不思議な体験~2

 前回のブログにも書いたように、霊的なものについては極めて鈍感なS弁護士だが、どうにも説明が付かない不思議体験が、実は、もう一つある。

 男子学生なら誰しも、女性と二人きりでドライブしたいと思うものだ。しかも、できれば、夜中の方がなぜか嬉しいものである。もちろん学生Sも例にもれなかった。

 京都の学生がドライブするコースなら、たくさん考えられるが、ワインディングを楽しむのなら、山中越え・途中越えの他に、周山街道という手段もあった。周山街道は国道162号線が京都市から北へと伸びていくもので、そのまま日本海まで行けてしまうルートである。

 当時読んでいたバイク雑誌で、周山街道には幽霊が出るという噂もある、という記事も読んだ記憶もあったが、もちろんそんなことは信じていなかった。

 さてある日の深夜、学生Sは、お付き合い中の女性を助手席に乗せて、周山街道を気持ちよく北に向かって走っていた。確か、夜食でも食べようと誘ったかなにかで、あまり北に走りすぎると京都市内のラーメン店がしまってしまうかもしれず、ある程度のところでUターンをして、京都市内に向かって走っていた時のことだった。

 もちろん深夜なので、対向車はほとんど通らない。対向車があってもライトの光でかなり手前から気付くので、以外に安全なのだ。たわいもない話をしながら、学生Sは気分よく、制限速度+αのスピードでコーナーをクリアしていくのを楽しんでいた。
 おそらく学生Sは自分の大したこともない腕前に酔っており、助手席の女性は横Gをかけられすぎて車に酔っていたのかもしれなかった。

 トンネルを越えて、すこし進んだところの左カーブ。
 スピードがそこそこ出ていたためか、学生Sが、やや膨らみ気味にカーブを曲がったその瞬間だった。

 突然、白い車が目の前に現れた。
 やばい!
 直感的にそう思った学生Sは、「うわっ」と叫び声を上げ、助手席の女性は「きゃっ」と声を上げる。学生Sは、さらに左にハンドルを切ってかわそうとする。

 幸いにも、白い車はそのまま、至近距離を対抗車線をすーっと通り過ぎていった。
 運転手は、やけにしろっぽい顔をした、血の気の薄い印象の男性だったが、真っ直ぐ前を向いてこちらの挙動など気にしていない様子で、そのまま通り過ぎていった。

 危なかった~。

 衝突を避けられたことに安堵して、すこしスピードを緩めつつ、車の時計を見ると2:22だった。
 しかしである。
 何か、違和感があった。何かが変だと、学生Sの直感が叫んでいた。

 すこし運転を続けているうちに、別の車がエンジン音を響かせて対抗車線を通り過ぎていった。学生Sは、そこで初めて異常な事態が生じていたことに気付くことになる。

 つまりこうなのだ。

 いくら学生Sの運転が、同乗者を乗り物酔いさせるようなものであっても、無茶はしないのだ。対抗車が来るのを分かっていながら左カーブをやや膨らんで走行することなどは、絶対にしないのである。

 それにも関わらず、左カーブをやや膨らんでしまうスピードで走行したのは、学生Sは、対抗車線にライトの明かりが全くなかったことから、対向車が来ないことを確信していたからなのだった。

 つまり、対向車は、ライトを点灯させずに、走行していたのだ。そして、そのことに、そこで初めて気付いたのだった。

 「ちょっと、さっきの危なかった車、ライト点いてなかったよな」と確認してみたところ、両手でシートベルトを握ったまま、助手席に座っていた女性は2~3度肯き、間違いないという。怖がり、嫌がる女性を説き伏せつつ、怖いもの知らずの学生Sは、現場に戻って自動車が来ないことを確認の上、ライトを消してみた。

 何も見えない漆黒の闇である。

 ちょうどその現場は、街灯が途切れており、道路を照らす明かりが全くないのである。しかも山の中であり、月も出ていない深夜である。道路の中央線ですら分からない位なのだ。
 無灯火では、危なくてとても自動車を運転できるような状態ではない。

 また、自動車がすれ違う際には何らかの音が聞こえるものだ。風を切る音やエンジンの音などである。
 しかし、思い返してみても、その白い車とのすれ違いでは、そのような音を聞いた記憶がどうしても見つからないのである。

 周山街道では、妙に血の気の薄い男性が、運転席で真っ直ぐ前を見据えたまま、音も立てずに漆黒の闇の中を、無灯火で白い自動車を走らせている・・・・・?

 しかし、カーブの多い周山街道を深夜、街灯もない闇の中でライトもつけずに自動車を走らせるなど、現実的には不可能である。

 この一瞬のすれ違いは、どうにも説明できない体験として、未だにS弁護士の記憶には残っている。

不思議な体験

 もともとS弁護士は、たぶん霊感なんか一切ない方であり、座敷わらしに会っていたいなどという不埒な願望を持ちながらも、霊的なものについては極めて鈍感な男であると自負している。

 ただ、説明の付かない不思議な夢は、体験したことがある。

 ある日、司法試験の受験勉強を夜通しやっていて疲れてしまい、夕方に仮眠を取っていた時のことだ。

 ふと気付くと、深い蒼色に充たされた世界に受験生Sはいた。蒼くて暗いのだが、ド近眼の受験生Sにも、なぜか遠くまで見通せる。
 空間それ自体が蒼い色に染まり、その蒼い空間それ自体からぼんやりと明るさが出ているような不思議な世界だった。

