我妻榮記念館訪問~その2

 記念館は、一見すると2階建ての古い民家である。建物の前には、自動車が4台ほど駐車できるスペースがある。

 入館料は無料であり、当然駐車料も無料である。

 私が記念館に着いたのは、開館時間13時の少し前である、12:50頃だった。既に玄関の扉が開いていたことから、「ごめんください」と声をかけてみると、女性の事務員のような方が出てこられて、「管理人は、もうすこしで来ますので、どうぞお上がりください」と会館時間前に入れて頂くことが出来た。

 履を下駄箱に入れて家(記念館)に上がると、女性の方は、茶の間のを通って、八畳ほどの床(とこ)のある上段の間に案内してくれ、「管理人が来るまで、よろしければ、御覧になってください」と言って、我妻先生の生涯や業績に関するビデオを見せてくれた。山形県郷土学習ビデオ教材として、山形テレビが制作した「法律学者 我妻榮」という番組で、テレビの左下に「鑑賞希望の方はお申し出ください。」と書かれた表示がある。

 もし興味を持って記念館を訪問されるかたがいるなら、このビデオを見せてもらった方が、より我妻先生を身近に感じることができるし、展示されている資料の貴重さも理解しやすいと思う。

(茶の間から上段の間を撮影。女性の方がビデオをつけようとしてくれている。来館者の記帳をするノートが机の上に置かれている。右側には、これまで発行された記念館だよりがラックに入れられていた。)

 ビデオ拝観途中に、管理人の手塚さんが来られた。簡単なご挨拶のあと、「ビデオが終わったらご案内しますね。」と言って下さる。

 わざわざ、管理人の方にご案内して頂けるとは思っていなかったので、これは、いつものことなのか、ラッキーなのか、訪問についてメールで問い合わせをしていたからなのか、ひょっとしたら竹田康夫さんが連絡して下さったのかもしれない等の思いが、一瞬浮かぶ。

 ビデオは非常に分かりやすい作りだったので、中高生でも我妻先生の凄さの大まかな点はつかめるのではないだろうか。

 ビデオが終わると、管理人の手塚さんが、「どうぞ、こちらへ」と、案内してくれた。

 まずは、資料を展示している土蔵の方へ向かう。

 分厚い扉が観音開きになった土蔵には、母屋から直接入ることができる。私の勝手なイメージでは、蔵は居住家屋と別棟で建っていることが多い。大学受験浪人時代、私が間借りしていた京都の古い町家の蔵も、小さな中庭の中に別棟で立っていたため、これは、記念館とするために別棟だった土蔵を母屋から直接行き来できるように改築したのではないかと推察する。(ちなみに、浪人時代に私の間借りしていた部屋は、エアコンはもちろん外につながる窓がなかったため、夏場の京都の酷暑はどうしようもないくらいきつかった。家主のおばあさんが台所で干物を焼くとその煙が立ちこめたし、隣の部屋を間借りしていた浪人生が、トイレに行ったり外出する際には、必ず私の借りた部屋を通らなくてはならず、プライバシーも0に近かった。)

 手塚さんの案内で、土蔵1階にはいる。

(土蔵1階展示室) 

 写真のとおり、天井は低い。中央に東大法学部部長時代に愛用された机がおかれている。東大法学部長とはいえ、簡素な机であり、もっと広い方が研究しやすかったのではないかと勝手に思ってしまう。

 机の上には、洋行時の手紙等の原本がファイルに入れられて展示されている。洋行時の状況等について、手塚さんが簡潔に、ときには面白く解説してくれるので、分かりやすい。

 硝子ケースには、著書とその原稿が並べて保管されている。日本民法界に大きな影響を与えた、民法講義の原稿も展示されている。フェリーの時間が迫っていなければもっとゆっくり見ることもできたと思うのだが、短時間で切り上げなければならなかったのが少し残念であった。

 除湿機は作動し硝子ケースに入っていたものの、それ以上の保管に費用を費やしている様子が窺えず、無造作に原稿の原本が置かれているように見えたので、これらの資料について電子データ化して保存されているのか、本来なら原本を厳重に管理して、レプリカで展示するべきではないのか、と少し不安に思った。

(続く)

 

我妻榮記念館訪問~その1

 もう、四半世紀近く前になるが、私は、司法試験受験時代、短答式試験の直前に一粒社から出版されていた我妻榮・有泉亨著、

「民法1 総則・物権法」(川井健 補訂)

