追悼

F・K 様

前略

 お手紙拝見致しました。

 確か、以前の私のブログで、ヨーロッパの街灯の話を書いたときにEメールを頂いて以来だと思います。

 ご主人様のこと、心よりお悔やみ申しあげます。

 プラハのあのお店でお会いした際には、お二人とも本当にお元気で、また仲良くされておられましたね。毎年のように長期間の訪欧をなさることをお聞きして、羨ましいご夫婦でいらっしゃると感じておりました。
 もう一度お会いできれば、人生の先輩でいらっしゃるK・K様に、きっといろいろ教えて頂けるはずだったのに、と思うと残念でなりません。

 いつもそうですが、人は過ぎ去って取り返しがつかなくならないと気がつかないことが余りにも多い、不便な生き物だと感じます。

 先日、「千年女優」というアニメーション映画を見ました。そこでは、引退した女優が主人公なのですが、ある人から「一番大切なものを開ける」鍵を預かり、その鍵をいつか返そうと願いつつ暮らしていくというストーリーを中心にしていました。映画の最後の方で、主人公は、その「一番大切なもの」とは、「自分のその人への想い出」であったということに気付きます。

 ある人への想い出を一番大切なものにして生きるということは、おそらく、私達、不便な生き物である人間がいつも感じてしまう、取り返しのつかないことへの後悔に、わずかながらでも対抗するために、神様がくれた手段の一つではないかと思います。

 私も、プラハの片隅の本当に小さなアンティックショップでお会いした際の、K・K様・F・K様の本当にお幸せそうな姿を一つの想い出として大事にさせて頂こうと思っております。

 いろいろ大変でいらっしゃるでしょうが、お手伝いできることがございましたら、ご連絡下さいませ。
 

ps K・K様が生前私のブログを読んで下さり、「熱血弁護士で男らしくて、いい青年だ」と誉めてくださったそうですが、私は、もう青年というより十分中年の真ん中くらいにさしかかっております。この点だけは、K・K様に訂正して頂けますようお伝えしておいて頂ければ助かります。

                                                                  草々

電信柱

 私が小さい頃、私の育った町では、電信柱はまだ木製が多かった。

 黄緑色に塗られた木製の電信柱、腐食防止のためかコールタールで真っ黒に塗られた木製の電信柱などが、小学校への通学路の脇に、いつも静かに佇んでいたように思う。電信柱に登るための小さな取って?もちゃんと付いていて、小学生でも少しばかりは登れた記憶がある。当時はむしろコンクリート製の電信柱が目新しく、登るための小さな取ってのようなものが収納式であったりして、それを引っ張ったり、戻したりして遊んだこともあった。缶蹴りのときは、その影に隠れて鬼に近寄ろうとして、手に汚れがついたりしたものだ。

 そのうち、木製の電信柱は見なくなったし、いつの頃からか、電信柱が何でできているのかについても全く注意を払わなくなった。

 しかし、 ときおり、ずっと等間隔に、どこまでも並んでいる電信柱を見たときや、誰もいないような広い平原に電信柱だけが立っている風景などを目にすると、何故だか気持ちが少しゆらめくことがある。

 むろん、電信柱がない方が風景としては良いのに、と思うことも多くあるが、気持ちが少し揺らめくときに限って言えば、電信柱が、たとえ誰にも注目されていなくても、黙って、自分の仕事をただ一心に、頑張っているように見えるのだ。

 そう思うのは、ひょっとしたら小さな頃に読んだ童話が原因かもしれない。

 そのうち、その童話についてもお話しさせて頂くときが来るかもしれないね。