 もちろん、当の本人は夢の世界なので、そのときは、なんの不思議も感じていない。

 どうやら受験生Sは、長く続く大きな階段の途中に腰掛けているらしい。
 その、階段の両脇には杉の巨木が列をなして植わっている。樹齢にして何百年も経過していることがなぜだか、受験生Sには感じられる。

 そして、その階段を、続々と人が上ってきて、ゆっくりと受験生Sのそばを通り過ぎていく。

 なぜか全員がうつむいて、黙り込んでいる。

 うつむいて黙ったまま、黙々と、階段を上ってくる。
 思い返してみても、その人達の顔を見たような記憶がない。

 しかも、全員が白い着物を着ているのだ。

 これだけの人数が歩いているのだから、人のざわめきや衣擦れの音が聞こえても良いはずなのだが、なぜか、音が、全くといって良いほど聞こえない。

 振り返って上の方を見てみても、やはり白い着物を着た大勢の人がずっとつながって階段を登っている。薄い霧がかかっているような感じがして、上の方は遠くまでは見えない。

 というあたりで目が覚めた。

 目が覚めた受験生Sは、夕食を一緒に食べた友人に、この不思議な夢の話をした。友人は、ひとしきり受験生Sの話を聞いた後、「変わった夢やね。」と大して興味もなさそうに言った。

 そして、夜になり受験生Sは寝床につき、寝入った。
 
 ゴーッ

 妙な音を聞いた気がして、受験生Sは目を覚ました。
 ベッドの中で耳を澄ましてみたが、しかし、現実には、音は聞こえないようだ。
 「やれやれ、最近は神経が高ぶっているのかな」と思ってもう一度寝ようとしたその瞬間だった。

 大きな揺れが襲ってきた。

 大きな被害を出した阪神淡路大震災だった。

 「後からおもえば、あのとき不思議な夢を見ていた」と言う人はよくいるが、受験生Sの場合は、その前日に友人と不思議な夢について話していたという点で、地震の半日前に不思議な夢を見ていたことについての証人がいることになる。

 その頃は、精神的に不安定だったのか受験生Sの見る夢は、なぜか変なものが多く、中国の飛行機が落ちて電話を探す変な夢を見たと友人に話した数日後に中国の飛行機が墜落したりして、我ながら予知能力があるのでは、と少し疑ったこともあった。

 しかし、もちろんそんなことはなく、それっきり何かを暗示するような夢は見なくなっており、やはり自分に霊感を感じることはない。

 けれどもごく希に、その友人と震災の前日に見た夢の話を話題にして、不思議なこともあるものだ、と夢の話題で話すことは、未だにあったりする。

よくわからん予備試験制限論~2

(前回の続きです。)

 予備試験制限論者の主張で、さらに理解しにくいのが、大学在学中や法科大学院在学中の学生が予備試験を受験すると、どうして法科大学院教育に重大な影響が生じるのかという点である。

 他にもあるとは思うが、私がいまざっと想像するに、次の4点くらいが予備試験制限論者の根拠ではないかと思う。

①予備試験受験者が法科大学院の授業に集中しなくなる。
②予備試験に合格すると大学生が法科大学院に来ないか、法科大学院生が中退してしまう。
③予備試験に合格する学生は優秀な学生であって、優秀な学生が中退してしまうと、双方向授業がなりたたない。
④法科大学院を中核とする法曹養成制度という理念に反する。

①については、理由にならない。
 法科大学院に行ったからといって、必ず授業に集中しなければならないわけではなく、サボろうが内職しようがそれは学生の自由である。授業に集中しなくて学力が身につかなくてもそれは自己責任だ。司法研修所でも内職している修習生がいたぞ。それに、法科大学院の授業に集中しないからといって予備試験受験者が、学級崩壊よろしく、こぞって授業妨害するとも思えない。
 たとえ予備試験受験者が授業にあまり集中しなくても、熱心に授業に参加する学生にしっかりと教育してあげれば良いだけであって、なんら法科大学院の授業に重大な影響を及ぼすとは思えない。

②についても、理由にならない。
 むしろ予備試験合格者が抜けてくれた方が、熱心に法科大学院教育を受けたい学生だけが残るから、法科大学院教育にとっては、むしろ好都合なのではないか。敢えて言うなら、予備試験に合格して中退されてしまうと、その法科大学院の司法試験合格実績にはならない可能性があるが、それは教育内容とは全く別次元の法科大学院の経営面に関する問題であって、法科大学院教育に重大な影響を及ぼすことにはならないはずだ。

③についても同様である。
 優秀な法曹を育てるには優秀な人材が必要だというのなら、あなたの法科大学院では、優秀な人材がなければきちんとした教育ができないのですか?と逆に聞いてみたい。そもそも、法科大学院は適性試験と入試を科して、その合格者を入学させているはずである。つまり、入試に合格させた以上、法科大学院としては法曹になりうるだけの能力を学生に見出しているはずだ。
 何も学費目当てで合格させているわけではないだろう。万一、学費目当てなら、それこそ法曹養成制度の理念に反している。
 だとすれば、そのうち特に優秀なやつが予備試験に合格して中退したとしても、そもそもきちんと教育すれば、法曹になれる可能性がある人間を入試で合格させている以上、授業が成り立たないなどという泣き言は、とおらない。自らの教育能力の欠如を自白しているようなもんだ。