「民法2 債権法」(水本浩 補訂)

(いわゆる「ダットサン民法」である。)

2冊を、一日半ほどで一気に通読して、試験直前の民法知識の整理をするのが常だった。

 まだ縦書きの本であったが、「通説の到達した最高水準を簡明に解説すること」を目的としており、小型ながらパワフルということから、ダットサンの愛称がつけられていて、短答試験直前の知識の整理には最適だった。

 著者の我妻 榮(わがつま・さかえ)先生は、日本民法界の巨星である。我妻先生が打ち立てた民法体系は、理論的に精緻であるだけでなく、結論が常識的であることもあって、受け入れやすく通説中の通説となることが極めて多かった記憶がある。

 司法試験合格後に、司法修習で訪れた全ての民事裁判官室に、我妻栄著「民法講義」(岩波書店刊)全巻が書棚におかれていたし、裁判官協議中に何か疑問点等が出た際に「我妻にはどう書いてある?」等と話題になっていたこと等からも、実務界にも多大な影響を与え続けていることは実感できた。

 ところが、ダットサン民法を出版していた一粒社が廃業してしまったことから、ダットサン民法はしばらく絶版になっており、私は残念に思っていた。

 その後、かつて一粒社に勤務されダットサン民法の担当をされていた竹田康夫さんのご尽力等もあり、勁草書房からダットサン民法が発刊されることになった。

 勁草書房に勤務されるようになった竹田康夫さんと、ふとしたことから、簡単ではあるが交流して頂けることがあり、竹田さんから我妻榮記念館が発行している「我妻榮記念館だより」の記事を頂いたのが、我妻榮記念館訪問のきっかけである。

http://www.yonezawa-yuuikai.org/introduction/pdf/wagatuma_dayori/wagatuma_dayori25.pdf

(続く)

我妻榮記念館は、山形県米沢市にある。

 

管理される方の都合もあるのだろう。常時開館されているわけではなく、月・木・金・日の13時から16時が開館時間となっている。ただ、それ以外の時間に見学を希望される人は事前にご連絡くださいとHPに記載があるので、開館日でなくても見学できる場合があるかもしれない。

我妻榮記念館のHPアドレスは

我妻栄記念館 (wagatumasakae.com)

である。

団藤メモによる大阪国際空港騒音訴訟判決への介入に関して~3

 さて、今回の大阪国際空港騒音訴訟の話に戻ります。
 

 日本は立憲主義国家です。


 憲法により国民の人権を保障し、他方で三権分立制度を定めて国家権力の暴走を防ごうとしています。

 日本が国民の人権を保障している以上、大阪国際空港を利用する人や社会経済的利益(多数派の利益)だけではなく、大阪空港周辺で騒音被害に悩んでいる人たち(少数派)の人権も考慮する必要があります。

 先程述べたように、裁判所が他の権力から全く影響を受けずに、当事者の主張と証拠だけに基づいて、どちらが理に適った正しい主張をしているのかを判断し、勝敗を決めるのであれば、政治勢力の分野では多数派に分があっても、少数者が多数者よりも理に叶った正しい主張をすれば裁判で勝てる可能性があります。


 そのような場合、政治部門では多数派が勝利していても、裁判では少数者が勝利し、少数者の人権が守られる可能性が出てきます。

 しかし、裁判所が政府機関からの影響により、当事者の主張に加えて政府の意向も採り入れて判断し、裁判の勝敗を決めるのであれば、それはもはや公正な裁判とはいえません。

 そして、そのようなことを一度でも許せば、政府は味をしめてその後も裁判に干渉してくる可能性が生じますし、国民も一度でも政府にひれ伏した裁判所が、本当に公平・公正な裁判をしてくれるのかと、裁判所(司法)を信じられなくなります

 これでは、人権保障の最後の砦であるはずの裁判所(司法権)の公正さと、司法権に対する国民の信頼が失われるかもしれず、人権保障の大きな危機といわざるを得ません。

 ですから、このようなことは絶対に許してはならないのです。

 詳細はまだ分かりませんが、報道によれば、夜間飛行差し止めに関して、団藤判事が所属していた第一小法廷が国を負けさせる判断をしていたところ、国が大法廷での審理を求める「上申書」を提出し、その翌日に元最高裁長官から大法廷で審理するよう要望があったということのようです。


