弁護士増員で司法過疎は解消できるのか~2

 ところが、日弁連は弁護士は社会生活上の医師であるから、全国津々浦々に弁護士がいた方が社会にとって良いと考えているようだ。だからこそ司法過疎解消をしきりに唱えたがるのだろう。確かに司法制度改革審議会意見書にも、法曹は「国民の社会生活上の医師」の役割を果たすべき存在であるとの指摘もある。

 この点について、私は残念ながら、弁護士像を理想化しすぎた日弁連・司法制度改革審議会の誇大妄想ではないかと思っている。弁護士が過疎地を含めて常に身近にいるだけで社会が良くなるなんて思い上がりも甚だしい。

 確かに医師であれば戦う相手は病気であり全人類の敵である。病気をやっつければやっつけるだけ人類の幸福は増加する。この意味で、明らかに医師は正義の味方といえるのである。

 しかし弁護士はどうか。戦う相手は、依頼者以外の個人であり企業等である。例えば、ある訴訟で依頼者の為に弁護士が全力を尽くして戦い、勝訴した場合を考えて見よう。
 その弁護士に依頼した者にとって、自分の言い分を裁判所に認めさせてくれた弁護士は救いの神である。しかし、相手側にとってみれば、自分の言い分を否定し尽くされ、裁判所の判断を誤らせた、魂を悪魔に売り渡した悪徳弁護士以外の何物でもない場合もあるだろう。

 弁護士が裁判で勝てば勝つだけ、その勝利の数に応じて、裁判での争いに負ける相手方があふれるのだ。

 日弁連は、勝つべき事件だけ勝ち、負けるべき事件は負けるという、客観的正義を実現するような、ある意味理想の弁護士像を描いているのかもしれないが、負けるべき事件だから負けましょうという弁護士に、誰が依頼をするだろうか。

 弁護士全てが、金のなる木をもっていて、未来永劫生活に絶対困らないのならともかく、職業が生活の糧を得るための手段であるという厳然たる事実を直視すれば、自営業者にそのような態度をとるように求めることは、不可能を強いるものだ。

 弁護士資格でさえ取得するために、多くの時間と費用がかかっているのである。

 このように、(冤罪事件など一部は除かれるが)弁護士が実現出来るのはせいぜい相対的正義なのである。

 確か、「こんな日弁連に誰がした?」(平凡社新書)の著者である小林正啓先生が述べておられたと思うが、弁護士は社会生活上の医師などではなく、あくまで依頼者の為にだけ働く傭兵のような存在なのだ。弁護士が傭兵として活躍すれば依頼者の為にはプラスになる場合が多いが、攻撃の標的とされた相手としては、たまったものではないはずだ。

 実際の弁護士像と日弁連の想定する理想の弁護士像がずれたままで弁護士増員だけが進行しても、実際には飢えた傭兵が社会の中に増えるだけで、社会正義の実現はもちろんのこと、司法過疎の解消には全くつながらないと私には思われる。

 ここで歴史を遡ると、司法制度改革の支柱となった司法制度改革審議会意見書では、今後の法曹需要が飛躍的に伸びると予想されていた。そのことは、同意見書の「今後の社会・経済の進展に伴い、法曹に対する需要は、量的に増大するとともに、質的にも一層多様化・高度化していくことが予想される。(中略)その直接の担い手となる法曹の質・量を大幅に拡充することは不可欠である。」との記載からも明白である。

 しかし実際はどうか。

 2019年裁判所データブック(法曹会)によれば、全裁判所の新受全事件数(民事・行政事件は件数、刑事事件は人数、家事事件は件数、少年事件は人数で計算)は、司法制度改革審議会意見書が出された
 平成13年度で、5,537,154件であった。
 最新のデータとして記載されている
 平成30年度は 3,622,502件である。

 実は1,914,652件という減少なのだ。年間200万件近くも裁判所に持ち込まれる事件が減っているということなのだ。

 この点、裁判手続きは紛争解決の一部にすぎず、裁判手続以外での解決が進展しているはずだという反論があるにはあるが、そのような解決が多くなされているという具体的証拠は一切示されておらず、何らデータのない感覚的な反論にすぎない。現実に裁判の新受件数が減少しているというデータがあるということは、素直に見れば法曹需要は減少しているということだ。