④についても理由にはならないだろう。
 そもそも、プロセスによる教育が何を意味するかはっきりしないし、法科大学院を中核とするプロセスによる教育が優れているという実証は何一つ無い。学者が勝手にそういっているだけの話であり、理念が正しいとの立証は、何一つなされていないのだ。仮に理念が正しいとしても、理念だけでは優れた結果が付いてくるとも限らない。理念を実現する手段が貧弱であれば、貧弱な結果しか付いてこない。
 むしろ、近時の司法試験の採点雑感を見ると、日本語の能力すら疑わしい答案が続出しているそうだし、前回も述べたが、実務界では(少なくとも大手法律事務所は)予備試験合格者の方を高く評価している。
 法科大学院で幅広い教育をするという話もあったようだが、最近の司法試験の採点雑感を見てみると、試験科目ですら基本ができていないという指摘のオンパレードである。基本科目もできずに先端科目など教えても分かるはずがない。理解できない先端知識があっても実務では全く役に立たない。因数分解ができない者に、きちんとした微積分は理解できない。
 一方、司法試験に合格しなかった法科大学院卒業者が社会で高く評価されているとの噂は、寡聞にして知らない。仮に社会で法科大学院卒業者が高く評価されているのなら、就職に関して引く手あまたのはずだが、そのような景気のいい話はついぞ聞いたことがない。何より社会が法科大学院教育を評価しているのなら、こんなにたくさんの法科大学院がつぶれるはずがないじゃないか。

 結局、法科大学院教育は実務界と社会からは評価されていないのだ。

 予備試験の制限を求める主張は、結局、血税まで投入されていながら、不味くて高いラーメンしか作れない法科大学院(と文科省)が、自分の不手際を棚に上げて、自分達の利権を守るために、安くて美味い屋台のラーメン屋を追放しろと言っているようなものだ。

 それが実現した時に、結局、美味いラーメンを食べ損ねるのは国民の皆様だ。本来どっちを追放すべきかは明らかなはずだ。

 私の知らない大学教授が言ったことがある。世の中の人々のお役に立つ仕事をしている限り、世の中の人々の方が自分達を飢えさせることをしない、と。
 この成仏理論が正しいとすれば、経営難で続々とつぶれている法科大学院は世の中のお役に立っていないということになるはずだ。

どうして、予備試験を制限して世の中のお役に立たない法科大学院を残そうとするのかね。やっぱり予備試験制限論は、私にはよく分からん。

 予備試験制限論者は、ポジショントークと建前はもういいから、現実を見て欲しい。

 現実をきちんと見ないと、誤った対応しかできないよ。

よくわからん予備試験制限論~1

 法曹養成制度改革推進会議は、その決定文の中で次のような指摘をしており、法曹養成制度改革連絡協議会はこの決定文をしきりに引用していることに鑑みれば、法科大学院側は、どうもこの記載をテコに、予備試験の制限を狙いたい考えのようだ。

 『予備試験受験者の半数近くを法科大学院生や大学生が占める上、予備試験合格者の多くが法科大学院在学中の者や大学在学中の者であり、しかも、その人数が予備試験合格者の約8割を占めるまでに年々増加し、法科大学院教育に重大な影響を及ぼしていることが指摘されている。
 このことから、予備試験制度創設の趣旨と現在の利用状況がかい離している点に鑑み、本来の趣旨を踏まえて予備試験制度の在り方を早急に検討し、その結果に基づき所要の方策を講ずるべきとの指摘がされている。』(法曹養成制度改革推進会議決定文より)

 しかし、私は思うのだ。

 法科大学院教育が重大な影響を受けようと、それがなんなのだ。
 法科大学院経由だろうと予備試験経由だろうと、優秀な法曹が生み出されれば国民の皆様にとってはその方が有益なはずだ。

 では予備試験合格ルートで実務家になる者は、実務界ではどのように扱われているのだろうか。
 69期司法修習生において、
 裁判官任官者78名中、予備試験合格者8名
 検察官任官者70名中、予備試験合格者7名
 ほぼ10%以上が予備試験合格ルートの者だ。

 従前から指摘しているように、大手法律事務所の多くは、予備試験合格者を特別な事務所説明会に招くなど、予備試験合格者を競って採用する傾向にある。
 そして、大手法律事務所の予備試験合格者を優先的に採用する傾向は、ずっと変わっていない。

 このような採用状況を素直に見れば、少なくとも、予備試験合格者を採用しても裁判官、検察官として特に問題があるわけではないばかりか、弁護士としてはむしろ予備試験合格者の方が大手法律事務所に求められている状況にあるといってもよいだろう。

 はっきりいってしまえば、法科大学院や文科省がアホの一つ覚えのように繰り返す、法曹教育の理念やら、プロセスによる教育なんぞに、実務界では、これっぽっちも価値を認めていないし、予備試験合格者が法曹になっても全く問題は無いということを実質的に認めているというべきだろう。

 分かりやすく例えてみれば、こう言えるかもしれない。

 ○○法科大学院ラーメン店があったとしよう。
 この○○法科大学院ラーメン店が、衛生的で美味いラーメンを作るという理念を掲げ、国民の血税を投入してもらってお金のかかる清潔な設備を揃えて、高価なラーメンを作っている。しかし肝心のラーメンが不味く、しかも高いので、当然のことながらお客は少ない。