 団藤判事は、この要望について「介入」だと判断されていたようです。

 実際に最高裁は、第一小法廷で審理が終わっていたにもかかわらず、大法廷に事件を回し、大法廷では逆転で国が勝訴する判決が出てしまっています。

 常識的に考えれば原告の地域住民が、元最高裁長官を動かせるわけがないので、おそらくは、国側が元最高裁長官を動かして、大法廷で審理するよう圧力をかけたと考えるのが素直でしょう。場合によれば、第一小法廷以外の最高裁判事にも国側を勝たせるよう圧力をかけていた可能性も否定できません。

 もしそのような事実があったとすれば、この国側の行為は、憲法が人権保障のために定めた三権分立と司法権の独立を踏みにじる極めて重大な問題であって、到底許されて良いものではありません。

 仮に報道が事実で、介入の事実があったのであれば、人権保障の理念を無視して介入してきた国が悪いのは当然です。しかし、私としては、そのときの最高裁判事の方々は、なぜ、不当な介入があった事実を国民に公表して、司法権の独立を守る行動を取らなかったのかという点が疑問にも思われます。

 最高裁判事の地位は、名実共に日本の司法権のトップを占める地位ですから、捨てがたい魅力のある地位でもあるでしょうし、国と対立して自らの地位を失うことを恐れたのかもしれません。

 司法権は三権の一翼と言われながらも、裁判所の予算額は国家予算の僅か0.305%しか与えられていません(2021年裁判所データブック)から、国と対立して更に予算が減らされるなどされ、司法権が弱体化する危険性を恐れたのかもしれません。

 仮にそうでないとしても、国家の悪事を公表することで生じかねない社会生活上の混乱を避けようと配慮されたのかもしれません
 若しくは、国からの圧力を知らなかった判事もいたのかもしれません。

 しかし、私は社会生活上の混乱が多少生じても、人権を守る最後の砦である裁判所に国が介入してきたという極めて重大な問題を、広く公表して国民の適切な判断に委ねるべきだったのではないかと、考えます。

 裁判所の人権保障機能をもっと国民に分かって頂き、裁判所予算も、もっと多く投入すべきと訴えてもよかったのではないかと思います。
 

 いずれにせよ、国が自ら勝訴するために司法権(裁判所)に介入したという極めて許されない事件であることは、どうやら間違いないようなので、今後絶対にこのような介入を許すことなく、キチンと政府を国民が監視していく必要があるのだと感じます。

(この項終わり)

団藤メモによる大阪国際空港騒音訴訟判決への介入に関して~2

 特にモンテスキューは、「恐るべき裁判権」と表現していて、裁判権を行政権から分離させた方が良いと考えていました

 モンテスキューが目にしていた当時の裁判は、官房司法(君主が行う裁判)と呼ばれ、政府が行う行政の一環として裁判がなされていました。もちろん政府が裁判を行うわけですから、当然政府の味方をする裁判であり、決して公平・公正な裁判ではなかったのです。ですから国民が、政府相手に裁判を起こしても結果は政府の勝訴とほぼ決まっており、決して公正な裁判は行われず、国民は裁判では救われないし、他に救われる道も見出しにくい状況でした。

 このような裁判が行われる国では、政府がどれだけ国民の人権を踏みにじっても、裁判で政府の行為を正すことができないので、国民の人権は守ることはできません。

人権保障に反するのです。

 また、モンテスキューの時代ではなく、近代の立憲民主国家であっても、選挙で多数を占めた人たちの意向で法律は決まりますし、行政は法律に従って実行されますから、力の強い人たち(多数派)が政治部門(立法・行政部門)では優位に立っていることになります。

 多数派の人たちは、自分達にプラスになるように法律を作ったり、行政を行いますから、その過程で少数派の人たちにマイナス面を与える場合もあります。

 このような場合、多数派ではなく、少数派の人たちの人権をどうまもればいいのでしょうか。
 多数派が決めたことがどんなに少数派にとって理不尽でも、少数派の人たちは従わなくてはならないのでしょうか。
 仮にそうなら、少数派の人たちの人権は保障されているとはいえません。

 近代国家では、少数派の国民の人権を無視して良いわけではありません。国民は個人として尊重されますから、多数派だけでなく国は全ての国民の人権を保障する必要があります。
 とはいえ、先程述べたように政治部門(国会・内閣)では、どうしても多数派の意向に添わざるを得ない状況は変えられません。

 このように、政治部門が多数派の意見に添わざるを得ないことは動かせませんから、その状況下でどうやれば、少数者を含めたすべての国民の人権保障ができるのでしょうか?

