を目指しました。その結果がこの答案です。私はこれ以上でもこれ以下でもありません。この答案で実力不足と仰られるのであれば、私の勉強不足なので仕方ありません。ただ私は、良き法曹になろうと強く願っており、努力してきました。もし合格させていただいた暁には、きっとさらに努力を重ね、良き法曹になり社会に貢献することをお約束します。」

 という気持ちで臨めれば、おおむね心構えとしてはベストに近いのではないだろうか。

※妥当な解決を目指せ

 最近の若い(年齢ではなく経験が浅いという意味)弁護士さんの書面を見ると、喧嘩上等!とばかりに、とにかく攻撃的な書面を書けばよいと勘違いしているような内容の書面が、実は少なくない。

 事案から見て、和解が一番いい場合も当然あるし、そのような場合には将来的にはお互い譲歩しあって解決する必要がある。したがって、妙に攻撃的な書面で相手方をぶんなぐってしまうことは、相手方の機嫌を当然損ねることにつながり、和解による解決に向けてはマイナスにしか働かない。

 弁護士は、紛争解決のお役に立つのが仕事なのに、喧嘩を吹っかけて、紛争拡大をしてしまってどうする!責任をお前が取れるのか?と相手の弁護士を怒鳴りつけたくなるときも、実はあったりする。

 私の愚痴はそれくらいにしておいて、法律家は紛争解決のお手伝いをするお仕事なのだから、目指すのは当然、できるだけ妥当な結論ということになる。

 これは、司法試験でも全く変わるところはない。

 特に、試験委員を務めるような一流の実務家は、無駄に紛争を大きくすることなく、スマートに解決・終了させる術に長けている方が多いと思われるので、ますます常識的に見て妥当な結論を示すことは大事だというべきだろう。

 非常識な結論で満足している受験生を、法曹の仲間として迎え入れたいと思う試験委員はまずいないだろうと思われるからだ。

※判例は思っているよりも大事

 これも採点実感でよく指摘されているところだが、判例への言及が少ない・誤っている等の問題がある。

 実務は、ほぼ判例で動いている面もあるので、採点者が考える判例の重要性は、受験生の意識と違って、相当高いものと思ってもらっていい。訴訟において判例と異なる学説を引用し、それがどれだけ有名な学者の有力説であったとしても、裁判所からあっさりと「独自の見解」として退けられる例は後を絶たない。

 司法試験でも、採点者はこいつは実務家の卵として適当か?を判断しようとしているのだから、答案に正確な判例の知識を織り込めるに越したことはない。

 ただしここでも、正確な判例の知識が求められていることに注意しなければならない。

 超重要基本判例について、答案に書いていない場合と、答案に書いているが誤っている場合とを比較すれば、おそらく後者のほうがダメージは大きい可能性はあるだろう。少なくとも、後者は、超重要基本判例についてすら誤って勉強していることが明かになってしまっているからである。

 判例の紹介については、重要判例について行うべきであることは間違いないのだが、正確な知識であるかを確認の上、よくよく吟味して行う必要がある。

(続く)

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(7)~短答式試験編

 ※とにかく過去問!

 短答式試験は、とにかく過去問の繰り返しに尽きる。予備校の予想問題集よりも過去問が重要である。予備校の予想問題集・模擬試験は、どうしても出題者のレベルが本試験に比べて異なるから、いくら本試験に似せようとしてもどこかが違うのだ。本試験に勝つためであれば、過去問演習が最も効果的な対策であることは言うまでもない。

 どの程度過去問を繰り返す必要があるかというと、最低でも過去10年以内の問題であれば、問題文を見た瞬間に、「答えはこの肢だ!」とわかるレベルまでの繰り返しが必要である。

 そのレベルまで私は過去問を繰り返して解いているが、どうしても得点が伸びないという方は、心の中でズルをしていないか確認をお勧めする。

 ズルというと失礼に当たるかもしれないが、過去問を解く際には、正答を選べただけではだめなのである。過去問のそれぞれの選択肢で問われている知識を確認しながら解く必要があるのだ。

 つまり、人間とは自尊心が高い反面、心に弱いところがあるもので、問題演習の際でも間違いたくないという意識がどうしても働くことが多い。特に試験直前期にはそうである。だから過去問を何回も回していると、見た瞬間に正解の肢が分かるので、その肢を選んで正解であることを確認して安心したがるものなのだ。

 しかし、そのような過去問演習は、何の意味もない。単に覚えている肢を選んで自己満足してしまっているだけなのだ。

 問題を見た瞬間に正答の肢が仮に5であると分かったとしても、いちいち、1の肢は判例に~という点で反しているから間違い、2の肢は条文の~~という文言に反するから間違い・・・・というように、面倒でも正しい肢も間違いの肢も、一つ一つの肢にきちんと頭の中で根拠を指摘して、正誤を判断し、過去問で問われている知識を確認しながら演習していかなくては意味がないのである。

