一枚の写真から~96

イタリアの小都市メラーノの街角で。

メラーノには、ロープウェイで行けるメラーノ2000という高原があり、そこで軽いトレッキングができる。高度2040mと2360mにカフェを備えた山小屋があった。

アイスマンが見つかって保存されているボルツァーノとは約25キロの距離。

ゆったりとした街だった記憶がある。

我妻榮記念館訪問~その4

 最後に案内して頂いたのは、母屋の2階にある、幼少時の勉強部屋である。

 かなりの急傾斜で、段差も大きい木製の階段(記念館HP、館内案内の写真でも確認できるが、めちゃくちゃ急である)を、恐る恐る上がると、2階の6畳ほどの部屋に入れる。

 そこには、火鉢と小さな木製の机が置かれている。

 この机で高校まで勉強していたと記載された、小さな張り紙がある。

簡素な勉強机。左側に民法講義、右側に雑記帳が置かれている。

我妻民法の精緻な体系から想像するに、我妻少年は、正座して勉強していたにちがいないというのが、私の想像である。

 我妻栄著 民法案内1~私法の道しるべ(勁草書房刊)の附録の記載によると、我妻榮は米沢中学校では5年間主席でとおし、卒業時の成績は平均96.7点という空前のレコードをたたき出していたとのことなので、神童の誉れ高かったのだろう。

 記念館訪問者の感想を記載する雑記帳も置かれており、我妻先生が使用していた机を使って、その雑記帳に記載することができる。

 子供の頃とはいえ、大学者が実際に勉強していた同じ机で、雑駁な感想を書くのは申し訳ない気がして、つい、正座して記載したように思う。

 私が簡単な感想を雑記帳に記載していると、管理人の手塚さんが、米沢市の大火のことを話してくれた。多くの家屋が焼け落ちる中、我妻先生の生家は、教え子や多くの方のバケツリレーなどの協力で奇跡的に焼失を免れたそうだ。

 すぐ近くには、やはり民法学者遠藤浩先生(学習院大学名誉教授、ダットサン民法の改訂も手がけている。)の生家もあったそうだが、そちらは火事で焼けてしまったとも聞いた。

 概ね、以上の展示が、全て無料で見ることができる。それでも入館者数は年間500人に満たない年が殆どのようだ。記念館だよりによると、入館者数は令和元年度364名、令和2年度252名、令和3年度163名となっている。新型コロナウイルスの影響もあるだろうが、もっと来館者がいても良いはずの施設だと痛感した。

 

 何度か書いたが、現状においても管理や保存に尽力されていることは良く分かるものの、相当貴重な資料もあるように思えたので、政府や自治体などが費用を出して、これらの貴重な資料を、より適切に保管する方法を考えるべきではないかと感じた。

 帰り際に、玄関付近で色紙・クリアファイル・講演集・記念館発行の「我妻榮先生」と題した小冊子を記念に購入した。

 今年は、我妻榮先生没後50年という節目の年であり、命日の10月21日をはさんで記念式典が行われるとのことである。私に訪問のきっかけを与えて下さった、勁草書房の竹田康夫さん、管理人の手塚さんも出席されるのだろう。

 式典の成功を祈念して、訪問記を終えようと思う。

丁寧に、ときには面白く解説・案内して下さった管理人の手塚さん。

我妻榮記念館訪問~その3

 つぎに、土蔵2階の展示室に案内して頂く。

 土蔵2階展示室は、身の回り品、講演のレジュメ、メモ類、図書整理箱にはいった判例カードなどが展示されている。

 展示されているギブスについて、管理人の手塚さんのお話によると、我妻先生は左足首の関節炎のためギブスを装着しておられたそうで、どうやら結核菌による関節炎だったらしいとのこと。

 図書整理箱には、判例メモ(の原本)がぎっしりと詰まっており、そのうちのいくつかがコピーされて、整理箱の上に置かれている。判例研究会で、各判例をメモ化して検討していたことが分かる。判例メモのコピーをざっと見ると、担当者であると思われる「平井」「四宮」「戒能」との記載があり、それぞれ筆跡が違う。

 おそらく「平井宜雄」「四宮和夫」「戒能通孝」らの大学者達が、我妻先生の判例研究会に参加していたのだろう。

 私も40年近く前、京都大学法学部で指導して頂いていた中森喜彦先生(現:京都大学名誉教授)の研究室で、似たような判例研究用カードを見たような記憶がある。

 今でこそ、判例の研究は判例誌や判例検索ソフトのおかげで簡単にできるが、そのような文明の利器がなかった時代には、人の手で事案や判断などをメモ化して整理する必要があったのだ。教科書に引用されている判例・裁判例も、一見簡単に引用されているように見えるが、実は、このように手間暇かけて整理された裁判例の中から選ばれたものなのだろう。

