準備書面に認否はいらない?!

 数年前、登録4~5年目くらいの、ある若手弁護士が原告側、私が被告側で訴訟で戦うことになった際の話である。

 その、若手弁護士さんがこちらの準備書面の主張に対して、何ら認否せずに、自分の主張したいことだけ、反論したい部分だけを反論するという書面ばかり出してくることがあった。

 ちょっと話がそれるが、その若手弁護士さんの準備書面は、法的な主張や、証拠に基づいた主張をほとんどしないくせに、原告・被告間の個人的な問題などを執拗に攻撃し、こちらの準備書面のごく一部分だけを取り上げて、「被告の主張は失当である」と連呼する書面でもあり、読むのがストレスになる書面だった。
 ちなみに、訴状でも、法定果実であるにも関わらず日割り計算をせずに請求してきていた箇所があったので、第1回期日で、私から、「これは法定果実だから日割り計算に訂正して下さい」とお願いしたところ、黙り込んでしまい、「後で確認してから書面で出します」といって、3ヶ月後くらいの次々回期日でようやく訂正してくる始末だった。

 まさか大学2年生でも知っている、天然果実と法定果実の取得規定を知らなかったとまでは思いたくないが、それはさておき、こちらの準備書面に対して、認否もせずに、自分の主張したいことだけ、反論したい部分だけ記載し、裏付け証拠もほぼ皆無の準備書面ばかり出されても、双方の対立点、真の争点も明確にならず、訴訟が前に進まない。

 ただでさえ、原告側は請求側だから、訴訟を早く進行させたい側であることが多いだろうに、原告代理人がそのような行動を取る意味が、私には全く理解できなかった。

 期日において、口頭で認否するよう促しても一向にその若手弁護士は改めないので、止むをえず、私は準備書面で、「原告は、被告の主張・立証に対して、きちんと認否した上で反論されたい。」と明記して出した。

 すると、その弁護士は、次の準備書面で、このように記載してきたのである。

「認否は答弁書に対してだけすればよいのであって、準備書面に対しては、認否する必要はない。」
 

 裁判所に提出する準備書面で、ここまで自信たっぷりに「準備書面に対して認否をする必要がない。」と記載されたので、逆に、私の方が、「私が間違っているのか?!」、「いまの司法研修所教育はそうなっているのか?!」と、わずかな不安を感じてしまうくらいだった。

 念のため書いておくが、司法研修所編7訂版「民事弁護の手引」には、準備書面の要素の欄には、民訴規則を引用するなどして
 準備書面の要素として
 ① 攻撃又は防御の方法の記載
 ② 相手方の請求及び攻撃又は防御の方法(161条2項1号)に対する陳述
 ③ 証拠の引用、証拠抗弁、証拠弁論、引用文書
 があげられており、

「攻撃または防御の方法に対する陳述とは、相手方の主張する個々の攻撃又は防御の方法、すなわち、請求を理由づける事実、抗弁、再抗弁、等として主張された事実に対する認否の陳述をいう」

 と明記されている。
 
 

 別に私は(勝訴的和解もできたし)、この弁護士を非難したいわけではない。

 先だって、内田貴東大名誉教授が、「弁護士資格を持つことは(中略)競争する資格を得たにすぎないんだという発想の転換もしなければいけないでしょう。」と弁護士ドットコムのインタビューで述べていたことに反論したいのだ。

 おそらく、内田氏の述べる「競争する」ということは、競争することにより、良い弁護士が生き残るという理想的な競争状態を念頭に置いているものと思われる。
「悪貨は良貨を駆逐する」競争状態では、司法は衰退するばかりだろうから、さすがに民法で名をなした東大名誉教授であれば、そのような競争状態が良いとは主張しないだろうと推測するからである。

 仮に内田氏が念頭に置いているような理想的な競争状態が、弁護士業界において可能ならば、私の戦った若手弁護士さんは、民法の基礎的条文、民事訴訟の基礎すら把握できていないのだから、当然淘汰の対象にされていなければならないはずであろう。
 しかし現実にはそうはなっていない。

 以前から、「弁護士も競争しろ」とマスコミも学者も主張するが、弁護士業界において、良い仕事をする弁護士が必ず生き残るという理想的な競争状態は、私に言わせればあり得ない。

 理由は簡単だ。

 依頼者(顧客)に、弁護士の仕事の質が判断できる能力がほとんど無いからである。香水のコンクールで、審査員が嗅覚が効かない人ばかりだとしたら、本当に優れた香水が優勝するとは限らないのと同じである。