 現実を見れば分かるとおり、司法制度改革審議会意見書の想定していた法曹需要の飛躍的増大は全くの的外れであり、したがって、法曹需要の飛躍的増大を想定して法曹人口(といっても中心は弁護士人口)の拡大を図った政策は、その出発点においてとんでもない見当違いの方向を向いていたということになる。
 率直に言えば、司法制度改革審議会はそもそもの方向性からして誤っていた阿呆でした、ということになろう。(さらにいえば、既に出発点が間違っていることが明らかになっている同意見書を、なんとかの一つ覚えのように繰り返し主張して、法科大学院制度維持のためになりふり構わぬ論陣を張る学者さん達もなんだかな~と思うがここでは論じない。)

 一方、実際には誤っていた法曹需要の飛躍的増大を前提に、法科大学院制度を発足させ司法試験合格者を増加させたことから、この間に弁護士人口は、18,246名から40,098名と2倍以上に増えたのだ。

 このように、裁判所に持ち込まれる事件数が17年前と比較して年間で200万件近くも減少し、その一方で、弁護士が倍以上に増加しているにも関わらず、弁護士過疎が解消していないということは、もはや弁護士増と弁護士過疎の解消は関連性がないとみるべきだと私は思う。

(続く)

弁護士増員で司法過疎は解消できるのか~1

 現在、日弁連で法曹人口検証本部が立ち上げられ、法曹人口(といってもメインは弁護士人口)が過大かどうか検証するということをやっている。

 私を委員に選んで頂ければ、いいたいことは山ほどあったのだが、残念ながらお声かけ頂けなかった。

 さて、伝聞であり間違っていたら申し訳ないのだが、その検証本部で、いわゆるゼロワン地域(地方裁判所の支部が管轄する地域区分内に、法律事務所などを置く弁護士の数が、全くいない又は1人しかいない地域。ちなみに 日本国内には地方裁判所およびその支部が203ある。)が未だ解消されていないとして、弁護士人口をもっと増やすべきだとの主張が執行部側からあるようだとの噂を耳にした。

 実際には、0地区はもはや解消されており、ワン地区も一度は解消され、2020年4月時点で僅か2カ所かのワン地区があるだけのようだが、未だ執行部側はワン地区の存在を理由に弁護士人口は過大ではないと主張したいのかもしれない。

 上記の推測が仮に当たっているとしての話だが、弁護士過疎は弁護士増員で解消できるものではないと私は考えている。

 理由は簡単だ。

 弁護士は、公務員でも会社員でもなく、自営業者だからだ。

 当たり前だが、自営業者は自らの商売で稼いだお金で生活をしなくてはならず、ある日、たまたま自分が担当している仕事がなくても他の日にしっかりやっていれば月給をくれることもないし、体調を崩して休業しても誰かが休業手当をくれるわけではない。

 したがって、きちんと仕事があって収入が上げられる可能性がある場所でしか開業できないのである。

 司法過疎地と呼ばれる地域は、過疎化が進行し産業も低調で、法的紛争も多くはないところが多い。そのようなところで開業しろと言われても、生計が成り立たないからそもそも不可能なのだ。

 そもそも、あれだけ訴訟大国であり、100万人以上の弁護士がいるとされるアメリカでも司法過疎は解消されていないとの報告もなされている。

 また、国民の皆様がどれだけ真剣に弁護士を必要としているのかもはっきりしない。

 マスコミやら日弁連は、やたら地方の弁護士不足を大声で喧伝するが、本当に弁護士過疎地域の方が心の底から弁護士が来ることを切望しているのだろうか。死活問題として弁護士を求めているというのではなく、「近くにいたら便利」程度の希望なのではないだろうか。

 例えば、無医村が高給を出してでも医師を募集している事例はよく耳にするところだが、弁護士ゼロワン地区の住民や自治体が高給を出して弁護士を誘致する活動をしているとの情報は、少なくとも私は一度も聞いたことがない。

 住民の皆様が本当に弁護士が必要だと真剣に思うのなら、無医村における医師のように高給を出してでも弁護士を誘致しても不思議ではないのだが、残念ながらそこまで真剣に弁護士を必要としてくれる過疎地は見たことがないのである。

                                                       (続く)

現実を見た方が良いのでは?