 これに対し、特に理念はなくても、また多少清潔感に欠けていても(実質的にはお客の健康には何の問題もない)美味いラーメンを安く作る屋台の方にお客は流れる。

 いくら屋台のラーメン屋には理念がないとか、清潔感に欠けるから食品を扱うラーメン屋の趣旨に反していると叫ぼうが、高価で不味いラーメンしか作れないのであればその○○法科大学院ラーメン店に価値はない。しかも、○○法科大学院ラーメン店は、開店以降10年以上経っても未だに、元締めの文科省からラーメンの質の向上を図るよう指摘され続けている情けないラーメン屋なのだ。

 ところが、○○法科大学院ラーメン店とその元締めの文科省は、自らのラーメンの味の向上ができないことを棚に上げて、「いくら美味いラーメンを作っていても屋台には多少清潔感に欠けるところがあるではないか、それは食品を扱う店としての趣旨に反している。また屋台には、美味いラーメンを作ろうとする理念がない。」、等と言い出して、実質的にはなんの健康問題もおこさず安くて美味いラーメンを提供して繁盛している屋台に対して、文句をつけ、制限しようしているのだ。

 もし、本当に法科大学院や文科省がいうような、法曹教育の理念やプロセスによる教育が法曹に本当に必要不可欠なら、最高裁や法務省は法科大学院出身者だけを採用するはずだし、大手法律事務所が競って予備試験合格者を採用しようとするはずがないではないか。

 しかも、5年間3回の司法試験受験制限をかけていたときの理由として、文科省などは確か、法科大学院教育の効果は5年で失われるから、受験制限しても不当ではないと主張していたのではなかったか?

 法科大学院や文科省のいう、法曹教育の理念やらプロセスによる教育が法曹にとって本当に正しく、かつ必要なものなのかについて、いったい誰が決めたんだ。根拠はあるのか?自分で都合の良いことを言ってるだけじゃないのか。本当に法曹教育の理念が正しくて、プロセスによる教育が法曹にとって本当に必要だということを誰もが納得するかたちで明らかにし、また、それを法科大学院教育で身に付けさせることが可能であることを証明してから主張すべきなんじゃないのか。

 かつて、司法試験の答案が論点主義に陥っているとの批判が強く、法科大学院制度を導入すれば、それを克服できるかのような説明もあったやに思うが、それも今は昔。実質的にはこの問題は未だに解決されていないのだ。

 例えば、平成28年度司法試験採点者の雑感を見ると、未だに論証を吐き出すだけで論理的思考が見られない答案が多いとの指摘がある。選択科目を除いてもざっと見ただけで、下記のような指摘がある。

★本年も,論点単位で覚えてきた論証をはき出すだけで具体的な事案に即した論述が十分でない答案,条文等を羅列するのみで論理的思考過程を示すことなく結論を導く答案などが散見された(公法系第2問)。
★総じて,条文の引用,判例の引用又は判例への言及が少なく,条文の適用若しくは条文の文言の解釈を行っているという意識又は最高裁判所の判例に対する意識が低く,問題の所在との関係で,条文の適用関係を明らかにしないまま,又は解釈上問題となる条文の文言を明らかにしないままで,論点について,条文等の趣旨を十分に考慮せず,又は判例を意識せずに,自説を論述する例が見られる(民事系第2問)。
★例えば,訴訟共同の必要に関する管理処分権に関する規範定立についてお決まりの論証パターンを持ち出す答案が極めて多く見られた。他方で,思考力が試される設問2や設問3(特に下線部③についての検討など)については,十分な水準に達したと言える答案は少なかったと言わざるを得ない。このような状況は,法科大学院の民事訴訟法教育を受けてきた受験生が,基本的事項の理解をおろそかにし,いわゆる論点主義的な思考パターンに陥ってしまっているのではないかという懸念も生じさせないではない(民事系第3問)。
★総じて,規範定立部分についてはいわゆる論証パターンをそのまま書き写すことに終始しているのではないかと思われるものが多く,論点の正確な理解ができているのかに不安を覚える答案が目に付いた(刑事系第1問)。
★今回の論文式試験では,主要な論点について暗記していたいわゆる論証パターンを単にそのまま書いたにすぎないように思われる答案が見受けられたが,それは法的思考能力を身に付けるために必要な,前記に指摘した諸点の重要性に関する理解・認識が不十分であるためではないかと思われる(刑事系第1問)。
 

プロセスによる教育を受けたはずの法科大学院卒業生の答案に対する採点者の雑感がこれである。

プロセスによる教育、敗れたり!

(続く)

平成28年司法試験採点実感等に関する意見~3

(民事系第2問)

★まず,取締役会の招集に関して,招集権者については,取締役会を招集する取締役を定款又は取締役会で定めていなければ,各取締役が取締役会の招集権を有すること(会社法第366条第1項),招集手続については,取締役会を招集する者は,原則として,取締役会の日の1週間前までに,各取締役及び各監査役に対し,招集通知を発しなければならないこと(会社法第368条第1項)を,それぞれ指摘することが求められる。また,取締役会については,取締役会の目的である事項(議題等)を特定する必要がないことも指摘し,論述することが求められる。しかし,これらを正確に指摘等することができていない答案が少なからず見られた。
→取締役会の招集について、どの基本書にも書かれていること、条文に明記されていることができていない答案が少なからずあるという事実。司法試験用六法が使えるはずなのになんで?