 依頼者(原告)からすれば、何ら法的主張を具体的にしておらず、訴訟では実質的に意味のない書面であっても、被告をなじる内容が記載されていれば、被告に対する不満が裁判所に伝えられたと感じて、良い仕事をしてくれる弁護士だと判断してしまう場合も往々にしてあるのだ。
 
 確かに内田氏や大企業であれば、弁護士の良し悪しも判断可能であろう。
 しかし、大多数の国民は、内田氏のような弁護士の能力を判断する術を持たないのである。

 その状況下で、どんどん資格を与えて競争しろとは、あまりにも現実無視の無責任な発言としか思えない。

 

 それなら、医師についても同様に言ってみたらどうだ。

 医師も資格に甘えるな。
 医師資格は競争する資格を得たに過ぎない。
 医師になりたい人には、医学部卒でなくても、どんどん医師資格を与えて競争させれば、良い医師が残るはずだ。競争過程で医療過誤などで犠牲になった人がいても、それは仕方がない。その医師を選んだ人の自己責任だ。

 例えていうならこういう内容になるだろう。

 

 このような社会が正しいとは、私には到底思えないが。

(多分)夜のボーツェン駅、20年ほど前。

詐欺被害の返金請求についての雑感

 一つ考えて頂きたい問題がある。

 あなたは、残念ながら投資詐欺に引っかかり大金を相手に振り込んでしまった。

 急いで弁護士を探し、A・B弁護士2名に相談した。
 それぞれの弁護士の回答は次のとおりだった。

 A:「返金を受けられる可能性はあります。一緒に頑張りましょう!」

 B:「ご依頼されれば返金を受けられる可能性が若干高くなると思いますが、実際にお金が返ってくる可能性はそう高くはないですよ。」

 どちらの弁護士を信頼するべきであろうか。
 追って解説していく。

 先日、ロマンス詐欺の返金請求が出来るとして、広告会社に弁護士名義を貸して業務をさせた疑いで、大阪の某事務所が検察庁から家宅捜索を受けたとの報道があった。

 詳しい業務形態は知らないが、おそらく、


 ①広告会社が、弁護士名義を利用して「ロマンス詐欺返金に強い!」「多数の返金実績!」「相談無料!」等とインターネットで大々的に広告を行って集客する。場合によっては、○○法律事務所に依頼してみた、○○法律事務所は信頼出来るのか、等の体験談を偽造することもあるだろう。
 ②相談してきた顧客に、現実には殆ど返金可能性のない事案であっても「返金を受けられる可能性はあります」と説明して、契約させる。
 ③契約の着手金(契約時に弁護士に事件に入ってもらうために支払うお金)を支払わせて、その着手金の大部分を広告会社がピンハネする。
 ④弁護士としては、形作りとして簡単な請求を行う(当然ほとんど返金されない)。
という方法だったのではないかと思われる。

 相談者に対する説明や契約についても、弁護士が行わず広告会社が行っていた可能性もあるだろう。

 詐欺にも、投資詐欺、オレオレ詐欺、ロマンス詐欺などいろいろあるが、以前ブログに書いたが、詐欺に遭った際に詐欺犯から返金をうけられる可能性は相当低いと言っていい。

投資詐欺の相談 – 弁護士坂野真一のブログ (win-law.jp)

 ただ、詐欺に強いとネットやHP等で大々的にうたっている弁護士に相談してみると、

 「返金を受けられる可能性はありますよ。」

 と説明され、藁にもすがりたい依頼者の方は、「可能性があるのなら、、、」と契約して、着手金(契約時に弁護士に事件に入ってもらうために支払うお金)を支払ってしまう場合もあるのだろう。

 

 しかし、ちょっと待って欲しい。

 

 確かに、どんな事件でも、勝つ可能性がゼロということは、ほぼできない。

 したがって、詐欺案件で、弁護士から見て、ほとんどお金が帰ってくる可能性がない場合でも、返金を受けられる可能性がゼロではない以上、
弁護士としては

 A:「返金を受けられる可能性はあります。」
 B:「お金が返ってくる可能性は高くないですよ。」

 という2パターンの説明が可能なのだ。

 どちらが正直な回答かは、言うまでもないだろう。

 前述の、家宅捜索を受けた法律事務所はかなり多くの件数の依頼を受けていたそうだから、おそらくAの説明をしていたのだと考えられる。

 以上から、依頼者としてはA・Bどちらの説明をする弁護士を信頼すべきかといえば、正直な回答をしているBの弁護士だろうと、私は考える。

 とはいえ、本当にその弁護士が、詐欺犯から多額の金銭を取り戻す特殊なノウハウを有しており、実際に取り戻せる可能性が極めて高いのであれば、(かつての一部の過払金事務所が成功報酬制を取っていたように)着手金を取らなくても、完全成功報酬制で事件を受任していても十分ペイするはずである。
 したがって、仮にAの回答をしていても、完全成功報酬制を取っている弁護士・法律事務所であるならば、依頼してみるのもアリだとは思う。