 これは難題といえそうです。

 でも、裁判所(司法権)が、多数派(政治権力)に全く影響をうけないのであればどうでしょう。

 裁判所においてだけは、政治的な力の強弱ではなくて、どちらの主張が理に適っていて正しいのかという面だけで判断してくれる、すなわち裁判所が権力に影響されない公平な立場で、公正な判断をしてくれるのであればどうでしょう。

 仮に多数派の人たちが政治勢力により、少数派の人たちを理不尽な目に遭わそうとしても、裁判所により少数派の人たちの人権が守られる可能性が出てくるのではないでしょうか。

 だからモンテスキューは、人権保障のために、裁判について、他の権力からの影響をゼロにしたかったのだと考えられます。

 多数派に牛耳られることのない裁判所(権力に影響されない、純粋な法原理機関としての裁判所)が、多数派の意向ではなく、どちらの主張が理に適っていて正しいのかという観点だけから判断をして判決するのであれば、(少数派を含めた)全国民の人権保障に役立つはずです。

 裁判所が人権保障の最後の砦といわれるのは、概ねこのような理由もあるからです。

 日本国憲法も司法権の独立(裁判官の独立)を明言し、他の権力が裁判に影響を及ぼすことを禁じています。

(続く)

団藤メモによる大阪国際空港騒音訴訟判決への介入に関して~1

 先日、大阪国際空港騒音訴訟最高裁判決について、団藤重光元最高裁判事のメモから、司法権に対する行政の介入があったのではないかと問題になっています。

 多くの人から見れば、「へ~、昔はそんなことあったんだ。」で、済ましてしまう報道かもしれませんが、実は司法権への行政(国家権力)の介入は大問題なのです。

 私なりの理解(私は憲法学者ではないし、報道しか情報がないので間違いがあるかもしれませんが、その点は予めご容赦ください。)から、問題点について大雑把に少し説明したいと思います。

 日本は国民主権ですから、国の帰趨を決定する権限は最終的には国民が有しているということになります。ただ、国の権力である、立法権・行政権・司法権、はそれぞれ国会・内閣・裁判所と3つに分けて与えられています。

 このことを三権分立と呼ばれることは知っているでしょうし、多くの人は中学校などでも習った記憶があると思います。

 そもそも三権分立はフランスの哲学者モンテスキューが「法の精神」という本の中で提唱したものです。モンテスキューは、国家の権力を立法・行政・司法の三権に分けて権力の集中を避け、更にそれぞれの権力がお互いを監視し合うことによって、国家権力の暴走を防ぎ、国家権力による人権侵害を防ごうとした目的だと考えられます。

 極論を言えば絶対王政の国では、絶対君主が自分の都合で法律を作り、自分の都合で法律を執行し、自分の都合で裁判ができたわけです。

 たとえば、そのような絶対王政の国家で、王様が、行列の際に見かけた坂野の顔がどうも気に食わず、王様に「あいつ(坂野)は気に食わん」と思われたらどうなるでしょうか。

 王様は、私の行動の自由や財産を奪う法律を作ったりして(立法)、私の身柄を拘束したり財産を奪ったりすることもできますし(法律の執行≒行政)、私が「王様の行動はおかしいので止めさせてください」と裁判所に訴えても、その裁判も王様の都合で判決が出せますから、判決は王様の勝ちになる(司法)、ということになります。

 つまり、坂野でなくても、その国の誰もが、どんな理由であれ王様に睨まれたらもう助からないことになってしまうのです。

 これでは、その国の人々は王様を恐れてビクビク暮らさざるを得ず、国民の人権は到底守れません。

(続く)

荒井秘書官更迭に思う

 【荒井勝喜・前総理大臣秘書官は、3日夜、オフレコを前提にした記者団の取材に同性婚をめぐって「見るのも嫌だ」などと発言し、その後、不適切だったとして撤回し、謝罪しました。
 しかし、岸田総理大臣は、多様性を認め合う包摂的な社会を目指す政権の方針とは相いれず、言語道断の発言だとして4日、荒井氏を更迭し、後任を決定しました。】
(NHK NEWS WEB より引用2023年2月5日 5時57分)