 中教審の法科大学院等特別委員会の議事録をときどき読んでみるのだが、何時も法科大学院制度は素晴らしいはずだという現実離れした前提を当然としたお話しがほとんどなので、どうしてなのか疑問に思っていた。

 ふと気になって、議事録の他に委員に配布される配付資料の項目を見てみたところ、ある点に気付いた。

 私が項目だけを見た限りではあるが、司法試験の結果(合格率・法科大学院別合格率など)に関する資料は多数配布されているようだが、司法試験受験生がこんなに問題のある答案を書いているという事実を摘示する唯一の資料ともいえる、採点実感等については、どうやら法科大学院等特別委員会では配布されていないようなのだ(配布されているかもしれないが、きちんと検討して法科大学院教育を反省するような議論は見たことがない。)。

 採点実感を見れば、最近の司法試験受験生(しかも短答式に合格したはずの受験生)の答案が如何にひどいものかが幾つも指摘されている。ほとんど全ての科目で論証パターンの暗記ではないかとの指摘がなされているし、基本的知識がない、基本的理解ができていない、という採点者の悲痛な嘆きを窺わせる指摘のオンパレードだ。

 良好な答案・一定水準の答案はこんな答案という例示もあるが、かなり問題のある答案であっても良好な答案のレベルと評価していたり、相当まずい答案でも一定水準の答案として評価している事実も示されている。

 令和元年の公法系第1問では、仮想の法案の立法措置についての合憲違憲が問われたが、そもそも問題文に記載されている仮想の法案の内容を誤って理解して論じた答案が多数あったと指摘されている。
→簡単に言えば問題文が理解できずに答案を書いた人間が多数いるということだ。

 同年公法系第2問でも、問題文や資料をきちんと読まずに回答しているのではないかと思われる答案が少なくなかったと指摘されている。「問題文を精読することができないのは,法律実務家としての基礎的な素養を欠くと評価されてもやむを得ないという認識を持つ必要がある」とまで指摘されているのだ。
 ちなみに、少なくないという表現は極めて控えめな表現であり、実際には多いということだ。

 民事系科目においても状況は同じである。

 第1問「不動産賃貸借の目的物の所有権移転による賃貸人の地位の移転について当然に承継が生ずるのは,賃借人が対抗要件を備えている場合に限るという基本的な理解が不十分な答案が多く見られた。」
 →こんな知識は、私が受験生の頃であれば、予備校の入門講座で押さえるべき知識である。

 「(不動産の)設置又は保存の瑕疵と材料の瑕疵とを混同する答案が少なからずあった。また,所有者の責任は占有者が免責された場合の二次的なものであることを理解していなかったものも相当数見られた。」
 →条文を確認すればすぐに分かるレベルのものである。

「・多くの受験生が,短時間で自己の見解を適切に文章化するために必要な基本的知識・理解を身に着けていない」
 →短時間と留保をつけてはいるが、要するに(短答式試験に合格している受験生であっても)その多くが基本的知識も、基本的理解もできていないということである。

 第2問においても、

 「基本的事項について、条文に沿った正しい理解を示していない答案が少なくなかった」

 「問いに的確に答えることができることが必要であろう」

 「問題となる条文及びその文言に言及しないで,論述をする例が見られ,条文の適用又は条文の文言の解釈を行っているという意識が低い」

 等と、もはや問題文で提示されているのが、どの条文の問題かすら明確にできないし、問いに答えることすらできていないという指摘まであるのだ。

 もっと書いてやりたいが、あまりに指摘すべき点が多いので、詳しくは法務省のHPにある司法試験の採点実感を御覧頂きたい。
 いまの司法試験論文式が、如何に選別能力を失っているかが良く分かる。

 このような指摘が現場からなされているにも関わらず、法科大学院教育の成果を見るために最も適した資料であるはずの採点実感を、何故法科大学院等特別委員会で検討しないのか。

 何ら実証されていない、プロセスによる教育の理念とやらを振りかざし、予備試験を敵視して気炎を上げるのも良いかもしれないが、まず自分達の教育結果を素直に見てみたらどうだ。

 かつてあれだけ、大学側が敵視していた論証パターンの暗記も一向になくならないどころか、ますます隆盛のご様子だ。

 何やってんだ法科大学院のお偉い先生方は。

 どんな教育をしてるんだ。
 

不都合な真実に目をつぶるのも結構だが、少しは現実を御覧になったらいかがか。