 ただし、私がざっと見たところ、そのような弁護士・法律事務所は、見当たらないようであるが。

ベネチアの街角

「自由と正義」の不公平な提案?!

 先日、日弁連から、「自由と正義」(弁護士会員に毎月配布される雑誌)2月号が届いた。

 9頁から36頁まで、27頁にわたり特集記事が掲載されている。

 今回の特集記事は、題して、「弁護士のシニアライフプランを考える~日本弁護士国民年金基金のいま~」である。

 一読すれば分かるが、弁護士の老後の不安をあおり、日本弁護士国民年金基金(以下「弁護士年金基金」と略する。)への加入勧誘を行っている特集記事である。掛金が上がる可能性がある(実際に今年4月から掛金が上がるようである)ので、早期加入を心からお勧めする次第である、との記載もある。

 確かに自営業者である弁護士には、基本的には国民年金しかないし、退職金制度もない。老後に備えて、何らかの準備はどうしても必要である。しかも、ここ10年間で弁護士所得の中央値は25%以上下落している(本記事のp34参照)
 それにも関わらず、日弁連は弁護士人口に関しては、弁護士ニーズはたくさんあるので、司法試験合格者の減員を主張する必要はないと矛盾したことを述べていたようにも思うが、それはさておき、制度的にも弁護士業には老後の不安があることは、多くの普通の弁護士の悩みの種でもあるだろう。

 ただ、弁護士年金基金は、不平等な制度でもある。
 当初加入した弁護士の予定利率が5.5%
 現在加入する弁護士の予定利率は1.5%

 なのである。

 誤解を恐れず簡単に言えば、掛金が同じでも、当初加入した弁護士は5.5%で計算した利率を加算して年金をもらえるが、現在加入する弁護士は1.5%で計算した利率を加算した年金しかもらえないということだろう。

 本来であれば、同じ基金に加入している以上、同じ利率で年金をもらうのが公平なはずである。しかし、当初の高い予定利率を変更できないという説明が、フォントが小さくて読みにくい注釈19に目立たぬよう、記載されている。

 そして、当初の予定利率が高すぎることから、低い予定利率の新規加入弁護士が増えないと5.5%もの高率の予定利率を維持することはできない(仮に当初の予定利率5.5%が維持できるのであれば、新規加入弁護士の予定利率が1.5%に引き下げられるはずがない)状況のようである

 同じ大阪弁護士会の山中理司弁護士も、ブログでずいぶん前からこの問題点を詳細に指摘していた。

 弁護士年金基金への加入を勧めるということは、私なりに、口悪く言わせてもらえば、
 「先輩弁護士の高い年金を維持するために、若手弁護士は安い年金しかもらえない基金にどんどん加入して犠牲になってね」
ということではないのか。

 もちろん、特集を組んだ弁護士年金基金の理事者達は、おそらく高率の予定利率で弁護士年金基金に加入している方々であろうが、山中弁護士の指摘を気にしているらしく、国民年金基金も予定利率が不公平になっている点で同じだから致し方ないとの言い訳も記載されている。

 しかし、本当に弁護士の老後(シニア・ライフプラン)を心配しているのなら、新規加入者の犠牲もやむを得ないと開き直るのではなく、この不公平を改めるよう努力すること、不公平を改めた上で(若しくは不公平ではない制度で)加入を勧誘することを考えるか、年金基金について制度上公平に出来ないのなら、弁護士年金基金だけを紹介して勧誘するのではなく、他の老後資金の確保方法についても説明することではないのか。

 いくら弁護士の老後の心配を配慮するように見えても、新規加入者が不利な弁護士年金基金への加入を勧めるという日弁連の裏には、ご自身(及び先行者達)の高率の年金基金を維持したい、という狙いがあるように思えてならない。
 

とべ動物園のシロクマ「ピース」

※記事と写真は関係ありません。

吉田神社の節分祭~2024

 

 今年の2月2日~4日の間、吉田神社で節分祭が開催された。

 