★取締役会の招集手続に関する基本的な理解を欠き,問題の所在を正しく理解していない答案も散見された。
→条文もきちんとわからんようでは、まあそうなるわね。

★判例を意識していることがうかがわれる答案が多いものの,記述の上でも判例の存在を明らかにしてその理論構成に従って当該臨時取締役会の決議の効力について論ずる答案は,ごく少数にとどまった。
→判例はボンヤリとは知っている。でも正確に判例の理論構成を押さえているわけではない。目指したところに到達したものはごく僅かなのね。プロセスによる教育敗れたり!

★まず,取締役の報酬等の額について,定款に定めていないときは,株主総会の決議によって定めるが(会社法第361条第1項),株主総会の決議により,取締役全員に支給する総額の最高限度額を定め,各取締役に対する配分額の決定は,取締役会の決定に委ねてもよいと解されていること(最三判昭和60年3月26日判時1159号150頁)などを,それぞれ指摘し,又は論ずることが求められる。しかし,これらを正確に指摘し,又は論ずることができていない答案も少なからず見られた。
→条文に書いてあること、そしてその意味について、理解できていない答案が少なからずあるということ。

★また,会社法第361条第1項による規制の目的は高額の報酬が株主の利益を害する危険を排除することにあるため,減額することについては制約がないとして,Aの報酬の額を減額する旨の定例取締役会の決議に従い,Aは会社に対して月額20万円の報酬を請求することができるにすぎないと述べるにとどまるなど,取締役の報酬等の減額に関する基本的な理解を欠く答案も散見された。
→基本ができていなくても法科大学院は卒業可能なんだ。厳格な単位認定をしているって言ってなかったっけ?

★まず,取締役は,いつでも,かつ,事由のいかんを問わず,株主総会の決議によって解任することができる(会社法第339条第1項)が,会社は,その解任について正当な理由がある場合を除き,任期満了前に取締役を解任したときは,取締役に対し,解任によって生じた損害を賠償しなければならない(同条第2項)ことを指摘することが求められる。しかし,これらを正確に指摘することができていない答案が散見された。
→この指摘ができて初めて解答のスタート地点に立てるはずなんだが、その前に転けちゃったってことなんだろう。

★まず,取締役は,株式会社に対し,その任務を怠ったこと(任務懈怠)によって生じた損害を賠償する責任を負うこと(会社法第423条第1項)や,任務懈怠責任は,取締役の株式会社に対する債務不履行責任の性質を有するため,任務懈怠,会社の損害,任務懈怠と損害との間の因果関係に加え,取締役の帰責事由が必要であること(会社法第428条第1項参照)を,それぞれ指摘することが求められる。しかし,これらを正確に指摘することができていない答案や,会社法第429条第1項と要件を混同していると思われる答案が少なからず見られた。
→適用すべき条文とその意味が分かっていない受験生が少なからずいるってこと。

★一部の取締役に対する招集通知を欠いた取締役会の決議の効力,取締役の報酬及びその減額,取締役の解任,役員等の会社に対する損害賠償責任並びに代表取締役等の内部統制システムの構築義務及び運用義務といった点について,会社法に関する基本的な理解が不十分な面も見られる。

★また,問題文における事実関係から会社法上の論点を的確に抽出する点,一定の結論を導くに当たり,事実関係から重要な事実ないし事情を適切に拾い上げ,これを評価する点においても,不十分さが見られる。
→問題文の事実関係から何が問題点になるのかも分かりません。どの事実が大事なのかも分かりません。

★総じて,条文の引用,判例の引用又は判例への言及が少なく,条文の適用若しくは条文の文言の解釈を行っているという意識又は最高裁判所の判例に対する意識が低く,問題の所在との関係で,条文の適用関係を明らかにしないまま,又は解釈上問題となる条文の文言を明らかにしないままで,論点について,条文等の趣旨を十分に考慮せず,又は判例を意識せずに,自説を論述する例が見られる。
→条文も判例も良く分かっていません。条文をきちんと解釈することもせず、判例を意識もせず、自説を勝手に論じるだけです。

→まとめたら、まず会社法の基本が分かっていなくて、与えられた事実から何が問題になるのか分からなくて、どの事実が大事かも分からない。条文も判例も良く分かっていないだけでなく、実務を動かしている判例も意識できなくて、知っている自説を勝手に論じている。
 そんな受験生がいっぱいいるってことじゃないの?
 これが、プロセスによる教育を2~3年経て、厳格な卒業認定をクリアしてきた受験生の実態ですか。
 受験生が悪いんじゃなくて、教育機関に問題があるんじゃないの?

もと少年Aさんへ。

 年賀状の話をするのは、季節的にはだいぶ遅れてしまっているが、今年の年賀状には、懐かしい筆跡の年賀状も届いていた。

 ずいぶん前に少年事件として受任して、社会に戻ってこられた少年からの年賀状だった。

年賀状を見ているといろいろな想いがわいてくる。

 もう、子供もいるのか。君に似て可愛らしい子供さんなんだろうな。

 かつては君の真っ直ぐなところが辛い結果につながってしまった面もあったが、その素直さをまだ維持しているのは、素晴らしいことだと思うよ。悲しいことがあっても、その真っ直ぐな気持ちは忘れずに進んで欲しい。

 「本当はそんなコト(弁護士の世話になるようなこと)ない方がいいんですけど(笑)」、とは、確かにそうだがなかなか生意気にも聞こえちゃうぞ、しかも以前私が言ったことと同じじゃないのかな?