 その作業を抜きに、問題を見た瞬間に覚えていた正答を選んでそれで安心するような過去問演習は、全く意味がないといってもいい。

 そもそも、過去問というものは、その問題を解ける受験生を合格させようとしている問題なのだから、過去10年間の過去問をきちんと解けるだけの知識を持ち、その知識をきちんと使える受験生を落とすわけがないのだ。

 あまり推奨しないが、どうしても過去問を解く時間を捻出できない人は、最後の手段として、過去問の問題と解答を読みふけるという方法もある。問題を解くことなく過去問で問われている知識を身につけるための方法だ。

※こんな方法も

 次にこれは私なりの方法であり、人によって異なるかもしれないが、組み合わせの選択肢を選ぶ際には、絶対に確実だと確信を持って言える知識を軸にするほうが正答率が高い場合が多いように思う。

 例えば、ア~オまでの選択肢のうち、正しい肢を二つの組み合わせを選ぶ問題があったとして、あなたの判断では次の通りだったとする。
 アは100%正しい。
 イが正しいとしても20%くらいだろう。
 ウは100%間違っている
 エは70%くらい正しいと思う。
 オは80%くらい正しいと思う。

 そして(ア、イ)を組み合わせた選択肢と(エ、オ)を組み合わせた選択肢で判断を迷ったとする。
 この場合、単純計算すれば、
 (ア、イ)は100+20=120
 (エ、オ)は70 +80=150
 となるので、心情的には、(エ、オ)の選択肢を選びたくなるものだが、私の場合はそこをぐっとこらえて(ア、イ)の選択肢を選ぶほうが正答率が高かった。

 結局この問題であなたは、アとウの選択肢以外は、確実な知識をもっていないということになる。それは裏を返せば、イ・エ・オいずれの選択肢とも、あやふやな知識しかないということだから、正確な知識がないという点では同じなのである。一応20~80%の範囲内で比較をしてはいるが、それとてもあやふやな知識の中で、どっちがましかを比べているに過ぎない。
 そうだとすれば、絶対に確実に正しいと断言できるアの肢を含む(ア、イ)の組み合わせを選ぶほうが、正答率が高くなる可能性があると言いうるのではないだろうか。

 これは、私なりの方法であるし、裏技的なものだから、あくまで参考までに、そんな考えもあるのか~、くらいで押さえておいたほうがいいかもしれない。

(続く)

今からでも間に合う(かもしれない)司法試験サプリ(5)~司法試験で問われているもの2の3

※出発は条文から

 日本は判例法の国ではなく、成文法の国である。だから、法的問題の解決を図ろうと考えた場合には、まず条文に依って解決を図ろうとすることになる。
 もちろん論文試験でも、問いに答えるための武器は法律の条文であり、条文がスタートであることは大前提だ。この条文の重要性は、いくら強調してもしすぎることはない。特に憲法では条文からのスタートを忘れがちなので、十分注意する必要がある。

 出発は条文からという話はよく聞くが、どう出発してよいのかわからないという人もいるので簡単な例で一緒に考えてみたい。

 例えば、Pから土地の譲渡を受けたAと、その翌日にPから同じ土地の譲渡を受けたBがいるという典型的な不動産の二重譲渡の事例を考えてみる。

 この場合、Aが当該土地の所有権を、売主であるPに主張する際には登記が不要であるが、Bに主張するためには登記が必要だということくらいは、受験生であれば常識の範疇に属する知識だと思う。
 そのように言えるのは、AにとってBが民法177条の「第三者」に該当するといえるからである、ということも当然知っているだろう。

 とりあえずその知識は忘れてもらって、登記を経由せずにAがBに対して所有権に基づく返還(明渡)請求訴訟を行ったと仮定しよう。

 その訴訟の中で、AがBは民法177条の「第三者」に該当しない(だからBには、登記なしでAの所有権を対抗できるなど)と主張し、一方Bは自分が民法177条の「第三者」に該当する(だからAは登記を経由しないと所有権をBに対抗できない)、と主張して争っているとする。

 AもBも、民法177条の「第三者」について主張しあっているのだから、民法177条を見てみることになるのだが、実はそこには、「不動産に関する物権の得喪及び変更は・・・登記をしなければ第三者に対抗できない。」としか記載されていない。

 この条文の中に、不動産二重譲渡の場合には、後で譲渡を受けた者は前に譲渡を受けた者に対して、「第三者」に該当する、と書いてくれていれば話は簡単だ。
 しかし、どこまでの範囲の人間が「第三者」に当たるかについて、民法177条の条文上には、なんら明確な記載がなく、条文の記載だけからでは、だれが第三者に該当するのか明確になっていないのである。