 昨年もブログに記載したが、私は、ほぼ毎年吉田神社の節分祭でご祈祷を受けている。
 

 その際に、少しわがままだが可能な場合は、ご祈祷を担当されている方のうち、「鈴鹿さん」にご祈祷をお願いしている。

 幸運にも、今年も、鈴鹿さんにご祈祷をお願いすることが出来た。
 

 鈴鹿さんのご祈祷の素晴らしさは、2023年2月のブログに記載したので、そちらを参照されたい。

 弁護士という仕事は、他人様の社会生活で生じた不都合が飯の種であり、訴訟になったら、勝てば相手に恨まれ、負ければ味方に恨まれることが多い、かなり因果な商売でもある。
 因果な商売だけに、次第に、人の念や、何らかの塵芥(ちり・あくた)等の穢れが、まとわりついてしまっていても、おかしくはない。

 吉田神社の大元宮において、鈴鹿さんのお祓いで清めて頂くと、お祓い後の清々しい心持ちの大きさから、やっぱり、知らず知らずのうちに1年分の穢れが染みついてしまっていたのだな・・・ということを実感する。

 それと同時に、1年間の穢れを、一気に祓ってしまう鈴鹿さんのお祓いの効果の凄さに、私は、感じ入るのである。

 今年も鈴鹿さんに、穢れを祓って清めて頂き、素の自分に戻れたような清々しい心持ちを嬉しく思いつつ、私は、多くの参拝者で混雑している吉田神社を後にしたのだった。

雪の鴨川デルタ

※写真は記事とは関係ありません。

肉体的に男性のトランスジェンダーの女性トイレ使用制限は違法、との最高裁判決に対する漠然とした感想~2

(前ブログの続きです)

 ちょっと脱線してしまったが、本判決の認定では、説明会で明確に異を唱えた女性職員はいなかったとし、その点についてかなり重視しているように読めた。しかし、仮に女性職員らが明確に異を唱えれば何らかの不利益を被る危険性も高く、明確に異を唱えにくい状況にあったと考えるのが自然ではないかと考える。

 「同性婚について見るのも嫌だ」とマスコミに述べた首相秘書官が、オフレコ発言であったにも関わらず、その事実を公にされ、世間にバッシングされ、更迭された事件も記憶に新しい。オフレコでもこの対応なのだから、説明会のように半公的な会合でトランスジェンダーに対する違和感を明確に表明したりすると、マスコミの餌食にされたりするなど、意思表明の危険性の高さは容易に想像できるはずである。特に国家の中枢で勤務する経産省の優秀な職員であれば、なおさらマスコミは喜んで記事にするだろう。
 この点最高裁は、明確に異を唱えた女性職員はいなかったのだから、特段の配慮をすべき職員の存在も認められないと形式的に判断しているようである。

 さらに最高裁は、上告人が職場と同じ階とその上の階の女性トイレを使用できない処遇を受けてから4年10ヶ月、上告人は使用している女性トイレで特に問題が生じさせていないこと、当該処遇の見直しが検討されなかったことも理由にしているようである。

 上告人が使用している女性トイレで問題を起こさないことは、問題を起こせば女性トイレを使えなくなるのだから当然である。
 そして、処遇の見直しがなされなかったことは、上告人以外の職員、周囲の女性職員も女子トイレ使用制限処遇が適切であると判断していたから、見直しの必要性を認めなかったということではないのだろうか。

 仮に同じ職場の女性職員が、上告人と一緒に女子トイレを使用することについて、違和感も羞恥心も刺激されず、何の違和感も羞恥心も感じずに受け入れられる状況になっていたのであれば、説明会で上告人が女子トイレを使用したいという要望を聞いていたのであるから、「私たちは大丈夫なので上告人に是非とも使わせてあげて欲しい」と、女性職員から上層部に申し入れることもできたはずである。
 そのような申し入れがなかったということは、周囲の女性職員としては上記の処遇について必要且つ適切と判断していたことになるだろうし、職場環境として必要且つ適切なら見直しの必要性は認められなかったのではないか。

この点、宇賀克也裁判官補足意見によれば
「上告人が戸籍上は男性であることを認識している同僚の女性職員が上告人と同じ女性トイレを使用することに対して抱く可能性があり得る違和感・羞恥心等は、トランスジェンダーに対する理解が必ずしも十分でないことによるところが少なくないと思われるので、研修により、相当程度払拭できると考えられる。」