 弁護士のところに相談に来られる方は、重い問題を抱えておられる方ばかりだが、一緒に解決ができれば、明るい未来が見える場合も多いのだ。

 このようなお気持ちを頂くと、しんどい仕事ではあるが続けていこうかな、という気持ちになれる。

 ありがとう。

 もと少年Aさん。

 私もあなたに救われています。

平成28年司法試験採点実感等に関する意見~2

(続きです)

→を付したのは坂野の意見であることは同様です。

(民事系第1問)

★共同相続について言及していない答案がかなりあったほか,利益相反行為の有無と代理権濫用の問題の相互関係を十分に理解しておらず,両者の区別が付いていないように見受けられる答案も一定数存在した。

★さらに,民法第824条の存在を知らず,あるいは同条に気付かずにAの行為を無権代理として論旨を展開する答案が見られたが,民法の基礎的な理解に欠けるものとして消極的に評価せざるを得ない。

→民法824条を知らなかったり、気付かないのは司法試験を受けてはいけないレベルです。実務家として最低限の知識もないことが明らかだからです。

★不動産の処分について未成年者の個別の授権を要するという答案があったが,行為能力制度は独立して取引をする能力がない者の保護を目的の1つとする制度であり,不動産の処分について能力がない未成年者の授権を要するという見解に対しては,行為能力制度に関する基本的な理解を欠く

→これも司法試験を受けてはいけないレベル。なんにも分かっていないということが、丸わかり。

★乙土地はC→E→Fと売買されているにもかかわらず,E→Cという復帰的物権変動を観念し,Eを起点とするE→C,E→Fという二重譲渡と同視し,民法第177条の適用を問題とする答案がかなりの数見られた。しかし,判例にあっても,復帰的物権変動が観念されるのは取消しや解除の場合のみであるから,このような答案は民法の基礎的な理解に問題があるものと言わざるを得ない。

→だんだん言葉がなくなってきた。

★民法第708条は給付不当利得の特則なので,その適用は,法律上の原因の不存在,すなわち,本問では消費貸借契約の無効を前提とする。したがって,消費貸借契約の無効を言わずに民法第708条の適用を問題にする答案は,制度の相互関係を体系的に理解していないという評価をせざるを得ない。

→当事者間の権利関係を見ていくという、基本ができていないということみたいだね。

★大半の答案は,MとEを直接の当事者として不当利得や不法行為の成否を論じていた。もっとも,MとEを直接の当事者とする不当利得や不法行為は,以下に述べるように,その成立を肯定するのは困難であり,そのため,これらを請求の根拠とする答案に高い評価を与えることはできない。

★不当利得に関しては,受験者の大半は,表層的な知識を有するものの,直感的な判断に依拠するだけで,不当利得の各要件がどのような役割を担っているかについての理解が十分でないように見受けられた。

→直観的判断で法律論は展開できません。論理を積み重ねて結論まで説得的に持って行く必要があるはずなんだけど。

★残念ながら,民法に関する基本的な知識と理解が不足している答案や,前後で論理的に一貫しない考察を行う答案,本質的でないことを長々と論じ,必要なことを論じていない答案が見られたのは,昨年までと同様である。

→法科大学院で受けたプロセスによる教育の結果ですから、それは残念なんでしょうね。

★本年の問題は全て,請求の根拠及び内容を説明し,その請求の当否を論じなさい,とい
う形式を採っているが,請求の根拠及び内容を説明せずに,請求の当否だけを論じている答案が一定数存在した。問題文を注意深く読み,問いにきちんと答える必要がある。

→問に答えなくて答案になるわけがありません。書きたいものを書けばいいのでは試験になりません。

★法律家になるためには,具体的な事案に対して適用されるべき法規範を見つけ出すことができなければならない。そのためには,多数の者が登場する事例においても2人ずつの関係に分解し,そのそれぞれについて契約関係の有無を調べることが出発点となる。契約関係があれば,広い意味の契約法(契約の無効・取消しの場合の給付不当利得なども含む)の適用が問題となり,そうでなければ,物権的請求権や不法行為,侵害利得や事務管理の適用が問題となる。もっとも,判例は請求権競合説を採っているので契約当事者間でも不法行為が問題となる場合はある。しかし,まずは契約関係の有無を確認するという出発点を知っているだけでも,例えば,設問2小問⑶のLE間では契約法の適用が問題となり,不当利得の適用を問題とすべきではないことが分かるはずである。

→こんなの昔の予備校だったら入門講座レベルのお話しじゃないの?こんなことも法科大学院では教えていないんだ。プロセスによる教育って、一体何なの?中教審に聞いてみたいね。

★想像力を働かせ,契約当事者それぞれの立場に身を置いたと仮定して結論の妥当性を考えることも,事案の解決に際しては必要である。

★法の体系的理解とそれに基づく実践的な論理展開の能力を身に付けることが法律実務家を養成する法科大学院における学習において望まれており,それが司法試験の合格ラインに達するためにも不可欠である。

→いや、これができていないのなら、実務家として全く使えんでしょう。

(続く)

平成28年司法試験の採点実感等に関する意見~1

H28年の司法試験採点実感等に関する意見が公表されている。

 私に言わせれば、「実態不明のプロセスによる教育」とやらを法科大学院で受けさせられ、厳格な卒業認定を経て卒業している受験生が大多数を占めているはずの司法試験で、法科大学院の効果とやらが発揮されているのか興味津々だ。

