団藤メモによる大阪国際空港騒音訴訟判決への介入に関して~1

 先日、大阪国際空港騒音訴訟最高裁判決について、団藤重光元最高裁判事のメモから、司法権に対する行政の介入があったのではないかと問題になっています。

 多くの人から見れば、「へ~、昔はそんなことあったんだ。」で、済ましてしまう報道かもしれませんが、実は司法権への行政(国家権力)の介入は大問題なのです。

 私なりの理解(私は憲法学者ではないし、報道しか情報がないので間違いがあるかもしれませんが、その点は予めご容赦ください。)から、問題点について大雑把に少し説明したいと思います。

 日本は国民主権ですから、国の帰趨を決定する権限は最終的には国民が有しているということになります。ただ、国の権力である、立法権・行政権・司法権、はそれぞれ国会・内閣・裁判所と3つに分けて与えられています。

 このことを三権分立と呼ばれることは知っているでしょうし、多くの人は中学校などでも習った記憶があると思います。

 そもそも三権分立はフランスの哲学者モンテスキューが「法の精神」という本の中で提唱したものです。モンテスキューは、国家の権力を立法・行政・司法の三権に分けて権力の集中を避け、更にそれぞれの権力がお互いを監視し合うことによって、国家権力の暴走を防ぎ、国家権力による人権侵害を防ごうとした目的だと考えられます。

 極論を言えば絶対王政の国では、絶対君主が自分の都合で法律を作り、自分の都合で法律を執行し、自分の都合で裁判ができたわけです。

 たとえば、そのような絶対王政の国家で、王様が、行列の際に見かけた坂野の顔がどうも気に食わず、王様に「あいつ(坂野)は気に食わん」と思われたらどうなるでしょうか。

 王様は、私の行動の自由や財産を奪う法律を作ったりして(立法)、私の身柄を拘束したり財産を奪ったりすることもできますし(法律の執行≒行政)、私が「王様の行動はおかしいので止めさせてください」と裁判所に訴えても、その裁判も王様の都合で判決が出せますから、判決は王様の勝ちになる(司法)、ということになります。

 つまり、坂野でなくても、その国の誰もが、どんな理由であれ王様に睨まれたらもう助からないことになってしまうのです。

 これでは、その国の人々は王様を恐れてビクビク暮らさざるを得ず、国民の人権は到底守れません。

(続く)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です