と説示するが、果たして本当にそうなのか。

 何の根拠もないが、上記の違和感・羞恥心は、極めて本能的な感覚に近いものであり、教育・研修を受けた程度では簡単に払拭できるものではないように思う。そしてその違和感・羞恥心は、抱いてはいけないものなのか、払拭しなければならないものなのか。

 第三小法廷の最高裁裁判官は、全員一致で判決を下しているが、「人は理性的であり、キチンと教育を受ければ理解できるはずだ」という理想論を振り回し、実際に周囲が感じると思われる直感的な違和感・羞恥心について、配慮が少ないように私は、感じる。また、トランスジェンダーの方の生き方を認めるのが先進的であるという強迫的観念にも囚われているのではないかとも感じる。

 もちろん、トランスジェンダーの方をトランスジェンダーだという理由で差別することは許されるべきではない。
 しかし、周囲の人間に求めることができるのはそこまでであって、トランスジェンダーの方に対して直感的に抱く違和感まで持つなというのでは、行きすぎであり、思想良心の自由を制限しかねない発想につながりかねないのではないか。

肉体的に男性のトランスジェンダーの女性トイレ使用制限は違法、との最高裁判決に対する漠然とした感想~1

 トランスジェンダーの方に関する、最高裁第3小法廷令和5年7月11日判決を斜め読みしただけなので、特にまとまった内容ともいえず、ボヤッとした感想である。
 第1審から控訴審、そして本判決まで全部精査すれば感想は変わるかもしれないが、あくまで現時点の感想として記載しておく。

 上告人のトランスジェンダーの方は、性転換手術は受けておらず身体は男性であるが心は女性とのことであり(MtF)、自分の勤務部署のある階と、その上の階の女性トイレについては、勤務部署の女性職員が実際に使用していること等から、使用を制限される処遇を受けていた。
もちろん、それ以外の階の女性トイレなら使用できたようである。

 最高裁第三小法廷は、上記の使用制限処遇を違法と判断した。

 おそらく論点としては、経産省が、他の女性職員が上告人と同じ女性トイレを使用することに対する違和感・羞恥心等を重視してとった対応が、上告人の自らの性自認に基づいて社会生活を送る利益に対する制約として正当化できるかという点なのだろう。
 古いと思われるだろうが、私は、女性トイレ使用制限を違法としなかった高裁判決の結論に説得力を感じる。

 確かにトランスジェンダーの方が自らの認識する性にしたがって生きていく利益は重要である。しかし、トランスジェンダーの方の生き方に対して、周囲の人間が違和感・羞恥心を刺激されることがあるのも、また自然である。そのような違和感・羞恥心を感じることも、自らの性自認に基づいて社会生活を送っているからこそ感じるものなのではないのだろうか。

 いくらMtFトランスジェンダーの人だと頭で理解していても、女性の姿で勤務していたとしても、肉体的に男性である方が、同じ女子トイレを使うとしたら、直感的に違和感・羞恥心を覚える女性の方が多いのではないか。
 私の感覚では、その感情は、肉体的特徴から性を判断してきた生物学的な見地からは、極めて自然であり多数派が有する感情なのではないかと思われる。

 このようにトランスジェンダーの方が自らの生き方を貫こうとし、今までと違う配慮を周囲に求める場合、周囲の人の性自認に基づく違和感・羞恥心とぶつかることは当然考えられる。

 その場合、トランスジェンダーの方の自らの性自認に基づいた生き方と、トランスジェンダーに対して周囲の人間の抱く違和感等について、その価値に差があるのだろうか。


 私は双方に価値の差はないような気がするが、現実的には、トランスジェンダーの方の自らの性自認に基づいた行動の方を特別に優先・保護すべきような風潮が強いように(あくまで感覚としてだが)、私は感じている。

(続く)

珈琲 折り鶴 (岡山市)

 お店は、岡山駅から歩いて5分ほどのところにある。
 喫茶店らしい看板もなく、小さな入口なので、何のお店か一見しただけでは分からない。

 店主の藤原さんは、「まだまだ納得がいかなくて、ずっと勉強中です」と仰っていたが、深煎りネルドリップ珈琲の名店といって良いと思う。

 外の黒板には「店内は三席で営業。静かに珈琲を飲むお店です。」との記載がある。
 店内に入ると、磨かれた大きな天然木のカウンターに、間隔を空けて3席の客席があるだけ。
 メニューは「珈琲」のみである。
 一般の喫茶店にあるようなメニュー表はない。