 手塚さんが開いて見せてくれた図書整理箱内の判例カード原本。箱の上には判例カードのコピーがいくつか載せられている。

判例カードコピー。よく見ると、手前3枚に右から平井・四宮・戒能の記載が右上になされているのが見える。

 どういうわけか、最近団藤メモで有名になった団藤重光先生の東大時代のノートの写しも、ファイルにとじられて保管されており、見せてもらえた。

ノートの表面に筆書きで科目や名前が書かれており重厚な印象を受けるノート(写し)。

おそらく万年筆で記載されたノート(写し)。その緻密さに驚くばかりである。

 私は司法試験受験時代に、民法総則で四宮和夫先生の教科書を中心に勉強し、不法行為に関して平井先生の教科書を参考にしたことがある上、刑法では大塚説になじめず団藤説を中心にしていた。

 司法試験受験時代には、教科書の活字でしか知りえなかった学者の先生達が、それぞれ活字や学説ではなく、人として、生き生きと感じられるのがとても懐かしく嬉しかった。

 ただ、判例カード等、資料の原本類については、やはり保管方法を考える必要があるのではないかと思った。もちろん費用の問題もあるのだろうが、除湿機程度の管理では、いずれ傷んで、失われてしまう危険性が高いのではないか。貴重な文化的遺産として国家の費用で大学図書館などでの原本保管・レプリカ作成等も考えても良いのではないだろうか。

(続く)

我妻榮記念館訪問~その2

 記念館は、一見すると2階建ての古い民家である。建物の前には、自動車が4台ほど駐車できるスペースがある。

 入館料は無料であり、当然駐車料も無料である。

 私が記念館に着いたのは、開館時間13時の少し前である、12:50頃だった。既に玄関の扉が開いていたことから、「ごめんください」と声をかけてみると、女性の事務員のような方が出てこられて、「管理人は、もうすこしで来ますので、どうぞお上がりください」と会館時間前に入れて頂くことが出来た。

 履を下駄箱に入れて家(記念館)に上がると、女性の方は、茶の間のを通って、八畳ほどの床(とこ)のある上段の間に案内してくれ、「管理人が来るまで、よろしければ、御覧になってください」と言って、我妻先生の生涯や業績に関するビデオを見せてくれた。山形県郷土学習ビデオ教材として、山形テレビが制作した「法律学者 我妻榮」という番組で、テレビの左下に「鑑賞希望の方はお申し出ください。」と書かれた表示がある。

 もし興味を持って記念館を訪問されるかたがいるなら、このビデオを見せてもらった方が、より我妻先生を身近に感じることができるし、展示されている資料の貴重さも理解しやすいと思う。

(茶の間から上段の間を撮影。女性の方がビデオをつけようとしてくれている。来館者の記帳をするノートが机の上に置かれている。右側には、これまで発行された記念館だよりがラックに入れられていた。)

 ビデオ拝観途中に、管理人の手塚さんが来られた。簡単なご挨拶のあと、「ビデオが終わったらご案内しますね。」と言って下さる。

 わざわざ、管理人の方にご案内して頂けるとは思っていなかったので、これは、いつものことなのか、ラッキーなのか、訪問についてメールで問い合わせをしていたからなのか、ひょっとしたら竹田康夫さんが連絡して下さったのかもしれない等の思いが、一瞬浮かぶ。

 ビデオは非常に分かりやすい作りだったので、中高生でも我妻先生の凄さの大まかな点はつかめるのではないだろうか。

 ビデオが終わると、管理人の手塚さんが、「どうぞ、こちらへ」と、案内してくれた。

 まずは、資料を展示している土蔵の方へ向かう。

 分厚い扉が観音開きになった土蔵には、母屋から直接入ることができる。私の勝手なイメージでは、蔵は居住家屋と別棟で建っていることが多い。大学受験浪人時代、私が間借りしていた京都の古い町家の蔵も、小さな中庭の中に別棟で立っていたため、これは、記念館とするために別棟だった土蔵を母屋から直接行き来できるように改築したのではないかと推察する。(ちなみに、浪人時代に私の間借りしていた部屋は、エアコンはもちろん外につながる窓がなかったため、夏場の京都の酷暑はどうしようもないくらいきつかった。家主のおばあさんが台所で干物を焼くとその煙が立ちこめたし、隣の部屋を間借りしていた浪人生が、トイレに行ったり外出する際には、必ず私の借りた部屋を通らなくてはならず、プライバシーも0に近かった。)

 手塚さんの案内で、土蔵1階にはいる。

(土蔵1階展示室) 