 これはあくまで、上記記事を見ただけでの、(弁護士としてではなく)私個人としてのボンヤリとした感想だが、やりすぎなのではないかと考えている。

 今回の荒井秘書官の発言は、オフレコを前提にしたものだと報道されている。オフレコという言葉の意味にも幅があるようだが、一般的には、非公式の発言であり記録や公表しないことを条件に発言することを意味することが多い。
 つまり、オフレコ前提での今回の荒井秘書官の発言は、公式の発言でもないし、記録・公表されないことが前提で、敢えて本音を問われた際の、素直な内心の吐露であったと見るべきだと、私は思う。

 近時LGBTについて、様々言われているが、確かに、性的マイノリティであることを理由に差別をすることは、もちろんすべきではないことは分かる。

 しかし、今回の荒井秘書官の発言は、性的マイノリティの方の存在に個人的に違和感を感じていることを、オフレコで表明したもの、つまり「オフレコの条件で申し上げますが、私の内心はこういう思いなのです」、という発言だと私は受け取った。

 私の上記の推測が正しかったと仮定して感想を続けるが、この荒井秘書官の発言を根拠に(岸田首相によると「言語道断の発言」とのこと)、彼を更迭することが正当化されるなら、荒井秘書官が性的マイノリティの方に対して違和感を持つ自由すら許さない、いわば内心(思想?)の強制に繋がる危険があるのではないかと思われる。

 この点、性的マイノリティの方に違和感を持つことすら、許すべきでないと主張する方もいるかもしれない。
 しかし、憲法24条に婚姻は「両性の合意」のみに基づいて成立すると規定されているように、憲法自体が、婚姻は男性と女性の合意を前提としている。
 同性婚に関する大阪地方裁判所令和4年6月20日判決も、「憲法24条の文理や制定経緯等に照らすと、同条1項における「婚姻」は、異性間の婚姻のみを指し、同性間の婚姻を含むものではないと認めるのが相当である。」と判断している。

 このように、婚姻は男性と女性という異性間でなされるということが常識であった社会が、有史以来長らく続いてきたのだ。

 そうだとすれば、現時点で、性的マイノリティについて、違和感を持つ人がいても何ら不自然ではない。

 もちろん、その違和感を、現実の差別につなげてはならない。

 しかし、社会の構成員に要求できるのはそこまでであって、人の内心は自由であるべきである。
 ある事柄について、違和感を持つことすら許されない社会は、どこかおかしいのではないか。

 おそらく、野党は首相の秘書官任命責任を追及するだろうが、私は荒井秘書官の今回の発言は、オフレコ前提での発言である上、彼が現実的に上記発言に沿って性的マイノリティの方に何らかの差別的扱いをしたわけではないことから、なんら責任を問うべきではないと考える。

 むしろ、オフレコだからといって荒井秘書官の本音を引きだしておきながら、その発言をリークして問題化させた記者団にこそ、発言者と取材者との間の信頼関係を引き裂いた、大きな問題と責任があるように私は思う(発覚の経緯の詳細は不明ですが、記者団の参加者がリークしたと考えるのが合理的なので、記者団の問題と考えています)。

 岸田首相も、荒井秘書官を更迭する前に、当該発言は、あくまで職務上の見解ではなくオフレコでの個人の見解に過ぎず、性的マイノリティの方に何ら差別的取扱をしたわけでも、現実の不都合を与えたわけでもないということを示して、秘書官を守るべきだったのではないか。

 部下を守らず、切り捨てておいて、なにがボスだ。

 野党も、首相の任命責任追及とかで大いに盛り上がっているようだが、他に、もっとやるべきことがあるんじゃないのか。

真冬のダッハウ強制収容所(写真と本文は関係ありません)

吉田神社 節分祭 (「鈴鹿さん」のご祈祷)

 京都の吉田神社は、私の母校である京都大学のすぐ近く、吉田山にある。

 私は、あまり真面目な学生ではなかったので、天気が良すぎるという理由で授業をサボって吉田神社境内を散策したり、クラスメイト(法学部でも第2外国語等の選択によりクラス分けがあった。)から答えの出そうもない悩みを聞かされながら、吉田山に登ったりもしたものだ。

 基本的に無神論者である私だが、知人から数え年42歳の厄年の際に祈祷は受けておいたほうが良いと言われて出かけてから、吉田神社での節分祭には、都合のつく限りほぼ毎年出かけるようにしている。今年も昨日(2月2日)に参拝してきたところである。