 客席に座ると、薄い硝子でできたコップに透明な氷を入れたお水を、二つ折りにしたキッチンペーパーをコースター代わりに出してくれ、

「どのような珈琲にしますか?」

 と聞いてくれる。

 つまり、客が飲みたい珈琲を伝えると、それを実現してくれるというわけだ。

 私は、酸味のある珈琲が得意ではないので、「深煎りで苦みが美味しい、珈琲をお願いします。」と注文した。

 注文後、珈琲豆を選択し、計量。ミルで挽いていく。同時に、カップをお湯につけて温めていく。
 ミルの速度も豆に不要な熱を与えないように、あまり速い速度ではないように感じた。
 挽かれた豆を丁寧に、ネルに移し均していく。

 そして、暖めていたカップを取り出し、時間をかけてじっくりとネルの中にお湯を注いで、珈琲を淹れていく。

 おそらく何千回、何万回と繰り返されてきた動作なのだろうが、不思議と、「慣れ」を感じさせない。
 仕事として珈琲を淹れている感じがしないのである。
 おそらく、毎回が真剣勝負なのだろう。

 藤原さんは、ネルの中の珈琲豆の様子をじっと見ながら、お湯を注ぎ抽出している。

 藤原さんのネルドリップを見ていると、不意に、ごく小さな音で、ピアノのBGMが流されていることに気付いた。
 普段気にすることもないが、ふと、夜空を見上げたときに、「あぁ、星空の下にいたんだな・・・」という感じを受けるようなささやかさで、気付く人だけ気付いて聞けば良いというレベルのBGMだった。
 また、エアコンの稼働音次第では聞き取れない場合もあるが、ゼンマイで稼働している柱時計の振り子も、実直に、規則正しく、時を刻んでいる音を立てており、今この瞬間にも、時が流れているのだ、と気付かされる。

 BGMと振り子の音が聞こえやすいように頬杖をついて、目を閉じると、見えないのに藤原さんが珈琲を淹れている気配が、強く感じられる。

 満点の星空の下、悠久の時を感じながら、私の好みの味の珈琲を淹れてもらう。
こんな贅沢なことがあろうか・・・・。
 静かなお店でなければ、この感覚は味わえない。

 先に来ているお客がしゃべっているだけで、多分BGMも振り子の音も聞こえなくなるように思う。

 だから「静かに珈琲を飲むお店です」と、入口の黒板に書いてあったのだ、と納得する。

 出来上がって、出された珈琲の脇に、小さなカップが置かれた。
 「チェイサーとして、この珈琲をお湯で割ったものです。これで口を慣らしたり、珈琲が重い場合に口に含んで下さい。」
 との説明だった。

 藤原さんが私に淹れてくれたのは、ブラジル産の樹上完熟トミオ・フクダという銘柄だった。

 珈琲の味については、言葉では表現し尽くせないので、実際にお店に行って味わって頂くしかない。

 あれだけ手間をかけてネルドリップ珈琲を淹れ、僅か3席の客席で、静かな雰囲気を楽しませてくれて、お代は一杯550円なのだ。

 満席の場合は入口のドアに、現在満席のふだが出るようだ。

 かつて東京の大坊珈琲店で、ネルドリップの珈琲を何度か頂いていたが、閉店してしまい残念に思っていた。
 岡山に行く機会があれば、是非とも再訪したい珈琲店である。

折り鶴の入口 三席で営業、静かに珈琲を飲むお店です。などの記載がある。

折り鶴の店内 真ん中の席から入口に一番近い席の方向を撮影。コーヒーカップ、チェイサーのカップなどが見える。

メニューはこのとおり、「珈琲」しかない。

我妻榮記念館訪問~その4

 最後に案内して頂いたのは、母屋の2階にある、幼少時の勉強部屋である。

 かなりの急傾斜で、段差も大きい木製の階段(記念館HP、館内案内の写真でも確認できるが、めちゃくちゃ急である)を、恐る恐る上がると、2階の6畳ほどの部屋に入れる。

 そこには、火鉢と小さな木製の机が置かれている。

 この机で高校まで勉強していたと記載された、小さな張り紙がある。

簡素な勉強机。左側に民法講義、右側に雑記帳が置かれている。

我妻民法の精緻な体系から想像するに、我妻少年は、正座して勉強していたにちがいないというのが、私の想像である。

 我妻栄著 民法案内1~私法の道しるべ(勁草書房刊)の附録の記載によると、我妻榮は米沢中学校では5年間主席でとおし、卒業時の成績は平均96.7点という空前のレコードをたたき出していたとのことなので、神童の誉れ高かったのだろう。