 かといってこの場合、条文上明確でないから弁論の全趣旨からBは177条の「第三者」である、と裁判官が判決を書いてもAは納得しないだろうし反論や検証のしようもない。また、逆に、条文上明確でないから弁論の全趣旨からBは177条の「第三者」ではない、と判示されてもBは納得せず同様の問題が生じるはずである。何より、一つの条文に対して、このような場当たり的な判断しかできないのであれば、予測可能性が失われ法的安定性が極度に害されることになる。
 判例ではこう解釈されているから、という理由も考えられなくはないが、判例の事案と本件が全く同一という保証はないし、判例がどうしてそのような解釈をしたのか、すべての事案でそう解釈してよいかについてまで示さないと納得させることは難しいだろう。

 だいぶ長くはなったが、本問では、民法177条の「第三者」という条文の文言を解釈して、その意味するところを明らかにしておく必要性が出て来ているということは理解してもらえたと思う。

 この点、答案に、いきなり民法177条の「第三者」の意味は、判例では~~とされているから、と記載する人もいるようだが、これは単に判例の知識を引っ張ってきただけであって、なんら条文解釈になっていないことに気づくべきだ。
 したがって、(私は判例の指摘の重要性を否定するものではないが、)判例の解釈の結論だけを引っ張ってきて答案を作成しても、法律の解釈力を見ようとする司法試験では高い評価は得られない可能性があることに注意すべきである。

(条文解釈になっていない悪い記載例)
×× 本問のBは民法177条の「第三者」にあたる。したがって・・・・

☞まったく解釈を行っておらず、評価に値しない例である。但し、他の論点と比較して圧倒的に重要度が低い場合には許される場合もありうる(かもしれない)ことには注意。

× 判例では民法177条の「第三者」とは「登記の欠缺を主張するについて正当な利益を有する者」に限るとされている、本問のBは同一不動産上に所有権を取得した者であるから、同条の「第三者」にあたる・・・・。

☞判例の結論を引用しただけで、やはり条文の解釈を行っているとは言えない例である。但し、他の論点と比較して圧倒的に重要度が低い場合には許される場合もありうる(かもしれない)ことには注意。

 このように、条文から出発する際には、条文の文言が明確ではないことから問題になるパターンと、条文通りに適用すると不都合が生じるパターンなどいくつかのパターンはあるが、いずれも条文の文言(記載内容)から、問題(解釈の必要)が生じてくることは、ほぼ同じである。

 したがって、受験生としては、どうしてこの問題では、この条文の、この文言が解釈上問題となるのかについて、キチンと指摘してから条文の解釈を始める必要がある。

 このような指摘もせずに、いきなり条文解釈が始まると、採点者からすれば、どういう理由で、受験生がその条文の、その文言を解釈し始めたのかが明確にならない。
 その結果、採点者としては、「おいおい、いきなり条文解釈始めちゃったけど、なんで条文解釈する必要があるのかホンマに分かっているのか?」「覚えているだけと違うのか?」等の疑念がぬぐえなくなるのである。

 今の例の場合、Bの立場で答案に書くとすれば、
(あくまで参考例~これがベストというわけではありません)
 Aに登記が具備されていない本問の場合、本件不動産についてBがAからの返還請求を拒むためには、Aに登記がなければ本件不動産の所有権をBに対抗できないこと、すなわちAにとってBが民法177条の「第三者」に該当することを明らかにする必要がある。
 しかし、民法177条における「第三者」は、文言上特に限定をすることなく規定されており、「第三者」とはどのような範囲の者を指すのか(Bのような者まで含むのか)不明確であるため、問題となる。
 この点・・・・・(177条の第三者の解釈)→規範(判例・通説の規範でよい)
 これを本件についてみると・・・・(あてはめ・事実認定)
 したがって、・・・・(結論)

 という形が考えられる。

 身も蓋もない言い方をするが、主要論点における条文の解釈については、受験校などから論証集が出ているだろうから、本試験では、似たり寄ったりの論証があふれかえる可能性は高い。
 そうだとすれば、受験生としての腕の見せ所は、出題に対して、どうしてその条文の、その文言を解釈する必要があるのか、を端的に提示する問題提起の部分となる場面も考えられるだろう。

 今までの答練の答案などを見直して、どうしてその条文のその文言を解釈をする必要があるかについて明示できているのか、明示できていない場合どう明示すればよかったのか、等について検討することは結構意味があることだと思われる。

 さらに時間があれば、論証集について、どの条文のどの文言の解釈を行っているのかを確認しながら六法の該当部分に着色したうえで、その後、今度は六法の条文だけを見ながら着色した部分にはどのような論点がどういう理由で生じていたか、を言えるように練習していれば、試験場でも司法試験六法が相当強力な味方になってくれる。試験場で使える司法試験六法を利用しない手はない。

(続く)