 もちろん、参道に並ぶ多くの夜店をぶらぶら見ることも楽しいのだが、一番のお目当ては、普段は立ち入ることができない大元宮内院本殿(おそらく)での厄除けのご祈祷を受けることである。

 吉田神社の大元宮の御神徳は、以下のとおり。
「吉田神道の教義により宇宙軸を現す大元宮は、始まりの神(虚無大元尊神)を中心に祀り、そこから生まれ来る八百万の神々を祀る事で、全国の神々を祀る社として、様々な御神徳をお授け下さいます。」(吉田神社HPより引用)

 全国の神々を祀る社で、ご祈祷を受けるのであれば、全国どこに行っても守られるはずである。

 さらに、最近は、おそらくご祈祷の担当を何人かで分担されており、おそらくシフトを組んでおられると考えられるため、ご迷惑をおかけしてしまうのだが、可能であれば、祈祷をして下さる方を、「鈴鹿さん」にお願いすることにしている

 他のご祈祷担当の方には申し訳ないが、鈴鹿さんのご祈祷は、私個人としては一等優れているように感じるからだ。

 大元宮の内院本殿で行われるご祈祷だが、周囲には多くの参拝者がいるため、本殿の中にも外の参拝者の話し声がざわざわと聞こえてきて、途絶えることがない。特に大元宮には、各地方の神様が祀られているため、自分の出身地の神様を探してお参りする人が多く、結構騒々しいといっても良いくらいである。

 しかし、鈴鹿さんが祝詞をあげはじめると、実際には途絶えることがない周囲のざわめきが、さーっと引いていき、私には聞こえなくなるように感じるのだ。
 うまくたとえることができないのが残念だが、鈴鹿さんの祝詞がはじまると、まるで、現世の雑音や世俗の様々な出来事を遮断する、神様の清浄な領域が鈴鹿さんを中心にして現れ、本殿を満たし清めていくようにも感じられる。
 そして、その清浄な領域で響く鈴鹿さんのお声は、どこまでも、よどみなく清んでいるのである。
 鈴鹿さんの優雅で品のある所作を拝見しながら、ご祈祷して頂いている間、本殿に満たされた清浄な空間を全身で感じ、世俗の垢を本当に落として頂いた気分に、私はなれるのであ

 一緒に鈴鹿さんの祝詞を聞いた人によれば、「【朗々】って言葉は知っていたけど、鈴鹿さんのお声で、その言葉の意味を人生で初めて実際に体験することができた。」という感想だった。

 この特別な感覚を、感じたいがために、私は毎年吉田神社の節分祭に通ってしまうのかもしれない。

 吉田神社の節分祭は、本日(2月3日)が当日祭であり、明日が後日祭である。私は基本的には無神論者であるが、もし可能であれば、特別な神域を感じることが出来るかもしれないので、大元宮でご祈祷を受けてみることをお薦めしたい。

吉田神社で頂いたお札

高級車に乗る人は、バスに近寄らないことをお勧めします。

 いつもお世話になっている市バス等ですが、バスから事故(例えば追突)を受けた際の賠償については、あまりご存じないと思います。

 そんなのバス会社の保険から全額賠償してもらうのが当たり前じゃないの、とお考えのあなた、必ずしもそうではないのです。

 もちろん、市バスも公道を走る自動車ですから、自賠責保険に加入していなければなりません。
 ただし、自賠責は、対人に限定されており、補償額も3000万円(死亡時)、120万円(傷害時)、75~4000万円(後遺障害時)が限度であって、それ以上の損害があっても、これ以上のお金は自賠責保険からは支払ってもらえません。
 また、物損については、自賠責は全く関係がないので、追突されて車が壊れても、車の修理代については自賠責保険からは1円も支払ってくれません。

 自動車事故の損害は、自賠責が支払ってくれる範囲でおさまらない場合も多いので、そこをカバーするものとして任意保険があることは皆様もご存じのとおりです。
ところが、任意保険は、保険でカバーする範囲が広ければ広いほど、保険料も高くなります。例えば、対人補償5000万円の保険よりも、対人補償無制限の保険の方が保険料は高くなります。

 では、バス会社も、任意保険に加入しているのでしょうか。

 実は、平成17年4月28日に出された、国土交通省告示第503号により、地方公共団体が経営する場合を除き、旅客自動車運送事業者は、対人8000万円以上(一般貸切旅客自動車運送事業者は無制限)、対物200万円以上の補償がある任意保険に加入することとされています。