ところがどっこい(私からすれば予想どおりだが)、法科大学院のプロセスによる教育の効果とやらは全然発揮されておらず、むしろ問題だらけの採点実感に関する意見になっているようだ。もちろん一部、法科大学院の効果ではないかとの指摘も皆無ではないようだが、それよりも看過できない大きな問題点が遥かに多く指摘されている。

この採点実感を読んで、法科大学院がまだ、「法科大学院によるプロセスによる教育がよいのだ!」と言い張れるとしたら、それはもはや、現実から目を背けて、頭の中がお花畑になってしまっている状態としか思えない。

それでは、採点者達の(控えめな)採点実感を見ていこう。

ところどころ「→」で坂野の意見も入れているが、まずは採点者側の意見を読んでみて頂きたい。

(公法系第1問)
★設問1は「性犯罪者継続監視法が違憲であることを訴えるため」の主張を問うているのであるから,専ら法令違憲のみを検討すればよく,適用違憲や処分違憲に言及する必要はないのに,これに言及する答案が少なからずあり,中には,法令違憲と適用違憲との違いが的確に理解できていないのではないかと疑われる答案も見られた。

→設問をどう読んでも、架空の法律が違憲かどうかを判断する問題だから、法令違憲しか書きようがないはず。旧試験で、適用違憲など書こうものなら即アウトであってもおかしくないレベルだ。

★例えば,居住移転の自由を憲法第21条第1項とするものや幸福追求権を憲法第14条とする答案があった。

→試験場で舞い上がっていても、司法試験六法で条文は与えられているし、六法なんか見なくても勉強をきちんとしていれば当然頭に入っていて、書き間違えようがない条文のはずだ。こんな条文を間違うレベルで司法試験を受けているとは、恐れ入った。もはやそこまでレベルが落ちているのか。

★付添人を「原告」,検察官を「被告」と取り違えている答案が少なくなかった。

(公法系第2問)
★例年繰り返し指摘し,また強く改善を求め続けているところであるが,相変わらず判読困難な答案が多数あった。極端に小さい字,極端な癖字,雑に書き殴った字で書かれた答案が少なくなく,中には「適法」か「違法」か判読できないもの,「…である」か「…でない」か判読できないものすらあった。第三者が読むものである以上,読み手を意識した答案作成を心掛けることは当然であり,丁寧に判読できるような文字を書いていただきたい。

★誤字,脱字,平仮名を多用しすぎる答案も散見された。

★問題文及び会議録には,どのような視点で書くべきかが具体的に掲げられているにもかかわらず,問題文等の指示に従わない答案が相当数あった。

→問題文の指示に従わず自分が書きたい(書ける・覚えている)論点を書いていることが推測される。問題文の指示に従わずにまともな答案になるはずがない。しかも、相当数ということは、かなり怖い状況だ。逆に言えば、相当数の答案が問に答える力がないということでもある。

★例年指摘しているが,条文の引用が不正確な答案が多く見られた。

★冗長で文意が分かりにくいものなど,法律論の組立てという以前に,一般的な文章構成能力自体に疑問を抱かざるを得ない答案が少なからず見られた。

→最近特に強く指摘されるようになってきた点であるように思われる。法律の文章という前に日本語の文章能力がないということだ。一体法科大学院は何を教えているのだ。日本語の文章能力すら覚束ない学生を(しかも少なからず)卒業させて、何が厳格な卒業認定なのだろうか?

★結論を提示するだけで,理由付けがほとんどない答案,問題文中の事実関係や関係法令の規定を引き写したにとどまり,法的な考察がされていない答案が少なからず見られた。論理の展開とその根拠を丁寧に示さなければ説得力のある答案にはならない。

→結論しかない答案、理由付けがない答案、問題文を引き写して何ら法的考察がない答案など、法学部の試験でも落第必至だ。しかも少なからずそのような答案があったということは、法科大学院の教育能力に問題があると考えるのが普通じゃないのか。

★法律解釈による規範の定立と問題文等からの丁寧な事実の拾い出しによる当てはめを行うという基本ができていない答案が少なからず見られた。

→法律的文章の基本ができていない答案が、これも少なからずあるという指摘だ。

★問題文等から離れて一般論(裁量に関する一般論等)について相当の分量の論述をしている答案が少なからず見られた。問題文等と有機的に関連した記載でなければ無益な記載であり,問題文等に即した応用能力がないことを露呈することになるので,注意しておきたい。

→おそらく自分の知っていることを書いて、なんとか点数をもらおうとしたのだろうと推測するが、逆に言えば問題を解決しようとするのではなく、逃げているだけに過ぎない。答案は最初の一文字から最後の句点まで、書く必然性があって書かれていなくてはならないし、論理でつながっていなくてはならない。それもできない答案が少なからずあるのだ。

★例年より設問数が多かったことや時間配分が適切でなかったこと(設問1に必要以上に時間を掛けたと思われる答案が散見された。)などにより,時間不足となり設問4についての論述が十分でない答案が多かった。

★本年も,論点単位で覚えてきた論証をはき出すだけで具体的な事案に即した論述が十分でない答案,条文等を羅列するのみで論理的思考過程を示すことなく結論を導く答案などが散見されたところであり,上記のような論理的な思考過程の訓練の積み重ねを,法律実務家となるための能力養成として法科大学院に期待したい。

→予備校の教育を論点主義だと批判して、それではダメだからプロセスによる教育が必要と法科大学院推進者は言っていたようだけれど、プロセスによる教育の結果がこれですか。結局効果は上がっていないようだね。