 記念館訪問者の感想を記載する雑記帳も置かれており、我妻先生が使用していた机を使って、その雑記帳に記載することができる。

 子供の頃とはいえ、大学者が実際に勉強していた同じ机で、雑駁な感想を書くのは申し訳ない気がして、つい、正座して記載したように思う。

 私が簡単な感想を雑記帳に記載していると、管理人の手塚さんが、米沢市の大火のことを話してくれた。多くの家屋が焼け落ちる中、我妻先生の生家は、教え子や多くの方のバケツリレーなどの協力で奇跡的に焼失を免れたそうだ。

 すぐ近くには、やはり民法学者遠藤浩先生(学習院大学名誉教授、ダットサン民法の改訂も手がけている。)の生家もあったそうだが、そちらは火事で焼けてしまったとも聞いた。

 概ね、以上の展示が、全て無料で見ることができる。それでも入館者数は年間500人に満たない年が殆どのようだ。記念館だよりによると、入館者数は令和元年度364名、令和2年度252名、令和3年度163名となっている。新型コロナウイルスの影響もあるだろうが、もっと来館者がいても良いはずの施設だと痛感した。

 

 何度か書いたが、現状においても管理や保存に尽力されていることは良く分かるものの、相当貴重な資料もあるように思えたので、政府や自治体などが費用を出して、これらの貴重な資料を、より適切に保管する方法を考えるべきではないかと感じた。

 帰り際に、玄関付近で色紙・クリアファイル・講演集・記念館発行の「我妻榮先生」と題した小冊子を記念に購入した。

 今年は、我妻榮先生没後50年という節目の年であり、命日の10月21日をはさんで記念式典が行われるとのことである。私に訪問のきっかけを与えて下さった、勁草書房の竹田康夫さん、管理人の手塚さんも出席されるのだろう。

 式典の成功を祈念して、訪問記を終えようと思う。

丁寧に、ときには面白く解説・案内して下さった管理人の手塚さん。

我妻榮記念館訪問~その3

 つぎに、土蔵2階の展示室に案内して頂く。

 土蔵2階展示室は、身の回り品、講演のレジュメ、メモ類、図書整理箱にはいった判例カードなどが展示されている。

 展示されているギブスについて、管理人の手塚さんのお話によると、我妻先生は左足首の関節炎のためギブスを装着しておられたそうで、どうやら結核菌による関節炎だったらしいとのこと。

 図書整理箱には、判例メモ(の原本)がぎっしりと詰まっており、そのうちのいくつかがコピーされて、整理箱の上に置かれている。判例研究会で、各判例をメモ化して検討していたことが分かる。判例メモのコピーをざっと見ると、担当者であると思われる「平井」「四宮」「戒能」との記載があり、それぞれ筆跡が違う。

 おそらく「平井宜雄」「四宮和夫」「戒能通孝」らの大学者達が、我妻先生の判例研究会に参加していたのだろう。

 私も40年近く前、京都大学法学部で指導して頂いていた中森喜彦先生(現:京都大学名誉教授)の研究室で、似たような判例研究用カードを見たような記憶がある。

 今でこそ、判例の研究は判例誌や判例検索ソフトのおかげで簡単にできるが、そのような文明の利器がなかった時代には、人の手で事案や判断などをメモ化して整理する必要があったのだ。教科書に引用されている判例・裁判例も、一見簡単に引用されているように見えるが、実は、このように手間暇かけて整理された裁判例の中から選ばれたものなのだろう。

 手塚さんが開いて見せてくれた図書整理箱内の判例カード原本。箱の上には判例カードのコピーがいくつか載せられている。

判例カードコピー。よく見ると、手前3枚に右から平井・四宮・戒能の記載が右上になされているのが見える。

 どういうわけか、最近団藤メモで有名になった団藤重光先生の東大時代のノートの写しも、ファイルにとじられて保管されており、見せてもらえた。

ノートの表面に筆書きで科目や名前が書かれており重厚な印象を受けるノート(写し)。

おそらく万年筆で記載されたノート(写し)。その緻密さに驚くばかりである。

 私は司法試験受験時代に、民法総則で四宮和夫先生の教科書を中心に勉強し、不法行為に関して平井先生の教科書を参考にしたことがある上、刑法では大塚説になじめず団藤説を中心にしていた。