 写真のとおり、天井は低い。中央に東大法学部部長時代に愛用された机がおかれている。東大法学部長とはいえ、簡素な机であり、もっと広い方が研究しやすかったのではないかと勝手に思ってしまう。

 机の上には、洋行時の手紙等の原本がファイルに入れられて展示されている。洋行時の状況等について、手塚さんが簡潔に、ときには面白く解説してくれるので、分かりやすい。

 硝子ケースには、著書とその原稿が並べて保管されている。日本民法界に大きな影響を与えた、民法講義の原稿も展示されている。フェリーの時間が迫っていなければもっとゆっくり見ることもできたと思うのだが、短時間で切り上げなければならなかったのが少し残念であった。

 除湿機は作動し硝子ケースに入っていたものの、それ以上の保管に費用を費やしている様子が窺えず、無造作に原稿の原本が置かれているように見えたので、これらの資料について電子データ化して保存されているのか、本来なら原本を厳重に管理して、レプリカで展示するべきではないのか、と少し不安に思った。

(続く)

 

我妻榮記念館訪問~その1

 もう、四半世紀近く前になるが、私は、司法試験受験時代、短答式試験の直前に一粒社から出版されていた我妻榮・有泉亨著、

「民法1 総則・物権法」(川井健 補訂)

「民法2 債権法」(水本浩 補訂)

(いわゆる「ダットサン民法」である。)

2冊を、一日半ほどで一気に通読して、試験直前の民法知識の整理をするのが常だった。

 まだ縦書きの本であったが、「通説の到達した最高水準を簡明に解説すること」を目的としており、小型ながらパワフルということから、ダットサンの愛称がつけられていて、短答試験直前の知識の整理には最適だった。

 著者の我妻 榮(わがつま・さかえ)先生は、日本民法界の巨星である。我妻先生が打ち立てた民法体系は、理論的に精緻であるだけでなく、結論が常識的であることもあって、受け入れやすく通説中の通説となることが極めて多かった記憶がある。

 司法試験合格後に、司法修習で訪れた全ての民事裁判官室に、我妻栄著「民法講義」(岩波書店刊)全巻が書棚におかれていたし、裁判官協議中に何か疑問点等が出た際に「我妻にはどう書いてある?」等と話題になっていたこと等からも、実務界にも多大な影響を与え続けていることは実感できた。

 ところが、ダットサン民法を出版していた一粒社が廃業してしまったことから、ダットサン民法はしばらく絶版になっており、私は残念に思っていた。

 その後、かつて一粒社に勤務されダットサン民法の担当をされていた竹田康夫さんのご尽力等もあり、勁草書房からダットサン民法が発刊されることになった。

 勁草書房に勤務されるようになった竹田康夫さんと、ふとしたことから、簡単ではあるが交流して頂けることがあり、竹田さんから我妻榮記念館が発行している「我妻榮記念館だより」の記事を頂いたのが、我妻榮記念館訪問のきっかけである。

http://www.yonezawa-yuuikai.org/introduction/pdf/wagatuma_dayori/wagatuma_dayori25.pdf

(続く)

我妻榮記念館は、山形県米沢市にある。

 

管理される方の都合もあるのだろう。常時開館されているわけではなく、月・木・金・日の13時から16時が開館時間となっている。ただ、それ以外の時間に見学を希望される人は事前にご連絡くださいとHPに記載があるので、開館日でなくても見学できる場合があるかもしれない。

我妻榮記念館のHPアドレスは

我妻栄記念館 (wagatumasakae.com)

である。

一枚の写真から~95

フランクフルトモーターショウの会場の外で展示されていたBMW製のパトカー。

現代の高性能化した自動車では、このようなパトカーでは取り締まれないだろう。

このパトカーが現役だった時代、事件現場にこれと同じ型のパトカーが青ランプを光らせて何台も急行している様子を見てみたかったと思わせる、可愛さがある。

一枚の写真から~94

イタリアの高級車ブランド、マセラッティのブース付近。

マセラッティの車についても、フェラーリと同様、一般客は展示ブースの車の至近距離まで入ることはできない様子だった。

招待客など、ブースに入れるお客をおもてなしする、レディ達。

ちょっと手持ち無沙汰のご様子。

一枚の写真から~93

同じく、ずいぶん前のフランクフルトモーターショウで。

フェラーリのブースでは、格好いいコンパニオンさんがいて、一般客が展示車に直接触れることは、させていない様子だった(自動車近くへの立入り自体を制限している感じ)。

当時、F1では皇帝と呼ばれた、ミヒャエル・シューマッハがフェラーリで大活躍していたはずで、ドイツでのフェラーリ人気も高かったのではないだろうか。