★設問1及び設問3は,最高裁判所の重要判例を理解していれば,容易に解答できる問題であった。しかし,設問1については,一般論として判断基準を挙げることはできても,判断基準の意味を正確に理解した上で当てはめができているものは少数であり,設問3については,会議録中で検討すべきことを明示していたにもかかわらず,最高裁平成21年判決の正しい理解に基づいて論述した答案は思いのほか少なかった。

★昨年と同様,法律的な文章という以前に,日本語の論述能力が劣っている答案が相当数見られた。

→相当多くの受験生が、日本語での論述能力に欠けていると言うことだ。日本語の論述能力も身に付けさせることができないで、何がプロセスによる教育だ。高い学費と多くの時間を受験生に投入させ、国民の皆様には多くの税金を投入させて、結局効果は上がっていないじゃないか。法科大学院は廃止しても問題ないんじゃないの。

(続く)

弁護士会のヘイトスピーチに関する意見書

 先日の大阪弁護士会常議員会で、「ヘイトスピーチ解消に向けた積極的な施策を早期に実現することを求める意見書提出の件」が審議された。大阪弁護士会の人権擁護委員会が意見書案を作成し、意見書を大阪府知事・大阪市長・大阪府内各市町村長宛に執行するという案だった。

 意見書案の意見の趣旨はかなり積極的なもので、市民の申し出がなくても行政が職権でヘイトスピーチ拡散防止措置・認識の公表、の積極的対応をするよう求めている。

 私としても表現の自由の域を超えたヘイトスピーチは、許容されるべきではないとは思うが、先日の意見書案は相当過激な内容だったと記憶している。

 
例えば、
① 職権発動の前提としての録音、撮影、聴き取りなどの証拠保全措置を積極的に行うよう行政に求めたり、(さすがにこの部分は、人権擁護の観点から行政に積極的権力発動を求めるのはいかがなものかとの意見も出て、討議により削除されることになった。)
② 在日コリアンに対する街宣・デモが行われている現状に鑑み、行政に積極的な具体的措置を講ずることを求め、
③ 教育・啓発活動を実施する際には旧植民地出身者に対するヘイトスピーチが(中略)日本が朝鮮半島や台湾を植民地支配した時代から続く歴史的な事象であり、国家・社会レベルでの制度的差別を背景とした問題であることを認識しこの点を反映させるべきだとし、
④ 教育活動も、児童生徒又は学生向けの授業の実施のみならず、学校教員なども対象に研修・フィールドワークを実施すべきである

等の提案理由・提言がなされていた。

 私は提案理由から見て、ヘイトスピーチ全般に対する対策というより、在日コリアンに対するヘイトスピーチを念頭に置いた意見書であろうと感じた。

 もちろん、大阪では在日コリアンに対するヘイトスピーチの問題が起きていることも知っているし、前述したように表現の自由の域を超えたヘイトスピーチは許されるべきではないことはいうまでもない。

 しかし、私はこの意見書には賛成できなかった。

 一見ヘイトスピーチ全般を許さない意見書でありながら、意見書の理由はほとんど在日コリアンに対するヘイトスピーチを念頭に置いたものであり、意見書の趣旨と理由が齟齬している感があった。また、ヘイトスピーチ防止のために行政の積極的関与を求めること自体かなり過激な提言であって抵抗を感じたし、教育活動についてここまで弁護士会が提言するべきものなのか、という疑問もあった。そして、現在の日本が(個人のレベルではなく)国家社会レベルで制度的差別を行っているとも思えなかったからだ。

 報道でしか知らないので歪んだ認識になっているかもしれないが、むしろ韓国では日本に対するヘイトスピーチが相当強力になされているように窺える(ヘイトスピーチに対する法的規制がなされていないとの情報もあるが)。日本の国旗を踏みにじる画像もたくさんあるし、反日教育という言葉もあるようだ。相手国と仲良くやっていく方向性が、残念ながらあまり見えない。竹島問題も、韓国側が一方的に実効支配を開始してから、全く解決していない。

 お互いの国が仲良くしていこうとするなら、法的規制の有無に関わらず双方の国で相手に対するヘイトスピーチをやめ、憎しみあう契機を減らしていくことが、必要なのではないかと私は思う。

 人間は感情を持った生き物だから、片方がヘイトスピーチを規制してやめさせても他方からのヘイトスピーチがおさまらない限り、結局はヘイトスピーチ合戦になるだけではないか。

 日本の教育に口出しするなら、同様に相手の国の教育にも言及して、憎しみをあおるような教育をやめるよう主張して然るべきではないのだろうか。

 弁護士会が出そうとするこの意見書が、行政の過度の関与を求めたり教育への言及を行うものではなく、かつ、在日コリアン・韓国等に対する日本側のヘイトスピーチを許さないのと同時に、韓国側の日本に対するヘイトスピーチも許さない趣旨を含んでいたのなら、私も賛成できたように思う。

 しかし、残念ながらそれらの点についての配慮は私には見つけ出すことができなかった。

何度もいうが、表現の自由の域を超えたヘイトスピーチは許されるべきではないことはいうまでもない。しかし、少なくとも上記の2点において、安易に賛成できない面が私にはあったのだ。

 なお、この意見書は、常議員会では賛成多数(反対3名)で可決された。

 私は賛成された弁護士の先生方にお聞きしたい。

それで本当の解決が可能なのですか、と。