 ただ、任意保険の補償金額を、対物も無制限とすると任意保険の掛金が馬鹿高くなってしまうので、バス会社も経営上の観点から、補償金額を高額に設定しない場合が多いと思われます。

 以上から、例えば1000万円の高級車に乗っていてバスに追突され、車が壊れた場合、バス会社の任意保険でカバーされるのは、おそらく、200~300万円までの場合が多く、その金額を超える分については、バス会社に対し直接支払うよう交渉しなくてはならない可能性が高いということです。
 
 追突されたのはこっちなのに、いざ請求をしてみたところ、バス会社から、経営が苦しくて払えないと言われる可能性もゼロではありません。
 その場合には、訴訟を起こして判決を得て、強制執行をしないと自動車の修理代も得られません。訴訟の費用や時間も馬鹿になりませんし、強制執行をしてもバス会社に本当に財産がなければお金は取れません。実質、泣き寝入りに近い形になるおそれ
もあるのです。

 以上から、高級車に乗っておられる方には、バスを見たら、物損200万円くらいの任意保険しかかかっていない大型車だ、とお考えになって、あまり近寄らないことをお勧めします。

おそらくバイキングの船をモチーフとした作品(レイキャビク~アイスランド)

※写真は記事とは関係がありません。

今朝の出来事

 

 私の事務所が入っているビルには、私の知る限り、トイレ清掃等の関係の仕事をされている方が男女で2人いらっしゃる。

 お二人とも、見たところ高齢であり、大変だなぁ・・・と私は感じているので、会えばだいたい「お疲れ様です」と挨拶することが多い。

 今朝は、たまたま、女性の清掃の方とエレベーターで一緒になった。

 私が、何階に行かれますか?と聞いて、6階です、とのことだったので、ボタンを押してあげて、扉が閉まった。

すると、その方から、ボタンの御礼の後に、

「昨日のサッカー、良かったですねぇ」と話しかけてこられた。

 私も、大逆転勝利となった昨日のW杯ドイツ戦を見ていたので、

「ドイツ戦の逆転勝利でしょ、いや~私も、ガッツポーズしながら見てましたよ~」

と返したところ、

「いつも、普段、あんまり良いことがないから、久しぶりに、いい気分になりました・・・」

と、ぽつり、とお答えがあった。

 その方の仰る「普段あまり良いことがない」というのが、日本全体のことなのか、彼女の人生のことなのかは、私には、はっきりしなかった。

 でも、サッカー日本代表の活躍が、様々なところで人々に感動や勇気を与えている事実だけは、痛いほど実感できた、今朝の出来事なのであった。

 

上高地

 上高地は、黒部峡谷と並んで、日本で僅か2箇所しかない、特別名勝・特別天然記念物の双方に指定されている、景勝地である。

 30年以上前の学生時代にバイクで出かけた際には、河童橋のたもとまでバイクで乗り入れることが可能だった。釜トンネルは狭いだけでなく上りが、かなりきつくて驚いたが、それを抜けた後は素晴らしい景色を堪能しながら走った記憶がある。ただ、自家用車でかなり渋滞していたのは事実であった。

 河童橋のたもとで景色を見ていたら、1人のおばちゃんにシャッターを押してくれと頼まれ、いいですよ~と答えたところ、「そしたら私も」「○○さんがするなら私も」・・・・と20人近いおばさん集団全員にシャッターを押すよう依頼されたというなんとも困った体験もしたものだ。

 現在では、通年自家用車規制がなされているため、一般車両は釜トンネルに入れない。長野県側なら、沢渡駐車場、岐阜県側なら、あかんだな駐車場に車を止めて、バスかタクシーを利用することになる。立派なトンネルもできており、かつてはつづら折りのヘアピンカーブを幾つもこなす必要があったが、その状況は、今は大きく改善されている。

 昼間の上高地も、もちろん美しいが、もし可能なら上高地に宿泊することをお勧めする。

 多くの観光客が帰った後の静かな河童橋や、天気が良ければ、焼岳の残照、月光に浮かぶ夜の穂高連峰、早朝の大正池の雰囲気など、宿泊した者でなければ体験しにくい景色が、上高地には多いのだ。

 立地条件から、設備やサービス以上の料金が求められる上高地価格になってしまうのは残念だが、お天気に恵まれれば、泣きたくなるような景色に出会える可能性が高いと、私は思う。

焼岳の残照(2022.11.06)