 司法試験受験時代には、教科書の活字でしか知りえなかった学者の先生達が、それぞれ活字や学説ではなく、人として、生き生きと感じられるのがとても懐かしく嬉しかった。

 ただ、判例カード等、資料の原本類については、やはり保管方法を考える必要があるのではないかと思った。もちろん費用の問題もあるのだろうが、除湿機程度の管理では、いずれ傷んで、失われてしまう危険性が高いのではないか。貴重な文化的遺産として国家の費用で大学図書館などでの原本保管・レプリカ作成等も考えても良いのではないだろうか。

(続く)

我妻榮記念館訪問~その2

 記念館は、一見すると2階建ての古い民家である。建物の前には、自動車が4台ほど駐車できるスペースがある。

 入館料は無料であり、当然駐車料も無料である。

 私が記念館に着いたのは、開館時間13時の少し前である、12:50頃だった。既に玄関の扉が開いていたことから、「ごめんください」と声をかけてみると、女性の事務員のような方が出てこられて、「管理人は、もうすこしで来ますので、どうぞお上がりください」と会館時間前に入れて頂くことが出来た。

 履を下駄箱に入れて家(記念館)に上がると、女性の方は、茶の間のを通って、八畳ほどの床(とこ)のある上段の間に案内してくれ、「管理人が来るまで、よろしければ、御覧になってください」と言って、我妻先生の生涯や業績に関するビデオを見せてくれた。山形県郷土学習ビデオ教材として、山形テレビが制作した「法律学者 我妻榮」という番組で、テレビの左下に「鑑賞希望の方はお申し出ください。」と書かれた表示がある。

 もし興味を持って記念館を訪問されるかたがいるなら、このビデオを見せてもらった方が、より我妻先生を身近に感じることができるし、展示されている資料の貴重さも理解しやすいと思う。

(茶の間から上段の間を撮影。女性の方がビデオをつけようとしてくれている。来館者の記帳をするノートが机の上に置かれている。右側には、これまで発行された記念館だよりがラックに入れられていた。)

 ビデオ拝観途中に、管理人の手塚さんが来られた。簡単なご挨拶のあと、「ビデオが終わったらご案内しますね。」と言って下さる。

 わざわざ、管理人の方にご案内して頂けるとは思っていなかったので、これは、いつものことなのか、ラッキーなのか、訪問についてメールで問い合わせをしていたからなのか、ひょっとしたら竹田康夫さんが連絡して下さったのかもしれない等の思いが、一瞬浮かぶ。

 ビデオは非常に分かりやすい作りだったので、中高生でも我妻先生の凄さの大まかな点はつかめるのではないだろうか。

 ビデオが終わると、管理人の手塚さんが、「どうぞ、こちらへ」と、案内してくれた。

 まずは、資料を展示している土蔵の方へ向かう。

 分厚い扉が観音開きになった土蔵には、母屋から直接入ることができる。私の勝手なイメージでは、蔵は居住家屋と別棟で建っていることが多い。大学受験浪人時代、私が間借りしていた京都の古い町家の蔵も、小さな中庭の中に別棟で立っていたため、これは、記念館とするために別棟だった土蔵を母屋から直接行き来できるように改築したのではないかと推察する。(ちなみに、浪人時代に私の間借りしていた部屋は、エアコンはもちろん外につながる窓がなかったため、夏場の京都の酷暑はどうしようもないくらいきつかった。家主のおばあさんが台所で干物を焼くとその煙が立ちこめたし、隣の部屋を間借りしていた浪人生が、トイレに行ったり外出する際には、必ず私の借りた部屋を通らなくてはならず、プライバシーも0に近かった。)

 手塚さんの案内で、土蔵1階にはいる。

(土蔵1階展示室) 

 写真のとおり、天井は低い。中央に東大法学部部長時代に愛用された机がおかれている。東大法学部長とはいえ、簡素な机であり、もっと広い方が研究しやすかったのではないかと勝手に思ってしまう。

 机の上には、洋行時の手紙等の原本がファイルに入れられて展示されている。洋行時の状況等について、手塚さんが簡潔に、ときには面白く解説してくれるので、分かりやすい。

 硝子ケースには、著書とその原稿が並べて保管されている。日本民法界に大きな影響を与えた、民法講義の原稿も展示されている。フェリーの時間が迫っていなければもっとゆっくり見ることもできたと思うのだが、短時間で切り上げなければならなかったのが少し残念であった。

 除湿機は作動し硝子ケースに入っていたものの、それ以上の保管に費用を費やしている様子が窺えず、無造作に原稿の原本が置かれているように見えたので、これらの資料について電子データ化して保存されているのか、本来なら原本を厳重に管理して、レプリカで展示するべきではないのか、と少し不安に思った。

(続く)